「───俺たちさ、友達に戻らないか?」
 友達になって七年。付き合いはじめて二週間の直樹から、思いもよらないことを告げられた。
 「は?」
 大好きなつくねを手にしたまま、思わず顔を顰めた。動揺や焦りが脳内を駆け回る。
 告げた張本人は、見るからにトロトロなほどよく煮込まれたモツを味噌に絡めている。私たちが行きつけにしているこの焼き鳥屋の人気メニュー、赤味噌おでんだ。
 「……本気?」
 「本気」
 十分テリテリになったモツをまだ味噌につけている直樹が、言下で即答する。昔から「味は濃ければ濃いほど旨い」と豪語しているだけある。だが、今それをされるのは鬱陶しい。
 「何言ってんの、私たちまだ付き合って二週間だよ?」
 「うん」
 直樹は串に刺されたモツをやっと口にする。もぐもぐと咀嚼し、大事に噛みしめている。大好きな赤味噌おでんにありつけて満足なのか、ちょっと幸せそうな顔さえも窺える。
 「だったらなんであの日、私にキスしたの?」
 問い質すと、直樹の表情が曇った。
 一口だけモツを残して、そっと皿に置いた。こういうときでさえ、日常が染みついている。いつだって、この男は優しい。自分の大好物なのに、最後まで食べずに一口だけ私にくれるのだ。「食べていいのに」と言えば、「欲しそうな目で見てきたから」と分け与える。
 きっとあの夜もそうだったのだろう。私があまりにも欲しそうにしていたから、直樹の優しいモードが働いてしまったのかもしれない。
 
 二週間前、ビニール袋いっぱいに入ったアルコール酒を持参し、直樹の部屋のインターホンを鳴らした。
 コンビニで酒を大量に買う時の私はすこぶる機嫌が悪い。家に行っていいか、なんていう事前申請はしない。いるかもわからない状況なのに、あたかも絶対にいるであろうと決め込んでインターホンを鳴らすのだ。絶対に私の相手をしてくるまで帰らないからと強く念じながら。寝ていたらインターホン連続連打で叩き起こすし、外出中だったら主が帰ってくるまで、扉の前で座ってヤケ酒しながら連続着信をする。
 さあ、今日はどうだろうか。
 三、四回インターホンを鳴らしたところで、やっと目の前の扉が開いた。仕事から帰宅したばかりなのか、まだジャケットを着ている直樹が姿を現す。手に持っている大量の酒を見て、直樹はわかりやすく頭を抱えた。
 この反応を見るのが私は好きだった。自分でも最低だと後々思い返して後悔するのだが、心が荒れ狂っている時の私は、人の嫌な顔を見ることがこの上なく嬉しい。
 「付き合え」
 強制する言葉を吐けば、直樹は諦めて扉をさらに大きく開け部屋内へと促した。
 乱雑にパンプスを脱いで、主より先に床を踏み鳴らす。玄関を入ってすぐの扉はトイレ、その奥が脱衣所兼風呂場、さらに奥の部屋がダイニングルームで、襖で仕切られた右奥は寝室になっている。もう何回も来たから目を瞑ってでも移動できる。なんなら、荷解きを手伝ったのは私だから、通帳を入れている場所も把握済みだ。
 「振られたのか?」
 ジャケットを脱ぎながら直樹がもはやテンプレ化した質問をする。私はコクリと頷いた。
 「今回はどれだけ続いた?」
 テーブルに置いた酒をガサゴソ漁りながら訊かれる。その片手間が癇に障った私は「半年だよ!」と荒げた。ビールを両手にどうどうと鎮火を図る直樹にさらに腹が立って、怒りの沸点が限界に達し号泣した。直樹に八つ当たりするのはお門違いだとわかっているが、これが一番吹っ切れるのだから仕方がない。この流れもテンプレだ。
 「瞳はホントに面倒くさいな」
 呆れ笑いで私の頭を撫でる直樹の手が好きだった。この分厚い手から伝わる体温があたたかくて余計に泣いてしまうのだ。
 私は幼い頃からよく我慢を強いられる立場だった。三人姉妹の長女に生まれたせいで、年を重ねるごとに〝お姉ちゃん感〟が染みついてしまった。学校では常に学級委員長を任せられ、おのずと部活動も部長へと推薦されることが多かった。中学も高校も然りで、当然大学のグループワークでもリーダーを担っていたし、サークルの飲みも大体幹事にされることが多かった。
 人に頼られるのは悪い気はしなかったし、実際私がやった方がスムーズにいくと自負していた節もあり、そういう類を断ることはまずなかった。
 だが、失敗した時の全責任を負うのも、大体私だった。毎回不満は抱くものの、反論も抗議もしなかった。だって、そういう、場の雰囲気が悪くなった時の立ち回り方も、責任の取り方も、場数をこなしている分上手かったからだ。
 そんなある日、コーヒー片手に話しかけてきたのが一個上の先輩である直樹だった。
 「都合のいい女にされてない?」
 神妙な面持ちで尋ねられた。
 不定期で活動しているテニスサークルで、直樹はたまにフラッと現れて軽く打って帰るような気分屋な先輩のイメージが私の中で確立していた。活動よりも飲みの方が下手したら多いのではないかという舐めたサークルなのに、直樹が今まで参加した飲み会は片手で数えられるほどに少ない。そんな彼が、珍しく参加したこともあって、かなりの酒の量を飲まされていた。だが、当の本人はケロリとしている。締めの一杯のようにコーヒーを啜って、私の隣に遠慮なく座った。
 「毎回幹事やってるよね?店決めるの大変なのによくやるなぁ」
 「まぁ、慣れてるんで」
 真っ赤なトマトジュースを飲みながら、悠然とした態度で答えた。
 「まあ、あんたはいいかもしれないけど、俺の気に障るんだよなぁ」
 そう言うと、直樹は潰れて大の字に寝ている男のポケットから財布を取り出す。何をするんだろう、と静かに見つめていると、直樹は躊躇なく財布から一万円札を抜き取った。
 「何、してるんですか?」
 「はい、これは幹事料ね」
 「いやいや」
 こっそり財布から取ったお金なんて受け取れるわけない。突き返すと、さらに強く突き返された。
 「酔い潰れてどうせ覚えてないから、大丈夫」
 「それはそうだろうと思いますけど、人として……」
 「人として終わってんのは、アルコールの自制しないコイツらだから。この前の店でも数人吐いたんだって?せっかく吐いても罰金取られない店探してくれたのに、コイツら悪びれなくあの店焼酎薄かったとか愚痴こぼしてる。こんなの尽くし損だろ。感謝すらしないコイツらの世話なんか、一万貰っても足りねえよ。なんなら、酔い潰れた全員の財布から一万徴収して、俺と一緒に二軒目行こう」
 「え?」
 「ジュースばっか飲んだって飲み放題の元は取れねえよ」
 直樹はそう言って、私の返事も聞かずにそそくさと帰り支度をはじめる。
 「本当に帰って大丈夫なんですか?」
 「大丈夫」
 心配する私をよそに、直樹はまだかろうじて起きているメンバーに「あとはよろしくな」と声をかけてから私の腕を掴んだ。あとの世話を頼まれた先輩は、現実と夢の狭間で行き来しているのか「おっけ~」と何も理解していないようなふんわりとした返事をして手を振っていた。
 「酔ってる奴って都合良くて扱いやすいな」
 「それは先輩がドライだから言えることです」
 「ドライじゃねえよ、俺は彼女には尽くすタイプだから」
 「へえ、意外」
 「マメに連絡ほしいし、週一で会いたい」
 「えっギャップすご!」
 「ははっ、人は見た目で判断するもんじゃねえんだよ」
 直樹は、どこか適当でフランクで、でもちゃんと筋は通っていて、どんな人とでも馴染めるほどのコミュ力も備わっていて、私が知っている大学生徒の中で群を抜いてポテンシャルが高かった。
 二人きりで行った二軒目で、直樹は持ち前のコミュ力を活かし私の心をあっという間に溶かしていった。弱音を吐くことをしてこなかった強情な私は、直樹の前では不思議と本音が話せた。
 この夜から、私たちの距離は急激に近くなった。毎日電話をし、毎週食事に行って永遠と馬鹿な話をしていた。こんなにも話しているのに、直樹とは会話が途切れることはなかった。あまりにも仲がいい私たちに、友達から「付き合ってるんでしょ?」と疑いをかけられることも多々あった。だが、酔って同じベッドで寝ても、数日直樹の家に居座っても、私たちが一線を越えることはなかった。直樹の家に泊まった翌日、直樹の家から彼氏の元へ逢いに行くこともあったし、直樹の彼女と三人で飲み交わす日もあった。
 大学生の頃の直樹は、勉強も優秀だったが、恋もそれなりに充実している、いわば勝ち組の大学生活を送っていた。大学生時代の直樹は無双していて、彼女が途切れることはなかった。だが、長続きもしなかった。直樹の優先順位は間違いなく彼女だったが、友達が弱った時だけは友達を優先するタイプでもあった。友達想いの彼氏は好印象だが、そこに〝女友達〟という異物が入ると、大体均衡が保たれなくなった。彼女と別れる原因の半分が私の存在で、でも直樹が私を切ることはなかった。そして、私も同様、直樹との縁を切ることは考えなかった。
 「毎日好きだって伝えているし、彼女のことを一番優先している。毎日連絡もするマメな男だし、飲みに行ってもちゃんと近況報告して浮気のうの字も考えていないことをこれ見よがしにアピールしている。こんな安心安全男他にいない。それでも瞳の存在に不安を持つなら、もう俺には何もできない。お手上げだ」
 そう愚痴をこぼすと、肩を竦め、数日後にはきっぱり彼女に振られていた。
 直樹は恋愛においても直樹らしい終わらせ方をしていた。元カノと円満に別れられるような立ち回りをし、百パーセントの確率で直樹が振られる形で関係を終わらせていた。
 大学を卒業してからの直樹は、エンジニアの仕事に邁進し、恋愛は少し落ち着いた。私は秘書の仕事に就き、相変わらず人の世話をしていた。時々恋愛をしては、毎回一年も経たずに振られた。どうやら私は恋愛に向いていないらしい。
 失恋した時は決まって、直樹の家でヤケ酒し、号泣し、怒り狂って、疲れ果てて眠った。そこは大学時代と変わらない。
 そして、直樹と出逢って七年、二十七になった私は、変わらず直樹の前で号泣している。
 「食事の約束守れなかったのは仕方ないじゃん、社長に呼び出されたんだから。ていうか半年記念日って何!?一年記念日ならまだしも半年記念日って、刻むなよっ!」
 ビール缶を飲み干し、勢いよくテーブルに叩きつけた。荒ぶる私の手が、テーブルの上で陳列していた空き缶に当たり、ドミノ倒しでカランカランと音を立てて倒れる。
 「あーあ」
 直樹が呆れながらも、空き缶をビニール袋に入れ片付けてくれる。
 「仕事ばっかで構ってあげられなかったからって浮気する!?前の彼氏も浮気してさ!やっぱり私が悪いの!?仕事を優先したらダメ!?だって、生活がかかってるんだよ?仕事しないとお給料発生しないじゃん!」
 「それはそうだな、ほったらかしにしたからって浮気していい理由にはならないな」
 「そうでしょ!そりゃあ私だって会いたいに決まってるじゃん!でも、彼氏といるよりも社長の近くにいる方が換算して多いんだよ?今日は用事があって向かうことができません、なんて言ったらその先が気まずくなるじゃん?仕事に支障きたすじゃん?」
 「瞳には、仕事と恋愛の両立は厳しいよなぁ」
 その言葉が私の生気をみるみる吸い取っていく。長いため息を吐きながら、テーブルに突っ伏し項垂れた。
 「……やっぱり私って、恋愛向いてない?」
 「俺は、何事にも全力投球な瞳を知ってるし、そこがカッコイイと思うけど、女が仕事に全力ってのがそもそも理解できない男もいるんじゃない?」
 もう、世の中の男全員が直樹になってくれれば楽なのに。
 「直樹はいつも円満に別れられてすごいよ、尊敬する。私だったら、一回寝た男とは絶対関わりたくない」
 「それは、別れる原因に彼氏の浮気が多いからだろ?」
 傷口をおもしろ半分で抉ってくる直樹を睨みつけると、「どうどうどう」と言いながら、新しい酒を無理やり私に握らせた。アルコールでご機嫌取りするな。
 「別れてもう一年くらい?新しく作る気はないの?」
 「んー、そろそろ結婚も考える時期だし、中途半端な恋人作るよりかは、ちゃんと結婚前提の恋愛を検討中」
 「私はいつだってマジの恋愛してる!」
 「知ってる。じゃないと、こんな毎回失恋するたびに号泣しないだろ」
 「わかってんじゃん」
 私が失恋して、初めて直樹の前で号泣した時、直樹はまさか私が泣くとは思っていなかったのだろう、驚きすぎてティッシュ片手にずっと狼狽えていた。そんな懐古な記憶が蘇ってきて思わず笑みがこぼれた。その日から、私は直樹の前でだけ泣けるようになったんだっけ。
 「ていうか、意外なんだけど。直樹も結婚とか、そういう将来のこと考えるんだ」
 「知ってる?もうすぐ、俺らアラサーだよ?」
 「まだ二十七ですから!」
 「あっという間だよ」
 今までもあっという間だったから、きっと直樹の言う通りあっという間に歳を重ねていくのだろう。
 「私たちさ、どっちかが結婚してもこうやって二人で会ったりできるのかな」
 「どうだろうな、先のことはわからないからな」
 わからない先のことを漠然と想像する。一番嫌な未来は、こうして直樹と二人で会えなくなることだと思う。
 今の私たちが、昔と変わらずにいられるのは、まだ何にも縛られていないからだ。昇進するにはまだ浅い年齢の平社員で、結婚もしていなくて、もちろん子供もいない。学生時代は制限もあり、お金も十分にはなくて、授業を受けながらレポートや課題をこなす毎日だったが、今はただ与えられた仕事をやっていれば、なんとか生活はできる。働いてさえいれば、月一で給料が入ってきて、光熱費も勝手に引き落とされる。流れ作業のような日々を過ごしていたら、気づけば二十七になっていた。
 ある人にとってはこの歳が一番自由で、ある人にとってはこの歳が一番手放さないといけない。そんな時期に立っている気がする。私たちは、どっちを選択するのだろうか。
 深く逡巡し、心が不安定に右へ左へと傾いた。
 「私、直樹と出逢えたこと運命だと思ってる。直樹だけは、手放したくない」
 質の悪い独占欲。だけど、無条件に私を励ましてくれるこの優しさは手放したくない。七年来の友達を築けているんだ。この出逢いは大袈裟にも〝運命〟と言っていい。
 「じゃあ、俺にすればいい」
 「……え」
 「俺と付き合えばいいだろ」
 世界が反転してしまうような甘い問いだった。
 私たちはずっと友達だった。手を繋いだことも、キスをしたこともない。男女の交わりも一切なかった。なのに、その言葉は甘い蜂蜜をそのまま舐めたように喉にまとわりついた。
 正直、何度も考えた。直樹と恋人同士になったらどんなに幸せだろうかと。直樹を一番理解しているのは私で、私のことを一番理解しているのも直樹だ。
 この先、直樹が結婚して、私との関係が徐々に薄れていく未来を想像すると全身が粟立つほど恐ろしい。それなら、もういっそうのこと、私と直樹が付き合えば万事解決するのではないか。その選択が一番幸せでいられると思った。
 今までの人生の中でも大きな選択だったと思う。私は、直樹との七年間にも渡る友達との関係に終止符を打ち、付き合うことを決めた。ゆっくり頷くと、短いキスで返ってきた。
 ほどよく回っていたアルコールが急に全身に巡り、どちらからともなくキスをした。
 この瞬間は、確かに幸せだった。直樹と付き合う選択は正しかったと確信さえしていた。
 もつれあうように互いの肌を重ね、「酒臭い」「瞳もな」と笑い合いながら、直樹の胸で眠った。
 
 二週間前の夜、私たちは確かに男女の関係を持った。初めて一線を越えた。
 これから先も直樹とずっと一緒にいられる、と安心した二週間後に、「友達に戻らないか?」という強烈なパンチを直樹からもらうとは思うわけがない。
 だったら、どうしてあの時「俺と付き合えばいいだろ」なんて言ったの?
 「だったらなんであの日、私にキスしたの?」
 頭が追い付いていかない。怒りなのか恐怖なのかわからない感情に襲われ、膝に置いている手がどうしようもなく震えていた。
 「あの時は、体が勝手に動いた。瞳が頷いてくれたことが嬉しかったから」
 「それなら、別れる必要ないじゃん」
 直樹が嬉しかったように、私も直樹がキスしてくれて嬉しかった。これで私も幸せでいられると思った。
 「だって、意味ないだろ?」
 「……意味?」
 何言ってんの……意味は十分あるじゃん。
 直樹はジョッキを手にし、ビールを一口飲んだ。こんな時でさえ、美味しそうに喉を鳴らす。こんなに重要な話をしているのに、なんで今ビールを口にするのかがわからない。タイミングを考えてよ、と苛立つ。それでも、静かに続きの言葉を待った。
 「変わらないだろ、付き合っても」
 続きを聞いても、意味がわからなかった。
 「変わらないって……私たち今の関係を変えたくなくて恋人になったんじゃないの?変わらないからいいんでしょ?今までもこれからも、このままでいることが幸せだと思ったから、私たち付き合ったんじゃないの?」
 私の言葉に、直樹は肩を落とした。
 「ずっと変わらない関係って、本当にあると思っていたのか?」
 あるでしょ、このまま今まで通りの関係は続けていく。友達が恋人に変わったくらいで、何かが損なわれることはない。
 「私たちが変わらずにいれば変わらない関係を続けられるはずだよ」
 自分がお門違いなことを言っているとは思えない。だけど、直樹の顔は未だ曇っている。
 「そもそも、そこから違ったんだ」
 「え?」
 「付き合ってみてわかった」
 「……何を?」
 「恋愛は友達の延長線じゃないんだよ」
 ビンタされたように頬がヒリヒリと痛んだ。
 「彼氏になったら、俺は友達じゃなくて男になる。見栄を張りたくなるし、理解できる彼氏でいたいとも思う。瞳に対してもそうだ。見栄を張りたくなったし、理解できる男でいたいと思った」
 「大丈夫だよ。そんな気張らなくても、私の一番の理解者は直樹だよ。昔も今もこれからだって」
 「そうだよ、そうだと俺も思っていた。だから、なおさら根本的な部分で合わないことを思い知らされた。今はわからなくても、いずれ瞳もわかる。理解できないじゃない、根本的な部分で合わないって思うことが増える」
 「そう、かな?」
 直樹の言いたいことがわからなくて、頭の中が洗濯機のようにグルグルと回っている。
 「俺は、瞳に失望さえしてる」
 「……え、失望?」
 「七年友達やってきたんだ。もう少し歩み寄ってくれると思っていた」
 「歩み寄るって……私たちずっとそばにいたじゃん。いまさら歩み寄るほどの距離感じゃないよ」
 呆れのような、諦めのような、重苦しいため息を吐かれる。今までにない空気が肌を刺す。こんな直樹を見るのは初めてだった。
 「瞳は、知ってるだろ?俺は、彼女から最低一日一回の連絡はほしいと思っていること。おはよう、おやすみ、だけの挨拶くらいでもいい。でも、瞳は一週間未読スルーだった」
 「そ、それはごめん。立て続けに社長に呼ばれて忙しくて……」
 「どんなに忙しくてもトイレ行く時間はあるだろ?それと同じだって考えられないか?いや、トイレよりも簡単だ。たった一回、スマホを開いて、俺のこと思い出して返信してくれるだけでいいんだから」
 一週間前に既読をつけたきり、直樹のトーク画面は開いていないことを、今この場で言われて思い出す。何個も吹き出しは出ていたのに、後回しにしていた。
 「俺のこと一番理解しているなら、それくらい考えられるだろ。もっと考えてほしかった」
 何も言い返す言葉が見つからない。これは私の失態で、自業自得だった。
 「付き合ってみてわかった、瞳が恋愛に向かない理由。瞳にとって恋愛は圧倒的に優先順位が低いんだよ。瞳は、結婚をまったく考えていない。ずっと自分が働くことを重きに置いている。家庭に入ろうとかそんなの一ミリも考えていないから、ずっと社長中心で仕事中心なんだ。だから、恋人を蔑ろにする」
 鈍器で殴られたような痛みが身体中に走った。
 「いやでも、私はちゃんと好きだったよ」
 「もちろん瞳からすれば恋愛も全力でしていたと思う。ただ、瞳の中での一番はやっぱり仕事なんだよ」
 そう言われ、仕事の都合でドタキャンした数々の約束を思い出す。
 「友達の時はできるキャリアウーマンって感じでカッコイイと思っていたし、仕事に真摯に向き合っているところは瞳の長所だと思っていた。俺にとって、これは大きい賭けだった。俺とだったら、瞳も少しは考えてくれると思ったんだ。結果、打ちのめされただけだった」
 「……でも、いずれ私の考えが変わって、この先もずっと一緒にいる未来を直樹も想像できるかもしれない」
 「それまで、俺は瞳のことを待たないといけないのか?」
 あ、間違えた───。
 私を拒むような伏せる直樹の目を見て、そう思った。
 「そういう甘え方はされたくない」
 「ご、ごめん」
 「俺は、いつも器用に生きているように見せていながらも、本当は限界で、キャパオーバーな瞳を最大級に泣かせて、甘えさせて、慰めてあげる時間が好きだったんだ」
 それは私も同じだ。
 「週一の頻度で突拍子もなく電話してきて、長々と社長の愚痴を吐いて、勝手にスッキリして一方的に切る、あの時間も俺は地味に好きだった。だけど、付き合ってからは、電話もこなくなった。恋人になった途端にパタリと止まった。それに気づいた時、確信した。これから先、俺は瞳に振り回さるのだと。たまに友達の関係に戻って、気まぐれで恋愛する瞳が容易に想像できた。そんな瞳の相手は、正直しんどい」
 直樹に指摘されて初めて気づいた。私は、恋人同士になって安心していたのかもしれない。これから先、直樹を失うことはないのだと胸を撫で下ろしていた。本当に大事なのはこれからだったのに。
 「直樹は、この先結婚したいと思う?」
 「ああ」
 直樹は間髪入れずに答える。それがもう、答えだった。
 私はずっとこの関係を続けたいがために直樹と付き合うことを選択した。でも、直樹は私と新しい関係を築くためのステップアップが目的だったのだ。
 「……わかった」
 頷きたくはなかったが、直樹を縛りつけたくもなかった。この先結婚を考えるなら、女友達の私は邪魔だ。
 「でも、そっちだってわかってるよね?」
 直樹が顔を上げる。
 「私のことを理解しているなら一度寝た男とはもう元の関係に戻るつもりはないこと、当然わかってるでしょ?」
 太もも辺りの生地を、爪を立てて掴んだ。毎朝スチームアイロンでシワを伸ばして家を出るポリエステル素材のタイトなスカートが、掴んだ箇所からみるみるシワシワになっていく。
 「そういう水に流せない不器用で芯があるところもかっこよくて、俺は好きだった」
 「もう挽回しようとしても、遅いよ」
 なるべく精悍とした面構えを意識して言葉にすると、直樹は降参と言うように手を上げて力なく笑った。
 「あの夜、賭けに出なきゃよかったな」
 「友達がベストっていう関係性って、ちゃんとあったんだね」
 「そうだな。でも、あの時は友達を続けていても、いずれはこういうルートを辿っていたような気がする」
 私もそう思う。
 「ごめんね、理解してあげられなくて」
 「こっちこそ。理解できなくて、ごめんな」
 私たちは、そう交わして無理やり笑い合った。
 そして、最後の乾杯をして、早々に解散した。七年来の友達と縁を切るにしては、あまりにもあっさりしていた。お互いにこれが最後だと実感していなかったのかもしれない。
 帰りの道中、気づけば大量に涙が溢れていた。家や友達の前でも、一人になっても泣けなかった私が、直樹が現れたことでいつの間にか泣き方を身に着けていた。私はもう一人で泣ける。その事実が一番重かった。
 二週間という最短で別れを切り出してきた男は、私に一番の傷を作って、私の前から颯爽と消えていった。自分からは決して別れを切り出さなかった男は、おそらく初めて自らの手で関係を切った。
 最低で、最高な私の男友達だった。