『元気? たまにはご飯でも食べようよ』


久しぶりに寧々(ねね)からきた連絡は空白の時間を感じさせない。

まるで昨日話したような、そんな感覚さえあった。

それは離れている時間より、一緒に過ごした時間が長いからだろう。


「どうした、急に」

『うん。たまにはヒロとじっくり話したいなって思ってさ。近々時間取れない?』

「ちょっと待って」


スマートフォンのスケジュールを開き、直近の予定を確認する。

ちょうど今週末の土曜日がフリーだった。


「今週の土曜日だったら仕事も休みで特に予定もないけど」

『そうなんだ。土曜日、私も夕方からなら時間取れるから、じゃあその日にしよう』


寧々との出会いは記憶にない。

いつから一緒にいたか覚えていないくらい幼少期が出会いだからだ。

母親の話では、地域の子育てセンターでママ同士が知り合い、意気投合。

それから親子で交流する機会が増え、必然的に俺──倖田(こうだ)弘樹(ひろき)矢原(やはら)寧々はよく一緒に遊んでいた。

母親同士が仲良くなったことから、互いの家に招待し合ったり、家族ぐるみで出かけたりすることが多くあったと聞いている。


「じっくり……か」


通話を終えたスマートフォンを前に独り言が漏れた。



土曜日の待ち合わせは、新宿駅東口。

ビルの合間からは、夕焼けと出番待ちの夜空が混じり合って紅掛空色が覗く。

週末の駅前広場は、これから夜の街に繰り出す人々で賑わっている。


「ヒロ!」


人混みの中から俺を見つけて手を振る寧々は、オフィスカジュアルに身を包んだすっかり社会人。

でも、その仕草や表情は昔と変わりない。


「お待たせ! 待った? ごめん」

「いや、来たばっか。大丈夫」

「そっか、良かった。なに食べる?」


寧々と直接会うのはなんだかんだ半年近くぶり。

でも、不思議なことにその会わなかった期間を感じさせない。


「寧々の好きそうなところ予約入れといた」

「え、マジ? さっすがヒロ」


行き交う人の中、並んで新宿の街を歩いていく。

チラリと見下ろした寧々は、鎖骨の下まで伸ばした髪を緩く巻き、長い睫毛はくるっと上がっている。

高校時代までは化粧っ気もなくボブスタイルだった寧々を知っている身としては、随分と大人の女性になったと感じる。

でも……。


「あー、お腹空いた!」


そんなひと言で、昔にタイムスリップしたような感覚を覚えた。

その言葉は、よく部活の帰り道に寧々が言っていたお決まりの台詞。

よく、寄り道して一緒にお腹を満たした。

夏はアイス、冬は肉まんをよく買い食いしたし、ファミレスで夕飯を一緒に食べて帰ることも時たまあった。

姿は年相応になったとしても、中身は変わらないことになぜかホッとする。

予約をしておいたのは、駅前から徒歩五分ほどの雑居ビルの五階に入る創作居酒屋。串揚げが美味しいと話題になった店だ。

入店し、スムーズに席に案内される。半個室の会話がしやすそうな席だった。


「串揚げ食べたかったんだよねー」


寧々は「わーい」なんて声を上げながらメニューを開く。


「一杯目は生でいいんだろ?」

「うん、いいよ。なににしよう……豆腐サラダと、串揚げは、海老以外適当に頼むね」


海老を頼まないというのは、俺が海老アレルギーだからだ。

気にしなくていいといつも言うけれど、間違って食べたら怖いとか言って一緒にいる時は絶対に食べない。

気にかけてくれるのは素直に嬉しいし、忘れずにいてくれているのはありがたい。


「で……話したいことって? じっくり話したいことがあるんだろ?」


乾杯のビールがテーブルに届けられて、今日の本題を切り出す。

寧々は「とりあえず乾杯しよう」と話を誤魔化すようにグラスを手に取った。

軽くグラスを重ね、互いに「乾杯」と口にする。冷えたビールが五臓六腑に沁み渡った。


「話の結論から言うとね……彼氏と別れたんだ」


声の調子は暗くはない。

どちらかと言うと明るい話し方だから、そこまで落ち込んでるとは思われないだろう。

グラスを置いた寧々は「って報告ね」と笑ってみせた。


「笑って話せない話を笑ってするのやめろよ。って……いつも言ってるだろ」


俺から返ってきた返事に、寧々は一瞬表情を強張らせる。

でもすぐに弱ったような笑みを浮かべてみせた。


「だって……」

「他ではそれで通用するけど、俺にはバレバレだから」


本当は笑えないし、落ち込んでいる。

寧々がそれを見せないように振る舞うのが上手いことを、俺は長年の付き合いからよく知っている。


「ヒロには敵わんね」


寧々は苦笑しビールを勢いよく喉に流し込んだ。

大学を卒業し互いに社会人となってから、寧々は今の会社で彼氏ができた。

相手は同じ部署の数年先輩の男で、寧々の新人指導を担当したと聞いていた。

一度だけ、偶然街中でバッタリ鉢合わせたことがあったけれど、同性の俺から見てどこか派手な印象を受ける男だった。

案の定、話を聞けば遊び方や趣味がパリピ寄りで、女性関係で寧々が悩んでいることもこれまで数度あった。

そのたびに別れたほうがいいと言ってきたのは言うまでもない。

寧々がそのひと言を欲しているようにも感じていた。決断をしたい、背中を押してほしいという想いも感じ取れた。

その反面、初めての彼氏を断ち切れない複雑な想いがあるのも知っていた。

長年の付き合いで、寧々に正式に彼氏という存在ができたのはこれが初めてで、恋愛をした時に彼女がどうなるのかを俺もこの時初めて知った。

一途で、尽くし、盲目になる。

それを向けられた男が、どうしてその男だったのか……。そう思わずにはいられなかった。

運ばれてきたうずらの卵の串揚げにかじり付きながら、寧々は溜め込んできた想いを次々と口にしていく。


「約束もさ、なかなか取り付けられない上に、やっとできたとしてもドタキャン。予約したお店でひとりでとか……もう虚しくなったよ。相手来ないので帰りますとかさ、笑えるでしょ」

「俺はそれ聞いて笑えるけど、普通は泣く案件だな」


いつもの調子でそう返すと、寧々は「笑うな!」と声を大にする。


「私……重かったのかな。無視したくなるくらい」

「さあな。そうなのかもな?」

「うわっ、ヒロひどー。そこはさ、『そんなことないよ』って言うんじゃない?」


寧々はケラケラと笑い声を上げながら抗議する。

こうして吐き出すことで、どんよりした気持ちが少しでも軽くなるならいくらでも話を聞いてもいい。

二杯目、三杯目と酒も進み、寧々の失恋話と共に夜は更けていった。



店を出たのは二十一時を回った頃。

日中は三十度を優に超える日が続いているけれど、この時間になると空気も冷たく感じる。

まだ飲み足りないという酒豪寧々の意見で、新宿から電車で二駅の俺の住まいで飲み直すことになった。

ひとり暮らしの部屋には寧々も何度か訪れたことはある。

今日のように飲み直しで立ち寄り、終電やタクシーで帰っていく。定番化しつつある流れだ。


「あ、ここまで来て野暮なこと訊くけど……」


最寄り駅から歩き始めて、寧々はいきなり立ち止まる。


「なんだよ」

「ヒロ、今付き合ってる子とかいない? 私が行って大丈夫な状況?」


どうやら俺の身辺を気にしたらしい。


「大丈夫だし。残念ながら現在フリーなんで」

「あ、そう。なら問題ないね。いや、もしそういう相手いたら行けないわって思ったから」

「そういう相手いたら俺が先にお断りするだろ」

「確かに。前に付き合ってた彼女、別れちゃったんだ?」


前回、寧々と会った半年くらい前は、付き合っている女性がいた。

でも、それも三カ月ほどだったと記憶している。

数合わせの付き合いで行った飲みの席で知り合った女性にアプローチされ、断ったもののお試しでもいいから付き合ってほしいとお願いされた。

好意を抱けなければ交際を断っても構わないとまで言われ、付き合うことになったものの案の定気持ちが動かず終止符を打たせてもらった。

付き合ったとも言い難い付き合いだった。


「私はこんなに失恋話打ち明けてるのに、ヒロの話なにも聞けてないんだけど」

「俺はそんな話すような濃い付き合いじゃないから」

「そんなことないでしょ」

「そんなことある」


駅から五分ほど歩くと、人も少なく自分たちの声だけが夜道に落ちていく。

数度ひとり暮らしの部屋を訪れている寧々は、俺の後に続き「お邪魔します」とオートロックのマンションエントランスを通った。


「ただいまー」


自分の家のように玄関を入った寧々は、酒を飲んでいても履いてきたパンプスを揃え部屋に上がる。


「なにも買ってこなかったけど本当にお酒あるの?」


最寄り駅を降りてからコンビニを通りがかった時、なにか買っていくと言われて大丈夫だと返事をした。冷蔵庫になんだかんだストックが入っているから問題ない。


「それなりにはあるつもりだけど、酒豪には足りなかったか」


確認してみた冷蔵庫には、缶ビールが四本、ハイボールもチューハイもある。そこまで家で飲むわけでもないから、ひとりだとストックは大幅には減らない。


「そんな飲まないし。これだけあれば十分でしょ。それより、相変わらずちゃんと自炊してるんだねー、さすが」


横から開いた冷蔵室を見て、寧々は感心したように言う。食材や、作り置きの料理があるからだろう。


「なに飲む?」

「んー……じゃあ、ハイボール」


冷蔵庫からハイボールの缶を二本掴み、奥の部屋に持っていく。

1Kの部屋は、広くはないけれど住みやすくて気に入っている。

ベッドにソファ、生活に必要最低限のものしか置いていないシンプルな部屋だ。テレビは自分の生活には必要がなく、プロジェクター投影をして映画などを楽しんでいる。


「じゃ、飲み直し乾杯」


ソファに並んでかけ、缶をぶつける。すぐに横から「はぁ、うまい」と満足そうな声が聞こえてきた。


「今日、ありがとね。話聞いてくれて」


互いに黙って酒を口にしていると、静かな部屋で寧々が沈黙を破る。

真面目な声音に何気なく横に視線を向ける。

寧々はこっちを見ずに、ただ真っ直ぐ壁に視線を向けたまま。その顔に、わずかに笑みを浮かべた。


「すっきりしたよ。やっぱり、誰かに聞いてもらうのが一番だよね。ひとりで悶々としてるより」


どうしてだろう。

散々話は聞いたはずなのに、寧々のその言葉が取り繕って聞こえる。

無理をしているように感じ取れる。


「それ、本当に?」

「え……?」

「まだ、なんか吹っ切れてない感じがする」


だから俺は遠慮なく追求する。

それをしてもいい間柄だと信じているから。踏み込んでも大丈夫だと、知っているから。


「……なんで、わかっちゃうのかな」


ぽつりと出てきた言葉は、ため息交じり。でも、どこか安堵しているようにも聞こえる。


「みっともないと思って、さっき言い出せなかった。馬鹿だなって、言われるかもって」


缶を傾け、黙って話の続きを待つ。

寧々のペースで話せるように、急かすことなく。


「二股、されてたの……ううん、私のほうが浮気相手だったみたい」


知らされたのはその事実のみ。詳細の多くは語られなかったけれど、それだけでも十分だった。そんな男と別れてよかったと、言い切れることには。


「それでもね、それがわかってもさ……」


声が揺れ、話が途切れる。

となりを盗み見ると、寧々は目を伏せ涙を堪えていた。


「憎んだり、嫌いになったりじゃなくて、ただただショックでさ……好きだったんだなって、それを思い知らされて、辛くて」


間接照明の光に涙がきらりと輝き、思わず缶を持っていないほうの手で寧々の頭を豪快に撫でていた。


「ほんと、馬鹿だな。馬鹿寧々」


長年付き合ってきた彼女が初めて見せた姿に、俺自身感情を揺さぶられたことを知る。

心臓を鷲掴みにされたように圧迫感で胸が苦しい。


「勿体ねぇよ。そんな男に、お前みたいないい女。こっちから願い下げだ」


もっと気の利いた言葉が出てきたらいいのに、肝心なところで思うようにはいかない。

咄嗟に出ていたのは、ただの俺の本心。

となりからは、涙を堪え、それでも我慢できなかったすすり泣く声。

いつの間にか飲み切っていた缶は、知らぬ間に握力でへこんでいた。

それから、どれくらい時が流れただろうか。

涙が止まった寧々が「ありがとね、ヒロ」とはっきりとした声で口にする。


「なんか、今度こそ断ち切れそう」


その顔には、涙に濡れながらも笑顔が輝いていた。


「そうか」


目にした表情に安堵する。

黙って立ち上がり、二本目の酒を取りに冷蔵庫に向かう。

ビールにいくか、ハイボール二本目にいくか、悩んでいたそんな時だった。

背後に気配を感じたと思ったと同時、眼下に華奢な腕が回されたのを目撃した。

背中に密着した寧々の体温をじわじわと感じ始める。


「ほんとさ、ヒロみたいな人と付き合えれば良かったな……」


それは、一体どういう意味?

即座にそう返したかった。

でも、なによりも自分の置かれた状況に混乱している。

隠していた、封じてきた感情を自ら認めてしまいそうで怖い。

寧々にとって特別枠で、永遠に終わらない関係でいたいと思ってきた。

時間をかけて築いてきた、幼なじみという代わりのいない関係。

それは、いつか終わりを迎えてしまうかもしれない恋愛なんかとは比べ物にならない深い繋がり。

でも、そんな何ものにも代え難い関係であるにも関わらず、心のどこか奥底に燻る感情が常に存在していることも確か。

それはもう、お互いにまだ子どもだった頃に芽生えていた感情。


「私のことをさ、ヒロみたいに理解してくれる、認めてくれる人と付き合ってたら、こんな思いしなくて済ん──」

「そんな奴いないから」


寧々の言葉を遮り、無意識のうちに出ていた言葉。

ハッとしたものの、もう後には引けなかった。

振り返ると、寧々が驚いたようにこっちを見上げている。


「俺以上に、寧々のこと理解して認めてくれる奴なんているわけないだろ。存在しない」

「ヒロ……」

「ずっと一緒にいて、ずっとそばでお前のこと見てきて……そんな俺が、いきなりひょっこり出てきた男に負けると思ってんの?」


寧々の大きな目にぶわっと涙が浮かぶのを目撃して、ハッと我に返った。

やってしまった、そう思ったのに……。


「なに、それ……慰めてるつもり?」


今度は正面から腕の中に飛び込まれ、動揺して上げた両腕が宙を泳ぐ。


「そんなこと言うなら……ちゃんと、大人の慰め方で慰めてよ」


制御していた感情が、なんとか保っていた理性が、寧々の声で崩れ壊されていく。

本当にいいのか──?

最後にそう問う自分がいたけれど、行き場に困って迷子だった両腕は小さな体を抱き締めていた。

長く付き合ってきても、こんな風に抱きしめることは初めてで鼓動が忙しなく音を立てていく。

そのまま傾れ込むようにしてベッドに倒れた時に目に入った時計は、ちょうど深夜〇時を回ったところだった。



薄目を開けると、ブラインドから入る陽の光で部屋の中はすでに明るくなっていた。

ぼんやりとした頭は一瞬にして冴え、昨夜の情事が鮮明に蘇る。


「寧々……?」


ベッドの上には普段通り自分ひとりだけ。寧々の姿はどこにもない。

時刻は七時を回ったところだ。

ベッドサイドに置いていたスマートフォンを手に取ると、メッセージアプリに未読のメッセージが入っていた。


【ヒロありがとう。また飲みに行こうね!連絡する】


いつも通りの、飲み後のお礼メッセージ。

普段となんら変わりのない様子に、胸に広がるのは戸惑い一色。

昨夜の自分を責めかけたそんな時、手に持ったままのスマートフォンが再びメッセージを受信した。


【今度はさ、ふたりでどっか遊びに行こうよ】


思いもよらない提案が五月雨に入ってきて、画面に釘付けになる。


「どっかって、どこ行きたいんだよ」


静かな部屋に落ちた自分の声が弾んでいることに、俺は気付いていなかった。





Fin.