人が記憶を手放していく順番は、聴覚から始まり、視覚、触覚、味覚、そして最後に嗅覚が失われるらしい。

 だから私は、こうしてオレンジ色の光に染まったホールを観て、彼のことを思い出したのだろうか。もうあの人がどんな声で話していたかも思い出すことができないのに。

 ホール中に漂うアルコールの匂いと、視界に入る煌びやかな同級生の姿が悲しい。いまこの空間にあるもの全てが、私にもうあのころには戻れないと言っているみたいだった。

 涼菜は、たしか高校二年生のときに同じクラスだった守田くんと談笑をしている。幹事長の挨拶が終わるとすぐに、涼菜に親しげに声をかけてきたのだ。

 いきなりのことに驚いている私と対照的に、当の本人はけろりと「元気だった?」なんて会話をしていた。そこから彼らの会話を何ラリーか聞いて、どうやら事前に彼の方から涼菜にSNSを通して声をかけていたことを知った。

 私はお邪魔みたいだ。そう察した私は、特に何も告げずに二人から離れた。幸いすぐ近くに、一年生のころ同じクラスだった人たちが固まっていて、そこに合流する。クラス委員だった子が、私に赤ワインの入ったグラスを回してくれた。

 話の途中でふと涼菜はどうしているだろうと後ろを振り返ると、まだ二人はさっきの場所に立ったまま話を続けていた。

 一瞬、守田くんと目が合った。彼は私に向かって、軽く両手を合わせた。形までは読み取れないが、唇が動くのが見える。「ごめん」か「ありがとう」か。くだらない。私は涼菜に気を利かせただけで、あなたのためにあの場を離れたわけじゃない。

 私は何も答えずに顔の向きを元に戻した。そのとき、正面に立つ委員長の向こうに、あの人の姿が見えた。

 どくんと大きく心臓が動く。
 彼はどこの塊に吸い寄せられることもなく、まるでそこしか見えていないかのようにまっすぐに出口の扉に向かい、静かに姿を消した。

 心臓の揺れが、全身に伝わっていく。グラスの中で、赤い液体が不安げに波形を描いている。

「ちょっと」とだけ声を残し、私はその輪から外れる。手にしていたグラスを近くのテーブルに戻して、彼の消えた扉を目指した。ホールを出る。

 冷たい空気が肌に触れる。中の室温は、きっとあの大人数のせいでかなり高くなってしまっていたんだろうなということに気づく。

 あたりを見渡しても、彼の姿はなかった。でも、あの人のことだ。行きそうな場所くらいわかる。

 エレベーターのところまで行くと、ボタンの上にこの階の簡単な館内図のタイルが貼られていた。金色で刻まれた文字の中から「喫煙所」の文字を探す。現在地とそれの間を人差し指でなぞり、行き方を確認した。このまま真っ直ぐ右に進み、角を左に曲がってベランダに出ればいい。そこを一番奥まで進んだところに喫煙所はある。

 さっき指でなぞった通りに、廊下を進む。足が自然と速足になっていることに、カツカツと響くヒールの音を聴いて気づく。

 ベランダへと続く扉を開ければ、すぐに氷みたいに冷えた風が髪とスカートを揺らした。そのあまりの冷たさに私は目をつぶる。そのまま顔を上にあげ、目を開いた。空にはぼんやりと光る月が見えるだけで、あとは重みのある黒に塗りつぶされていた。冬の夜空は星が綺麗なはずなのに、残念なことに今日は曇天だった。

 左側に、何やら明かりがあるのが見えた。十数メートル先に、街灯のようなものがある。そして、そこに寄り掛かるようにして立っている人の姿。

 ほら、見つけた。

 私はベージュのスカートを翻しながら、暗闇の中を切っていった。今にも走り出しそうな両足を、なんとか理性で食い止める。この距離で駆け寄ったら、すぐにバレてしまうから。私が彼を追ってきたことが。

 彼はイヤホンをしながら、手元のスマホに視線を落としていた。私の気配に気づいた素振りはない。

 頭上二メートルほどの高さから発せられるLEDの白い光が、コンクリートの上に歪な丸を描いている。その円周につま先を合わせて、私はようやく、その人の名前を呼んだ。

「保科先生」

 保科先生は軽く視線をこちらに移し、それからびくりと大きく肩を動かした。慌てた様子で右耳のイヤホンを外し、不安げな声で「奥村?」と尋ねてきた。

「お久しぶりです、保科先生」
「久しぶり。びっくりしたよ」
 少しだけ困ったような色を混ぜた笑顔を浮かべながら、保科先生は左耳にさしていたイヤホンも外す。それらをコートのポケットに入れると、彼はスッと私の全身に目を通した。

「それにしても寒そうな格好をしてるね」
「寒いですよ、もちろん」
 一応袖は肘の下まであるけれど、肩から先は布にはカウントできない花柄のレース生地だ。鎖骨のあたりまでレースが続いているから、肌着も着ていない。

「どうしてそんな格好で外に出てきたの? 上着はあるんでしょう?」
「ありますけど」 
 けれど、あなたの後を追うことに必死でコートを取りにいくという考えがなかった。なんて言えるわけもない。 

 曖昧にその先を濁す私に、保科先生は優しく笑いながら「入る?」とコートを広げる。
「入りませんよ。揶揄わないでください」
 答えながら、自分の顔が赤くなっていくのを感じた。先生の仕草を見たら、なぜだか急に彼の爽やかな石鹸みたいな香りを思い出したのだ。

 冗談だよ、と先生はコートを脱ぐ。私がその行為の意味にたどり着くより先に、コートを差し出されていた。
「いいよ、これを着て」
「そんな悪いです。先生だって薄着じゃないですか」
「僕はジャケットを着ているんだから平気だよ。それにほら、君も二十歳を越えてるでしょう。これはある種のマナーだから、そうやって扱われるような年齢になったんだなと思って、受け取ってくれればいいんだよ」
 じゃあお言葉に甘えて、と私はコートを受け取った。腕を通すのはなんだか気が引けて、ただ羽織るだけにした。

「保科先生は何を観てたんですか?」
「君たちが三年生のときの、文化祭の劇だよ」
 彼はスマホの画面をこちらに向けた。ちょうど保科先生がステージに出てくる場面だった。タキシードを着た先生はいつもの穏やかなイメージとはまた違う雰囲気を纏っていて、彼の登場に客席がざわつくのが映像でもわかる。

「懐かしいですね。あのときは、保科先生が『シンデレラの劇をやろう』なんて言うから本当に驚きました」
 ハハッと先生は笑う。きゅっと細くなる目元が、あのころのままだと思った。

「だってうちのクラスは圧倒的に演技力もやる気もなかったから。下手に難しい劇に手を出して中途半端な仕上がりになるくらいなら、簡単でそこまで練習しなくてもいい劇の方がいいと思ったんだ。受験生だったしね」
「おかげさまで夏休みは勉強に集中できたってみんな言ってました」

 舞台上に、水色のドレスに身を包んだ女性が現れる。「綺麗」という声と、少し嫌な笑いが客席で溢れだす。
 副担任の満島先生だ。やる気のなかった私たちのクラスは、あろうことかシンデレラと王子というメインの役を両方とも先生に任せていた。

 場面は舞踏会。お互いに惹かれた二人は、すぐにその場で手を取り合ってダンスを踊る。スタイルのいい二人がそうやって踊る姿は、本当に絵になった。流れているのは、「花のワルツ」。吹奏楽部の顧問でもあった満島先生のセレクトだったはずだ。

 その美しい音楽に、ヒューっと下品な指笛の音が邪魔をする。
 私は保科先生の顔を見た。先生は相変わらず穏やかな表情で画面を見つめていて、何かを言いそうな気配はない。

「噂になってましたよね。満島先生と保科先生」
 先生は乾いた笑い声をこぼして、そうだったねと頷いた。
「実際はどうだったんですか」
「本当にそうだったら、こんな役を引き受けたりしない」

 保科先生の目はずっと画面を見つめていた。その横顔からかすかに悲しみの匂いがしたから、私はやっぱりと心の中でだけ呟いた。
 二人が付き合っているという噂は嘘で、でも保科先生は満島先生のことが好きだったのだろう。

 楽しげに過ごす二人に、残酷に鐘の音が降り注ぐ。十二時を告げる鐘の音だ。急いでその場から去ろうとするシンデレラ。途中でガラスの靴を片方落としてしまう。しかし取りに戻ることはできない。王子の姿がすぐ後ろにあるのだ。シンデレラはそのまま舞台から消える。王子は残されたガラスの靴を手に、「彼女を必ず見つけ出す」と誓い、照明が落ちる。

 高校の文化祭程度の舞台では、いくら暗転中と言ったって真っ暗な空間を生み出せるはずがない。段ボールでは塞ぎきれなかった窓からの光のせいで、上手へと捌ける保科先生の姿ははっきりと見えてしまっている。

 先生の姿が完全に上手へと消えると同時に、私の中であのときの記憶が鮮明に蘇ってきた。


*  *  *  *  *
 

 私は照明担当で、公演中はずっと上手に控えていた。照明も実に単純な作りで、私はただシーンの切り替わりでスイッチを押せばいいだけ。手元のスイッチは、舞台の左右に置かれたライトと延長コードで繋げられていた。

 舞台を作る際に、舞台の真ん中を確認していなかったせいで、袖は下手側が明らかに広くなっている。上手には、私とあと一人が入れるか入れないかいうレベルだった。そこに、保科先生がやってくる。客席から見えないようにするには、その狭いスペースで二人肩を寄せ合うしかなかった。

「ごめん、狭いな」
 保科先生の囁き声が右耳の上から聞こえて、心臓が甘く鳴ったのを感じる。
「大丈夫です」
 素朴なワンピースに着替えたシンデレラが板についたのを確認し、私はスイッチを押した。

 私に近づきすぎないないようにしてくれているのだろう。先生の姿勢は不自然だった。それでも初夏を連想させる爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。保科先生の匂いだ。私は、開演前にお手洗いでボディーミストをかけておいて良かったと思った。

 この心臓の音が、先生に聞こえていませんように。音が聞こえなくても、私の緊張がどうか伝わりませんように。
 ただそれだけを念じ、シンデレラと継母たちの台詞を聴く。何かが恥ずかしくて、顔はずっと伏せたままだった。

「ごめん、奥村」
 それは保科先生が舞台に出る直前だった。予想していなかった声に、私ははっと顔を上げる。

「これ、落としたらまずいから持っててくれない? ポケットに入れたままだったみたいだ」
 そんな言葉と共に先生から渡されたのは、紺色のライターだった。それを見て、私は先生が喫煙者であることと、この爽やかな香りはそれを消すためのものだということを知った。
「わかりました」
 ライターが私の手のひらに移ると同時に、先生は舞台へと出ていく。

 冷たくも温かくもないガラスと金属を握りしめながら、私は保科先生の背中を見つめていた。

 あの爽やかな香りと、覆われるように感じた先生の体温が、まだそこにあるみたいだった。結末なんてわかりきっているシンデレラの劇なのに、満島先生の肩に手を乗せる保科先生の姿を見て、軋んだように心臓が痛んだ。

 ラストの暗転の合図は、二人のキスだった。実際にするのではなく、ぎりぎりまで近づいたところでスイッチを切る。ただ、文化祭委員の子から事前に「ぎりぎりまで近づいても切らないで」とこっそり頼まれていた。高校生にしてはちょっと幼稚な悪戯だ。

 二人が見つめ合い、顔を寄せる。客席から悲鳴みたいな声が聞こえてくる。下手から、何人かのクラスメイトが身を乗り出すようにして舞台上を見ている。

 ゆっくり顔を寄せた二人は、ある場所でぴたりと動きを止めた。それが暗転の合図のはずだった。

 消えない照明に、何よりも二人が戸惑っている。観客の歓声は、もう最大まで振り切られていた。オレンジ色の光が、淡々と二人を照らし続ける。

 満島先生が、覚悟を決めたように一回瞬きをしたのが見えた。
 その瞬間、私は耐えきれなくなってスイッチを押した。

 明かりが消えて、途端にさっきまでの悲鳴が止まる。数秒の静寂のうち、ぱらぱらと客席から拍手の音が聞こえてきた。その音が徐々に大きくなっていく。盛大な拍手を抱えながら、保科先生は上手に戻ってきた。

 打ち合わせでは最後は下手に捌ける予定だったのに。そう言おうと口を開くと、
「ありがとう」
 先生の声と重なった。たぶん私の耳に先生の声は届いていなかった。 

 それが何に対しての感謝なのかは、尋ねなくてもわかった。保科先生は泣きそうな顔をしながら、下手の方を見つめていた。視線の先にいるのは間違いなく、満島先生。保科先生は満島先生のことが好きなのだ。その、苦しさに染まった表情を見て思う。上手に捌けてきたのは、恐らくあんなことがあった直後で顔を合わせるのが気まずいのだろう。

 そんな表情もするんですね。声に出せない言葉を、ひっそりと心の中で音にした。

 
*  *  *  *  *


 劇を最後まで見終えると、保科先生はスマホをポケットにしまった。
「それにしても、よく僕がここにいるとわかったね」
 ようやく先生の目が私を見た。

「だって保科先生は喫煙者のイメージが強くて」
「そんなことないでしょ。君たちの前で煙草を吸っている姿を見せなかったし、匂いにだって気をつけてるのに」
「でも先生、打ち上げのときは必ず喫煙所に逃げるじゃないですか。文化祭のときも、体育祭も、卒業式の後も」
 だからわかったのだ。あのとき、真っ直ぐにホールを出ていった保科先生の姿を見て、また喫煙所に行ったのだろうと。

「それじゃあまるで、僕がニコチン依存症みたいだ」
 不名誉だとでも言うかのように、眉が寄る。少し砕けた口調が、お酒のせいじゃなければいい。
「わかってますよ。保科先生は、大人数でわいわい騒ぐのが苦手なんですよね?」
 私がそう言うと、今度は困ったように眉を軽く八の字にして保科先生は「君はぜんぶお見通しだったんだね」と笑った。

「保科先生、見せたいものがあるので少し目を閉じていてくれませんか?」
 保科先生は疑うことなく目を閉じた。一回だけ息を吐いて、私は正面から彼を抱きしめた。肩にかけていたコートが、ばさりと音を立てて地面に落ちた。声はしなかったけれど、先生がこの状況に困惑していることを肌で感じる。

「あの文化祭のときに預かったライター。ずっと返すことができなくて、まだ私の手元にあります。あのライターを見るたびに思い出すんです、保科先生のことを。大学に入ってサークルにも参加して就活も始まってどんどん高校時代から遠のいて行くのに、あのライターを見るたびに私は高校生のころの自分に戻ります。保科先生を思い出します。先生のことが好きだと感じます」

 まるで、シンデレラのガラスの靴みたいだ。青春時代の魔法は解けたはずなのに、ライターだけが、いや、それが連れてくる保科先生の面影だけがずっと残っている。ずっと私は、保科先生に恋をしている。

 打ち上げの最中で先生が消えたことに気づいたのは、ずっと先生の姿を目で追っていたからだ。クラスメイトとの談笑なんて頭に入ってこないほど、私の細胞は保科先生を見つめていた。

 お手洗いに行く途中で、喫煙所で煙草をふかす保科先生の姿を見つけた。その少しだけ疲労を感じさせる横顔を見て、先生があまり大人数の空間を好まないことを悟った。きっとそれは私以外の誰もが見落とすであろう小さな違いだった。でも私はいつだって先生のことを見ていたから。あなたのことしか見ていなかったから。

「君はいつから、そんなふうに僕のことを思っていたの?」
 保科先生の声は優しくて柔らかい。小さな子を寝かしつけるのに向いているだろうと、彼の声を耳にするたびに感じる。

「わかりません。気づいたら好きでした。それじゃあ駄目ですか?」
 先生は答えない。私への拒絶も感じない。
 私は祈るように、保科先生を抱きしめる腕に力をこめた。

 こうして触れているのに、先生の心臓の音は少しも聞こえてこない。自分の心臓の乱れた音だけが、鼓膜に届きつづける。

 やがて保科先生は、たんぽぽの綿毛に触れるようにそっと私の肩に手を置いて、私の身体を引き離した。 

 私はじっと先生の目を見つめる。先生は相変わらずの瞳で、私を見つめ返す。
「君はいま、いくつだっけ?」
「先月で二十一になりました。先生はいま、二十八歳ですよね。私たちが三年生のときに、二十五だと言っていたから」
「うん。でもたとえ成人をしていても、それほど年齢差が無くても、君はまだ子どもだとどうしても僕は思ってしまう」
「子どもだから、私の気持ちには答えられないということですか」

 そう口にして、私は下唇の内側を噛んだ。保科先生は返事をしなかったけれど、その表情を見れば答えなんて明らかだった。
「ごめん」
 その言葉だけは聞きなくなかったのに。
 こんな残酷な言葉を告げるときでさえ、保科先生の声は変わらず優しい。私は先生の声もすごく好きだったのだ。それに気づいて、涙がこみあげる。

「ごめんね、奥村」
 あなたの前でだけは泣きたくなかったのに、涙は言うことを聞かなかった。臓器でもなんでもなくて、ただの液体なのだから仕方ないのだろうか。右目から溢れた涙が頬を伝い、それに応えるように左目からも涙が流れた。

「泣かないで」
 そう言って涙を拭おうと伸ばされた腕を掴み、私は爪先に力を入れて背伸びをした。そうやって半ば強引に保科先生の唇に、自分の唇を押し付けた。数秒だけそうやって触れて、すぐに唇を離した。踵を地面につけると、一気に自分の身体が重くなった気がした。

 先生は私を突き放したりしなかった。いっそ怒って地面に叩きつけて、ひどい言葉を浴びせながら私の意識が飛ぶまで殴ってくれたらよかったのに。
「奥村」
 掠れた声と共に、うっすらと煙草の香りが鼻先に触れた。もうそれだけで十分だと思った。

「アルコールの匂いがする」
 保科先生はそう言って、やはりあの笑顔を浮かべる。止めろともここまでにしろとも言わないのは、あのキスが私のたった一回きりの勇気だということをわかっているからなのだろうか。それが、たまらなく悔しい。

「不快な思いをさせてすみませんでした。まだ酔い方を知らない子どもなんです」
 先生の目は見なかった。
「もう戻りますね」

 保科先生に背を向けて、一歩を踏み出す。かさりと足元で音がして、抱きついた勢いで落ちたままになっていたコートに気づいた。私はそれを拾おうと、腰をかがめた。その瞬間、背後に熱を感じた。保科先生の腕が、私の鎖骨の前で交わっている。背中に先生の身体が触れている。

「え」
 思わず、戸惑いを濃縮した声が漏れる。
「何か勘違いをしているようだけど」
 かつて私に二次関数を教えてくれた声が、耳のそばにある。

「君を拒絶したわけじゃないよ。もちろん不快だったわけでもない」
「でも子どもだって言ったじゃないですか」
 中途半端な優しさなんて求めてない。
「ただ、君はまだ大学生だから。これからは社会に出る準備をするための、大切な時間だから」
「だから何だって言うんですか」
「もし君が大学を卒業して社会人になっても、今と同じ感情を抱いてくれているなら、その時はもう一回伝えてほしい」

 私を抱きしめていた腕が緩められ、彼の手が私をその場に立たせる。くるりと引っ張られるままに後ろを振り返れば、そこには見慣れた保科先生の顔があった。

「そうすれば先生は、私のことをちょっとは考えてくれるんですか」
 保科先生はにこりと笑った。
 私はわかる。この顔を知っている。不安げに数式の答えを口にした私に、先生はいつもこの笑顔を向けてくれた。その表情が示すものを私は知っている。

「君もこれから多くの人に出会うだろうから、もし別に大切な人ができたら、こんな約束は忘れていいけれど」
「忘れないですよ。保科先生以上に好きな人も現れません」
 どれだけの時間、保科先生を想い続けたと思っているのだ。そんな簡単に私は別の人を好きにならないし、それ以上にこの感情を捨てられるはずがない。

「先生。最後にお願いです。もう一回、キスをしてください」
 保科先生はあからさまに困惑した顔をした。
「でも」
「私は酔っていますし、お酒の飲み方も知らない子どもだから」

 保科先生は小さく息を吐いた。右手で私の髪をかき上げる。唇が、優しく私に触れた。それはそよ風みたいなキスだった。
 触れ合った一点を起点に全身に広がるその穏やかな波は、紛うことのない愛だった。

「今日までは、あのライターがガラスの靴でした」
 まつ毛が触れ合うほどの距離で、保科先生を見つめる。

「今日からは、このキスがガラスの靴の代わりです。十二時を過ぎても、同窓会が終わっても、このキスは消えない。私はずっと保科先生に恋しています」

 生憎の曇った夜空の下で、私は解けない魔法にかけられる。