心臓の中に居座る確かな感情が暴れないように、感情を封印するみたいに、両腕を胸の前でクロスさせる。
 初めて足を踏み入れたラブホテルは、想像していたよりもずっと静かだった。ツルツルした生地のシーツはひんやりとしている。

「眠れないの?」
 少し離れた場所から聞こえてきた彼の声に、わたしはゆっくりと瞼を開けた。電気が消えた室内は墨に浸したように真っ暗だ。声がした方に顔を向けても、瞳には何も映らない。

「大丈夫?」
 心配そうな声と共に、かさっと布団が動く音と、軽くソファが軋む音がした。彼が身体を起こしたらしい。

 その声に応えずに、わたしは再び目を閉じた。いまここで大丈夫じゃないと言葉を返せば、彼はすぐにソファを抜け出してこっちまで来てくれるだろう。それをわたしは求めていて、でも求めていない。彼の声を一秒でも長く聴いていたくて、少しでもその温もりに触れたくて、でもお願いだからこれ以上わたしの身体に彼の存在を刻まないでほしい。

「真帆」
 優しい声が空気を伝ってわたしの鼓膜に届く。
 返事をしないでいたら、彼がソファから降りてこちらに向かってくる気配がした。わたしは両目を塞ぐように、右腕を顔の上に置いた。

「真帆」
 もう一度、彼がわたしの名前を呼ぶ。
 やめてよ。そう叫ぶ代わりに、口の中を強く噛んだ。

「真帆。隣にいってもいい?」
 切ないという言葉をそのまま作り出したかのような、聴いているだけで胸が苦しくなりそうな声に、わたしはつい腕を上げてその隙間から彼を見上げていた。

 やはり室内は暗くて何も見えなかったけれど、彼がわたしの目をじっと見つめていることは肌で感じ取った。

「うん」
 唇からその二文字が溢れて、溢れてから「やってしまった」とじんわりと後悔が身体に沁みてくる。
 馬鹿だな。こんなことをしたら、ただ自分が傷つくだけなのに。

 彼が遠慮がちにわたしの隣に腰を下ろす。ここからどうするかを戸惑っているのを感じて、掛け布団の端を軽く捲ってあげた。少し動きを停止させ、それから彼はそっと掛け布団とシーツの間に身体を滑り込ませる。自然と向き合う形になってしまい、心臓の音が乱れる。彼に背を向けた。

 身体は一点も触れていない。それでも、一枚の掛け布団に包まっていると、一気にこの空間の温度が高くなったように感じた。まるで抱きしめられているようだと思う。

「真帆」
「なに?」
「こっち向いてよ」
「嫌だ」

 恥ずかしがっているわけではない。そんな、付き合いたてのカップルみたいな初々しいやり取りじゃない。
 わたしはこれ以上、苦しい想いをしたくないのだ。たとえ、明日になったらすべて忘れてしまうとしても。


*   *   *   *   *

 
 月には不思議な力がある。

 出産は、塩の満ち引きと同じように月の引力の影響を受けると考えられていて。かの有名な、物語のいでき始めの親「竹取物語」では月の都なるものが登場して。狼男は満月の夜に姿を変える。

 わたしは月の周期に合わせて記憶がリセットされる。およそ一ヶ月周期で、寝たら記憶が消えてしまう。

 ある朝、目が覚めたら、わたしは少しだけ昨日のわたしより大人になっていて。記憶にはないけれど明らかに自分の筆跡のメモを読んで、わたしの思う「昨日」が昨日でないことを知った。

 一ヶ月というのは、自分の状態を理解して、新しい環境や人間関係に慣れるには十分な時間だ。でも、誰かと深い関係になるには圧倒的に時間が足りない。

 彼のことを好きになったのは、ちょうどいまのわたしになってから十日が過ぎたときだった。
 彼のことが好きだと気づいた瞬間に、わたしは必ず二十日後にやってくる別れを恐れた。これ以上、彼のことを好きになりたくないと思った。好きになればなるほど、わたしは最後の夜に目を閉じるのが怖くなる。辛い思いをしたくなかった。彼に想いを伝えたいとか、一緒にどこかに出かけたいとか、そういう想いにはすべて蓋をした。

 でも、神さまは意地悪だった。わたしをこんな状態にした上で、さらにわたしを苦しい状況へと追い詰める。気がつけば彼も、わたしが彼を想うのと同じように、わたしを特別な存在として見てくれるようになっていた。

 この人はわたしを好きでいてくれる。自意識過剰なんじゃないかと不安になる気持ちを蹴散らすくらいの勢いで、幾度となく彼の好意をこの肌で感じた。実際に「好きだ」と言葉にされたこともあった。その度にわたしの胸に甘酸っい痛みが走り、同時に鉄の塊みたいに重いものがぎゅっと心臓を圧迫した。

 彼を好きになって九日目の夜。
 二人並んで歩いていると、ふと手がわたしの指先に触れた。それから恐る恐るといった感じで彼がわたしの手を握る。握り返すことはなかったが、抵抗もしなかった。

 失礼だとわかっていながらも、そうやって曖昧な態度を取り続けた。手を繋いで、腕を組むようになって、ついにそれがキスというわかりやすい形で現れたときですら、わたしは彼の想いに言葉を返さなかった。 

 卑怯だという自覚はあった。罪悪感で壊れそうになる夜もあった。それでもわたしは、思わせぶりな嫌な女でい続けた。彼への恋心を満たしながら、やがてやってくる終わりのために予防線を引いていた。


*   *   *   *   *


 彼が背後から、そっとわたしを抱きしめた。いつも不安そうにしているくせに、時折こうやって男っぽい一面を見せてくる。そういうところが、好きだった。

 そう考えて、彼のことを過去のことにしようとしている自分に気がついた。好きだった、じゃない。わたしはまだ覚えている。初めて彼に下の名前を呼ばれた日のことを。「かわいい」と言われたときのことを。ハグもキスも、すべて。

「泣いてるの?」
 バレないように気をつけたのに、鼻を啜った音が聞こえてしまったらしい。
 答えないでいたら、わたしを抱きしめる腕が一層力強くなった。身体が触れ合う面積が一気に増えたことに気づいて、心臓が痛いくらいに激しく動く。このままだと必死に隠していた感情がぜんぶバレてしまいそうだった。

 ぎゅっと目を閉じて、彼のことを脳内から消し去ろうとしてみる。わたしが拒んでいるのを感じ取ったのか、彼がますます強くわたしを抱きしめる。

 そのとき、彼の動きに合わせて、何かの匂いがした気がした。いつもの彼とは明らかに違う匂い。香りと呼ぶべきであろう、上品な花のような……。

「香水か何かつけてるの」
 わたしの記憶上では、彼が香水をつけていたことは一回もない。
「うん。ちょっと手首につけただけだけど」
 その返事は終わりに向かうにつれて、ボリュームが落ちていった。

 最後の最後で、本命の女が別にいたとでもいうのだろうか。
 急に香水をつけ始めたと知って、そんな疑念が頭の中を支配する。ドロドロとした感情が渦を巻きそうになったが、同時に「これでいいのかもしれない」という気持ちが生まれた。

 彼がわたしのことを本気で好きなわけでないとすれば、少しくらい別れの辛さが和らぐかもしれない。それどころか、偽りの愛を伝えられていた怒りや悔しさが、悲しいなんて感情を上塗りしてくれるかもしれない。

 彼の手首を掴んで、そっと顔に近づける。どこかで嗅いだことがある、安心感のある香りがした。

「なんで急に香水なんて?」
 想像していたよりも硬い声だった。
 彼は空いている手でそっとわたしの頭を撫でる。
「これ、ラベンダーの香りなんだ」
 彼はそんな答えになっていない言葉を返す。紫の細長い花だっただろうか。以前使っていた入浴剤のパッケージを思い出す。

「ラベンダーにはリラックス効果とか安眠効果があるっていうでしょ。ここ数日、寝不足っぽかったから」
 穏やかな笑みを浮かべた顔を向けられて、金槌で押されたように太い衝撃が胸を襲う。しっかりと握っていた疑いの気持ちが、それに吹き飛ばされていくのを感じた。
「なんでわかったの」

 確かにわたしはここ数日、彼との別れを考えて眠れない夜が続いていた。苦しさが、睡魔をどこかに飛ばしてしまっていたのだ。でもそれを友だちに話したり、寝不足だとSNSに吐き出したりはしていなかったのに。

「わかるよ。ずっと真帆のことを見てるから」
 さっきまでのわたしの気持ちはどこにいってしまったのだろう。
 その言葉に、止める間も無く涙が溢れた。

 なんでだろう。どうしてこんなに辛い想いをしないといけないんだろう。いっそ彼がわたしのことを好きでなければ良かったのに。そうすれば、差し出された手を拒みつづける苦しみなんて味合わなくてよかったのに。

 でも、そんな世界線だったら、きっとわたしは彼に触れられる幸せを知ることもなかったのだ。こうやって最後の日に、大好きな存在が隣にいてくれることなんてあり得なかった。ああ、だから、やっぱりわたしは彼に好きになってもらえてよかった。自分勝手だけれど、そんな感情が一気に体内を埋めつくす。

 ありがとう。好きだよ。わたしも、あなたのことが。

 子どもみたいに嗚咽をあげるわたしを、彼はただ優しく抱きしめてくれる。理由を尋ねることも、答えを催促することもなく。

 わたしの記憶がリセットされてしまうことを、彼はおそらく知っている。わたしがいまのわたしになる以前に、わたしたちは関わりを持ったことはなかったらしいけれど、共通の友だちがいる以上、彼の耳にもわたしの記憶に関する話は入っているだろう。
 この状況を受け入れてくれているところが何よりの証拠だと思った。

 この人は初めからわかっていたのだろうか。いつか、こんな日がやってくることを。それでもわたしを好きになり、好きでい続けてくれたのだろうか。

「真帆。好きだよ」
 今さら返事なんてできない。そう思っているのに、その言葉に頷くのを止めることができなかった。
 大好きな人が自分を好きでいてくれる幸せが、細胞一つ一つに沁みわたる。愛という言葉が指すものを、わたしは知った。

 彼の体温と、ラベンダーの香りが溶け合い、わたしを包み込む。
 わたしは徐々に瞼が重くなっていくのを感じていた。もうすぐそこまで終わりは来ているとわかった。

「真帆って、甘い匂いがするよね」

 眠りに落ちる直前、そんな声が聞こえた気がした。なにそれ、ともはや声にもならない返事をすることしかできない。
 また少し、彼とわたしの身体がくっついた。

「真帆の匂いとラベンダーの匂いが合わさって、すごく優しくて可愛い匂いがする」

 きっとそれ、愛って名前だよ。
 彼の背中に腕を回して、わたしはそう答えた。