金曜日五限の大教室、後方二列目。興味のない一般教養の法学の講義に久しぶりに出席したけれど、退屈で仕方がない。そんな時はストラップをつけてペンダントがわりに首から下げた万華鏡を覗きこむ。刑法の不能犯について教授は語っていたが、鏡と紫を基調とした色とりどりのビーズが織りなす一期一会の輝きの方が大切に思えた。
 この夏恋人の悠紫にもらった、紫色の千代紙が貼られた万華鏡は私の宝物。初めて二人で万華鏡美術館に行ってから、筒の中のキラキラした世界に魅了された。
「それ、万華鏡ですか?いつも見てますよね」
授業後、髪色こそ明るいが、いまいち垢抜けない男子に声を掛けられた。
「ロマンチックでいいっすね。よかったらこの後、ご飯行きません?」
心なしか上ずった声で私を誘う。
「悠紫に男と話すなって言われているの。ごめんなさいね」
 これまで幾度となく口にした断り文句を言い放つ。方便ではなく、真実だ。彼は気まずそうに席を立つと、友達と合流して去って行った。
「山里先輩をナンパするなんてチャレンジャーだな」
 そんな声が聞こえた。

 帰り際に晩御飯を買おうとすると、生協前で急に悪寒が走った。一か月程前からよく起こるこの症状は、徐々に悪化していた。胸が痛くなり、息ができない。腕に力が入らず、カバンを落として荷物をばらまいてしまった。全身から血の気が引いて、膝から崩れ落ちた。
 誰かに助けを求めるつもりはないけれど、誰もが見て見ぬふりして通り過ぎていく。悠紫が言った「周りの人間なんてみんな敵だ。水彩妃には俺だけいればいいし、俺は水彩妃だけいればいい」の言葉をぼんやりと思い出した。悠紫の言うことはいつだって正しい。

「大丈夫ですか?」
先ほど私を誘った男子が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「顔、蒼いっすよ」
彼は私の私物を拾い集めて、自販機で水を買った。蓋を開けたペットボトルを私に差し出す。
「とりあえず、これ飲んで休みましょう」
水を口に含むと、少し落ち着いた。何とか立ち上がって頭を下げる。
「ありがとう、助かりました」
「心配なんで駅まで送りますよ」
「家、この辺。電車使わないの」
「じゃあ、家の前まで」
荷物を持ってくれた彼と歩き出す。
「山里水彩妃先輩っすよね?俺、一年の染谷慧佑って言います」
彼はよくしゃべる。そして早口だ。アパートの前まで送ってくれた後、生協で買ったばかりのおにぎりまでくれた。
「何かあったらマッハで来るんで。連絡先交換してもいいっすか」
「携帯持ってない」
「もしかして警戒されてます? 治ったらブロックしてくれても構わないんで」
「そうじゃなくて、本当に持ってないの。悠紫がいらないよねって言うから」
「じゃあ、お大事に」
 彼はめげる様子もなく、手を振って去っていった。

 部屋に入って、畳に倒れこんだ。テレビもパソコンもない部屋にポツンと置いてあるラジオのスイッチを押す。ラジオDJのハルトが自由にしゃべり倒すこの番組は悠紫がよく聴いていたことがきっかけで好きになった。
 思春期以降に見た娯楽作品は全て、元々悠紫が好きで勧められたものだ。それらはほんのりグロテスクなものが多くてあまり好きにはなれなかったけれど、ハルトのラジオは素直に面白いと思えた。
「続いて、ラジオネーム・ブレイドさんからのお便りです。こんにちは、僕は小学三年生です……」
 ラジオを聴きながら万華鏡を覗きこむ。仰向けになって見上げる鏡の中の世界は、宝石がひしめき合うかの如く鮮やかな景色だ。お便りは呪いで死んでしまうかもしれないので助けてくださいという内容だった。ハルトが解決策を提示する前に、ラジオのスイッチを切る。狭い部屋に静寂が訪れた。
 無音に耐え切れず、不安をかき消すように明るい歌を歌う。音程も歌詞もおぼろげな、未就学児の頃に好きだったタイトルも覚えていないアニメの主題歌。悠紫はその作品を知らないので私がこの歌を歌うことを嫌った。
「俺の知らない歌、歌わないで」
 悠紫の声が脳内に響く。そのお願いに不満があったわけではないのに、目尻から涙が肌を伝って耳へと流れ落ちる。
 空っぽな私は空っぽな部屋で、帰ってこない悠紫を待ち続けて眠りに落ちる。

 週明け月曜二限、最後列で心理学の講義を受けていると遅刻してきた慧佑が隣に座った。講義の内容はプラセボ効果とノセボ効果。実際に切られたわけではないのに、出血多量を起こしたと思い込んで死んだ囚人の話だった。履修登録は全部悠紫に合わせて決めたので、つまらない講義も多いが、この講義は好きだった。
「ノート、めっちゃ綺麗っすね」
 慧佑は無邪気に笑った。先週返しそびれた買い出し代と水代を返そうとしたら制止された。
「女の子からお金もらえないっす。お礼ってことだったら、代わりに勉強教えてくれません?」
 もしかして私が去年新入生代表挨拶をしたことを知っているのだろうか。
「いいよ」
 悠紫には申し訳ないが、引き受けることにした。この世界から気を紛らわせたかった。しかし、恩人を無碍にできないという大義名分があっても、罪悪感は消せなかった。

「ねえ、水彩妃が浮気したら、俺自殺しちゃうよ」
 私が男性と会話をするといつも、悠紫はカッターを手首に当ててそう言った。私が謝れば、その刃が実際にひかれることはなかった。

 慧佑に勉強を教えている最中、悠紫の言葉がよぎって思考停止に陥った。頭の中をごく採食でぐちゃぐちゃな景色がぐるぐるとまわる。

「水彩妃さん?大丈夫ですか?」
 慧佑の声で我に返った。無意識にまたあの歌を小声で口ずさんでいたらしい。友達と呼べる人はいないが、知り合いによく変な歌を呟くように歌っていることがあると指摘されたことが何度かある。それは決まって、悠紫の束縛にふと疲れた瞬間だ。この間心理学で習った幼児退行の一種なのかもしれないと他人事のように思った。
「それ、ウーパー仮面っすよね?」
「わかんない。私が三歳くらいの時のアニメだけど」
「じゃあ、それで絶対正解っすよ。てことは、水彩妃さんもしかして地元近いですか?」
彼曰く、「ウーパー仮面」は宮城県でしか放送されていないローカルアニメで、しかも人気低迷のためすぐに打ち切りになったらしい。
「仙台だよ」
「俺もっす! じゃあ、高校は……」
 慧佑は私が県下トップ高校の出身ではないかと尋ねた。いわゆる中堅校と言われていた慧佑の母校より更に偏差値が低い母校の名前を出して訂正する。
「意外っすね。もったいないって言われませんでした?俺は水彩妃さんと出会えたからラッキーですけど」
 高校も大学も悠紫のレベルに合わせて選んだ。進学面談のことはもう覚えていない。放任主義の親は特に反対しなかった。
「褒めても何も出ないよ」
「お世辞じゃないっすよ。入学してすぐ水彩妃さん見かけてから、ずっと目で追ってましたもん。彼氏がいたのはショックですけど。あと、水彩妃さん前期の最後の方授業出てなかったじゃないですか。あの時も貴重な目の保養がなくなってへこんでました」
 慧佑はいつも饒舌だ。
「見た目の話ばっかりしちゃったけど、水彩妃さんくらい頭良かったらマジで何にでもなれますよね。頭いい女の人って本当にかっこいい」
「女は家庭に入るから職業なんてどうでもいい、って悠紫が」

 悠紫と何度も行った万華鏡美術館。近くには万華鏡工房があって、そこの親方は私たちに万華鏡のことを色々教えてくれた。
「お前らいつもおアツいな」
 そう言われるたび悠紫は得意気で、親方は男として尊敬できるとよく言っていた。地元では眉を顰められていた私たちの病的なまでの愛を唯一肯定してくれた人だった。
「私、将来は万華鏡作る人になりたい」
「おう、そしたら俺んところに弟子入りすりゃいい。責任持って立派な職人にしてやるよ」
 その日の帰り道、悠紫は不機嫌だった。
「水彩妃の夢は俺のお嫁さんって言ってたのに、あれは嘘だったの?」
「嘘じゃないよ。結婚してたって仕事はできるよ」
 私は慌てて弁解した。
「俺は結婚したら水彩妃には家にいてほしいなあ」
「うん、わかった」
 あの日から、将来の夢は描かないことにした。