「……残念ながら、あまり効果は出ていないようですね」

 ハリソンが、奏澄の様子を見ながら険しい顔で言った。
 薬を打ってから三時間後。ハリソンはアニクと共にコバルト号へと戻り、メイズの案内で奏澄の部屋へ再度訪れていた。
 ハリソンの言葉を受けて、看病を続けていたマリーも落胆する。次の手はある、と言ってはいたが、最初の薬が効けばそれが一番良かった。
 ハリソンは三つの薬の瓶を取り出し、それを机に並べた。

「三種類、はぐれ者にも効果があると思われる薬を用意しました。これを一つずつ、三時間ごとに試していきます」
「その内の、どれかは効くってこと?」

 確かめるようなマリーの言葉に、ハリソンは視線を落とした。

「そうであることを、祈るのみです」

 マリーがぎゅっと眉を寄せ、奏澄の顔を見た。

「ではまず、一つ目を打ちます」

 言って、ハリソンは薬液を細長い容器に入れた。その間にマリーが毛布から奏澄の腕を出して、服の袖をまくる。
 露出した腕に針のようなものを刺そうとするのを見て、思わずメイズは声を上げそうになった。しかし、マリーが協力しているということは、彼女は何をするか承知している、ということだ。ハリソンが行うなら、医療行為には違いない。メイズは言葉をぐっと飲み込んだ。
 とはいえ、見ていて気分のいいものではない。眉を顰めたメイズに気づいたアニクが、軽く笑った。

「あれ、見てるだけでぞわっとするよな~! 俺も嫌い」
「だったら部屋を出たらどうだ」
「いやいや、俺一応先生の護衛だからね。お前がこっちいるのに俺だけ出れないでしょ」

 馴れ馴れしい様子に、メイズは鼻を鳴らした。理解はしているが、弱っている奏澄の姿はあまり見せたいものではない。
 
「ではまた、三時間後に」

 薬を打ち終わったハリソンが、片付けながら言う。

「まだるっこしいなー。それって三つ混ぜたらダメなの?」

 気怠そうに言ったアニクの言葉に、ハリソンは頭を押さえた。

「いいわけないでしょう。あなたは薬をほとんど飲まないから……」

 溜息と共に吐き出された言葉に、アニクは不満そうにした。どうやら医学知識があっての補佐ではなく、単純に護衛兼雑用としての同行らしい。

「薬には用法・用量というものがあります。三時間空けているのも、似た効果の薬を短時間に続けて投与するとリスクが高まるからです。大人しく待ちなさい」
「へーい。ってーと、最後の薬まで使う場合は……夜中までかかるな。こっちの船泊まるの?」

 指折り時間を数え尋ねたアニクに、ハリソンもふむと考えた。

「そうですね、その方がいいかもしれません。構いませんか?」

 尋ねられたメイズは、頷いた。容体が急変する可能性もある。ハリソンの方からいてくれると言うのなら、願ってもない。勿論、より良いのは打った薬がすぐに効くことだが。
 コバルト号で長く過ごすのならと、メイズは二人に船内を案内し、夜間の部屋を割り当てた。



 結論から言うと、一つ目の薬は効果が無かった。二つ目の薬を投与する頃にはすっかり日も暮れており、まるで通夜のような静けさで乗組員たちは夕食を取った。
 じりじりとした気持ちで時間の経過を待ち、夜。奏澄の容体を確認したハリソンは、静かに首を振った。もはや後が無い状況で、三つ目の薬を投与するのを皆が祈るような気持ちで見守った。

「この薬が効かなかったとしても、体への負担を考えると、今夜はこれ以上薬を使えません。後は明日の朝、彼女の様子を見て考えましょう」

 ハリソンはそう言ったが、用意した薬はこれが最後だ。はぐれ者について研究を続けた成果が、この三つ。一朝一夕でそれ以上の方法など、思いつくわけがない。これで駄目なら、おそらくもう打つ手は無い。
 心配そうな様子を見せながらも、何か言葉をかけても無意味だと悟ったのだろう。ハリソンとアニクは、部屋を後にした。
 残ったマリーが、メイズに告げる。

「今夜は、あんたが傍にいてあげな」

 その言葉に、メイズはマリーへ視線を動かした。

「メイズの言葉なら、きっとカスミに届くよ。だから、呼び戻してあげて」

 泣きそうに笑うマリーに、メイズはしっかりと頷いた。

「――必ず」

 マリーとて、傍にいたいはずだ。その気持ちを押し殺して、メイズに役目を譲ってくれている。
 彼女の願いを受け取って、メイズはふらつきそうな心を、強く持ち直した。

 マリーも退室し、部屋には奏澄とメイズだけが残った。静かになった空間に、奏澄の荒い息だけが響く。
 メイズは、奏澄の手を握った。その熱さに、顔を顰める。
 この手が、彼女を引き戻す命綱になりやしないかと。握った手に、力を込めた。

 静かに、時間だけが過ぎていく。何もできない。もどかしい。
 こんな時間を過ごしていたのかと、メイズは改めて女性陣に感謝した。何もできないまま蚊帳の外というのも堪えるが、見ていても何もしてやれないというのは、もっと辛かっただろう。
 夜の闇が、おそろしいものを連れて来るのではないかと。彼女を、連れ去ってしまいやしないかと。馬鹿な妄想を遮るように、メイズは強く目を閉じた。
 祈るしかない。いったい何に。神はここにいるのに。彼女だけが。

「――カスミ」

 名を呼んで、額を重ねた。祈るしかない。彼女自身に。
 
「カスミ……!」

 こんな形で、失いたくはない。いなくならないで。置いていかないで。見覚えのある小さな子どもが、胸の内で泣き叫ぶ。
 ぱたりと、奏澄の顔に雫が一つ落ちて。彼女の瞼が僅かに震え、そのままうっすらと――開いた。

「!」

 メイズが大きく息を呑む。意識が戻ったのか。しかし目は虚ろなまま、焦点が合っていない。
 メイズの姿を捉えているのかいないのか、僅かに唇を動かした奏澄に、メイズが耳を近づける。

「ごめん、ね」

 奏澄の口から零れたのは、謝罪だった。

「頼って、ばっかで、ごめん。こんな、情けない船長で、ごめん。でも、大好き、だから……もういいよって、言ってあげられなくて、ごめんね……」

 それだけ言うと、力尽きたようにふっとまた目を閉じて、眠りに落ちた。
 その吐息は、幾分か穏やかになっていた。薬が、効いてきたのかもしれない。先ほどの言葉は、寝言のようなものなのだろう。それでも、メイズはその言葉が自分に向けられたものだという確信があった。零れ落ちた彼女の気持ちに、堪えきれない衝動が、胸を突き上げる。

「……謝らなきゃいけないのは、俺の方だ」

 何も知らない奏澄を、海に連れ出したのは、自分だ。争いを嫌う彼女を、海賊にしてしまったのも、自分だ。
 そして。
 
「傍にいたいのも、俺の方だ……!」

 搾り出すような声で言って、握った手を自分の額に当てた。まるで、懺悔するかのように。

 なぁ、初めて会った時のことを覚えているか。
 一人ぼっちだったお前は、きっと、傍にいてくれるなら誰でも良かったんだろう。
 たまたま、そこに俺がいた。それだけだ。
 でも、それは俺だったんだ。他の誰でもない、俺だったんだ。
 それで充分だった。俺が、お前に救われるには。
 俺は、お前じゃないと、駄目なんだよ。

「帰るなよ。帰るな。帰るな……っ」

 彼女が聞いていないのをいいことに、駄々をこねるように吐き出して。
 薬指のペアリングに、口づけた。