私は部屋に戻り、ベッドに飛び乗ってからうつ伏せになった。
「あああっ、もうっ! 好きな人と同居って最高!! 降谷くんと毎日一緒にいられるなんて幸せ。あぁぁっ、降谷くん大好きっ!!」
ボフッ……、ボフッ……。
興奮が抑えきれずに両手で交互に枕をパンチしながら甘い妄想にひたる。
彼が顔を接近してきたことや、おひめさま抱っこをした時のことを思い出すだけでよだれが噴水のように湧き出てきた。
降谷くんが家に来てから3日目でこんなにお近づきになれるなんて、遠くから眺めていたおとといまでが遠い過去のよう。
5回フラれた時や、お弁当箱を振り払われた時はなんか嫌な奴って思ったりもしたけど、こんなにハッピーな未来が訪れるなんて思いもしなかった。
「筋肉質のたくましい体に抱きかかえられる日が来るなんて。学校中の女子に知られたら羨ましすぎて嫌がらせされちゃうかも。……えへへ、これも同居の特権よ。いつかは絶対降谷くんの彼女になって見せるからね! 私も女を磨かないとっ!!」
勢いあまって枕にチューチューしていると、突然部屋の扉が開いた。
そこでひやりとした空気を感じて扉の方に目を向けると、母が呆れた顔で立っている。
「……あんた、なにやってんの」
「えっ、な、なんもっ……。(やばっ!! いまの絶対見られたよね)で、私になにか用事?」
「洗濯物を畳んでくれない? お母さん、いまからちょっと買い物に行ってくるから」
「えーーっ、この時間に? もう夜の7時半だよ」
「ごま油を切らしちゃったのよ。近くのコンビニ行ってくるから洗濯物をよろしくね」
「はぁ〜い……。いってらっしゃ〜い」
渋々とした足取りでリビングに行くと、ソファーには洗濯物が山積みになっている。
テレビリモコンのスイッチを入れて洗濯物の横に座って畳み始めた。
ところが、3つ目の洗濯物を手に取ると1つだけサイズ感が違う。
これはもしやと思い両手に持ってバッと広げると、それは降谷くんのワイシャツと判明する。
「こ、これは……。降谷くんのワイシャツ。いや、彼シャツならぬ神シャツだ!」
家族や彼女以外触れることのない降谷くんのワイシャツ。
ここに置いてあるということは、私が触ってもいいっていうことだよね。
お母さんも洗濯物を畳んでって言ってたし、私に委ねてもいいんだよね。
とりあえず控えめにクンクンと匂いを嗅ぐ。
だが、次第にその香りがやみつきになり、遠慮や警戒というものを忘れて顔面に当てて掃除機のように香りを吸い込む。
んん〜っ、柔軟剤の奥には降谷くんの香りがちゃぁ〜んと残っている。
さっきおひめさま抱っこしてもらった時に鼻をくんくんさせたから降谷くんの香りはインプットしたもんねぇ。
あ、そうだ!
彼シャツに憧れてたから袖に手を通してみよっと。
私はワイシャツを一度広げて手を一本ずつ通すと、ブカブカのワイシャツが身を包んだ。
「うふふっ。幸せ!! 彼シャツってこ〜んな感じなんだね。まるで降谷くんに抱きしめられているみたぁい。一緒に暮らしてるうちに降谷くんが私の魅力に気づいてこのシャツのように私をぎゅーっと抱きしめてくれたりして。きゃあああ!」
胸の前に手をクロスさせて頭の中はほわほわとピンクの妄想劇の続編が始まると……。
「あのさ、俺のワイシャツを襲うのやめてくれない?」
リビング扉の前から降谷くんの呆れた声が届いた。
おそるおそる目を向けると、想像通りの表情がそこに。
「あは、あはは……。いまの見てた?」
「冷蔵庫に飲み物を取りに行こうと思って部屋を出た時にリビングからブツブツとひとりごとが聞こえてきたから、何かと思って聞いてたら……」
「え、えへっ。空耳だと思ってくれれば……」
「…………は? あ、はぁ……。もう二度と畳まなくていいから俺のワイシャツを返して」
「はい……」
彼は私からワイシャツをぶんどると、「はぁぁ……」と深い溜め息をつき、頭を抱えたまま部屋へUターンしていった。
えへへ……。
だって、さっき降谷くんがおひめさま抱っこなんてしてきたから好きが止められなくなっちゃったんだもん。
半分は降谷くんの責任だからねっ。
「あれ……、降谷くん? いまなんのポスターを見てるんだろう」
ーー9月9日の放課後。
降谷くんが学校の昇降口に掲示されているポスターにスマホをかざして写真を撮っていた。
ふとそのポスターが気になって彼の後ろからそっと覗き込む。
「校内似顔絵コンクール? もうこの時期なんだぁ。毎年恒例だよね。今年の大賞賞品はワイヤレスイヤホンかぁ。ふむふむ……。今年も賞品が豪華だねぇ」
ぽつりと呟くと、降谷くんはギョッとした目で振り返った。
「なんでお前がここに」
「だって、降谷くんを見かけたからなにしてるかなぁと思って」
「気軽に話しかけられても困るって言ったはずだけど」
「そんなに古い話、もう忘れちゃったよ」
「……」
彼は黙っていても、目が「先日の話だろ」と訴えてくる。
「ねねっ、もしかして校内似顔絵コンクールに興味があるの? この前、降谷くんの部屋に入った時に絵がたくさん飾られていたし、大賞をとったら賞品もらえるしね」
「お前には関係ない」
「照れ隠しでしょ。ねぇ、参加してみようよ。えっと、校内に展示されるのは10月1日かぁ。まだ3週間くらい時間があるね。私、モデルをやってあげるから参加しようよ!」
彼の横について少し前のめりになってそう言うが、彼は顔色一つ変えずに方向転換して足を進める。
「そーゆーのお節介」
「ちょ、ちょ、ちょっと……、降谷くん!!」
降谷くんは相変わらずだ。
私の言葉なんて聞き入れる気がない。
彼がわが家に来てから私たちの関係は平行線のまま。
自分だけが盛り上がってる状態に。
暗い表情のまま佇んでいると、向こうからりんかが傍に駆け寄ってきた。
「み〜つき! 元気なさそうだけど、また降谷くんに告ってたの?」
「違うよ。ただ、話をしてただけ」
「いい加減諦めなって。降谷はその辺の芸能人よりイケメンだし人気があるの。私たちには所詮高嶺の花なんだからさ」
「う、うん……」
彼の方に目を向けると、その近くにいる女子がキャアキャアと騒ぎ立てている。
もう見慣れている光景だ。
一緒に暮らしていても彼は手の届かない人。
私のことなんて一切無関心。
今年で3年目の片想いの人。
そして、それ以上でもそれ以下でもない関係だ。
「みつき、さっきこのポスターを見てたの?」
りんかが壁のポスターに指をさしたのでこくんと頷く。
「毎年恒例の校内似顔絵コンクールの今年の大賞賞品はワイヤレスイヤホンなんだって」
「へぇ、今年の景品も豪華だね! 毎年参加者が殺到するのは納得がいくわ。……で、みつきは参加するの?」
「えっ」
「大賞とったらワイヤレスイヤホンだよ? 先日イヤホン壊れたから欲しいって言ってなかったっけ?」
「あ、うん……。確かに壊れたけど……。このコンクールの選考って、確か生徒の投票方式じゃなかったっけ?」
「そうそう。似顔絵は体育館に展示されるから、生徒はエントリーしている絵を選んで学校から配布された投票用紙にエントリーナンバーを書いて投票するんだったよね」
「今年も参加者は多いかな」
「賞品目的の人が多いかもしれないね。200作品は超えるかも」
降谷くんは参加するのかなぁ。
でも、描くとしたら誰の絵を? ちょっと気になる。
はぁ……。『私モデルやってあげる』なんて言って少し押し付けがましかったかなぁ。
多分、こーやってずかずかと心の中に入り込まれるのが嫌なんだよね。
私にはいつまで経っても高嶺の花かもね。
汗だくのまま帰宅してからキッチンで一杯の麦茶を飲んでいると、母からLINEメッセージが入った。
すかさずタップして開くと、そこには……。
『夕飯は冷蔵庫に用意してあるから涼くんと二人で食べてね』
と書かれている。
私はまさかの吉報にフフフと笑い、肩を震わせた。
降谷くんと家に二人っきりということは……、ほぼ同棲生活。
食事時は若い新婚夫婦のように「あーん。……ねぇ、料理は美味しい?」なんて聞いちゃったりして。
そしたら彼が「お前が食わせてくれたものは何でも世界一美味しいよ」とか言っちゃってぇぇ!! 「お前も腹減ってるだろ? 俺が食わせてやるから口開けて待ってな」なんて言われちゃったらどうしよぉ〜〜っっ!!
「ふっ、ふふふふ…。お母さん、ないっすぅ〜!!」
激しい妄想に襲われて我慢できずにプルプルと身震いする。
ーーしかし、それから20分後に降谷くんが帰宅。
玄関へ出向き、早速母が帰らないことを伝えると……。
「じゃあ、飯要らないわ」
まさかの返答が下だされる。
「えっ。だって、ご飯食べなかったらお腹空いちゃうよ?」
「別にいい。お前一人で食ってて」
「そ、そんなぁ〜〜っ」
そのせいで、幸せな新婚夫婦像が跡形もなく崩れていった。
更に追い打ちをかけるように部屋の扉が閉まっていく。
「うわっ……、あっ……うっ……」
パタン……。
せ……、せっかく二人きりでいられると思ったのにぃぃ!
降谷くんは朝ご飯は早い時間に一人で食べて知らない間に家を出ていっちゃうし、夕飯は母と三人で食べるから自由に話ができないし。
しかも、学校では気軽に話しかけないで欲しいみたいだし。
ここで話さなかったらどこでお話すればいいのよーーっ!!
私は拳を握りしめながら彼の部屋の前で立ちつくしていると、扉の奥から「うぉぉぉおおお!」といった悲鳴が聞こえてきた。
すかさず部屋の扉を開けると、降谷くんは嫌そうな顔に手を当てたまま右壁方面を向いている。
「えっ、なにっ、どうしたの?」
「ゴキブリが……」
「どこにっ?」
「窓んとこ」
言われるがままに目線を窓の方に向けると、彼が言う通りカーテンの真横には黒い物体が。
それは紛れもなくゴキブリだった。
「あ、本当だ」
私は一旦部屋を出てから洗面所の収納棚を開けて駆除スプレーを取り出し、彼の部屋でゴキブリを退治してティッシュに包んだ。
その一部始終を見ていた彼は「すげぇな」と感心の声を漏らす。
「もしかして、ゴキブリ苦手なの?」
「好きなやついるかよ」
「あはは、そうだよね。実はうち、よくゴキブリ出るんだ。築30年の古いマンションだから仕方ないけど。1匹いると100匹いるって言うし」
「…………っ、100匹」
「降谷くんってモテモテだし最強かと思ってたけど、ゴキブリが苦手なんてなんか意外だった」
思わぬ欠点を見つけてプッと笑うと、彼は「誰にも言うなよ」とふてくされた顔。
そんなの言わないよ。
だって、それは私だけが知ってる秘密なんだもんね!
部屋に戻ろうと思って目線を扉の方向に移すと、扉横に置かれている一枚の絵に心惹かれた。
その絵とは、子猫のアメリカンショートヘアー。
愛くるしい眼差しが心を掴んで離さない。
その上、今にも紙から飛び出してきそうなくらい丁寧に描かれている。
私は絵の目の前へ行き、両手で掴み上げて言った。
「この絵を買わせて! 部屋に飾りたい」
「えっ……。欲しいじゃなくて?」
私はこくんと頷き、絵を持ったまま彼の前へ。
「だって、一目惚れしちゃったんだもん。繊細なタッチに生き生きとした子猫の眼差し。この絵を見ているだけでパワーがみなぎってくる」
「大げさだよ」
「そんなことない。この絵にはお金を出して買うくらいの価値があるよ」
人が描いた絵を欲しいと思ったのは、いまこの瞬間が初めて。
もちろん降谷くんのことは好きだけど、この絵が好きだということはまた別。
降谷くんが描いた絵じゃなかったとしても、私はこの絵にお金を払っていただろう。
「やるよ。それ」
「えっ」
きょとんとしたまま彼を見ると穏やかな目をしていた。
「お前んちに世話になってるお礼。その代わり、俺が絵を描いてることを誰にも言わないって約束してくれる?」
「どうして?」
「……誰にも知られたくないから」
絵は自慢できるくらいの趣味なのに、どうして隠すんだろう。
でも、それを聞き返すとまた突き返されちゃうような気がして言えなかった。
「うん、わかった。私と降谷くんの二人きりの秘密かぁ……。いいひ・び・き! んふふ、一緒に暮らしてると二人だけの秘密が増えていくね」
「……」
「冗談だよ、冗談っ!! 絵、大切にするね。ありがとう!」
スキップ気味に部屋を出ていこうとすると、彼は引き止めるように言った。
「あのさ。お前の名前……なんていうの?」
残念ながら、そのひとことが衝撃的過ぎて足が止まる。
「……もしかして、一緒に暮らしているのに私の名前すら知らなかったの?」
いや、正確に言えば気になるのはそれだけじゃない。
入学してからこの2年数ヶ月もの間に5回も告白していたのに名前を知らないなんて。
「興味ないから」
「うぐぐっ……。じゃあ、名前を聞いてくれたってことは少しは興味が湧いてくれたの?」
「別に。家の中で呼ぶのに不便だから聞いただけ」
「っっ!!」
相変わらず可愛くない……。
でも、ポジティブに考えたら、全く興味がない人に名前なんて聞かないよね。
少しは私に興味が湧いてくれた証拠だよね。
「脈なしから一緒に暮らしているうちに名前を聞きたくなるくらい興味が湧いた。……つまり、恋愛レベル0から1に発展。ということは、1から2になる可能性もある。レベル0が無関心で、1が興味ありで、2は気になる人で、3は好きな人。これ、ステップ踏んでいけばワンチャンあるんじゃない?」
ーー翌朝。
通学路で降谷くんとの妄想を繰り広げ、ひとりごとを呟いてムフフと声を漏らしていると……。
「おーはよ! なにひとりごと言ってるの?」
りんかが朝一番の元気な声で後ろから肩を抱いてきた。
その衝撃で体がトンッと前に揺れる。
「あ、りんか。おはよ〜」
「ご機嫌じゃない。……さては、なんかいいことあったな」
「ううん、何でもない!!」
本当は喋ってしまいたいくらいのビックニュースが立て続けだったけど、降谷くんとの秘密は守らないとね。
んふふっ、りんかが降谷くんとの同居の件を知ったらびっくりするだろうなぁ〜。
「……なに笑ってんの?」
「ん〜っ、なんでもないっっ!」
「こぉ〜らあぁ〜、教えろぉぉ〜。親友の私には教えないってのかぁ〜!!」
「なんでもないってばぁ!」
私たちがふざけ合いながら学校に向かっていると、後ろからキャーという叫び声を聞き取った。
二人同時に振り返ると、そこには降谷くんが複数人の女子に囲まれながら歩いてくる。
すると、りんかはそれを見ながら言った。
「降谷さ、相変わらずだよね。女子の黄色い声がGPSだもん」
「あの子たちはみんな彼女希望なんだろうなぁ。競争率高すぎ」
「去年はクラスの女子全員からバレンタインチョコを貰ったらしいよ」
「私はうちの学校に通ってる女子の2/3って聞いたけど」
「……ってかさぁ、降谷は顔もそうだけどオーラもレベチだよね。犬も振り返るくらいイケメンってどーゆーことよ!」
「あははっ、確かに先日犬が振り返ってたよね! メス犬だったのかなぁ。尻尾振ってたし」
私たちは「そうそう」と言い、お互い顔を見合わせながらケタケタと笑っていると……。
「みつき」
降谷くんのことばかりを考えているせいか幻聴が聞こえてきた。
しかも、呼び捨て。
お陰で少しいい気分に。
「あぁ〜あ、一度でいいから降谷くんに”みつき”って呼び捨てにしてもらいたいなぁ。『みつき、もっと顔を見せて』とか、『みつき、かわいいよ』とか、『みつき、もっとこっちにおいでよ』とかさぁ」
「降谷がそんなこと言うわけ…………。ね……、ねぇねぇ」
「『みつき、その瞳は最高に輝いてるね』とか、『みつき、目を閉じてごらん』とか。きゃああああっっ!!」
「み……、みつきったらぁ。ちょっとぉ……」
「なによぉ〜、いまいいところだったのに」
りんかが少し強めに腕で小突いてきたので、夢気分から冷めて彼女と同じく背後に目を向けると、そこには……。
「みつき……」
ななな、なんと!!
降谷くんが真後ろに立って私の名前を呼んでいる。
私は今までの呟きが全部聞かれたと思って顔が真っ青に。
「ふっっ……、降谷くんっ!!」
「で、お前が目を閉じた後はどうなるの?」
「あっ、そ……それは……そのぅ……」
しどろもどろに返答すると、降谷くんは手に持っていたビニールバッグを私に突き出した。
「ま、俺は興味ないけどね。……これ、落とし物」
「えっ! 落とし物って……」
そう聞き返すと、彼は私の耳元に近づいて囁く。
「家に忘れていくんじゃねーよ、ばーか」
それだけ言うと、少し早めに足を前に進ませて私たちの元から離れて行った。
ほんの僅かに吹きかかった息にドキドキと心臓が暴れ出す。
うっとりと幸せの余韻に浸ると、りんかは降谷くんの方を見ながら再び腕で小突いた。
「ねぇねぇ。降谷さぁ、いまみつきのことを呼び捨てにしてなかった?」
「あ、あっ……、えーーっと……。体操着に名前書いてあるからかな」
「降谷をあんなに間近で見たのは初めてだけど、マジ最高。女なら誰でも惚れるわ」
「でしょでしょ〜〜!! さいっこうよねぇ!! 顔もスタイルも完璧! それなのにゴキ……」
「ゴキ?」
「ううんっ、なんでもない!!」
……おっといけない。ゴキブリ嫌いなことをうっかり喋ってしまうところだった。
これは私たちだけの秘密なのにね。
同居してるだけで秘密が増えてくなんて幸せ〜!!
ーーそれから10分後。
教室に到着すると、スカートからスマホを取り出して降谷くんにLINEを送った。
『さっきは体操着ありがとう。でも、人目に触れるところで渡さなくても電話をしてくれれば取りに行ったのに』
『自分から電話をかけたくない』
『どうして?』
『俺がみつきを呼び出してるようで、なんか無理』
なによ、なによ、なによ〜〜っ。かわいい〜!!
学校でも家でも気軽に話しかけられると困るって言ってたのは降谷くんなのに。
人前で私に声をかけた時はどんな気持ちだったのかな。
ドキドキしちゃったのかな。
周りに女子がいっぱいいたのに、私のことだけを考えてたなんて幸せ過ぎる〜〜!!
しかも、またみつきって呼び捨てにしてくれたぁ!
ーーところがそれから数時間後。
幸せ絶頂期に入っていた私だが、彼の隠された現実と直面してしまい、浮ついていた気分がどん底へと追いやられていく。
ーー放課後。
今日は日直だったため、職員室まで日誌を届けに行ってから学校を出た。
午前中は晴れていたのに、いまは薄暗い雲に覆われている。
それに加えて普段よりも生徒数が少ない帰り道。
お気に入りのワイヤレスイヤホンが壊れているから虫の音がいまのBGMに。
徒歩で家路に向かっていると、20メートルほど前方に降谷くんが一人で歩いていた。
降谷くんはいま一人だし誰も見てないから、……声をかけちゃおうかな。
学校じゃないから気軽に声をかけてもそんなに嫌がられないよね。
そう考えているうちに、彼は分かれ道で自宅と反対方面を曲がった。
「あ、あれっ? 寄り道でもするのかな」
もしかしたら近所に住んでいた可能性もあるけど、彼が私の家に来てからまだ1週間弱。
それなのに、地図アプリで道を検索する様子もなく足を進めていることに違和感を覚えて尾行する。
5分ほど歩いて到着したのは保育園の前。
外遊びをしている園児たちの元気な声が辺りを賑やかせている。
どうして降谷くんが保育園へ? 実は保育士に憧れているとか?
うーん……。絵を描くことが好きなのは知ってるけど、子ども好きだとは感じなかったなぁ。
彼と少し距離を置いて遠目から眺めていたが、目は一点方向しか見つめていない。
そこに何かを感じて彼のとなりについた。
「ねぇ、どこを見てるの? もしかして、室内にいるあの美人な保育士さん?」
足音を立てなかったせいか、彼は私がとなりにいることにひどく驚く。
「……なに、俺のストーカーしてんの?」
彼はそう言うと、不機嫌そうにUターンする。
私は置いて行かれないように急ぎ足で追いつく。
「そっ、そういうわけじゃなくてたまたま気になったというか……」
「なわけ無いだろ。何度も言ったけど、俺はお前に気がないから」
「そんなに何度も言わなくてもわかってるよ(ちぇっ)。でもさ、園内にいた保育士さんめっちゃキレイな人だったよね。色白で、細くて、髪を後ろでアップにしていて、目鼻立ちがくっきりしていて、遠目から見てもパッと目を引く存在だよね」
「うん、そう。……あいつ、俺の好きな人」
「えっ」
「だから、もう俺につきまとわないで」
彼は吐き捨てるようにそう言うと、歩く速度を上げた。
取り残された私はポツンと置いてけぼりに。
ガアアアァァァアン……。
失恋決定。既にしてるけど、決定……。
先日焼津くんに、降谷くんは女につきまとわれるのが苦手と聞いたばかりだったから、てっきり好きな人はいないんじゃないかと思っていたのに。
しかも、その好きな人がレベチの美人なんて。
トホホ……。
「うああぁぁぁあっっ!! もぉぉおお!! 降谷くんの、バカバカバカァァァっっ!!」
帰宅してからベッドにダイブして左右の拳で枕をボフボフと叩いた。
部屋には無数のホコリが舞うが、そんなの気にしてられないほど心が荒んでいる。
ーー片想いを始めて2年5ヶ月。
いや、一目惚れをしたのは受験日だったから、正確には2年7ヶ月。
あの時消しゴムを半分渡してくれた降谷くんがこの学校に無事に入学してくれることを夢見て、4月になってからはクラスを探して、見つけて、告白して、フラれて……を5回繰り返すくらい想いを寄せていた。
なのに、降谷くんは私に目を向けないどころか好きな人を作っていて、こっそり眺めに行くくらい好意を寄せてるなんて。
「ぐやじぃぃぃいいい!!」
涙と鼻水を拭こうと思ってティッシュ箱を触ると、こんな時に限って中身が空に。
ティッシュさえ私を見放してくるなんて思いもしなかった。
顔面洪水状態だが、ガバっと起き上がり、リビングの収納棚に入ってるティッシュを取りに行くために部屋を出た。
ところが、向かいの降谷くんが使用している部屋の扉が開いていたので吸い込まれるように中を覗くと、彼はローテーブルの上に画用紙を置いて絵を描いていた。
正面にはタブレットを立てかけていて、時より目線を画用紙とタブレットに行き来している。
私は部屋に入ってそのタブレットを横から持ち上げて画面を眺めると、昼間の女性の写真が映し出されていた。
「写真の人、昼間の女性だよね」
「おい! つい先日勝手に部屋に入るなって言ったよな。タブレットを返せよ。ってか、お前の顔……あらゆる箇所から水が出てて汚ったなっ! 早くティッシュで拭けよ」
彼は私からタブレットを取り返そうとしたので、取られないように胸に抱えて後ろを向く。
「女の子の顔を見て汚いなんて酷いよぉ……。タブレットは返さない! 死んでも離さないっっ!」
「いいから俺にタブレット返して顔を拭け!」
「無理っっ!」
タブレットを取り上げただけでこんなにムキになるなんて……。
そんなにこの女性が好きなわけ?
さっき『俺の好きな人』と聞いてからヤキモチが止まらないよ。
しかし、彼はバックハグをするかのように背後からヒョイとタブレットを取り上げた。
彼の胸が自分の背中に当たるだけでもドキドキするのに、心の中は嫉妬で塗りたくられている。
「……ったく、次やったらもう二度と口きかないからな」
彼はタブレットの電源を落としてテーブルの上に置く。
私に彼女の写真を見せたくないからなのだろうか。
「もしかして、絵を描いていたっていうことは似顔絵コンクールに挑戦するの?」
「……」
「そんなに描きたいなら本人に直接頼めばいいのに」
「……お前には関係ない」
「こんなに平ったい写真じゃパーツの立体感や人間の温かみが感じられない絵になっちゃうよ」
背中に向けてそう言うと、彼は私の腕を掴んで部屋の外に追い出す。
「そーゆーの迷惑。人の心の中にずかずか入ってくんなよ」
最後に鬼の形相を向けると、バタンと勢いよく扉を閉ざした。
さっき保育園前でフラれたばかりなのに、いまのこの瞬間に追い打ちを食らうなんて。
私なんて視界に入らないほど遠いところにいると思い知らされるほど、彼の言動ひとつひとつに彼女への愛を感じる。
だから、余計に顔面洪水が止まらない。
「あ、あのっ……、焼津くん。いま少し話せるかな」
ーー翌日。
私は一晩泣きはらして充血した目のまま降谷くんのクラスのD組に向かい、彼の親友の焼津くんが廊下に出てきたところで声をかけた。
すると、彼は顎をポリポリかいて私の目をじっと見つめる。
「えっと……、この前廊下で話した子だよね。同じクラスになったことがないから名前がわからなくて」
「塚越みつきです。先日はありがとう。焼津くんのお陰で救われたよ」
「そ? なら良かった。……で、俺になんか用?」
「中庭で少し話せるかな。降谷くんのことについて」
彼は「うん、いいよ」と言ってくれたので場所を移して、小さなホールになっている中庭の十数段ある階段の一番下に座った。
「先日、降谷くんは辛いことがあって落ち込んでいるって言ってたでしょ。その辛いことってなんだろうと思って聞きに来たの」
「あぁ、その件?」
「降谷くん、まだ落ち込んでるような気がしたから……」
「どうして塚越さんがそれを知りたいのの?」
「えっ……。だって、あの日からずっと落ち込んでる理由が気になってたし、降谷くんには早く元気になって欲しいから」
一晩中降谷くんのことを考えていたら、あの女性との間になにかあったのではと考えるようになっていた。
じゃなきゃあんなひどい言い方で反発する必要がないから。
「優しいんだね、塚越さんって。あいつの心配をしてくれるなんて。ほとんどの女が表面的なところしか見ていないのに」
「そんなことないよ〜。これでも入学前から降谷くんを一途に想い続けてたんだ。告白だって5回もしたんだからね。ま、全敗だけど」
「あはは……、5連敗はきついな。じゃあ、特別に教えてあげる。実はあいつ、好きな人に失恋したばかりでさ。マジで惚れてた分、心の傷が半端ないというか。モテる男ほど恋愛に不器用なんだよね」
「あの降谷くんが失恋? ……信じられない」
「まぁ、モテ男も順風満帆じゃないってことよ。だから、あいつがキツく当たったとしても理解してやってくれると助かる」
「あっ、うん……」
保育園で彼女のことを愛おしそうに見ていたのは忘れられないから?
失恋しても会いに行きたくなるくらい好きなの?
それが自分の好きな人なんて悲しすぎる……。
ーー終礼後。
教室を一番に飛び出して家路に向かった。
道中、頭の中に思い描かれているのは保育園で彼女を見つめていた降谷くんの恋する瞳。
それが蘇るだけで胸がキュウっと苦しくなる。
焼津くんに話を聞かなきゃ良かったかな。
一瞬話を聞きに行ったことを後悔したけど、真実は変えられない。
家に到着すると、まっすぐ降谷くんの部屋に向かった。
ローチェストに立てかけられているスケッチブックを開くと、中には彼女の絵がたくさん描かれている。
これを描いていた時は彼女のことばかりを考えていたのだろう。
そしていまも彼女の写真を眺めながら描いている。
きっと、「彼女が忘れられない」と言われるよりも、いまこの絵を見ている時の方が何十倍も彼の気持ちが伝わってくる。
「うっ……うぁあああん!! ひっく……ひっく……」
いつしか耐えきれなくなり、頬にポタポタと滴る雫は床に砕け散っていった。
一方通行の恋がより鮮明になっていくと、彼がより遠い人になったように思えてしまう。
「お前、また勝手に人の部屋ん中に入ってんの?」
帰宅したばかりの降谷くんが、部屋で一冊のスケッチブックを持って佇んでる私にそう言った。
でも、私はスケッチブックを眺めたまま伝える。
「彼女にモデルを頼めないなら私を描いて欲しい」
私はいま自分にできる精一杯の想いを伝えた。
そこには、少しでも前向きに考えて欲しいという願いも込めている。
「……」
「先日私にくれた絵の中の猫のように、いきいきと立体的に描いて欲しい……」
「何を描くかは自分で決める」
「降谷くんっ!」
「俺にとって絵は特別だから。もう出てって」
彼はスケッチブックを奪うと、私の腕を引いて部屋の外へ追い払った。
伝えても、伝えても……、一向に届かない想い。
それでも諦めきれないのが恋だと思っている。
ーー降谷くんが家に来てからもうすぐで2週間が経とうとしている、日曜日の15時頃。
母親と一緒にスーパーから帰宅すると、降谷くんがシンプルな柄シャツに黒のパンツといった外出着でリュックを背負い部屋から出てきたので、すれ違いざまに声をかけた。
「あれ、どこかに出かけるの?」
「ちょっと駅前の画材屋まで」
と言って靴を履いて玄関扉を開けて出ていったので、私は両手の買い物袋を母に押し付けて、「私も出かけてくる」と伝えて後を追った。
「降谷くん、ちょっと待って。私も一緒に行く!」
「……いいよ、来なくて」
嫌そうに振り返る彼。
でも、私は自分の恋心を大切にすると決めたばかり。
私のことなんて興味がないのはわかってるけど、せめて辛い時期は支えてあげたい。
「あのね! 新しいワイヤレスイヤホンが欲しいから私もコンクールに参加することにしたの。だから新しい絵の具でも買おうかなぁ〜と思って」
「参加するのは自由だけど、どうして俺がお前と一緒に画材屋に行く必要が? ってか、お前ってほんとに叩かれてもめげないというか」
「それが私のメリットなの! そう思ってるならもっと優しくしてよ〜」
「なんで俺が……。あのさ、少し離れて歩いてくれない? 知り合いにデキてると勘違いされたくないし」
「も〜っ、ひどいっっ!!」
相変わらず冷たい……。
その上、歩くスピードをワンランクアップさせるから、私は小走りで後を追う。
でも、よくよく考えればデートみたい。
お互い私服だし、降谷くんと二人きりで歩いてるし。
はぁぁあ、幸せ過ぎて夢のよう。
『お前はなに色が好き?』『私は情熱的な赤かなぁ』『俺は赤よりお前の色に染まりたい』
なぁんて、降谷くんとあまぁ〜い会話ができたら嬉しいのになぁ〜。
厳しい現実が続くあまり、頭の中で妄想を繰り広げていると、すでに足を止めていた彼の背中に顔がバシッとぶつかった。
「いでっ!!」
「……」
「降谷くん、どうしていきなり足を止めたの? 背中にぶつかった瞬間、私の鼻が凹んじゃったよ」
真っ赤に染まった鼻をおさえながら横から彼を見るが、まるで私の言葉が耳に届いていないかのように目は一点方向へ。
不穏な空気が漂い視線の先にたどると、そこには彼が片想いしているあの女性が背の高い男性と腕を組んで街を歩いていた。
しかも、彼女たちは幸せそうに微笑み、ジュエリーショップの扉の奥へ。
私は不安顔のまま再びとなりから見上げると、彼は瞳に輝きを失わせていた。
失恋というものがどれだけ人を苦しめるかわかっている分、胸がキュウっと締めつけられる。
「降谷くん、あの人……」
「彼女もうすぐ結婚するんだ」
「えっ」
「俺さ、もう失恋してんの。諦めなきゃいけないと思ってるのにみっともないよな。未練たらたらでさ」
いま彼はどんな気持ちで本音を吐露しているのだろう。
言葉では強がりを言ってるけど、心の中では気持ちが置いてけぼりになっているのかもしれない。
「そんなことないっ! 私も降谷くんに未練たらたらだから」
自分のことなんて伝えてもなんの慰めにもならないのに、いまなにか伝えなければ彼が壊れちゃいそうな気がしている。
「あははっ、そうだな。お前は叩かれてもめげないど根性女だもんな」
「ひどーい!! 何度も何度もめげそうになってるのにぃ!!」
「あははははっ」
彼が私に笑顔を見せるなんて予想外だった。
あぁ、こうやって笑うんだ。
もっともっと笑って欲しいなって思ったら、心臓がドキンドキンと恋のノックを始めた。
「ようやく笑ってくれたね」
「えっ」
「降谷くんが笑顔を見せてくれるだけで嬉しくなるよ。……あっ、そうだ! 失恋記念にいいところへ連れて行ってあげる」
「どこ?」
「いいからついてきて」
私は来た道をUターンしてある場所へ向かった。
まだ夏のぬくもりが消えない夕空に包まれながら。
ーー私たちは駅前から20分ほど歩き、ある場所に到着した。
そこは、潮風がびゅうびゅう吹き荒れている海岸。付近には両指で数えられるほどの人たちが波打ち際で遊んでいる。
いま着ているベージュのワンピースが波型になびき、不揃いに揺れる髪に視界が阻まれながらも足を一歩一歩進ませて波打ち際にたつ。
私はメガホンのように口元に両手を揃えると、海に体を向けたまま全身に力を込めて叫んだ。
「私はぁぁあ……、降谷くんが好きぃぃーーー! 降谷くんが他の女性を見ていてもぉぉぉ……、絶対絶対諦めたくなぁぁーーい!!」
波の音にかき消されないくらい大きな声で叫ぶと、彼は私を見てポツリとつぶやいた。
「みつき……」
「えへへっ。これが私のストレス解消法。胸の中に不満を溜めこむより、こうやって海に向けて大声で叫ぶとすっきりするよ」
「それは名案。……でもさ。普通本人目の前にして不満を言う? 逆にこっちの不満がたまるんだけど」
「だって、降谷くんは全然振り向いてくれないんだもん。だから、毎日不満だらけだよ」
「ばーか。……でも、叫んでる時はいままでで一番いい笑顔してた」
ニコリと微笑み返した彼はそう言うと、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
少し褒められた気になったお陰か頬が熱くなる。
「次は降谷くんの番だよ。思いっきり叫んでね!」
「オッケ」
彼は足を一歩だけ前に進んで砂浜を踏みしめると、両手を口元に当ててメガホンにする。
「さちかが好きだーーっ!! でも、早く忘れてやるからなーー!! これから、あいつよりも俺の方が何十倍にもいい男になってやるからなぁーーっっ!! 幸せになれよーーっ!!」
彼の背中を瞳に映したまま本音を聞いてたら涙で視界が歪んできた。
あぁ、本気で好きだったんだなぁと、彼の気持ちが身にしみるくらい伝わってくる。
不満を口にしていてもその中に愛情はしっかりと含まれているし、私なんて全然敵わないと知らしめるくらい彼女を想っている。
ヤキモチに歯止めが効かなくなったので、サンダルを脱いでから海水に足を浸らせて右掌に水をすくって彼にかけた。
ピシャッ……。
「わっ!! つめてっ……。何するんだよ」
「あはは。少しはすっきりした?」
鼻頭を赤く染めたまま笑顔でそう言うと、彼も同じように海に近づいて海水をすくい、私に水をかけた。
「おかげさまで」
「うわっ、冷たっっ! ……じゃあ、そろそろレベル0から1になったかな?」
「なにそのレベルって」
「恋愛レベルだよ。0は無関心、1は興味あり、2は気になる人、3は好きな人だよ」
「ふぅ〜ん……。お前は3でも俺は0だけどね」
「言ったなぁ〜!!」
ピシャッ。
「つめたぁぁっ! やったなぁ〜っ!!」
ピシャッ。
「あはは……」
二人の間に舞い上がっている水しぶきは夕日に照らされてキラキラと輝いている。
そのしぶきの奥の笑顔は私に幸せをもたらしてくる。
さっきは街で彼女が恋人と歩いてるところを発見して辛いひとときを過ごしていたけど、いまはお腹いっぱいに笑ってくれてる彼。
私にはこんな小さなことしかできないけど、少しは力になれたかな。
二人で笑い合ってるこの瞬間が、どうかこの先も続きますように。
ーーそれから数時間後、サンセットを迎えた。
私たちは少し高台にある屋根付きベンチに移動。
彼が座ってから「ちょっとジュース買ってくるね」と言って自販機を探しに行く。
すぐ裏にある自販機からペットボトルのコーラを2本買って彼の元へ戻ると、彼は海側の手すりに腕をかけて風に煽られながら海の方を眺めていた。
でも、その表情は街中で彼女を見ていた時のことを忘れさせれるくらい凛とした目をしている。
そんな瞳を見ているだけでも胸がトクンと鼓動を打つ。
「降谷くん。ジュース買ってきたよ」
「ん、ありがと」
私は彼にペットボトルを渡して隣で海を見つめた。
二人の髪はゆらゆらと同じ方向に揺らめいている。
「海を眺めていたの?」
「広い海を眺めていたら、俺の悩みなんて小さいなと思って」
「降谷くん……」
「さちかとはバイト先が一緒で2年前に知り合ったんだ。優しくて、心穏やかで、気さくで。彼女の周りにはいつも笑顔が溢れていた。そんな様子を間近で見ているうちに惹かれていって……。4月に保育士になってからは何度か会いに行ってた。結婚すると伝えられたのは夏休みの終わり。結局俺は気持ちも伝えられないまま失恋してた。情けないよなぁ」
彼は海に背中を向けると、ペットボトルの蓋を開けてコーラをぐびっとひと口飲んだ。
私も同じ方向を向き、プシッと炭酸が抜ける音を立てながらペットボトルの蓋を開ける。
「意外。モテ男は恋愛下手なんだね」
「お前みたいにモテない女も恋愛下手だけどな」
「なっっ!!」
「……でも、ありがとう。お陰ですっきりした。さっきは結構参ってたから」
そう言って目を合わせてきた途端、私の胸がトクンと鳴った。
「じゃ……じゃあ、お礼に私の絵を描いてくれる?」
照れくささが隠せずにサッと目をそらしながら言う。
私への恋愛レベルは0だとわかっているけど、1分1秒でも降谷くんの傍に居たいって思うのは贅沢かな。
「いーよ」
「えっ……、いいの?」
「似顔絵コンテストには参加するつもりだったから」
彼の気持ちが前向きになった喜びと、自分をモデルに選んでもらえたことが嬉しくて笑みがこぼれる。
「嬉しい! ありがとう」
「帰ったら時間ある? 締め切りまで2週間ちょいしかないから、いますぐ描かなきゃ間に合わないし」
「あるある! いーーっぱいあるっっ!! 1時間でも、10時間でも、100時間でもっ!」
「……あのさ、一体何時間拘束するつもりだよ」
「降谷くんの為なら一生の時間を使う!!」
「バーカ……」
幸せ……。
降谷くんが私の絵を描いてくれるなんて。きっと一生の宝物になる。
それに、今日は彼女を忘れる努力をしていることを知った。
ずっと不機嫌だったのは、彼女への気持ちを切り離していたからなのかな。
私はこのまま降谷くんに恋をしててもいいのかな。
諦めなくてもいいのかな。
このまま、ずっとずっと一緒にいたいよ……。