夜が明けても薄暗く見通しの悪い景色は、皆の心情を表しているようだった。コバルト号の上甲板には、全ての乗組員が集まっていた。皆、心は決まったのだろう。最初に、マリーが口を開いた。
「あたしたちドロール商会は、アルメイシャに戻るよ。あたしは、商会長だしね。やっぱり自分の商会を放っておくわけにはいかない」
一晩、話し合った結果なのだろう。マリーの後ろに立つ商会員たちも、同意の様子だった。
「ぼくも、カラルタンに戻ろうと思う。カスミには、勇気をたくさん貰ったから。今なら、店のみんなとも、違う向き合い方ができる気がするんだ」
眉を下げて、アントーニオは微笑んだ。
「俺たちもカラルタンに戻るぜ。ここには戦えそうな奴もいないしな。アントーニオ一人で帰すのもなんか心配だし、ついてってやるよ」
ラコットが、アントーニオの肩に腕を回しながら言う。それを、舎弟たちは苦笑しながら見ていた。
「俺は、暫くこの島に残ろうと思う」
真っすぐなレオナルドの目を、メイズが見返す。
「カスミをいつまでも待つ、ってわけにはいかない。ヴェネリーアには、ちゃんと帰る。あの工房は……母さんと、親父と過ごした場所だから。俺に、遺してくれたものだから。だけど、俺はこの島のことをもっと知りたい。あの人たちの話も、ちゃんと聞いてみたい。だから、少しの間ここにいるよ。窓を通れば、帰るのはいつでもできるみたいだしさ」
奏澄の帰還を期待してのものなら、止めただろう。ずるずると居残ってしまい、踏ん切りがつかなくなる可能性があるからだ。しかし、明確な目的を持って、短期間のみと定めているのなら。それもまた、彼の道だろう。
「私も、この島に残ります」
意外な申告に、皆が目を丸くしてハリソンを見た。
「白虎は、いいのか」
監獄島へ突入するのを手伝ってもらったきり、そのまま別れてしまった。彼らがあの後どうなったのか、気にならないはずがない。
ハリソンは、奏澄のためにたんぽぽ海賊団へ移籍した。その彼女がいないのなら、白虎に戻るとばかり思っていた。
メイズの問いかけに、ハリソンは緩やかに微笑んだ。
「あの人たちなら心配要りませんよ。長い付き合いですから、わかります。同じように、白虎の皆も、私のことをわかっているでしょう」
仲間たちを思い返すように、ハリソンは一度目を伏せた。そしてメイズに向けて、言葉を続ける。
「言ったでしょう。私が最も必要とされる場所に、身を置いていたいと。聞けば、この島には医者がいないそうです。交易の無いこの島では、薬を手に入れることも困難でしょう。できる限りのことを、したいのです。この島なら、セントラルにもそうそう見つかりませんしね」
穏やかな笑みを浮かべたハリソンは、偽りを述べているようには見えなかった。彼らには彼らの、信頼関係がある。ハリソンの信念に基づく決断なら、口を挟む理由も無い。
残るは、ライアーのみ。未だ迷いが残る様子で手に持った布を握りしめた彼に、メイズは急かすこともなく、ただ視線を向けた。ライアーは、途切れ途切れに言葉を吐き出した。
「オレ、は。カスミのことも、もちろん、心配だけど。ずっと、アンタたちに、笑ってて欲しいって。二人が幸せになることが、オレの、願いだったんだよ」
ライアーは、手に持った布をメイズの胸元に叩きつけた。
「オレは帰る。でもメイズさんは、ちゃんとカスミのこと、待ってろよ! 途中で諦めたり、腐ったりしないで。戻ってきたカスミが悲しまないように、アンタちゃんと生きてろよ!」
強い言葉で言い切ったライアーは、うっすらと涙を浮かべていた。メイズが押し付けられた布を受け取ると、それは海賊旗だった。掲げるべき人を失って、外されたもの。
「それ、カスミが戻ってきたら渡してください。それはカスミの物だから。んで、できれば、また海に出てくださいよ。二人で」
この旗に、どれほどの願いが込められているか。メイズはそれを受け取って、ごく自然と言葉が口をついて出た。
「会いに行く」
ライアーが目を瞠った。
「カスミが戻ってきたら、二人で会いに行く。約束する」
仲間と、約束など。初めてかもしれない。こんな言葉は信用されないかもしれない。それでも、しっかりと目を合わせたメイズに、ライアーは僅かに唇を震わせた後、明るい笑みを見せた。
「ちょっとちょっと、ライアーだけかい?」
茶化すように割って入ったマリーの言葉に、メイズは微笑した。そして、仲間たちの顔を見渡す。
「カスミが戻ったら、お前たちに、必ず会いに行く。約束だ」
その言葉に、全員が笑顔で答えた。
*~*~*
奏澄が目を覚ますと、暗い闇の中にいた。右も左もわからない中で、それでも体を横たえていたのだから地面はあるのだろう。地面らしき場所に手をついて、だるさが残る体を起こした。
すると、ぼうっと光るものが目の前に現れた。明るさに慣れない目を数回しっかりと瞬かせると、それはどうやら変わった形の窓のようだった。六角形のそれは、姿見程度の大きさだった。奏澄がそれを鏡ではなく窓だと認識したのは、映っているのが自分の姿ではなく、見慣れた景色だったからだ。
「どうして……」
呆然として、言葉を零した。窓の中に映るのは、かつて自分がよく通った場所。元いた世界の、海の見える高台だった。
震える手を伸ばして窓に触れると、とぷん、と水のような感触がして、手が窓の向こうまで入っていった。驚きに、すぐさま手を引っこめる。心臓が、早鐘を打っている。
この窓の向こうは、元の世界だ。
帰れる。ようやっと、自分の世界に。長く続いた航海の目的が、目の前に。
だというのに、どうしたことか。奏澄の胸には、歓喜も、安堵も無かった。ただ困惑と、後悔があった。
メイズに、何も言わずに来てしまった。
別れの言葉一つ、告げられなかった。心の準備をする暇も無かった。こんなに、急に。
考えたところで、奏澄は俯いた。急ではない。帰ると、そう言って旅をしていたのだから。コンパスを使えば、はぐれものの島に辿り着けるだろうと、元の世界に帰る手掛かりが掴めると、わかっていて行動したのだから。結果は変わらなかったはずだ。それが少し、早まっただけ。
向き合うことを恐れて、後回しにしたのは奏澄だ。
「――……」
目から熱いものが流れ落ちて、奏澄は顔を覆った。わかっていた。別れが来ることは。自分がそれを選択したのだから。
帰らなければいけないと、思っていた。自分が在るべき場所に。それは義務感にも近かった。自分を形作ったものがある。世話になった人たちがいる。その恩を、返し切れていない。
だというのに。それより大切なものが、できてしまった。残してきたもの全てを放り投げてでも、ただ一つ、守りたいと思うものが。
本当は、途中から帰りたい気持ちは失せていた。でもそんな無責任なことは、口が裂けても言えなかった。
奏澄を元の世界に帰すために、メイズはずっと大変な思いをしてきた。仲間たちも、その願いを叶えるために、力を尽くしてくれた。他にも、奏澄のために、力を貸してくれた人たちがいる。彼らを大切に思えばこそ。自分の勝手で振り回すことなど。
言えなかった。メイズは、奏澄が元の世界に帰るまでの護衛だったから。もういいと、帰らなくていいと言ってしまえば、彼に守ってもらう理由は無くなる。
怖かった。メイズは、自分に引け目を感じている節があったから。奏澄が仲間を得て、生きる術を手に入れて、危険が無くなり、航海の必要が無くなれば。自分を、不要だと思ってしまうのではないかと。奏澄がどこか安心して暮らせる場所を用意して、姿を消してしまうのではないかと。航海を続けることでしか、彼を自分に繋ぎとめておくことができなかった。
メイズがどこかで幸せになってくれれば。それでもいいと、思ったこともあった。彼を偶像化して一線引くことで、自分が傷つくことのない、安全な場所から彼の幸福を願った。
無理だ。
今なら言える。彼を幸せにできるとしたら、自分だけだと。
玄武に襲われた時、本気で失うかもしれないと思った。そうしてやっと気づいた。どうしても、この人を失いたくないと。見える所にいてほしい。手の届く所にいてほしい。できれば笑っていてほしい。この人を、幸せに、してあげたい。
メイズは自分の幸せを二の次にしてしまう。その彼に、自身の幸福を考えさせようというのなら。メイズを誰よりも大切に思う人間が必要だ。奏澄が、必要だ。例え彼自身が、拒んだとしても。
メイズには、あれほど傍にいろ、と言っておいて。どうして、相手も同じかもしれないとは、考えなかったのだろう。どうして、自分も同じように渇望されていると、信じられなかったのだろう。帰郷を目的とする奏澄に対して、メイズが口に出せるはずがなかったのに。
「ごめんなさい……」
帰らなければと。そればかりで、メイズに対する気持ちをごまかしてきた。好きになってはいけない人だと、無意識に歯止めをかけていた。今の関係を壊すのが怖くて、気持ちを伝える勇気が無かった。失ってしまえば、戻らないのに。
「会いたい」
今更、もう遅い。それでも、口にせずにはいられなかった。
「メイズに、会いたい……っ!」
何も要らない。二度と元の世界に帰れなくてもいい。恩知らずだと、罵られてもいい。
どうか、あの人の傍にいさせて。あの弱くて寂しい人を、この先ずっと、守ってあげたい。
涙を流し続ける奏澄の背後に、ぼうっと明かりが灯った。驚いて振り返ると、そこには正面にある窓と同じ、六角形の窓があった。
全く同じものかと思われたが、違う。映している景色は、霧のかかったどこかの島。小さく、コバルト号が見える。
「これ……」
メイズのいる、世界だ。
奏澄は呆然と、その窓を覗き込んだ。
片方は、生まれ育った世界。片方は、仲間と旅した世界。
どちらかを、選べということだろうか。
奏澄は黙って、高台の見える窓の前に立った。そして目を閉じて、深く、深く頭を下げた。
今までの人生に、感謝を。残していくものに、謝罪を。
暫くそうしてからゆっくりと顔を上げ、霧の島の窓の前に立ち、向こうを見据えた。
この窓を越えれば、もう二度と、元の世界には帰れないだろう。
それでも。
「!」
とん、と何かに背を押された。ぐらりと、奏澄の体が傾いて、霧の中へ倒れ込んでいく。
「――ありがとう」
奏澄は、見えざる手に礼を告げた。
その手は、優しかった。もしかしたら、背中を押してくれる存在なのかもしれない。
新しい人生へ、踏み出すための。
暗闇の向こうに、優しい女性の微笑みが見えた気がした。
「あたしたちドロール商会は、アルメイシャに戻るよ。あたしは、商会長だしね。やっぱり自分の商会を放っておくわけにはいかない」
一晩、話し合った結果なのだろう。マリーの後ろに立つ商会員たちも、同意の様子だった。
「ぼくも、カラルタンに戻ろうと思う。カスミには、勇気をたくさん貰ったから。今なら、店のみんなとも、違う向き合い方ができる気がするんだ」
眉を下げて、アントーニオは微笑んだ。
「俺たちもカラルタンに戻るぜ。ここには戦えそうな奴もいないしな。アントーニオ一人で帰すのもなんか心配だし、ついてってやるよ」
ラコットが、アントーニオの肩に腕を回しながら言う。それを、舎弟たちは苦笑しながら見ていた。
「俺は、暫くこの島に残ろうと思う」
真っすぐなレオナルドの目を、メイズが見返す。
「カスミをいつまでも待つ、ってわけにはいかない。ヴェネリーアには、ちゃんと帰る。あの工房は……母さんと、親父と過ごした場所だから。俺に、遺してくれたものだから。だけど、俺はこの島のことをもっと知りたい。あの人たちの話も、ちゃんと聞いてみたい。だから、少しの間ここにいるよ。窓を通れば、帰るのはいつでもできるみたいだしさ」
奏澄の帰還を期待してのものなら、止めただろう。ずるずると居残ってしまい、踏ん切りがつかなくなる可能性があるからだ。しかし、明確な目的を持って、短期間のみと定めているのなら。それもまた、彼の道だろう。
「私も、この島に残ります」
意外な申告に、皆が目を丸くしてハリソンを見た。
「白虎は、いいのか」
監獄島へ突入するのを手伝ってもらったきり、そのまま別れてしまった。彼らがあの後どうなったのか、気にならないはずがない。
ハリソンは、奏澄のためにたんぽぽ海賊団へ移籍した。その彼女がいないのなら、白虎に戻るとばかり思っていた。
メイズの問いかけに、ハリソンは緩やかに微笑んだ。
「あの人たちなら心配要りませんよ。長い付き合いですから、わかります。同じように、白虎の皆も、私のことをわかっているでしょう」
仲間たちを思い返すように、ハリソンは一度目を伏せた。そしてメイズに向けて、言葉を続ける。
「言ったでしょう。私が最も必要とされる場所に、身を置いていたいと。聞けば、この島には医者がいないそうです。交易の無いこの島では、薬を手に入れることも困難でしょう。できる限りのことを、したいのです。この島なら、セントラルにもそうそう見つかりませんしね」
穏やかな笑みを浮かべたハリソンは、偽りを述べているようには見えなかった。彼らには彼らの、信頼関係がある。ハリソンの信念に基づく決断なら、口を挟む理由も無い。
残るは、ライアーのみ。未だ迷いが残る様子で手に持った布を握りしめた彼に、メイズは急かすこともなく、ただ視線を向けた。ライアーは、途切れ途切れに言葉を吐き出した。
「オレ、は。カスミのことも、もちろん、心配だけど。ずっと、アンタたちに、笑ってて欲しいって。二人が幸せになることが、オレの、願いだったんだよ」
ライアーは、手に持った布をメイズの胸元に叩きつけた。
「オレは帰る。でもメイズさんは、ちゃんとカスミのこと、待ってろよ! 途中で諦めたり、腐ったりしないで。戻ってきたカスミが悲しまないように、アンタちゃんと生きてろよ!」
強い言葉で言い切ったライアーは、うっすらと涙を浮かべていた。メイズが押し付けられた布を受け取ると、それは海賊旗だった。掲げるべき人を失って、外されたもの。
「それ、カスミが戻ってきたら渡してください。それはカスミの物だから。んで、できれば、また海に出てくださいよ。二人で」
この旗に、どれほどの願いが込められているか。メイズはそれを受け取って、ごく自然と言葉が口をついて出た。
「会いに行く」
ライアーが目を瞠った。
「カスミが戻ってきたら、二人で会いに行く。約束する」
仲間と、約束など。初めてかもしれない。こんな言葉は信用されないかもしれない。それでも、しっかりと目を合わせたメイズに、ライアーは僅かに唇を震わせた後、明るい笑みを見せた。
「ちょっとちょっと、ライアーだけかい?」
茶化すように割って入ったマリーの言葉に、メイズは微笑した。そして、仲間たちの顔を見渡す。
「カスミが戻ったら、お前たちに、必ず会いに行く。約束だ」
その言葉に、全員が笑顔で答えた。
*~*~*
奏澄が目を覚ますと、暗い闇の中にいた。右も左もわからない中で、それでも体を横たえていたのだから地面はあるのだろう。地面らしき場所に手をついて、だるさが残る体を起こした。
すると、ぼうっと光るものが目の前に現れた。明るさに慣れない目を数回しっかりと瞬かせると、それはどうやら変わった形の窓のようだった。六角形のそれは、姿見程度の大きさだった。奏澄がそれを鏡ではなく窓だと認識したのは、映っているのが自分の姿ではなく、見慣れた景色だったからだ。
「どうして……」
呆然として、言葉を零した。窓の中に映るのは、かつて自分がよく通った場所。元いた世界の、海の見える高台だった。
震える手を伸ばして窓に触れると、とぷん、と水のような感触がして、手が窓の向こうまで入っていった。驚きに、すぐさま手を引っこめる。心臓が、早鐘を打っている。
この窓の向こうは、元の世界だ。
帰れる。ようやっと、自分の世界に。長く続いた航海の目的が、目の前に。
だというのに、どうしたことか。奏澄の胸には、歓喜も、安堵も無かった。ただ困惑と、後悔があった。
メイズに、何も言わずに来てしまった。
別れの言葉一つ、告げられなかった。心の準備をする暇も無かった。こんなに、急に。
考えたところで、奏澄は俯いた。急ではない。帰ると、そう言って旅をしていたのだから。コンパスを使えば、はぐれものの島に辿り着けるだろうと、元の世界に帰る手掛かりが掴めると、わかっていて行動したのだから。結果は変わらなかったはずだ。それが少し、早まっただけ。
向き合うことを恐れて、後回しにしたのは奏澄だ。
「――……」
目から熱いものが流れ落ちて、奏澄は顔を覆った。わかっていた。別れが来ることは。自分がそれを選択したのだから。
帰らなければいけないと、思っていた。自分が在るべき場所に。それは義務感にも近かった。自分を形作ったものがある。世話になった人たちがいる。その恩を、返し切れていない。
だというのに。それより大切なものが、できてしまった。残してきたもの全てを放り投げてでも、ただ一つ、守りたいと思うものが。
本当は、途中から帰りたい気持ちは失せていた。でもそんな無責任なことは、口が裂けても言えなかった。
奏澄を元の世界に帰すために、メイズはずっと大変な思いをしてきた。仲間たちも、その願いを叶えるために、力を尽くしてくれた。他にも、奏澄のために、力を貸してくれた人たちがいる。彼らを大切に思えばこそ。自分の勝手で振り回すことなど。
言えなかった。メイズは、奏澄が元の世界に帰るまでの護衛だったから。もういいと、帰らなくていいと言ってしまえば、彼に守ってもらう理由は無くなる。
怖かった。メイズは、自分に引け目を感じている節があったから。奏澄が仲間を得て、生きる術を手に入れて、危険が無くなり、航海の必要が無くなれば。自分を、不要だと思ってしまうのではないかと。奏澄がどこか安心して暮らせる場所を用意して、姿を消してしまうのではないかと。航海を続けることでしか、彼を自分に繋ぎとめておくことができなかった。
メイズがどこかで幸せになってくれれば。それでもいいと、思ったこともあった。彼を偶像化して一線引くことで、自分が傷つくことのない、安全な場所から彼の幸福を願った。
無理だ。
今なら言える。彼を幸せにできるとしたら、自分だけだと。
玄武に襲われた時、本気で失うかもしれないと思った。そうしてやっと気づいた。どうしても、この人を失いたくないと。見える所にいてほしい。手の届く所にいてほしい。できれば笑っていてほしい。この人を、幸せに、してあげたい。
メイズは自分の幸せを二の次にしてしまう。その彼に、自身の幸福を考えさせようというのなら。メイズを誰よりも大切に思う人間が必要だ。奏澄が、必要だ。例え彼自身が、拒んだとしても。
メイズには、あれほど傍にいろ、と言っておいて。どうして、相手も同じかもしれないとは、考えなかったのだろう。どうして、自分も同じように渇望されていると、信じられなかったのだろう。帰郷を目的とする奏澄に対して、メイズが口に出せるはずがなかったのに。
「ごめんなさい……」
帰らなければと。そればかりで、メイズに対する気持ちをごまかしてきた。好きになってはいけない人だと、無意識に歯止めをかけていた。今の関係を壊すのが怖くて、気持ちを伝える勇気が無かった。失ってしまえば、戻らないのに。
「会いたい」
今更、もう遅い。それでも、口にせずにはいられなかった。
「メイズに、会いたい……っ!」
何も要らない。二度と元の世界に帰れなくてもいい。恩知らずだと、罵られてもいい。
どうか、あの人の傍にいさせて。あの弱くて寂しい人を、この先ずっと、守ってあげたい。
涙を流し続ける奏澄の背後に、ぼうっと明かりが灯った。驚いて振り返ると、そこには正面にある窓と同じ、六角形の窓があった。
全く同じものかと思われたが、違う。映している景色は、霧のかかったどこかの島。小さく、コバルト号が見える。
「これ……」
メイズのいる、世界だ。
奏澄は呆然と、その窓を覗き込んだ。
片方は、生まれ育った世界。片方は、仲間と旅した世界。
どちらかを、選べということだろうか。
奏澄は黙って、高台の見える窓の前に立った。そして目を閉じて、深く、深く頭を下げた。
今までの人生に、感謝を。残していくものに、謝罪を。
暫くそうしてからゆっくりと顔を上げ、霧の島の窓の前に立ち、向こうを見据えた。
この窓を越えれば、もう二度と、元の世界には帰れないだろう。
それでも。
「!」
とん、と何かに背を押された。ぐらりと、奏澄の体が傾いて、霧の中へ倒れ込んでいく。
「――ありがとう」
奏澄は、見えざる手に礼を告げた。
その手は、優しかった。もしかしたら、背中を押してくれる存在なのかもしれない。
新しい人生へ、踏み出すための。
暗闇の向こうに、優しい女性の微笑みが見えた気がした。