宿に戻り夕食を済ませ、奏澄はメイズと明日の予定についての確認をする。

「この島からは定期船は出ていないらしい。代わりに、近くの島まで商船が出るから、それに同乗できるよう話をつけておいた」
「ありがとうございます。近くの島って、どんな所なんですか?」
「アルメイシャ島といって、そう離れていないし、同じ赤の海域だから、ここと大きくは変わらない。向こうの方が大きい島で、出入りする商船も多いから、目新しいものは多いかもな」
「アルメイシャ島……。そういえば、地図とかってあるんですか?」
「あるにはあるが、簡易的な物しか持っていない。もう少しちゃんとした物をアルメイシャで買う予定だが」

 そう言ってメイズが広げた地図は、奏澄には見方がよくわからなかったが、確かに簡易的に思えた。

「これ、海図……ですか?」
「そうだ。読めるか?」
「いえ、残念ながら」
「別に覚える必要は無い。自分たちで船を持つならいずれ航海士も必要だろうが、当面は定期船や商船を乗り継ぐことになるだろう。俺もある程度ならわかる」
「それは心強いです……。簡易的と言っていましたが、地図は統一されていないんですか?」
「そのあたりは複雑でな」

 考えるように口元に手をやって、メイズは説明を始めた。

「結論から言えば、今把握されている範囲内で、最も正しいと思われる地図はセントラルが持っている」
「セントラルって、たしか唯一大陸を持ってるっていう、大国ですよね。そこに行かないと買えないってことですか?」
「行かなくても買えるが、行っても普通は買えない」
「一般的には販売されていない?」
「そうだ。島々を行き来するような船は、ギルドに登録することでセントラルに許可を得ている。許可があれば、ギルドから必要な範囲の地図を買える。だが、許可が無ければ、例えセントラルに出向いても買うことはできない」
「世界を取り仕切っているって、そういう……政府の役割を担っているんですね。その許可を取るのって難しいんですか?」

 疑問を口にした奏澄に、メイズは少し沈黙して口をへの字に曲げた。

「忘れているかもしれないから一応言っておくが、俺は元海賊だからな」
「あっいえ、すみません! 忘れていたわけじゃないですよ! ただ、純粋に気になったというか」

 気を取り直すように一息吐いて、メイズは説明を再開する。

「ギルドへの加盟自体はそう難しいことじゃない。ただ、デメリットも大きいから、どの船も必ずしも加盟しているとは限らない、ってところだな」
「デメリット?」
「セントラルへの納税とか、行動にかかる制限とか、まぁ色々だ。だから、セントラルが発行しているものとは別に、任意で地図が発行されている。近場でしか商売しない船ならそれで充分事足りる」
「ということは……売られている地図が、正しいとは限らないってことですね」
「そうなるな。信頼できるところから買うか、数枚の地図を照らし合わせて信憑性を測るか、自分たちで測量するか」
「メイズは……」

 航海中、どうしていたのか?
 言いかけて、口を噤む。メイズが航海していたのは、元の海賊団にいた間だ。否が応でも思い出すだろう。傷をえぐることになるかもしれない。

「メイズは、測量はするんですか?」

 言おうとしたこととは別の言葉でごまかす。メイズは一瞬訝しんだが、気にしなかったのか、ごまかされてくれたのか、そのまま答えた。

「俺はそこまではできないな。できたら、いい稼ぎになったんだが」
「測量できると儲かるんですか?」
「出来のいい地図は欲しがる奴も多いし、何よりセントラルが高値で買い取る」
「元海賊からでも?」
「セントラルは海賊から地図を買い取っているぞ」
「えっ!?」

 奏澄は驚きのあまり声を上げた。仮にも行政機関と思われる国が、賊と取引をしても良いものなのだろうか。先ほど、ギルドには加盟できないようなことを言っていたのに。

「セントラルにも勿論測量士はいる。それでも、危険な区域に入るのは断然海賊が多いし、何より手間だからな。複数の船から地図を買い取って、必要なら調査をする。正確性を増すために、既に作成されている場所の地図でも場合によっては買い取ることもある」
「政府なのに海賊と取引するんですね……」
「堂々と仲良くしているわけじゃないが、全面的に敵対しているわけでもない。そもそも、セントラルの許可を得ずに勝手に海域を超えて商売しているような船はだいたい海賊だ。全てを取り締まっていたら成り立たないだろう」
「なるほど……?」

 返事はしたものの、あまり理解はできていない。奏澄の認識では、海賊というのは映画やニュースで見聞きした程度のもので、略奪行為を行う犯罪者という印象しかなかったが、そう簡単なものではないらしい。
 どの世界でも、悪と正義は裏表なのだろう。表立って手を結んだりはしないが、利害が一致すれば利用はする、といったところか。
 かつて英国では、エリザベス一世が海賊を重用することで国を発展させていた。彼女が騎士(ナイト)の称号まで与えた海賊を何と呼んだか、奏澄が知るはずもない。

「でも、ちょっと安心しました。てっきり海賊は政府から目の敵にでもされているのかと思いましたが、そうでないのなら、メイズも特にセントラルの目を気にする必要はないんですね」

 ほっとして笑顔でそう告げると、メイズは気まずそうに目を逸らした。

「メイズ?」
「…………いずれわかるから言っておくが、俺は、指名手配されている」

 指名手配。
 馴染みのない単語に、奏澄の脳がフリーズする。
 わかっていたようで、わかっていなかったのかもしれない。メイズが、海賊だということを。
 出どころのわからない大金。自分のものではない武器。違和感には気づいていたのに、気づかない振りをした。メイズが、隠したがっているように見えたから。
 それは言い訳でしかないかもしれない。それでも、そうすることが、今は正しいと思った。
 指名手配されている理由を聞けば、おそらくメイズは答えるだろう。だが、聞かれたくはないはずだ。少なくとも、今はまだ。
 奏澄はメイズが善人だから助けたわけじゃない。奏澄が何者であってもメイズが(そば)にいてくれたように、奏澄もメイズが何者であっても傍にいたいと思っている。

「なら、あんまり目立たないようにしないといけませんね」

 メイズを安心させるように、努めて笑顔で告げた。メイズは一瞬呆けた後、微かに笑って「ああ」と答えた。その顔が、何故か奏澄には泣いているかのように見えた。

 盲目が罪ならば、喜んで共犯者となろう。この目を覆う(てのひら)の温かさだけ、信じていればいい。



 どことなく気恥ずかしい空気の中、朝も早いのでもう就寝しようということになり、明かりを消してベッドに潜った。メイズと奏澄のベッドの間には衝立があり、お互いは見えなくなっている。それは言うまでもなく配慮なのだが、奏澄は言い知れぬ不安を感じていた。
 そういえば、昨晩はメイズの看病をしていたから、この世界で一人で眠るのは初めてだ。昼間に少しうたたねはしたが、明るかった時とは気分が全く違う。 
 同じ部屋にメイズがいるのだから、一人とは言えないかもしれないが、真っ暗な慣れない部屋の中、冷えた体を包む布団は、いつまでも温まらなかった。

「眠れないのか?」

 衝立の向こうからかかった声に、奏澄の心臓が跳ね上がった。

「すみません、起こしてしまいましたか?」
「いや、別に」

 足先が冷たくて、もぞもぞしていたのがうるさかったかもしれない。しんとした部屋では、僅かな衣擦れの音さえ耳につく。奏澄は反省して、動きを止めた。

「夜は冷えますね。昼間の暑さが嘘みたいです」
「ここは寒暖差があるからな。寒いのか?」
「少し」
「そうか。なら、追加で毛布を貰ってくるか」
「え、いや、いいですいいです! 宿の人も眠っているでしょうし」
「なら、俺の毛布を使うか?」
「それじゃメイズが風邪ひきますよ」
「そんな柔な作りはしていない」
「どうせ柔ですよー……」

 軽口を叩けば、息を漏らすような笑い声が聞こえた。それで思わず気が緩んだのかもしれない。

「そっち行ってもいいですか?」

 言った瞬間、しまった、と思った。テンポ良く返ってきていた衝立の向こうからの声は聞こえない。返答が無いことが、余計に奏澄を焦らせた。

「ご、ごめんなさい。深い意味はなくて、一緒に寝たら温かいかなって思ったので、昨日は一緒だったし、その」
「落ちつけ」
「すみません……」

 聞かれてもいないのに言い訳を並べ立て、墓穴を掘った気しかしない。羞恥で頭を抱える奏澄の耳に大きな溜息が聞こえて、ますます顔が熱くなる。

「お前はもう少し考えてから発言しろ」
「返す言葉もありません……」
「その上で、来たいなら別に好きにしろ」

 奏澄は思わず身を起こしてベッドの上に座り込んだ。聞き間違いでないのなら、メイズはどうやら一緒に寝ても構わない、と言った。僅かに逡巡したが、迷っていたら無かったことにされる気がした。ベッドから降りて、そっと衝立の向こうに顔を出す。
 それに気づいたメイズが、仕方なさそうにベッドの端に身を寄せた。

「お邪魔しまーす……」

 小声で言って、メイズのベッドに潜り込む奏澄。人の体温が感じられて、思わず照れ笑いする。

「早く寝ろ」
「わ」

 長い腕でがばりと抱えられたかと思うと、とんとん、とぎこちないながら背中を一定のリズムで叩かれる。

 ――あやされている。

 そういえば、メイズは奏澄のことを子どもだと思っていた。年齢の話をした後でも、見た目の印象が強いのか、メイズからしたら子守をしている感覚なのかもしれない。
 それならそれで、奏澄としても気負わなくていいので楽だ。本当に子守だったら不器用にもほどがあるが、奏澄は子どもではないので上手くなくても汲み取れるから問題は無い。

 心地良いリズムと、体温と、落ちつく匂いがして、奏澄の意識がまどろんでいく。先ほどまで眠れなかったのが嘘のように、あっという間に夢へと沈んだ。



「――……」

 穏やかな寝息を立てる奏澄を、メイズはじっと見下ろした。
 その細い首に指をかけ、ほんの僅かに力を入れる。彼女は呻くことも払うこともせずに、ただただメイズに身を預けていた。
 あと少し力を入れれば折れてしまうこの首の、なんと脆いことか。容易く奪える命を晒すことの、なんと無防備なことか。
 メイズは回していた腕を退け、彼女から距離を取ろうとした。だが、温もりが離れることを拒むように、奏澄の手がメイズの服を握りしめた。
 縋るようなその行為にメイズは戸惑って、やがて彼女の体をおそるおそる抱き締めた。まるで壊れものを扱うかのように、そうっと。