向かいから歩いてくる彼女が、私に気付いて遠慮がちに笑顔を向けてくる。
 私は胸に湧き上がるすべての感情を押しつぶして、彼女の方に一切目を向けずに通り過ぎた。すれ違う一瞬、祈りを込めて「それ」を落として。
 カツン。
 わざと彼女の目に留まるように落としたものは、一つのブローチ。落ちたブローチに気づいた彼女が私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り向かずに角を曲がった。
 いつかこの想いを捨てることができたら、必ずそのブローチを取りに行く。だから、その時まで持っていてほしい。

 高校二年生の時のクラスで同窓会をやるという連絡が届いた。
 送り主は、当時のクラス委員。卒業から三年が経った今も、こうしてみんなをまとめなくてはいけないなんて、本当に大変だと思う。私には到底できそうもない。 
『すみません、バイトがあって』と、スケジュール帳も見ずに返信を打つ。たしか私の記憶の中では、その日は三限の授業が終わってからは空いているはずだった。でも、私はこの同窓会に行くつもりはない。
 送信ボタンを押す一秒前に、ぽこんとスマホが間抜けな音が立てた。誰かから新しくメッセージが届いたらしい。
 画面上に表示されて送り主の名前を見て、指が止まった。あわてて、その新規メッセージを開く。
 津田芽唯。
 私が当時一番仲が良かった、そして今最も会いたくない人物だ。
『久しぶり! 最近ぜんぜん会えてないよね? はやて同窓会くる? 実は私はやてに返さなくちゃいけないものがあってさ。同窓会で返そうと思うんだけど、どうかな?』
 芽唯が私に返さなくてはいけないもの。それが何かを私はよく理解している。だって、それは私がわざと芽唯に持たせていたものだから。できればずっと芽唯の手元に置いておいてほしかったのだけれど。
『わかった。行くつもりなかったけど、それ受け取るために行く』
『行くつもりなかったって(笑) さすがはやて! ありがとう。久しぶりに会えるの楽しみにしてるね!』
 私は適当なスタンプを送って、そのトーク画面を閉じる。
 さっきまで送ろうとしていた、断りの文を削除する。『参加します。よろしくお願いします』とだけ打って、クラス委員に送った。何かかわいらしい絵文字の一個ぐらいつけておけばよかったかなと思ったけれど、すぐに既読がついてしまったのでそのまま画面を閉じた。

 同窓会当日。その日は、ここ数年で一番の大雨だった。各種交通機関が止まり、同窓会も当然中止になる。 
『また今度やりましょう』というメッセージが送られてきて、その「今度」はもう二度と訪れないことを悟った。大人になるとは、こうやって自分から人生の楽しみを消してしまうことだと思う。
 せっかく今日のためにいろいろ準備をしておいたのに。
 昨日のうちにクローゼットから出しておいたワンピースを再びハンガーに掛けながら、はあっと小さくため息をついた。
 そんな自分に気づいて、手が止まる。同窓会なんてもともと行くつもりはなかった。いつもの自分なら、自由になった夜の時間帯をどうやって潰そうかとわくわくしているはずなのに。
 どうして私は同窓会が中止になったことを残念に思っているのだろう。久しぶりに同級生に会える機会が消えてしまったから? クラス委員が予約してくれた、今人気のイタリアンのお店に行けなくなったから? 
 それとも、芽唯に再会できなくなってしまったから? 誰かに脳内を見られているわけでもないのに、わずかによぎったその名前を振り落とすように、頭を振る。
 違う。そうじゃない。私はもう彼女のことなんて……。

 長年着ているジャージに身を包み、私はソファに寝転んだ。もう何もやる気が起きないし、少し早いけれど今日はもう寝てしまおうか。照明のリモコンに手を伸ばす。
 その時、枕元に置いてあったスマホが振動した。画面に映ったのは、『津田芽唯』の文字。わかりやすく心臓が揺れる。スマホを手にとり、応答ボタンを押した。
『もしもし、はやて?』
 声を聞くのは三年ぶりだったが、あまりにも記憶の中の彼女の声と変わっていなかった。一気に懐かしさが溢れ出す。
「久しぶり」
 震える指先も、赤くなる耳も、電話越しなら見られることはない。
『久しぶりー。今日の同窓会、中止になっちゃったね』
 彼女の語尾は、少し後ろに引っ張られるようで独特だ。そんな癖も昔のままで、本当に月日が経ったのかと疑ってしまう。まるで、あの頃に戻ったみたいだった。
『ねえねえ、今からはやての家行っていいかな』
 なんの脈絡もなく、芽唯は言った。
「え? なんで」
『実は今こっちに帰ってきててさ。同窓会のために』
 はやては、都内の大学に通うため、高校を卒業してすぐに上京していた。
『本当は日帰りで帰る予定だったんだけど、電車止まって帰れなくて。実家にも帰るって言ってないからいきなり行けないし、ホテルもとってないし』
 つまり、行く先がないから泊めて欲しいということだろう。実家にはいきなり帰れないけど、私だったらいいというのは、高校時代に築いてきた信頼関係の現れと信じていいのだろうか。
 そんなことを考える余裕はあるくせに、すぐには頷くことはできなかった。
 もうあれから三年が経つ。向き合うなら今しかないと思った。これを逃したら、きっと私は一生ここから進めない。
「わかった。いいよ」
 声が少し上ずった気がしたけれど、雨音がちょうどいい邪魔をしてくれたようだ。
『ほんと!? ありがとう!』
 語尾に星マークが見えそうなくらい、芽唯の声が嬉しそうに弾んでいる。甘く音を立てそうな心臓が憎い。
『はやての家、どこらへん?』
 最寄駅と、家から一番近いスーパーの名前を告げる。この辺りにはアパートは一つしかないから、すぐにわかるだろう。

 数十分後、チャイムが鳴った。
「わあ! 久しぶり! ぜんぜん変わってない」
 玄関の扉を開けた先にいた芽唯は、そう言ってくしゃっと笑う。こんな表情が似合う二十一歳は、彼女以外にいないと思う。
「久しぶり。すごい濡れてるじゃん、早く着替えて」
 大雨の中を歩いてきたからだろう。芽唯の服は、元の色がわからないほどに濡れていた。リブングに入ってきた彼女に、数枚のタオルを渡した。
 バスタオルで全身を拭きながら、芽唯はその肩にかけていた大きなバッグを見せてくる。
「じゃーん」
「何それ?」
「ドレス! 今日の同窓会のためにレンタルしてきたの」
 ドレスなんて思いつきもしなかった。私はちょっといつもよりかは比較的明るい色のワンピースを着ていくつもりだったのに。
「ねね、今日の同窓会用にはやても服準備してたんだよね?」
 ぽんぽん、と芽唯はタオルで髪を拭く。
「まあ、一応」
 芽唯が持っているものとは比べものにならないけれど。
「じゃあさ、今から二人で同窓会しようよ」
 芽唯がよくわからないことを言ってきた。
「え?」
「用意してた服に着替えて、お酒とか飲みながらゆっくり話すの」
「うちにお酒なんてないけど」
 お酒って、人の心の鎧を剥がしてしまうと思う。普段はピンと張っているバリアのようなものが緩む気がするから、私がお酒が好きじゃない。家にも一本だって置いてない。
「うん、だから買ってきた」
 またまた自慢げにカバンを見せてくる芽唯。かなりパンパンだと思ってはいたが、中に入っているのはドレスだけではなかったようだ。
「ねえ、いいじゃん。はやてと会うのは久しぶりだし。積もる話もたくさんあるでしょ?」
 そうやって頼まれたら、私にはどうやったって断れない。
 もう、と小さく無意味な抗議の声を漏らす。
「わかった。冷蔵庫にあるので適当につまみ作っておくから、シャワー浴びておいで」
「ほんと!? ありがとう。さすがはやてだね。はやての旦那さんになる人は本当に幸せ者だ」
 眩しいくらいの笑顔を浮かべた芽唯が、バスルームに消えていく。
 月日が経ったのに、胸に宿る感情はまったく色あせていない。そのことが辛い。

「見て見て。けっこう可愛くない?」
 バスルームから出てきた芽唯は、淡いピンクのドレスを着ていた。その控えめなフリルとか、よく見るとラメが散りばめられているところとかがすごく芽唯っぽい。
「可愛いね」
 私の言葉に、芽唯の口角がキュッと上がる。
「はやての服も可愛い。はやてっぽい」
 私が来ていたのは、薄い水色のワンピース。芽唯が着ているのに比べたら、とても地味だ。でも、芽唯が可愛いと言ってくれたのだからそれでいいのだろう。
 十分程度で作った簡単なおつまみを机に並べる。
「これも!」
 芽唯がバックから取り出したお酒が、その隙間を埋めるように置かれていく。

「よく天体観測したよね」
 二人きりの同窓会が始まって二時間半程度が経った。
 芽唯はそれほどお酒に強くないのか、すっかり酔いが回っている。テーブルに頬をつけた状態で、私を見上げるように話していた。
「うん、しょっちゅうね。プラネタリウムとかも」
 私たちは高校生のとき、天文部に所属していた。天文部といっても活動はときどき学校に泊まって天体観測をすることと、月一のペースでプラネタリウムにみんなで行くことくらいだったけれど。
「あ、そうだ」
 私は隣の部屋に行って、ある機械を持ってきた。
「なにそれ?」
 芽唯が頭を上げて尋ねてくる。
「自宅用のプラネタリウム」
 高校を卒業してすぐに、どうしても高校時代の生活が恋しくなった。
 まわりからはよく言えばクールな、悪く言えば人付き合いの苦手な人間だと思われていたことはわかっていた。だから誰にも言えなかったけれど、時折高校時代を思い出してセンチメンタルな気分になることが私にもある。 
 そんなときに見つけたのが、これだ。
 自宅でプラネタリウムを見ることができる小さな機械。真っ暗にした部屋に、プロジェクションマッピングのように、夜空を映し出すというものだった。
 ネットで購入したそれが家に届き、初めて使ったときの感動は今でも覚えている。まるで、高校生に戻ったみたいだった。私たちの青春はいつだって夜空と一緒にあったから。
 きょとんとした顔をしている芽唯に見られながら、私は食べ物やビールの空き缶でぐちゃぐちゃな机の中央を空けて、なんとかそこに機械を置いた。コンセントを差し、部屋の電気を消す。
「うわあああ」
 ありふれた女子大生の部屋が、一瞬で夜空に染まる。私たちは二人で、高校時代に戻ったみたいだった。
「ほんとに懐かしい」
 床に仰向けに寝転んだ芽唯が、吐息混じりの声でそう呟く。
「うん」
 隣に私も寝転んだ。手を伸ばせば届く位置に芽唯がいる。でも、それに触れてはいけない。
「もう三年も前なんだね」
「そうだよ、懐かしい」
 私が漏らした「懐かしい」という言葉に、芽唯が笑ったのがわかった。
「はやてでも、そういうこと言うんだね」
「どういうこと?」
「過去は過去って、前だけを見て進んでいくタイプだと思ってた」
 やっぱりそう思われてたんだな。慣れているし悲しくはないけれど、芽唯だけにはもう少し私のことを知ってもらえてると思ってたのに。少し胸が痛い。
 くすっと芽唯の笑い声が聞こえた。
「嘘だよ、はやて。はやては誰よりも友達思いだって私知ってる」
 その温かい声が、全身に滲みてくる。
「……うん」
 私の声は少し震えてしまっていたと思う。この動揺に芽唯が気づきませんように、と願った。
「ねえ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
「うん、何?」
 芽唯には他の誰よりも心を開いていた。進路の悩みも家庭の問題も、すべて彼女に話していた。そんな芽唯がずっと聞きたかったこととは何だろう。
「はやては、高校生のときに好きな人っていた?」 
 心臓の奥を突かれたような、衝撃があった。
「……それが気になってたの?」
「うん。だってはやてってそういう話しなかったじゃん」
 しなかったわけじゃなくて、できなかっただけだ。
 恋バナをすることが一つの友情の証明のようなものだったことはわかっていた。でも、それでも私は芽唯に恋バナをすることができなかった。
 芽唯のことが好きだったから。
 築きあげた友情関係が壊れると分かっているのに、それを口にすることは私にはできなかった。
 高校三年生の二月。
 進路が決まり、芽唯が東京の大学に行くと決まったときに、私はこの想いを捨てようと決めた。
 芽唯のことを、大切な友人の一人にしたかった。そうすれば、彼女との関係はずっと続いていく。 
 芽唯への想いを捨てるには、芽唯と距離を置くしかなかった。
 あからさまに芽唯を避けるようになった私に、それでも彼女の優しさは変わらない。すれ違えば必ず挨拶をしてくれるし、返信を一切しなくてもちょくちょくメッセージを送ってくれた。
 そうやってぎこちない関係のまま卒業式を迎え、それから今日まで一切の連絡を絶っていた。
 なかなか想いを捨てられない自分を追い込むために落としたのが、あのブローチ。芽唯は今日、それを渡そうとしているのだろう。
 あれから三年が経って、私はもうあの想いにすがらなくても生きていけるほど強くなったと思う。今なら、あのブローチを受け取れる。
「好きな人は、いなかった」
 嘘。ずっと隣にいた。
「そういうの、まったく興味なかったし」
 違う。その感情をずっと押しつぶしていた。
「そっか」 
 長い長い沈黙の後で、芽唯が呟く。
「なんだか眠くなってきちゃった」
 ごそごそと芽唯が動く音がした。こちらに背を向けたようだ。
「もう寝るね。おやすみ」
「うん。おやすみ」
 私も芽唯に背を向けて、壁に映る星を見ていた。

★☆★☆★

 ふと、目が覚めた。
 真っ暗な部屋の中、壁に映る星に目が留まる。横を向きながら寝ていたからか、体が痛い。
 反対側に向き直ると、彼女の背中が目に入った。ぼんやりとしたプラネタリウムの明かりが、ほのかに彼女の髪を照らしている。
 相変わらず艶やかなその毛の一本一本をまじまじと見つめる。
 ずっとそばにいたけれど、こんなに近くに寄ったのはこれが初めてかもしれない。近づきすぎることも、触れることも、ずっと怖かったから。
 この感情に、消えてほしかった。
 消えて。消えろ。なくなってしまえ。
 そう強く思った瞬間、涙が頬を流れていく。
 大好きだった。今だって、こんなにも。ずっとずっと、あなたが好きだった。
 涙を指で拭う。指先が、想像していたよりも冷たい。
 大好きなあなたと過ごした愛おしい日々の数々。一緒に笑いあった楽しい記憶も、この想いが報われない残酷さに震えた痛みも、全部まとめて愛せるようになれたらいい。
 きっと、なれる。
 天井に映し出された星を見た。世界に二人きりみたいだ。
 私とあなただけの夜空。
 私とあなただけの世界。
 体を起こし、机の上に置かれた機械に手を伸ばす。電源を切った。
 パチン、という音を合図に夜空が消える。同時に、私のこの感情も幕を下ろした。

★☆★☆★

 物音で目を覚ます。
「あ、起きたんだ。おはよう」
 背後から声がして振り返ると、はやてがマグカップを片手に立っていた。
「おはよう、はやて」
 はやては昨日のかわいらしいワンピースのままだった。彼女のことだから、てっきり部屋着に着替えていると思っていたのに。
「その服のままなんだ」
「だって芽唯を残して、一人で着替えるわけにはいかないでしょ」
 こういうところが、友達想いの彼女らしい。
 はやてが用意してくれた朝食を食べる。きつね色のトーストと、酸味が強いコーヒー。添えられたサラダが、すごくセンスがいいと思う。
「昨日の服乾いたよ」
 はやてが風呂場から服を持ってきてくれた。昨日私が脱ぎ捨てた服を、洗濯してくれていたようだ。はやての気が利くところは、これからもずっと変わらないのだろう。
 スマホで電車の時刻表を検索した。
「次の電車で帰ろうかな」
 明日には、いつも通りの生活が戻ってくる。課題もかなり溜まっているし、できるだけ早く帰らなくてはいけない。
「そっか」
 まったく感情が読み取れない声で、はやてが頷く。
「ねえ、はやて」
 スマホをいじるはやての手を引っ張る。
「何?」
「ちょっと、こっちに来て」
 怪訝な表情を浮かべたまま、しずしずとはやてが距離を詰めてきた。
「目を閉じて」
 長いまつ毛が動いて、はやてがそっと目を閉じる。
 私は昨晩からずっとポケットに忍ばせていたあるものを取り出した。
 彼女の熱を感じるところまで、もっと近づく。針を外して、はやてのワンピースの左襟にそれをつけた。
「もういいよ」
 はやてが目を開き、襟につけられたものに触れる。それは、卒業式の日にはやてが落とした、花のブローチ。私はこれを渡すために、彼女に会いにきた。
 ブローチを拾っていたことを、私ははやてに伝えていなかった。ずっと黙って持っていた。これがあれば、距離は離れてもはやてと繋がっていられると思っていたから。
 彼女はきっと、私がそんなふうにはやてのことを想っていたなん想像もしていないだろう。だって、私たちはただの友達だったから。
「ごめんね。これ、ずっと私が持ってた」
 はやては何も言わずに、じっとそれを見ている。
「これがあれば、ずっとはやてと繋がっていられるって思ってた」
 細い指が、ブローチを撫でる。
「好きだった、はやてのこと」
 初めて口にする、愛の言葉。
 はやての綺麗な目が、まっすぐに私を見ている。その視線は、怖がるようでも、軽蔑するようでもない。
「ずっと持ってくれてよかったのに」
 はやてが苦笑いを浮かた。
「なんで?」
「私には似合わないよ」
「そんなことない。すごく可愛いよ」
 その言葉に嘘はない。はやてはいつだって可愛い。本当に本当に可愛い人。
「はやてはすごく可愛い」
 私の言葉に、照れたようにはやてが笑った。
「やめて、恥ずかしいから」
「でも、本当にはやてはすっごくかわ」
「もうわかったから」
 顔が赤くなったはやてが、私から目をそらす。
「それからもう一つ」
 私は、そばに置いてあったカバンに手を入れた。
「もう一つって?」
「これ」
 はやてに差し出したのは、花のイヤリング。
「何、これ?」
「イヤリングだよ。ずっとブローチ持ってたおわび」
「そんなのいいのに」
「よくないよ。受け取って」
 はやては遠慮がちに手を伸ばし、それを受け取る。袋からイヤリングを取り出して、じっと丁寧に見つめていた。これ以上はやての顔を見ていたら、せっかく終わりにした感情が再び熱を持って走り出しそうで、あわてて顔を逸らした。
「私、もう行くね」
「うん。ありがとう、アクセサリーまでもらっちゃって」
「こっちこそいきなりだったのに泊めてくれてありがとう」
 ドレスから、いつもの服装に着替える。ほのかにフローラルの香りがした。
 最後にもう一度だけ持ち物を確認して、私は玄関に向かった。
 靴に足をいれると、つま先がほのかに温かい。きっとこれも乾燥機にかけてくれたのだろう。
「じゃあまたね」
 後ろを振り向いて、はやてに手を振る。彼女も、小さいけれど手を振り返してくれた。
 取手に手をかけて、扉を開ける。冷たい秋風が頬を撫でる。
「はやて、最後に一つ聞いておきたいんだけど」
 扉を抑えたまま頭だけくるりと後ろを振り返ると、はやてがパチッと瞬きをした。
「そのブローチの花ってなんていうの?」
「……さあ、わからないな」
 数秒の間をおいて、彼女は首を軽く傾げた。しばらくお互いの目を見つめ合う。先に逸らしたのははやての方だった。
「なんて名前の花なんだろうね」
 微かな声で、彼女はそう呟く。
 最後に残された僅かな希望が消えたというのに、不思議と私の口角は上がる。これでよかったんだ。自分の決意をようやく肯定できる気がした。
「そっか。ならなんでもない。じゃあね」
 もう一度だけ手を振って、扉を閉めた。

 行きよりもはるかにカバンが軽い。当たり前だ。行きはこの中に大量のお酒をいれていたのだから。
 はやてが落としたあのブローチの花は、なかなか他のアクセサリーでは見られないデザインをしていた。それが何の花かを必死に調べたのは、もう二年以上前のことだ。
 はやてが落としたブローチが型取っていた花の名前は『ベゴニア』。花言葉は『片想い』、『愛の告白』。
 もしあの時はやてがわざとブローチを落としたのだとしたら。わざと私に拾わせたのだとしたら。
 この三年間、そんな無意味な妄想に駆られた日々もある。花言葉に、わずかな期待を抱いてしまったことも。 
 でも、それらも全部私の想像に過ぎなかったのだろう。だってはやてはあの花の名前すら知らなかったようだし。
 駅に着き、改札を通過した。
 電車が来るまで、あと一分。
 私がはやてにあげたイヤリングも、とある花をモチーフにしている。それに込めた意味に、はやてが気づくとは到底思えないけれど。それでいいのだ。だってこれはこれは、私なりの、私のための終止符だから。
 その花の名前は『スイートピー』。
 花言葉は『優しい思い出』、『離別』。
 ──さようなら。
 電車がきた。