■
ミーン、ミーン、ミーン、セミが鳴いていて、アパートでは彼氏と知らない女が冷やし中華を食べていた。
ミーン、ミーン、ミーン、セミが泣いていた。
『セミ女と冷やし中華』
エアコンが壊れた職場はあらゆる意味で戦場と化す。私は壁時計の針を巻き戻すと現実逃避を試みる。
ーー遡(さかのぼ)ること三日前、彼氏の浮気が発覚。いや、正確に言うと自分が浮気相手であったのが判明し、文句を言う間もなく捨てられた。
あげく、仕事で大きなミスをおかして終電を逃すという、まさに踏んだり蹴ったり。
そのうえ更に。
「どうした? 何、ボーっとしている?」
低くたしなめる声で一気に現実へ引き戻され、主任と二人きりの現実を意識させる。
「えっと、主任はもう帰られた方が……後は私がやっておきます」
「そうもいかない。この状況は君に任せきりだった為に起きたんだからな」
気遣いを正論で打ち返し、溜息を添えた。私は慌てて主任の席へ頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝らなくていい。君がミスをしたのは俺のせいでもある」
一見、上司が部下のミスをフォローする光景に映るが、事態はそんな単純じゃない訳で……。
「こちらこそ、すまなかったな」
主任が眉間を人差し指でつつく。
「え? あっ!」
どうやら私は謝罪する一方で睨みつけていたらしい。慌てて表情を繕うものの、続けられる言葉にますます強張る。
「妹のことだよ。俺からも謝罪しておく、一応」
一応、言葉尻に添えたワードは主任と私の距離感を示す。彼は一応上司だから、一応関係者だからと関わる振りするだけ。本当のところ、何ひとつ心を痛めたりしていないのに。
私はかぶりを振った。
「まさか主任の妹さんと私の恋人が通じていたなんて、主任も知らなかったんですよね? 主任に謝られても正直困ります」
夜通し修正に追われるであろうミスの起因はプライベートにある。そう答えさせると主任は再び資料へ目を通し始めた。
「だとしても俺が一緒で居心地が悪いはず。君こそ、俺に任せて帰ったらどうだ?」
「エアコン壊れてますしね。こんな日に限って故障するなんて」
「はぁ、そういう意味じゃないと分かって言っているだろ?」
それはもちろん。気まずいのはお互い様で、私のフォローをすることで紛らわせたくないから。
「今月末で退社するので、最後くらい自分のミスは自分で直したいです」
「あ、あぁ、そうか、退社するんだったか」
「はい、田舎に帰ってお見合いでもしようと考えてます」
やや間があく。
「ーーなるほど。古風な考え方だが、そういうのも良いかもしれないな」
私は特別仕事が出来るタイプじゃないし、引き止められても会社に残らないと思うが、いかんせん主任は淡白なので人間とやりとりしている気になれない。
なんなら喋る壁と会話しているみたい。
私はパソコンを打ち込む猫背で主任を伺う。
我ながら喋る壁とは言い得て妙。その分厚いメンタルへ幾ら爪を立てても無駄、か。
「はーほんと暑いですね。エアコン、いつ直るんでしょう?」
「今夜中と聞いている。それより、また計算が間違っているぞ。君はケアレスミスが多い。集中できてないのでは?」
「すいません、すぐ直します」
「無理はしなくていいから。暑さで体調が悪くなる前に帰りなさい。タクシーならまだ拾えるだろう」
「で、でも、私がミスをしたので」
「辞める会社に義理を通さなくてもいい。自分を大切にするんだ。ほら帰りなさい」
「帰りません! 最後までやらせて下さい!」
再び、間があく。
「……そう。今どき、珍しいね。事情はどうあれ、男と二人っきりで朝まで過ごしたと見合い相手に勘違いされないようにな」
こちらへ目もくれず、赤ペンで✕を付けた書類を勢いよく突っ返すものだから、本音が嘔吐反射する。
「主任は私の考えが古風とおっしゃいますが、人の彼氏を奪って結婚しちゃう思考回路は今どきです? 明日ーーというより今日、身内だけでお祝いするんですよね?」
手元でぐしゃりと歪める音をさせ、やっと主任は顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が探る風に細められる。
「妹が君に伝えたのか? それともーー」
「どちらでもありません。SNSで知りました。私、妹さんのインセタをフォローしているんですよ」
「どうしてそんな真似を? 君が不快な思いをするだけじゃないか?」
私の行動が理解できないとばかり、肩を竦めてみせ、足を組みかえた。
手足の長いスマートな体型はデスクに収まりきらず、主任という役職にも満足してなさそう。
「出会いは会社のバーベキューって書いてありました。私は彼を連れ、主任は妹さん連れて参加しましたよね? あの時っぽくて」
あぁ、どうしよう、嫌味が止まらない。口が勝手に回る。
「主任が幹事だったから、うちの部署は全員参加になったんじゃなかったでしたっけ?」
ギュッと目を瞑った際、主任がワンテンポ遅れて机上を叩く。
「やめないか、今は勤務中だぞ! 悪いが、妹を持ち出されても何もしてやれない。俺に出来るのは君のミスを肩代わりする程度で、君はそれを断った。これ以上、どうしろと?」
「……すいません」
「愚痴や泣き言なら友人に言いなさい。もしくは当人等へ伝えるんだな」
「はい」
主任に取り合う気など更々なく、会話を打ち切る。私も着席を促されて飼い慣らされたように従う。
「ふぅ。この暑さだ、滅入るのも分かる。冷蔵庫に食事があるから持ってきてくれないか? いったん休憩しよう」
素直におすわりしたら次はご飯。私には見えない首輪がついているのかもしれない。生温い水を流し込み、気道を広げる。
主任は今の今まで顔色変えず働いていたくせ、カフスを外す。
当然、机など叩き慣れていないのだろう。手の平が真っ赤になっていた。
■
冷蔵庫がある一階の給湯室へ向かう途中、蒸した廊下の片隅になにやら白い物体を見付ける。
目を凝らしつつ近付き、その正体が分かると呟く。
「セミ」
それも羽化したての。
「どうしてこんな所で」
セミといえば木の上で羽化をするイメージ。それが何故? キョロキョロ辺りを見回せば窓という窓が開放されており、迷い込んでしまったのだろうか。
しゃがみ込み、乾ききらない羽根を眺めているとポケットの中で携帯電話が震えた。
「あぁ、やっと繋がったわ! あなた今、何してるの?」
着信相手は母だ。
「セミ」
「はぁ? 蝉?」
「会社の廊下の壁で羽化したセミ。なんか空気読めてないよね、このセミ?」
画面で照らす窓の外を照らすと、仲間と思われる個体が木に張り付いている。本来、このセミもあぁするべきなのに。
「とにかく早く帰ってらっしゃい。お父さんもお兄ちゃんも、みんな心配してるの」
「はは、相手の女に危害加えるんじゃないかって?」
その切り返しに母は黙った。
「嫌だなぁ、そんなバカなことしないってば。相手の女は上司の妹だよ? しかも妊娠までしてる」
生まれたばかりのセミを払い落とそうとする指先が震え、濡れる。
「早く帰ってきなさい」
母は呪文みたいに繰り返す。
「いいから早く帰ってきなさい」
膝を抱く。約束を失った薬指を噛んで嗚咽を堪える私はーーまるでセミ。それも空気読めてないと茶化すセミに及ばない、羽化不全のセミ。
帰りたいよ、帰りたいよ、帰りたいよって過去にしがみついたまま飛べずに鳴いているセミだ。
■
「食事って冷やし中華だったんですね」
「冷やし中華は嫌いか?」
「バーベキュー(社内懇談会)とセミと冷やし中華が今年から嫌いになりました」
「夏の代名詞ばかりじゃないか」
主任はメイクが汗で溶けたのか、涙で流れたのか尋ねない。私も私で化粧直しを怠り、頂きますと手を合わす。
「文句を言いながらも食べる、たくましい限り」
「腹が減っては戦はできぬって言いますーーって、態度を崩し過ぎましたか?」
「今は休憩中だ、構わない。それに直に上司と部下でもなくなる」
つまり、辞める人間に態度を改めさせても仕方がないと言っている。
「ふふ、主任って恋人に浮気されても平気そうですね」
「またその話」
「妹さんのことじゃなく、主任の場合を言ってるんです」
「ならば状況下に置かれてみないと何とも。ただーー」
「ただ?」
「少なくとも浮気相手のSNSをチェックなどしない。仮にそこに自分が知らない現実があるとしても、無駄に傷付く必要はない
と考える。俺は」
主任は別皿に盛られたハム、きゅうり、錦糸卵を丁寧に麺の上へ並べていく。理路整然とした語り口調と仕草がリンクしており、発言の正当性が増す。
一方の私は具材を一緒くたに投入し、中華タレが入った袋を犬歯で引き千切る。
「浮気されると、もうこれ以上傷つけられないようにって自分から証拠を探し始めちゃうんですよーーほら、例えばマヨネーズ!」
付属のマヨネーズを印籠がごとく、かざす。
「マヨネーズ、主任も掛けるんですね」
「え、あぁ、君は掛けない? 実家ではみんな掛けていたんだが……」
マヨネーズと私を見比べ、主任は傾げた。
「私は冷やし中華にマヨネーズを掛ける習慣がありません、彼もありませんでした。でも彼は気付いたらマヨネーズ掛けるようになって」
ここまで言って麺を口にする。ズルズルズルズル、ズルズルズルズル、わざと音をさせ啜った、ついでに鼻も啜った。
「ーーそうか。贖罪になるか分からないが、次に冷やし中華を食べる時はマヨネーズをかけないようにするよ」
「主任、今年のバーベキューは幹事なんですって?」
「では、君の元恋人の皿に灰になった肉を取り分けると約束しよう」
「……彼、ピーマンが嫌いなはずです」
「そうか。覚えておく」
主任はそう返し、麺を啜る音を重ねてくる。ズルズルズルズル、ズルズルズルズル、この世界で一番気の利かないブルースを二人で奏でているみたい。
生温い風が襟足を撫でてきて夜空を仰ぐ。満月をなぞる視界は滲み、慰めみたいな映像を見せてくれる。私と彼が冷やし中華へマヨネーズを掛け、笑っていた。
■
結局、作業は明け方まで続き、終わる頃には夜が明けていた。
食事をした後は仕事以外の会話はせず、皮肉にも私史上最大に働いた日となる。
達成感と疲労の虹が瞼にかかり、主任と顔を見合わせ指摘し合う。
「結局、エアコン直りませんでしたね。私は月曜日から有給消化に入るので問題ありませんけど」
「まぁ、この土日で直すだろう。そろそろ始発も動き出す。さっさと帰るぞ」
戸締まりをしつつ、ふとセミの姿を思い出す。
「どうした? 行かないのか?」
「昨日この辺りにセミがいたんですけど。ちゃんと飛び立てたかなぁと」
「蝉……」
「主任はセミ、嫌いですか? あ、あった!」
抜け殻をつまんで主任へ見せると明らかに仰け反った。眼鏡の縁を弄り、答えをはぐらかす。
「嫌いていうか。君も嫌いになったんじゃなかったか?」
「はい、バーベキューとセミと冷やし中華が嫌いになりました。だから、私も主任の妹さんも次に生まれ変わったらセミになればいいって」
主任の形の良い眉が歪む。意図を掴み切れない表情へ、こっそり調べた情報を加えてみた。
「セミのメスって繁殖活動が一回しか出来ないみたいですよ。だから」
すると、唇の前へ手が伸ばされた。
「ストップ、それ以上言わないでくれ。大方、妹の裏アカウントでも見たんだろうが、みなまで言われてしまえば君を嫌わなきゃいけなくなるだろう? 一応は」
「また一応、ですか。直に上司と部下でもなくなりますし、嫌ってくれて構いませんが?」
間があく。
「……そうか、それは残念だな」
「残念? どうしてですか?」
「妹を見返したいならば俺を利用するのが最善なんだがな。あぁ、俺も部下には手を出さない奥ゆかしい性分なんでね」
ーー瞬間、示しを合わせたようにセミが鳴き始めた。
「出来たらセミに生まれ変わる前に、可能なら見合いが決まる前に連絡をくれよな」
「え、えっ?」
混乱する私を置き去りにし、主任はひらひら手を振って去っていく。
「どういうこと? え、何なの?」
ミーン、ミーン、ミーン、セミは鳴くばかりで答えは聞こえない。
その場へ蹲り、むずむずする背中を擦ってみた。どうも私は覚えたての胸騒ぎへ羽ばたきたがっている。
ミーン、ミーン、ミーン、セミが鳴いている。
ミーン、ミーン、ミーン、セミが鳴いている。
おわり
ミーン、ミーン、ミーン、セミが鳴いていて、アパートでは彼氏と知らない女が冷やし中華を食べていた。
ミーン、ミーン、ミーン、セミが泣いていた。
『セミ女と冷やし中華』
エアコンが壊れた職場はあらゆる意味で戦場と化す。私は壁時計の針を巻き戻すと現実逃避を試みる。
ーー遡(さかのぼ)ること三日前、彼氏の浮気が発覚。いや、正確に言うと自分が浮気相手であったのが判明し、文句を言う間もなく捨てられた。
あげく、仕事で大きなミスをおかして終電を逃すという、まさに踏んだり蹴ったり。
そのうえ更に。
「どうした? 何、ボーっとしている?」
低くたしなめる声で一気に現実へ引き戻され、主任と二人きりの現実を意識させる。
「えっと、主任はもう帰られた方が……後は私がやっておきます」
「そうもいかない。この状況は君に任せきりだった為に起きたんだからな」
気遣いを正論で打ち返し、溜息を添えた。私は慌てて主任の席へ頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝らなくていい。君がミスをしたのは俺のせいでもある」
一見、上司が部下のミスをフォローする光景に映るが、事態はそんな単純じゃない訳で……。
「こちらこそ、すまなかったな」
主任が眉間を人差し指でつつく。
「え? あっ!」
どうやら私は謝罪する一方で睨みつけていたらしい。慌てて表情を繕うものの、続けられる言葉にますます強張る。
「妹のことだよ。俺からも謝罪しておく、一応」
一応、言葉尻に添えたワードは主任と私の距離感を示す。彼は一応上司だから、一応関係者だからと関わる振りするだけ。本当のところ、何ひとつ心を痛めたりしていないのに。
私はかぶりを振った。
「まさか主任の妹さんと私の恋人が通じていたなんて、主任も知らなかったんですよね? 主任に謝られても正直困ります」
夜通し修正に追われるであろうミスの起因はプライベートにある。そう答えさせると主任は再び資料へ目を通し始めた。
「だとしても俺が一緒で居心地が悪いはず。君こそ、俺に任せて帰ったらどうだ?」
「エアコン壊れてますしね。こんな日に限って故障するなんて」
「はぁ、そういう意味じゃないと分かって言っているだろ?」
それはもちろん。気まずいのはお互い様で、私のフォローをすることで紛らわせたくないから。
「今月末で退社するので、最後くらい自分のミスは自分で直したいです」
「あ、あぁ、そうか、退社するんだったか」
「はい、田舎に帰ってお見合いでもしようと考えてます」
やや間があく。
「ーーなるほど。古風な考え方だが、そういうのも良いかもしれないな」
私は特別仕事が出来るタイプじゃないし、引き止められても会社に残らないと思うが、いかんせん主任は淡白なので人間とやりとりしている気になれない。
なんなら喋る壁と会話しているみたい。
私はパソコンを打ち込む猫背で主任を伺う。
我ながら喋る壁とは言い得て妙。その分厚いメンタルへ幾ら爪を立てても無駄、か。
「はーほんと暑いですね。エアコン、いつ直るんでしょう?」
「今夜中と聞いている。それより、また計算が間違っているぞ。君はケアレスミスが多い。集中できてないのでは?」
「すいません、すぐ直します」
「無理はしなくていいから。暑さで体調が悪くなる前に帰りなさい。タクシーならまだ拾えるだろう」
「で、でも、私がミスをしたので」
「辞める会社に義理を通さなくてもいい。自分を大切にするんだ。ほら帰りなさい」
「帰りません! 最後までやらせて下さい!」
再び、間があく。
「……そう。今どき、珍しいね。事情はどうあれ、男と二人っきりで朝まで過ごしたと見合い相手に勘違いされないようにな」
こちらへ目もくれず、赤ペンで✕を付けた書類を勢いよく突っ返すものだから、本音が嘔吐反射する。
「主任は私の考えが古風とおっしゃいますが、人の彼氏を奪って結婚しちゃう思考回路は今どきです? 明日ーーというより今日、身内だけでお祝いするんですよね?」
手元でぐしゃりと歪める音をさせ、やっと主任は顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が探る風に細められる。
「妹が君に伝えたのか? それともーー」
「どちらでもありません。SNSで知りました。私、妹さんのインセタをフォローしているんですよ」
「どうしてそんな真似を? 君が不快な思いをするだけじゃないか?」
私の行動が理解できないとばかり、肩を竦めてみせ、足を組みかえた。
手足の長いスマートな体型はデスクに収まりきらず、主任という役職にも満足してなさそう。
「出会いは会社のバーベキューって書いてありました。私は彼を連れ、主任は妹さん連れて参加しましたよね? あの時っぽくて」
あぁ、どうしよう、嫌味が止まらない。口が勝手に回る。
「主任が幹事だったから、うちの部署は全員参加になったんじゃなかったでしたっけ?」
ギュッと目を瞑った際、主任がワンテンポ遅れて机上を叩く。
「やめないか、今は勤務中だぞ! 悪いが、妹を持ち出されても何もしてやれない。俺に出来るのは君のミスを肩代わりする程度で、君はそれを断った。これ以上、どうしろと?」
「……すいません」
「愚痴や泣き言なら友人に言いなさい。もしくは当人等へ伝えるんだな」
「はい」
主任に取り合う気など更々なく、会話を打ち切る。私も着席を促されて飼い慣らされたように従う。
「ふぅ。この暑さだ、滅入るのも分かる。冷蔵庫に食事があるから持ってきてくれないか? いったん休憩しよう」
素直におすわりしたら次はご飯。私には見えない首輪がついているのかもしれない。生温い水を流し込み、気道を広げる。
主任は今の今まで顔色変えず働いていたくせ、カフスを外す。
当然、机など叩き慣れていないのだろう。手の平が真っ赤になっていた。
■
冷蔵庫がある一階の給湯室へ向かう途中、蒸した廊下の片隅になにやら白い物体を見付ける。
目を凝らしつつ近付き、その正体が分かると呟く。
「セミ」
それも羽化したての。
「どうしてこんな所で」
セミといえば木の上で羽化をするイメージ。それが何故? キョロキョロ辺りを見回せば窓という窓が開放されており、迷い込んでしまったのだろうか。
しゃがみ込み、乾ききらない羽根を眺めているとポケットの中で携帯電話が震えた。
「あぁ、やっと繋がったわ! あなた今、何してるの?」
着信相手は母だ。
「セミ」
「はぁ? 蝉?」
「会社の廊下の壁で羽化したセミ。なんか空気読めてないよね、このセミ?」
画面で照らす窓の外を照らすと、仲間と思われる個体が木に張り付いている。本来、このセミもあぁするべきなのに。
「とにかく早く帰ってらっしゃい。お父さんもお兄ちゃんも、みんな心配してるの」
「はは、相手の女に危害加えるんじゃないかって?」
その切り返しに母は黙った。
「嫌だなぁ、そんなバカなことしないってば。相手の女は上司の妹だよ? しかも妊娠までしてる」
生まれたばかりのセミを払い落とそうとする指先が震え、濡れる。
「早く帰ってきなさい」
母は呪文みたいに繰り返す。
「いいから早く帰ってきなさい」
膝を抱く。約束を失った薬指を噛んで嗚咽を堪える私はーーまるでセミ。それも空気読めてないと茶化すセミに及ばない、羽化不全のセミ。
帰りたいよ、帰りたいよ、帰りたいよって過去にしがみついたまま飛べずに鳴いているセミだ。
■
「食事って冷やし中華だったんですね」
「冷やし中華は嫌いか?」
「バーベキュー(社内懇談会)とセミと冷やし中華が今年から嫌いになりました」
「夏の代名詞ばかりじゃないか」
主任はメイクが汗で溶けたのか、涙で流れたのか尋ねない。私も私で化粧直しを怠り、頂きますと手を合わす。
「文句を言いながらも食べる、たくましい限り」
「腹が減っては戦はできぬって言いますーーって、態度を崩し過ぎましたか?」
「今は休憩中だ、構わない。それに直に上司と部下でもなくなる」
つまり、辞める人間に態度を改めさせても仕方がないと言っている。
「ふふ、主任って恋人に浮気されても平気そうですね」
「またその話」
「妹さんのことじゃなく、主任の場合を言ってるんです」
「ならば状況下に置かれてみないと何とも。ただーー」
「ただ?」
「少なくとも浮気相手のSNSをチェックなどしない。仮にそこに自分が知らない現実があるとしても、無駄に傷付く必要はない
と考える。俺は」
主任は別皿に盛られたハム、きゅうり、錦糸卵を丁寧に麺の上へ並べていく。理路整然とした語り口調と仕草がリンクしており、発言の正当性が増す。
一方の私は具材を一緒くたに投入し、中華タレが入った袋を犬歯で引き千切る。
「浮気されると、もうこれ以上傷つけられないようにって自分から証拠を探し始めちゃうんですよーーほら、例えばマヨネーズ!」
付属のマヨネーズを印籠がごとく、かざす。
「マヨネーズ、主任も掛けるんですね」
「え、あぁ、君は掛けない? 実家ではみんな掛けていたんだが……」
マヨネーズと私を見比べ、主任は傾げた。
「私は冷やし中華にマヨネーズを掛ける習慣がありません、彼もありませんでした。でも彼は気付いたらマヨネーズ掛けるようになって」
ここまで言って麺を口にする。ズルズルズルズル、ズルズルズルズル、わざと音をさせ啜った、ついでに鼻も啜った。
「ーーそうか。贖罪になるか分からないが、次に冷やし中華を食べる時はマヨネーズをかけないようにするよ」
「主任、今年のバーベキューは幹事なんですって?」
「では、君の元恋人の皿に灰になった肉を取り分けると約束しよう」
「……彼、ピーマンが嫌いなはずです」
「そうか。覚えておく」
主任はそう返し、麺を啜る音を重ねてくる。ズルズルズルズル、ズルズルズルズル、この世界で一番気の利かないブルースを二人で奏でているみたい。
生温い風が襟足を撫でてきて夜空を仰ぐ。満月をなぞる視界は滲み、慰めみたいな映像を見せてくれる。私と彼が冷やし中華へマヨネーズを掛け、笑っていた。
■
結局、作業は明け方まで続き、終わる頃には夜が明けていた。
食事をした後は仕事以外の会話はせず、皮肉にも私史上最大に働いた日となる。
達成感と疲労の虹が瞼にかかり、主任と顔を見合わせ指摘し合う。
「結局、エアコン直りませんでしたね。私は月曜日から有給消化に入るので問題ありませんけど」
「まぁ、この土日で直すだろう。そろそろ始発も動き出す。さっさと帰るぞ」
戸締まりをしつつ、ふとセミの姿を思い出す。
「どうした? 行かないのか?」
「昨日この辺りにセミがいたんですけど。ちゃんと飛び立てたかなぁと」
「蝉……」
「主任はセミ、嫌いですか? あ、あった!」
抜け殻をつまんで主任へ見せると明らかに仰け反った。眼鏡の縁を弄り、答えをはぐらかす。
「嫌いていうか。君も嫌いになったんじゃなかったか?」
「はい、バーベキューとセミと冷やし中華が嫌いになりました。だから、私も主任の妹さんも次に生まれ変わったらセミになればいいって」
主任の形の良い眉が歪む。意図を掴み切れない表情へ、こっそり調べた情報を加えてみた。
「セミのメスって繁殖活動が一回しか出来ないみたいですよ。だから」
すると、唇の前へ手が伸ばされた。
「ストップ、それ以上言わないでくれ。大方、妹の裏アカウントでも見たんだろうが、みなまで言われてしまえば君を嫌わなきゃいけなくなるだろう? 一応は」
「また一応、ですか。直に上司と部下でもなくなりますし、嫌ってくれて構いませんが?」
間があく。
「……そうか、それは残念だな」
「残念? どうしてですか?」
「妹を見返したいならば俺を利用するのが最善なんだがな。あぁ、俺も部下には手を出さない奥ゆかしい性分なんでね」
ーー瞬間、示しを合わせたようにセミが鳴き始めた。
「出来たらセミに生まれ変わる前に、可能なら見合いが決まる前に連絡をくれよな」
「え、えっ?」
混乱する私を置き去りにし、主任はひらひら手を振って去っていく。
「どういうこと? え、何なの?」
ミーン、ミーン、ミーン、セミは鳴くばかりで答えは聞こえない。
その場へ蹲り、むずむずする背中を擦ってみた。どうも私は覚えたての胸騒ぎへ羽ばたきたがっている。
ミーン、ミーン、ミーン、セミが鳴いている。
ミーン、ミーン、ミーン、セミが鳴いている。
おわり