雨は昼過ぎから降り始め、ホームルームのときには雨粒が地面を跳ねるほどの強さになっていた。

 わたしは教室の喧噪が静まるまで、息を殺して自分の存在を消すようにして待っていた。

 教室内に静寂が訪れた頃、わたしは席を立ち教室を出た。

 下駄箱につくと、雨の音がより鮮明になった。雨の音は嫌いではない。ただ、それは傘に落ちる雨粒に限ってのことだ。雨に打たれて全身がびしょ濡れになるのが好きな人はそうはいないだろう。

 やはり、今日も多田野君はいた。

「おう」

「こんにちは・・・・・・」

 わたしが挨拶をすると、彼は顎を少しだけ引いて応えた。

「傘は?」

「えっ・・・・・・。あ、あの、忘れました」

「そう」

 彼はそれだけ言うと、鞄のなかから黒の折りたたみ傘を取り出し、わたしの前に差し出した。

「えっ、えっ?」

「使って」

「多田野君は・・・・・・?」

 わたしはこのときはじめて彼の名前を呼んだ。知り合いに同じ名字はいないけれど、そこまで珍しい名字だとは思わない。それなのに、彼の名前を呼んだとき、わたしの心臓が少しだけ、ほんの少しだけ、跳ねたような気がした。

「俺はいいよ。濡れて帰るから。どうせ、この雨じゃ傘差しても意味ないだろうし」

「でも、忘れたわたしが悪いんだから。わたしが濡れて帰る」

 なぜか、わたしはこのとき強がってしまった。

 彼は話している間、傘をずっと差し出したままだ。

 通り過ぎていく生徒は様々な表情で、わたしたちを見ている。

 わたしはそんな視線にたえきれなくなり、彼の傘の先の方を握り受け取った。

「じゃあ、帰るか」

「う、うん・・・・・・。あの、ありがとう」

「うん? なにかいった?」

 雨がわたしの小さな声をかき消す。

「ううん、なにもない」

「そう。気にしなくていいよ。別に。岩伏のためにしてるわけじゃない。沙希に言われたから」

 彼はあらかじめ決められたセリフのように淀みなく言った。

「そうだよね・・・・・・」

 外に出ると、雨はまだまだやむ気配がなさそうだった。空には雲がわたしの自宅の方までぎっしりと敷き詰められている。

 彼が貸してくれた傘は折りたたみ傘にしては大きく、小柄なわたしにはじゅうぶんなサイズだった。

 そう言えば、さっき、多田野君はわたしの名前を呼んだ。名前を呼ばれたのは最初に声をかけられて以来だ。それまでは、あんただった。

 ただ、名前を呼ばれただけだ。なにを意識しているのだろうか。わたしは。

 誰にでも呼ばれているのに。

 ふと、彼を見ると制服のシャツが濡れて体に張りついている。ズボンもかばんも靴もびしょ濡れだ。

 わたしはいたたまれない気持ちになった。自分のなかに少しだけある勇気を必死にかき集めて言った。

「あの・・・・・・一緒に入りませんか?」

 わたしは彼の大きな背中に向けて言った。

 彼は反応しない。

 もっとだ。もっと、勇気を出して。

「あの! 一緒に傘に入りませんか?」

 わたしの声が届いたのか、彼はその場に立ち止まった。

「ありがとな。岩伏。でも、岩伏になにかあったら、俺が沙希に怒られるから」

 彼はそう言うと、私の方に向き直り目を細めた。

 わたしは彼のそんな表情を見て、ずぶ濡れになっている彼のそんな表情を見て、心が苦しくなった。知らない誰かに心をぎゅっと握られたような。こんな気持ちはじめてだ。

「わかった」

 わたしは言って、再び歩き始めた彼の後をついていった。

 今度はいままでより距離をつめて。