からん――と氷が鳴った。 

製氷皿から落ちたひと粒を摘み口に含む。シャワーを浴び終えた後、冷たいものがほしくなる。そんなときはよく氷を舐める。それが僕の、ささやかな夏の習慣になっていた。生ぬるい夜風が頬を撫でる。それだけでは物足りず扇風機の風に当たり涼を取った。そうしているうちに、氷はゆっくり解けて消えてゆく。喉の渇きは、まだ癒えない。せっかくの華金だ。ビールを飲みたかったが、やめにした。昨日会社の付き合いで飲んでしまったからだ。今朝は最悪の目覚めだった。さすがに2日連続はきついし、土曜日もしたいことがある。我慢して水だけ飲んだ。
 カーテンがゆっくり膨らみ、網戸に張り付くという繰り返しをぼんやりと眺めていた、そんな夜のことだ。10時過ぎ、スマホが突然鳴った。上司からだろうかと思った。しかしこんな夜中にかけてくるだろうか。それなら実家からか、などと夜分に突然かかってきた電話を不思議に思いながら携帯を手に取った。液晶に表示されていたのは、知っている名前だった。だが、思いもよらない相手だった。

 涼也。

相手は、高校の同級生だった。最初は間違って押してしまったのかと思った。涼也とはもうすっかり疎遠になっていた。だから今更電話をかける理由が見つからない。だが、ツーコール待っても電話は切れない。当たったことに気づいていないのだろうか。それとも何か話すことがあるのか。ぱっと思い浮かんだのはマルチだ。マルチ勧誘はこうやって昔の友人から突然かかってくると聞いたことがある。いやいや、だが、涼也に限って……とそこで思い浮かんだのが、もうひとつの理由。同窓会の連絡じゃないか。高校を卒業して6年経った。そろそろ案内が来てもおかしくない頃だろう。これは、出たほうがいいのか。悩んでいる間もコール音は鳴り続ける。これ以上待たせるわけにはいかない、そう思って僕は覚悟を決めて、通話ボタンを押した。
「よぉ、元気してたか」
涼也の声が聞こえた。あの頃とちっとも変わらない口調で、彼はそう言った。
「お、おう」
僕が戸惑いながらも返すと
「てか俺のこと覚えてる?」
と彼は少し不安げに聞いてきた。
「そりゃーもちろん」
覚えているも何も。高校時代の大半を一緒に過ごした相手を忘れるはずがない。
「よかった。薄情なやつだから忘れてるかと」
と彼がおどけて言うので、失礼なやつだなと笑って言い返した。それから間髪入れずに
「で、何の用?」
と本題に入る。
「おぉ急に。そういうドライなとこ、変わってないな。馴れ合いせずにさっさと話を進めようとする感じ」
懐かしいなぁと彼は言う。急に電話してきたのはそっちのほうじゃないか。早く要件だけでも教えてほしいと思って聞いたのだが、彼にはそれが効率を重視していると感じるようだった。まぁあながち間違いではないのだけれど。
「別に特に理由はないぞ」
ただおまえがどうしてるかなーって知りたかっただけ、と彼は言った。ますますマルチのニオイがしてきて僕は早くその可能性を潰しておきたくって、彼に直接聞いた。
「おまえ、マルチじゃないよな」
すると、彼はいきなり吹き出した。電話越しでノイズがかかっているが、どうやら大爆笑しているみたいだった。
「もしかして俺のこと勧誘だと思った?まあ久しぶりだから疑われても仕方ないけど、疑り深いなぁ。俺が純粋にお前の近況知りたくてかけてやってるのに。ひどいひどい」
馬鹿にされているみたいで、ムッとして返す。
「そりゃ疑うだろ。6年何の音沙汰もない奴からこんな時間にかかってくるんだから」
「ひどーい。あんなに仲良かったのに。俺達親友だったじゃん」
「嘘つけよ」
「うっわー。相変わらずの切り返し」
6年の歳月を感じさせない、まるで今日も変わらずあの日々が続いているような感覚にとらわれる。あの頃もこうやって、ある種の漫才みたいな掛け合いをよくやっていた。そんな関係が僕は心地よかったのだ。こうして久しぶりに彼と話すと、あの頃の感覚が戻ってきたような気がする。
「本当に、ただの暇電ってこと?」
と再度確認する。
「そういうことー」
と気の抜けた声で彼は言う。とても会社員をしている奴の出す声とは思えない。つい笑みが溢れた。そんなへんてこな声を僕の前で出してくれることが何だか嬉しかった。まるで、皆が知らない彼のことを、僕だけに教えてくれているようで。彼が僕のことを思い出して、電話してきてくれたということも嬉しかった。僕はまだ、彼の特別でいられるのだ、と確かめられたから。だが、その照れ隠しに少し当たりが強くなってしまう。
「暇電ならもっと他にする奴がいるだろ」
ほら、また。思ってもないことが口を衝く。本当は6年ぶりの会話に浮き足立っているというのに。
「実はこの前結衣と会ったんだ」
彼が突然その名前を出した。結衣――同じクラスで、僕と仲の良かった女子だ。そういえば、涼也も彼女と仲が良かった。
「あいつとも久々に会って、一緒に飯食いに行ったの。そこでおまえの話になって、そういやあいつどうしてるかなーって。で、今日電話してみたってわけ」
少しがっかりした。結衣と話して思い出したのか。僕は一番じゃなかったのか。子供じみているとは思うが、6年ぶりに彼と話して、またあの感情が燻り始める。誰かの特別になりたいという感情はそう簡単に捨てられるものではなかった。お前の方が、随分薄情じゃないか。
「へー」
と冷めた反応をしてみると、彼は何か勘違いしたのか、
「別に、結衣とはそういう関係じゃないぞ?友達友達。今は何とも思ってない」
と弁明を始めた。
「もしかして、妬いてる?」
なわけないだろ、と突っ込むと、だよな、と彼は笑う。図星だったのが悔しかった。ビデオ通話じゃなくてよかったと思った。僕は感情が顔に出やすいから。不機嫌なのがすぐ分かる、涼也にもそう言われたことがある。多分今の僕は、とんでもない顔をしているに違いない。
 そのとき、スマホの画面が唐突にカメラに切り替わった。下着一枚のこちらの姿が映ってしまうんじゃないかと焦ったが、ビデオ通話になったのは涼也の方だった。スナック菓子の袋やらビールの缶やらが広がった机が映し出されたかと思うと、それは急に人間のどアップになった。思わず声を上げる。
「すまんすまん」
と彼は笑う。暫く調整してから画面に映る彼の顔が程よい距離になった。久しぶりに見る彼の顔は心做しか大人びているというか、顔つきが凛々しくなったような気がした。だが、笑ったときにできる目尻の皺や笑窪はそのままで、そこに少年の面影を見た。
「なんで急にビデオにしたんだよ」
「おまえが見たいかなーと思って」
別に見たくねぇよ、と危うく言いかけたが、言葉を飲み込む。
「見せたいんなら見てやるよ」
そう言うと彼はポーズを決め出す。随分陽気だなと思った。確かにあの頃も明るい方ではあったけど、今日はやけにノリがいい。よく見ると彼の顔はほんのり赤い。
「おまえ、飲んでる?」
「あぁ、さっきまで上司に付き合わされてた」
彼は動きを止めて答える。そうだったのか。通りでテンションが高いわけだ。
「じゃあさっき机に見えたビールは何なんだよ」
「それはこれから一人で飲み直す用」
「まだ飲むのか」
「当たり前だろー。上司の前じゃ酔っぱらえないっての。おまえも晩酌に付き合えよ」
そう言ってガハハと笑う。
「仕方ないなぁ、酔っぱらいに付き合ってやるか」
全然「仕方なく」じゃない。まだ彼と話していたかった。スマホを持って立ち上がって冷蔵庫に向かう。僕も何か飲もうと思ったのだ。
「何してるの?」
と彼が聞いてきた。そういえば、彼には音声しか聞こえていないのだ。彼の方だけカメラがついているのもなぁと思ってビデオ通話をオンにする。
「おまえが飲むなら僕も一杯やっちゃおうかなと思って」
だが、彼はそれに対する返事はよこさず
「うわ、おまえ下着でやんの」
と笑い出した。しまった。自分が何も来ていないのを忘れていた。カメラをオンにしたのを後悔する。部屋着でもいいから着ておけば良かったと思った。まぁ彼にならいいかと思う一方、彼にだからこそ見せたくなかったという感情が胸の奥で渦巻く。バツが悪くなって、うるせーとだけ返した。飲む予定じゃなかった缶ビールを一本出し、机に持っていく。
「部屋、割と小綺麗にしてるんだなぁ」
と彼は画面の向こうから部屋を見渡してくる。
「もしかして、彼女できたのか」
「なんでそうなるんだよ」
と反射的に返した。それがよくなかった。
「ははーん。さては図星だな?」
と彼は不敵に笑う。
「いないっつーの」
と言っても
「いや、もしそうなら俺だって嬉しいよ。祝福するさ」
と茶化してくる。それから彼は不意に天井を見上げて呟いた。
「俺も欲しいなー、彼女」
その言葉は僕の心を少しだけ仄暗くした。胸の燻りを忘れようとアルコールに頼る。プルトップを引き、勢いよく酒を流し込んだ。強炭酸が喉を刺激する。
「いい飲みっぷりだな」
彼は感心したように言った。続いて彼も、手元のロング缶を口につけ、ごくごくと音を立てて飲む。喉仏の動きが僕を刺激する。僕は胸のうちにある感情をはっきりと自覚した。逃れようのない、事実だった。

 *
 6年ぶりに話す彼とは思い出話に花が咲いた。あのとき流行っていたネタとか、他のクラスメイトのこととか、次から次へと話題が溢れた。
「覚えてるか。修学旅行のときのこと」
酔いが回ってきた頃、彼が言った。
「ああ、おまえと相部屋だったな。最悪だった」
「なんだよそれ、最高の間違いだろ」
「おまえ、イビキうるさすぎるんだよ。おかげで3日とも全然寝た気がしなかった」
「俺イビキかかないんだけど。おまえ誰の聞いてたんだ」
「おいおい、ふざけんなよ」
と次第に脱線していったが、
「まぁ、そんな話じゃなくてさ」
と彼が話を戻す。
「好きな子のこと、話したじゃん」
酔いが急速に冷めていく。
「そんなこと話したっけ」
「とぼけるなよー」
彼は一層赤くなった顔をぐにゃっと歪ませて言った。記憶はあった。3日目の夜だ。ちょうど今くらいの時間で、僕らはベッドに横たわってダベっていた。彼が言ったのだ。お前は好きなやついるのか――と。彼はその晩やけにしつこく聞いてきた。それでも口を割らない僕を見かねて、彼は自分から好きな子を言ったのだ。彼が当時好きだったのは、結衣だった。
「俺、あのときおまえに好きな子のこと、教えたよな。それなのに、お前ときたら全然口割らなかった」
あのとき、僕は「分からない」で通し続けた。
「なぁ、もう時効なんだからさ、誰だったんだよ。教えろよ」
彼はカメラに顔を近づけてこちらを覗き込む。
「僕は――」
僕は――
「分からなかったんだ、ほんとに」
本当に分からなかった。誰かを好きになるということが、どういうことなのか。ずっとそうだった。友達以上の感情が理解できなかった。でも、今なら分かる。
「人を好きになるって、その人の特別になりたいって、思うことだよね」
「何言ってんだ。それが当たり前だろ」
悪気のない言葉が直球で僕を刺し貫く。分かっている、彼は悪くない。それが普通の感覚なのだから。でも、僕はその「当たり前」が分からなかった。受け止めることができなかったのだ。缶を握り、残りのビールを飲み干す。すっかりぬるくなってしまっていた。炭酸も抜けて苦い後味だけが舌に残る。缶の表面で結露した水が滴って、腕を伝い落ちる。その様をぼんやりと見つめていた。アルコールがゆっくり脳に染みていくような感覚に陥る。
「なぁおまえさ」
彼はしゃっくり交じりに言った。
「もしかして、俺のこと――」

何かを言いかけて彼の動きが止まった。フリーズしたのか、画面の彼は微動だにしなかった。まるで時が止まったみたいだった。でも実際の時計は時を刻んでいる。ちょうど、日付が変わった。僕はのろりと立ち上がる。喉が渇いた。どういうわけか、からからに渇いていた。台所に行って、水道水をコップに注ぐ。ぬるい水じゃだめだ、キンキンに冷えていないと。そう思って冷凍庫の製氷皿から氷を掴み取る。皮膚に張り付くような感触がして、これが現実なのだと実感した。掴んだ氷をコップに入れ、早く解けて冷たくなるようにとカップを揺らす。氷はゆっくりと小さくなってゆく。ああ、僕の凍った部分も、今、溶かされつつある。そう気づいた。氷に閉じ込めた感情と欲求。氷は不透明で、中身は見えないけれど。人肌の温もりで解かされるのを、待っていた。早く解けてしまえばいいのに、何度そう思ったことだろう。この氷に近づいた人に、総てを託す、そのつもりだった。でも、それが涼也なら――。僕は、どうすればいい?
 
 あの頃からずっと、僕は涼也の特別な存在になりたかった。

 それはつまり――ああ。

このままずっと解けないでくれと願ってしまう。正体が明らかになって拒絶されるのが怖い。彼との日々を総て台無しにしてしまうことが何よりも怖い。それならいっそ隠し通したほうがいいのかもしれない。矛盾の狭間で、僕は揺れ動く。この感情の正体に気づかなければよかった。この感情自体を認めなければよかった。そうすれば、友達のまま、美しい記憶のまま、潔くフェードアウトすることができたのに。何がドライだ、彼の言葉を思い出して毒吐く。こんなクソデカ感情を拗らせているというのに。あいつは僕のことをなんにも理解していないんだ、きっと。ああ、もうそのままずっと、僕のことを分からないでいてほしい。せめて、分からないままでいてくれたら――。冷たくなった水を口に含む。舌に染みた味が薄れてゆく。解けかけの氷が口に滑り落ちた。僕は、どうすればいいのか――。体温で解けるのを、ただ待つことしかできなかった。
 画面の前に戻ると彼の部屋の電気は消えていた。
「まだ起きてる?」
と聞くと、もぞりと影が蠢いた。フリーズは戻ったみたいだった。
「ああ」
と返ってきた。だが、すぐに
「だめだ、寝るかも」
と弱々しい声がした。
「分かった。寝ていいよ」
「ありがとう」
会話はまだ続いた。
「ごめんな、こんな時間に電話かけて」
「ほんとだよ。もう12時回ってるし」
「明日土曜日だし堪忍してくれ」
「昼まで寝てるかも」
「いやだめだ明日早いから起こしてくれ」
「なんでだよ。アラームかけとけ」
束の間の静寂が流れた。重い空気を僕らは画面越しに共有していた。口を開いたのは、彼だった。
「ごめんな」
「何、急に」
「おまえのこと、分かってやれなくて」
「なんのこと」
呼吸が浅くなる。
「おまえは……俺のこと……」
「なんて言った」
彼の声はくぐもっていてよく聞き取れない。
「ごめん」
「どうしたの」
「やっぱり、いい、忘れてくれ」
「そうか」
「なんでもない」
「わかった」

「ごめんな」

「そっか」
それから暫く無言が続き、やがて彼の寝息が聞こえてきた。この部屋に彼がいるわけじゃないのに、自分の部屋の電気を消す。
「おやすみ」
言葉がひとりの部屋に浮かんで消えた。それから、そっと終了ボタンを押す。独りの夜に、宛先を失った言葉が彷徨う。


僕は、おまえのことが――好きだったんだな。


今頃確かになった、この思い。いや、実はとうの昔に分かっていた。分かっていたけど、認めたくなかったのだ。あの頃の僕は色んな意味でまだ幼かった。だから、僕は僕のことを認められなかったのだ。友人に抱いた感情の正体を認めるのが恐ろしかった。特別になりたいという思いを恋愛に結びつけた、その瞬間、大切にしていた氷が解け出してしまうんじゃないか。彼との思い出が何もかも、総て水浸しになって台無しにしてしまうんじゃないか。そんな気がしたから。
 そんな僕も大人になった。純粋な思いだけではいられないのだと知ってしまった。そして、この感情を今夜、ようやく認められた。僕は僕のことを受け止めることができたのだ。だが、それが何になる。彼は僕とは違うのだから。僕は彼を求めている。でも、彼が求めるのは、彼女だ。結局どうにもならないのだ。僕はどうしたって報われない。こんなことなら、いっそ気づかなきゃよかった――。

 冷凍庫を開けると青い光が漏れ出して、暗い部屋をぼんやりと照らした。氷を掴み、口に放り込む。がむしゃらに噛んだ。氷の砕ける音が虚しく響く。氷は欠片になって、噛み締めるとあっという間に解けてしまった。あとに残ったのは、どうしようもない涙だけだった。


【了】