きっかけは些細なこと。
ゴミ捨てを忘れるとか、寝相が悪いだとか、食器を片付けないだとか。
普通は「しょうがないな」で済ませられるような些細なことが積み重なり、私たちの間に溝を作った。
最近では同じ家に居るのに話さなくなったり、一緒に居るだけでイライラしたり。そんな生活を送っている。
つまり何が言いたいかと言うと、私たちはもう別れるのに間もないということ。
逆にここまで続いたということが奇跡だったのかもしれない。

昔を思い出す。
あぁ、もう数年前にもなるのか。
時の流れが速いのを感じながら私は目を閉じて、彼と出会った頃のことを思い出す。

私たちがまだ学生で、働いていなかった頃。私たちは出会った。

「好きです、付き合ってください。」

そう告げたのは私でなく、彼の方からだった。
三浦碧。隣のクラスの陸上部員。
委員会が同じで、偶に話す程度の関係性。だと私は思っていたのだけども、彼の方はそうでも無かったらしい。
一目惚れをしたのだと。彼はそう話した。
別に異性に一目惚れをされるほど良い容姿を持っている訳でもない私は彼の言ったことが不思議で仕方がなかった。
どちらかと言うと彼の方が人気者でクラスの中心人物。私は特段中心にいることなんて無く、仲のいい人が居て、必要があればクラスメイトに話しかける。そんな普通の何も無い私に一目惚れをするのは最早謎と言って差し支えなかった。
私よりも、私の友達の方が可愛いのにな、とか思いつつその告白を受けたのは私も青春というものをしたかったからだろう。
差し出された手を握り返すと、彼はパッと嬉しそうに笑った。
その笑顔になんだか申し訳なくなって、少し目を逸らしながら私は彼に言う。

「ごめん、別に私あんたに恋愛感情持ってない」
「全然!頑張って惚れさせるから!」

分かっていたのか、特に笑顔を引っ込めることなく私の手を優しく両手で包み込んだ。
まるで宝物を触るかのように。

「なんで私なの?」

やっぱり気になった。何故彼のような人が私を好きになったのか、全く理解ができない。
思わず彼に聞くと少し照れながら言った。

「妹が井上さんと同じ文って名前でさ。あんま見ない名前だったから気になって見てたら好きになってた」

好きになる過程じゃなくて、理由を聞きたかったんだけどなと頭の片隅で思った。
井上文、それが私の名前。確かに生きてきた中で同じ名前を持つ人は見たことがない。
名前が人を好きになるきっかけになることって、あるんだ。
彼の真っ直ぐな目を見て少し意外だと感じた。

「私、性格キツイけど大丈夫そ?」
「大丈夫。なんならそこもひっくるめて好きになったから」

その日から私たちは恋人というものになった。

毎日、部活が終われば彼は私を校門でずっと待っていた。私が先生に呼び出しを受けて遅くなろうとも、変わらず校門で私を待っていた。
基本私より彼の方が部活が終わるのが早かったから、私が彼より先に校門へと辿り着くことは滅多になかった。
けれどその日、私は早めに部活が切り上げられ、彼よりも早く校門へとたどり着く。
……待とうかな。
毎日校門に立っている彼を思い浮かべて、私もまた彼と同じように校門の隅で彼を待った。
スマホを見ながら待っていると、少し時間が経ってから「え、」と彼の声が聞こえた。
聞こえた方に振り向くと想像以上に嬉しそうな顔で彼は駆け寄ってくる。

「待っててくれたん!?」

そう言って彼は背中から私を抱きしめた。
なんだか恥ずかしくなって、私は目線を下に下ろしながら「うん」と小さく答えた。
彼は私の隣に来て手を握る。

「もうこのままデートしよ!」
「いやいやいやテンション上がりすぎ。いまの時間分かってる?」

時間を確認する必要もなく、少し彼のテンションが下がった。
うぐぐぐぐ、と唸る彼に私は思わず笑って

「明日学校ないよ」

と言った。
瞬時に明るくなる彼の顔。本当にわかりやすいなと思ってもっと笑ってしまう。

「明日デートってことですか!」
「そーいうこと。デートプランは任せてよろし?」

「よろし!!」と嬉しそうに笑いながら言う。

その日の夜、集合場所と時間が知らされたメッセージを見て、
明日は何を着ていこう。碧はどんな服が好みなのだろうか。今日はいつもよりスキンケアをしっかりしてから寝ようかな。
と頭でずっと考える。
その日の服を何度も体に当てて決め、スマホでアラームがちゃんと鳴るか5回確かめて、ようやく就寝した。

初デートは水族館。
県内の大きな水族館へと電車で向かう。

初めて私服を見せるということで、緊張しながら集合場所へと行く。辿り着くと彼はもう着いていたようで、ベンチに座りながらスマホを見ている。
そんな彼に少し離れた場所から「碧」と呼びかければ、目をまん丸にして立ち上がり、スマホをベンチに置いたまま手のひらで顔を覆ってベンチの周りを一周した。
そんな彼に私は笑いながら近付く。

「待って待って待って、え、聞いてない聞いてない」
「そりゃ着ていく服わざわざ報告しないでしょ」

手のひらの隙間から見える真っ赤な顔に少し安心し、そして大爆笑する。
彼はずっと待ってと連呼し続けている。
数十秒後、流石にそろそろ移動しようと

「ほら、行くよ」

と彼の手のひらを取って言う。
顔の真っ赤具合は変わることなく、寧ろ悪化しているような気がする。それでも彼はいつもの何倍も小さく、か細い声で

「とても可愛いです……」

と私に言った。
私はその言葉に笑って、ありがとうと言って彼の手を引いて駅へと向かっていく。

嬉しい。
素直にそう思った。
電車に乗る頃には顔の赤みは薄くなり、声もいつもの調子に戻った。
イルカのショーが何時からだとか、ペンギンがこの時間帯にご飯タイムなのだとか。
電車に載りながらスマホを見せて、行く水族館についてのことを共有してくれる。
電車に乗る時間も楽しかった。

水族館に着くと大きな水槽に二人して圧巻された。
小さな魚を見つけて、これあのアニメの!とかこの魚知ってる!とか言い合って、えその魚はこっちじゃない?と突っ込んだ。
中を歩いている時、自然と手が繋がっていた。
特になにも気にして居なかったけれど、少し明るいところに行くと彼の顔がちょっと赤かったのが見えた。
ペンギンは可愛かったし、謎に彼がずっとチンアナゴを見ていて少し面白かった。
こっそり写真を撮っていたのには彼は気が付いていたのだろうか。
まぁ多分ずっとチンアナゴに夢中だったし気付いて居ないだろうなと心の中で笑う。
お昼に食べに行ったレストランはどのメニューも水族館らしいデザインで可愛い。
デザートに、この水族館限定のソフトクリームも食べた。色が凄かったけれど、多分人生で一番美味しかったと思う。色が凄かったけど。

「……あ、これ可愛い。」

ご飯を食べ終えた私たちはお土産屋へと移動していた。
ペアのイルカのぬいぐるみキーホルダー。
水色とピンクで手のひらサイズの可愛らしいぬいぐるみ。
お揃いは大丈夫な人なのかなと隣を見ると目をキラッキラにさせていた。
思わず吹き出す。

「えなんで今吹き出した?」
「なんか面白くて」

不思議そうに私を見る彼の手には先程のキーホルダーが握られていた。もっと笑ってしまった。
あのキーホルダーとペンギンの栞を持ってレジへと並ぶ。彼は何やらお菓子を何個か入れていた。
お土産を買い終わった後は最後にイルカショーを見に行く。
最前列。びしょ濡れは免れなかった。

「ごめん、まさかこんなに濡れるとは思わなかった」

かなりしょげる彼に、私は大爆笑した。
前日から選んだ服は濡れ、朝早くからセットした髪からも水滴が落ちる。
それでも笑った。そんな私を見て、どこか安心したかのように彼も笑った。
二人で笑って、笑って、笑いあって。
……とても、楽しかった。
彼の惚れさせる、という宣言は早くも叶っていた。
彼と隣で、ずっと笑っていたいと願う。


あの時のことを昨日のように思い出せる。
あれから何度もデートをして、共に笑いあった。
高校を卒業して、大学に行き、社会人になっても。この関係性は変わらなかった。
そして始まった同棲。
初めは楽しく、幸せな日々だった。
けれども積み重なっていく互いの不満。
どれだけ互いが好きでいても、生活において分かり合えない部分は多くあった。
二人とも別の家庭で別の環境で育ってきたのだから、それは有り得ないことではない。
性格では相性抜群だったとしても、生活においては相性が悪かったのだと。

もう少し彼が几帳面だったら変わっただろうか。
もう少し私がズボラだったら変わったかもしれない。
過去に戻りたいと、切実に思う。

あの時買ったキーホルダー。まだ部屋に大切に飾ってある。
碧はまだ持ってる?もう無くしたかな。
あの時撮った写真、アルバムにしてるんだよ。
初デートの数ヶ月後、初めて碧に貰った誕生日プレゼント。何くれたのか、碧は覚えてる?

私、そろそろ無理かもしれない。
朝ゴミ捨てといてねって言ったよね。纏まってすらなかったよ。
食器、もう少し綺麗に洗ってくれないかな。
洗濯物もちゃんとカゴに入れてから出勤して欲しい。
あぁでも、碧の作るご飯美味しかったな。最近はもう食べてないけど。

ふと窓を見ると、満月が浮かんでいた。
一緒にお月見もしたな。

ガチャリとドアの鍵が開く音がする。
足音がして、リビングのドアが開かれる。

「おかえり」

ドアが開いた先には、制服姿ではない、スーツを着た碧が立っていた。
あの頃よりも少し背が伸びて、大人びた雰囲気になった。
私が迎えたのに驚いたのか、目を丸くしながら少しの間を開けて

「ただいま」

と返してくる。
声が落ち着いて、元気ハツラツ、といった声では無くなった。

学生時代の碧も好きだったけど、今の碧も好きだなと思う。
きっと同棲をしなければ私たちは今も良好な関係で居られたことだろう。
もっとずっと一緒に居たかったと、思う。
カバンを置いて、私の座っているソファの隣に腰を掛けた彼の目を見て、彼の名を呼ぶ。

「碧」

何かを察したのか、彼は目を瞑る。


「別れよう。」


結婚したかったな。
ウエディングドレスで身を纏えば、碧はどんな反応をしただろう。
初デートの時のように、顔を真っ赤にしてしゃがみ込んだだろうか。
もし子供が産まれたら、どんな顔をして喜んだのだろう。

私に告白してくれた彼に、感謝する。
何年間一緒に居たのだろう。
碧と過ごした日々は、笑顔で満ちていた。
幸せな日々を、どうもありがとう。

「今まで、ありがとう。」

そう告げると、碧は泣きながら「ごめん」と言った。
初デートのこと、お揃いのこと、誕生日のこと、クリスマスのこと、卒業式のこと、碧と過ごした日々を思い出しながら、涙を堪えて最愛の人に言う。

「愛してた。」


今度は私なんかよりも、もっといい人と巡り会えますように。