翌朝。ハリソンは奏澄を診察して、ほっと息を吐いた。

「もう、大丈夫そうですね。熱も下がっていますし、後はゆっくり休んでください」
「はい。ありがとうございます」

 弱々しくも自分の言葉で返した奏澄に、マリーは我慢できないとばかりに抱きついた。

「もーっこの子は! みんなに心配かけて!」
「ちょっと、マリー」

 言葉だけは窘めるようにしながらも、奏澄も嬉しそうだった。マリーの体に腕を回して、抱き締め返している。
 その様子を微笑ましく見守りながら、ハリソンは廊下にいたメイズに声をかけた。

「もう、大丈夫そうですよ。安心してください」
「――……そうか」

 目を覚ました奏澄の様子を見てはいたが、ハリソンのお墨付きをもらい、メイズはようやく全身の力を抜いた。廊下にしゃがみこんだメイズに、同じく廊下で待機していたアニクが声をかける。

「おいおい、大丈夫か?」
「放っておけ」

 冷たい一言に、アニクは肩を竦めた。

「じゃぁ俺カスミちゃんに挨拶してこよっかな」
「ダメですよ」

 部屋に入ろうとしたアニクは、ハリソンに首根っこを掴まれて潰れた蛙のような声を出した。

「なんで!?」
「当たり前でしょう。女性の無防備な姿を見るものではありません。私の護衛で入ったのは例外です」
「えぇ~」

 文句ありげなアニクを横目に、メイズは立ち上がってハリソンに向かい合った。

「本当に、助かった。礼を言う」
「いえ。私の方こそ、サクラさんの雪辱を果たせたようで――感謝しています」

 眼鏡の奥の瞳が、何かを思い出すように揺らいだ。

「あんたを白虎に返さないとな。エドアルドにも礼をする」
「今はカスミさんに付いていてあげてください。まだ体調も不安定ですし、次の島までは私たちの船も近くにいるように言っておきます。島に着いたら、改めてカスミさんと一緒に挨拶に来てください」

 奏澄の体調が万全になるまで、ハリソンは面倒を見てくれるつもりだということだろう。
 最大限の厚意に、メイズは頭の下がる思いだった。

「何から何まで、感謝する」
「海では、お互い様ですよ」

 穏やかに微笑むハリソンに、メイズは一連の出来事を思い返し、力では敵わない人間がこんなにもいることを、強く実感した。



 ハリソンとアニクをゴールド・ティーナ号に見送り、メイズは仲間たちに奏澄の無事を告げた。一斉に歓声が上がり、まるで祭りのような騒ぎになった。こぞって顔を見に行きたがったが、それはメイズが止めた。というか、メイズですら、まだまともには話せていない。身支度が整うまでは、とマリーに追い出されたからだ。

「メイズさん、良かったですね!」
「ほんと、一安心っすね。メイズさんも、休んでくださいね!」

 乗組員に口々にかけられる言葉に、メイズは自分も心配をかけていたのだと、初めて気づいた。そのことに甘んじて暫くもみくちゃにされていると、マリーがメイズを呼びに来た。許可が下りたので、メイズは奏澄の部屋へと向かう。

 部屋の前で、何故か少し緊張して、メイズは深呼吸をした。ドアを軽くノックし、中から返事が聞こえたことを確認して、ドアを開ける。

「メイズ」

 体を起こして微笑む奏澄は、幾分かさっぱりしていた。マリーが身支度したのだろう。

「まだ寝てろ」

 熱が下がったとはいえ、意識の無い状態から回復したばかりだ。体を起こしているのもしんどいだろう。メイズは奏澄の体をベッドに倒した。

「少しくらい大丈夫なのに」
「お前の大丈夫は信用できない」
「ひどい……」

 文句を言いながらも、奏澄は大人しく横になった。その状態のまま、口を開く。

「白虎海賊団の人たちに、お世話になったんだよね。お礼しに行かないとね」
「それなら、島に着いてからでいいと言われている。今は休むことに専念しろ」
「そうなの? いい人たちだね」
「……そうだな」

 エドアルドやハリソンを思い返し、メイズは目を伏せた。
 いい人。ああいう人種を、いい人、と言うのだろう。本来なら、奏澄は、ああいう人間に拾われるべきだった。そうだったなら、要らない苦労をせずに済んだのに。
 それでも。今更手放すことなど、できはしない。約束があるからではない。自分が、この手を離すことができないと。気づいてしまった。

「あれ?」

 奏澄が、小さく疑問の声を上げた。

「どうした?」

 メイズが問うも、言い辛そうにしている。その視線がメイズの首元を捉えていることに気づいて、メイズの方から心当たりを告げた。

「指輪か?」
「えっあ、うん。いつも、つけてたのになって、思って」

 よく見ている、とメイズは感心した。指輪は服の中に入れていたので、首元からは僅かにチェーンが見えただけのはずなのだが。

「あれは、白虎の船長に預けている。心配しなくても、挨拶に行けば返してもらえる」
「そう、なんだ? なんで指輪?」

 至極もっともな疑問に、メイズは黙った。あれはそれほど高価なものではない。何らかの価値があるから預けた、とは推測できるだろうが、自分にとって大事な物だから、と素直に言うのは気恥ずかしい。

「なんでもいいだろ」

 珍しいメイズの態度に、奏澄は首を傾げた。そして自分の指にはめたペアリングを眺める。

「でも、戻ってくるなら良かった。やっぱり、一緒がいいし」
「そんなに気に入ってたのか」
「もちろん。メイズがくれた、ものだしね」

 表情を緩ませて、奏澄はペアリングを唇に寄せた。それを見て、思わずメイズは目を逸らした。

「どうしたの?」
「なんでもない」

 訝し気な視線を感じるが、目を合わせることができなかった。

「……お前、熱出してた間の記憶、無いよな」
「え? 寝てた間の記憶は普通にないけど……もしかして、何か変な寝言とか言った?」

 急に慌てだした奏澄に、どうやら何も覚えていなさそうだ、とメイズは息を吐いた。

「別に」
「ほ、ほんと? ならいいけど……なんか、夢見てたような気がするから」
「……どんな夢だ?」
「んー……覚えて、ないや」

 眉を下げて笑った奏澄に、メイズはそれ以上追及しなかった。下手なことを言って、記憶を刺激しない方がいい。
 
 それから奏澄の負担にならない程度に、メイズはいくらかの言葉を交わした。
 こうして、何気ないやりとりがまたできることに、言いようのない幸福を感じながら。