ベッドの横に寄せられた小さなテーブルの上には、写真立てが一つ置かれている。そこに映っているのは、優しい笑顔を浮かべる男女の姿だった。

 背後からは、落ち着いた楓人の呼吸音が聞こえる。乱れる心の内を必死に隠そうとするかのようなわざとらしさに、わたしの心臓はきつく締めつけられた。

「ちょっとでも嫌だなと思うことがあったら溜め込んじゃだめよ。そういうのが積み重なって、気づいたら後戻りできないくらい大きな溝になってるんだから」

 電話越しの姉の声は、ただ優しいだけでなくて安心感がある。心なしか母の声に近くなった気がするのは遺伝ではなく、子を持つ母親ならではのものなのだろう。

 姉は一ヶ月前のわたしたちの結婚式の日に、長女の縁を出産した。あなたのウェディングドレス姿を直接見られなくて残念。彼女は電話をするたびに、そう口にしていた。

「大丈夫だよ。最初に生活していく上でのルールは決めてあるし、ほら、楓人は料理上手だから。ここ数日はずっと夜ごはんを作ってくれて、あっちの方が奥さんみたいだよ」
「すごく想像できるな。エプロンをつけてフライパンを揺らす楓人くんの姿が」
 くすくすと姉は笑った。

 二人は大学時代、同じサークルに所属していた。「可愛いでしょ? 弟みたいなの」とわたしに楓人を紹介してくれた姉は、まさか彼が本当に自分の弟になるだなんて思ってもいなかっただろう。

 ちらりと時計を確認すると、時刻はちょうど十二時を回ったところだった。
「もう遅いし、そろそろ切るね。子育てでいろいろ大変だと思うけど、お姉ちゃんもしっかり休んでね」
 そんな言葉と共に、電話を切る。

 スマホの画面を確認する。姉から電話がかかってくる前に見たときは八十パーセントも残っていた充電が、この一時間弱の通話で三十パーセントにまで減ってしまっている。腕を伸ばして充電器を手繰り寄せ、スマホに指した。

 ふぉんっと生暖かい音を立てて充電が開始されたのを確認し、わたしは画面を伏せてスマホを枕の横に置いた。

 身体を横にし、毛布を顎のあたりまで引き上げる。電気を消したのは電話をする前だった。さすがに目が慣れてきている。天井に設置されている火災報知器を見て、なんで寝室にこんなものがあるのだろうと疑問を抱いた。

 楓人に尋ねようとしたけれど、なぜだか言葉が喉を通ってこない。諦めて「おやすみ」とだけ伝える。
 数秒ほど時間をおいて、背後から控えめに「おやすみ」という声が返ってきた。

 わたしはぐるりと身体を動かして、彼の方を向いた。その動きに巻き込まれた毛布の一部が、わたしのお腹の下敷きになる。

 楓人の背中に、そっと額をつける。じんわりと彼の温度がその一点から伝わってくる。
「楓人」
 彼の名前を呼びながら、わたしはしがみつくように彼の肩を抱きしめた。

「お姉ちゃん、幸せそうだった」
 そっか、と返ってくる言葉は、まるで空気の抜けた風船のようだった。彼を掴むわたしの腕に力が入る。
「わたしたちのこと、心配してた。何か不満があったらすぐに言わないと、取り返しがつかなくなるって」
「うん」

 反応が薄いのは、眠気のせいであってほしかった。なんなら、今日は眠いんだと強引にわたしの手を払ってくれたっていい。そのときに手を痛めつけられたとしても、わたしは文句なんて言わない。いつだって辛いのは、身体の痛みより心の痛みなのだ。

 いっそ怒ってくれと思いながら、締めつけるようにきつく彼の肩を抱きしめた。それでも楓人は動かなかった。

「楓人はわたしに不満はある?」
「ないよ。何もない」
 だったらそんなに切ない声を出さないで、と心の中で叫ぶ。
 楓人が声を震わせるのは、何かしらの嘘をついているとき。わたしに不満がないだなんて、嘘だ。嘘に決まっている。

 そう思いながらも、表面的な彼の言葉にほっと胸を撫で下ろしている自分がいた。そのことに気づいた途端、今度は激しい吐き気はわたしを襲う。

 腕が痛くなるほどの力で、楓人を抱きしめていた。それはもう、愛のある行為ではなかった。
 浜辺も見えない、ただ月だけがぼんやりと映る深く黒い海に、わたしはたった一人でいるみたいだった。身体が水の中へと沈んでいかないよう、楓人の身体に縋る。

「ごめん」
 無意識にそんな言葉がこぼれ落ちていた。
「沙月が謝ることなんて何もないよ」
「ううん。ごめん」

 瞳から溢れ出た涙はすべて、彼が着ているシャツに吸われていく。