強い敵意を示す奏澄に、キッドは目を眇めた。
「なら、目をくれるってか?」
「メイズの目は渡せません。代わりに、私の目をあげます」
双方が、目を見開いた。
「船長の目で、手打ちにしろって?」
「そうです。責任者が責任を取る、と言っているんです。なんらおかしいことはないでしょう」
「こっちとしちゃ、当人に何の罰も無しじゃ収まりがつかねぇな」
「私の目がなくなれば、充分メイズへの罰になりますよ」
「どうだかなぁ」
メイズの体に力が入ったのを、奏澄は感じていた。我慢しているのは、ここで反応してしまうと、奏澄の言葉を肯定することになるからだ。メイズの目を奪うより、奏澄の目を奪った方がメイズにダメージを与えられると判断されることを恐れている。
「しかし解せねぇな。コイツは嬢ちゃんが身代わりになるほどの男か?」
当たり前だ、と言おうとして、別の言葉を紡ぐ。これは身代わりではない。
「彼の罪は私の罪です。償いの必要があるなら、それは私も同じです。命は渡せませんが、私の目で退いてくれると言うのなら、どうぞ差し上げます」
奏澄はメイズの共犯者だ。少なくとも、奏澄はそう思っている。
メイズが何者であっても。例え極悪人であったとしても、それでも良いと。そう決めて、傍に置いた。彼の罪に目を閉じた。いつか目を開いた時。そこに何が見えたとしても、全てを共に背負うと決めた。これはその内の、ほんの一部に過ぎない。
「……いい度胸だ。そこまで覚悟を決めてるなら、恥かかすわけにもいかねぇな」
キッドが、奏澄の目前に剣を突きつけた。
焦点が定まらないほどの位置にある切っ先に、目を閉じたくなる。駄目だ。怯えたら、メイズに伝わる。
「目を潰したら、メイズを含めた仲間には決して手を出さないと約束してください」
「ああ。玄武の名に誓って、約束しよう」
きり、と剣を持つ手に力が入った瞬間。奏澄の体は、強い力で吹っ飛ばされた。
「――!?」
痛みに息が詰まる。飛ばされながら視界の端に捉えたのは、リボルバーを抜いたメイズだった。
視界が回り、どさ、と誰かの腕の中に勢いよく落ちる。
「い……ッ、ごほっ」
「ッぶね、セーフ……!」
「レオ!?」
宙を舞った奏澄が甲板に叩きつけられる前に、辛うじて受け止めたのはレオナルドだった。
新たに現れたたんぽぽ海賊団の乗組員に、玄武の乗組員が警戒を見せる。
奏澄は受け止めたレオナルドに礼を告げることも忘れて、暴れるようにして腕から飛び出そうとしたが、レオナルドが奏澄を抱え込んだ。互いに武器を抜いてしまった今、あの場に近づけるわけにはいかないと判断したのだろう。腕の中でもがきながら、奏澄が叫ぶ。
「メイズ!!」
目にしたメイズは、隻眼の男にうつ伏せに取り押さえられていた。銃を抜いたのだろう左腕は拘束されており、投げ出された右手をキッドの剣が貫き、甲板に縫い留めている。
奏澄を振り払った動作の分、相手よりも出遅れたのだろう。そんなことは、普段のメイズならわかりそうなものなのに。
縫い留められた手を無理やり引きちぎりそうな動きを見せたメイズに、咄嗟にレオナルドが声を上げる。
「なぁ、キッド! 俺を覚えてるか!?」
時間を稼ごうとしたのか、キッドの意識を逸らせようとしたのか、メイズの意識を引き戻そうとしたのか。
はたまた、ひどく動揺した奏澄を落ちつかせようとしたのかもしれない。
緊張感を孕みながらも、明るくすら聞こえる声でキッドに呼びかけた。
レオナルドの姿を視認したキッドは、首を傾げる。
「ヴェネリーアの工房で、昔会ったろ。ダビデの息子、レオナルドだ」
「――ああ! レオか! でかくなったなぁ」
どうやら相手もレオナルドを記憶していたらしい。まずはそのことに息を吐き、レオナルドは続けた。
「あんた親父には随分世話になっただろ。俺に免じて、いったん退いちゃくれないか」
キッドはレオナルドの顔を興味深そうに見て、口の端を上げた。
「悪いが聞けないな。ソレとコレとは別問題だ」
「ちぇ、やっぱだめか」
軽い口調で零したが、レオナルドの額には汗が伝っている。
必死で考えを巡らせているのだろう。彼もまた、メイズを守るために。
キッドはメイズに視線を戻すと、溜息を吐くように零した。
「あーあー、無茶しやがって。嬢ちゃんに怪我させたらどうすんだよ、危ねぇな」
「……ッ」
拘束から逃れようとして、メイズは呻いた。それを見下ろして、キッドは嘲るように続ける。
「オレを撃てたとして、その後どうするつもりだったんだ? 吹っ飛ばしたあの子が人質にされるとは思わなかったのか? らしくねぇな、いつも冷静なオマエが」
しゃがみこんでメイズを見たキッドは、その眼光の鋭さに、ふっと落ちついた表情をした。
「そんなに、あの子が大事か」
答えないメイズに、キッドは何かを考えているようだった。
「頭に血が上って、冷静な判断ができなくなるほど、人のために怒ったのか。オマエが」
「……そんなわけないだろ。邪魔だったから退けただけだ。俺が逃げるために」
その言葉に、奏澄の目に涙が滲みだす。メイズが、奏澄を守ろうとしている。
「この船は、俺が利用しただけだ。どいつもこいつもお人好しで、騙しやすかったしな。だが、結局役には立たなかったようだ。今更逃げられそうにもないし、殺したきゃ殺せ、面倒くさい」
船の仲間は関係無いと、そう言っているのだろう。皆に被害が及ばないように、できる限りのことをしようとしている。だが、このままではメイズが殺されてしまう。相手を殺す気で歯向かったとなれば、もう目だけでは済まないだろう。
「メイズ!!」
悲鳴にも似た声で、奏澄が叫んだ。駆け寄ろうとする体を、レオナルドが押さえる。
零れ落ちた涙を拭うこともせず、奏澄は泣き喚いた。
「メイズを殺したら、絶対許さないから! 絶対絶対、許さないから!!」
先に仲間を殺されたのは向こうだ。今の奏澄と、同じ思いをしたのかもしれない。だからこの言葉は、全くの筋違いだとも言える。けれど、そんなことは関係無かった。ただひたすらに、憎悪した。
強い憎しみを込めながらも幼稚なその言葉に、キッドは苦笑して、メイズの手から剣を引き抜いた。
「レオ、嬢ちゃん放してやれ」
レオナルドは怪訝な顔でキッドを見た。それにキッドがひとつ頷いたので、迷いながらも腕を解く。もつれるようにして走り出し、奏澄はメイズに駆け寄った。その勢いに、キッドが一歩引く。
「メイズ!!」
「……この、馬鹿……」
「馬鹿はどっち! ばか! ばかぁ!」
ろくな言葉が出てこない。どうやら感情が昂ると、言動が子ども返りするようだ。自分のことなのに知らなかった。元の世界では、これほどまでに激しい感情を抱くことが無かったからだろうか。
「ロバート、ソイツも放してやれ」
「……キッド」
「わかってる。銃は回収しとけよ」
メイズからリボルバーを二丁とも奪うと、ロバートと呼ばれた隻眼の男は、渋々拘束を解いた。
ロバートがメイズから離れると、奏澄は思い切り飛びついた。立ち上がろうとして、まだ体勢が整っていなかったメイズが、勢いに押されて仰向けに倒れ込む。
「……おい」
覆い被さるようにしてわんわん泣く奏澄に、メイズは弱り切ったように溜息を吐いた。
拘束は解けたが、武器は奪われ、敵に囲まれたまま。まだ危機は何も去っていない。こんな間の抜けたことをしている場合ではないのだろうが、予想に反して、メイズは怪我をしていない方の手で奏澄の頭を撫でた。
それが、まるで最期を覚悟しているかのように思えて、奏澄は余計に泣いた。
「だっはっはっは! 随分丸くなったなぁオマエ!」
豪快に笑うキッドに、メイズは苛立ったように眉を寄せた。
しかし、息を吐いて、落ちついた声で返す。
「見ての通りの、まだガキだ。こんなのに何も背負わせることないだろ。俺だけで充分だ」
「ダメ! っぶ」
「黙ってろ」
口を挟んだ奏澄の頭をメイズが押さえこんだので、奏澄はメイズの胸元に鼻をぶつけた。
メイズの切実な願いに、キッドはあっけらかんと答えた。
「ま、もともとその嬢ちゃんに何かする気は無いんだけどな」
唖然とする二人を見つつ、キッドは剣の血を拭い鞘に収めた。
収めた、ということは、これ以上争いの意志は無いのだろう。
意図を問うように、メイズは身を起こしつつキッドを睨んだ。
「試すような真似をして悪かったな。オレたちは、オマエがどうしているのか、この海賊団がどういう集団なのか、知っておきたかったんだ」
「……どういうことだ」
「オレたちは、黒弦を潰したいのさ。だが、お前が別の海賊団にいると知ってな。そこを第二の黒弦にされたら、意味が無い。黒弦と決別したとは聞いちゃいるが、オマエは黒弦の象徴のような男だったし、求心力がある。オマエを中心に立て直されたら困るんだよ」
その言葉に、メイズは顔を顰めた。古巣を思い出しているのだろう。
奏澄は、メイズが黒弦だったとは聞いていたが、それほど重要な立ち位置だったとは知らなかった。その動向を、四大海賊が気にかけるほどの存在だったのか。
「だが、どうやら杞憂だったようだ。その嬢ちゃんがいる限り、昔のような振る舞いをするこたねぇだろ。仲間にも恵まれたようだしな」
言って、キッドはラコットたちの方に視線を向けた。玄武の乗組員に囲まれ身動きは取れなかったものの、仲間たちはずっと隙を窺っていた。どうにかして、力になれるようにと。
メイズのことで頭がいっぱいだったが、改めてその存在を視認して、奏澄はほっとした。皆が、メイズを守ろうとしてくれた。そのことが、嬉しかった。
奏澄がメイズの手に応急処置でハンカチを巻いていると、キッドが一つ手を叩いた。
「さて。詫びと言っちゃナンだが、これからオレたちの船で宴を開こうと思う。良かったら、そっちの乗組員も全員参加してくれ」
「……は?」
奏澄は、思い切り顔を歪めて聞き返した。
「この状況から宴って、どういう神経してるんですか」
「睨むな睨むな。もうちょっと嬢ちゃんらの人となりを知りたいんだよ。付き合ってくれ」
「信用できません。毒でも仕込むんじゃないですか」
「そんな面倒なことするかよ。戦力差は見せただろ? 殺す気があるなら、このまま殲滅した方が早い」
さらっと言われた言葉に、奏澄は口を噤んだ。この人は、圧倒的に優位な立場から喋っている。
「……でも、許したわけでは、ないんでしょう」
「そりゃ当然だ。恨んでるし、この先も許すことは無い」
キッドの言い分は至極当たり前だ。やったことは消えない。傷は一生残る。先ほど奏澄が感じた痛みを、それ以上を、玄武の乗組員たちは受けている。
それを堪えてでも、相手を理解しようとする度量があるのか。
「……敵いませんね」
奏澄が零した言葉に、キッドは得意げに笑った。そうすると少年のような幼さが垣間見える。獰猛な獣のようだった目も、細められれば豹も猫科であったと思わせた。なるほど、船長に相応しい、魅力的な人物だ。
「イイ男だろ。惚れるなよ?」
「それは絶対にありえないので安心してください!」
奏澄は笑顔で言い切った。
目とは違い、手の傷はいずれ直る。想定された被害からすれば、随分と軽い仕置きだ。
それでも、奏澄にとっては許しがたい。和解はするが、好意は持てない。奏澄の精神は、まだキッドほど成熟してはいないのだ。暫くは態度が悪くても仕方がない。
そういったことを何もかも見透かしたように笑うキッドに、奏澄はますますむくれるのだった。
「乾杯!」
キッドの音頭で、異様な緊張感の中、宴は開催された。
あの後奏澄は船室にいた乗組員たちにも事情を説明し、たんぽぽ海賊団は全員でブルー・ノーツ号での宴に参加することになった。
罠ではないか、とする声もあったが、それは奏澄とメイズが否定した。罠を張るタイプではない。そもそも、罠を張らずとも勝てる。
参加するにあたり、提示された条件は四つ。
一つ、双方武器は持たないこと。
二つ、メイズの銃は宴が終わってから返却すること。
三つ、宴の間、奏澄はメイズの利き手を封じていること。
強制されたわけではないが、銃の返却がある以上、実質和解のための条件だと見ていいだろう。各々思うところはあるものの、最終的に全員承服した。
ブルー・ノーツ号の上甲板ではそれぞれの乗組員が混ざりあい、各所で小さな輪を作っていた。奏澄は約束通りメイズの利き手を封じた状態で――つまり、メイズの右腕に抱きついたまま、玄武の船長と同席していた。
この条件は嫌がらせ以外の何ものでもないだろう。メイズは右手を負傷していて銃を扱える状態ではない。そもそも銃は玄武の手にある。なのにわざわざ奏澄の口にした『利き手』という言葉を使って条件を指定してきたのは、『面白いから』以外の理由は無いに違いない。
右手はしっかり手当てしてあるが、それでも傷口に触れれば痛むだろう。腕を絡めている奏澄の方も、相当に気をつかっている。
キッドの横にはロバートがいた。おそらく、彼がキッドの右腕なのだろう。
キッドはジョッキを早々に飲み干すと、奏澄に酌を頼んだ。
「嬢ちゃん嬢ちゃん、注いでくれ!」
「嫌です。誰かさんの条件のせいで片手しか使えないので。自分でやってください」
「可愛くねぇなぁ。せっかく見た目は可愛いのに」
「それ。なんなんですか最後の条件!」
そう。提示された条件は四つ。
四つ、女性は着飾って列席すること。
奏澄は、あの日ライアーに選んでもらった服を着て、メイクも施していた。この場にはいないが、他の女性陣も同じようにめかし込んでいる。
「いいじゃねぇか。ウチの船には女がいねぇんだよ。楽しく酒飲んでる時くらい、目の保養が欲しいだろ」
「女性は飾り物でも給仕係でもありません。言っておきますが、私の仲間に手を出したら潰しますよ」
「何を……って聞かない方が良さそうだ。意外に血の気多いのな、嬢ちゃん」
仕方なしに手酌して、キッドは半目で奏澄を見た。
「しかしそうしてると大人に見えるな。やっぱすげぇな女は」
「大人ですけど」
「大人ぶりたい年頃かぁ。わかるぜ。けど、今日はジュースで我慢しとけよ」
「二十代ですのでお酒は飲めます」
奏澄の発言に、キッドはジョッキを取り落とした。寡黙なロバートも、僅かに目を見開いている。
「詐欺だろ!!」
「私は一度も年齢の話はしてませんよ。そっちが勝手に勘違いしたんじゃないですか」
「だってメイズもガキだって……あーでも、言われてみりゃ確かに、結構胸ある」
ガン!!
ジョッキを甲板に叩きつける音に、一瞬周囲が静まり返る。
音の発生源の一番近くにいた奏澄は体を硬直させた。
「……キレるなよ。嬢ちゃんまでびびってるじゃねぇか」
キッドは慣れたものなのか、全く臆することなく呆れ顔でメイズに忠告した。
メイズはじろりとキッドを睨んだだけで返事はせず、代わりに奏澄が答えた。
「メイズは今ぶちギレモードなので、あまり刺激しない方がいいですよ」
その言葉に反応したのは、ロバートの方だった。
「妙だな。こちらが怒りを抑えることはあっても、そちらが怒る道理は無いと思うが」
玄武の報復行為には正当性があり、譲歩しているのは自分たちの方だと言いたいのだろう。それはそれでカチンとくるが、誤解で争うのは本意ではないので奏澄は説明を加える。
「あなた方にじゃないです、私に怒ってるんです」
「嬢ちゃんに?」
首を傾げるキッドに、奏澄は言いづらそうに答えた。
「私が、メイズの代わりに目を差し出すと言ったことを、怒ってるんですよ」
「……なんだ、わかってるじゃねぇか」
地を這うような声で不機嫌に呟くメイズに、奏澄は僅かに身震いした。玄武の船で説教をかますわけにはいかないから、ずっと黙っているのだろう。しかしこの怒気にあてられながら腕を絡めているのは精神的にきついものがある。本当に余計な条件を出してくれた。
「女に守ってもらったくせに、器の小せぇヤツだな」
びり、と怒気が増して、奏澄は内心悲鳴を上げた。
「嬢ちゃんに怒ってるんじゃなくて、自分に怒ってるんだろ」
挑発するようなキッドの言葉に、メイズは反応を示した。
「嬢ちゃんがそうした原因は、オマエにあるんだもんな。守り切れなかった自分が不甲斐ないか」
当たっているのか、ぐっとメイズが拳を握りしめた。傷が開いてしまう、と奏澄は慌ててその手を開かせようとした。
自分を削るなと。言われていたのに、飛び出したのは奏澄だ。いてもたってもいられなかった。
奏澄は絡めた腕の側に寄りかかり、体を預けた。
「今回は、お互い様です。私も、メイズにちょっと怒っているので」
視線を向けたメイズに、奏澄は小さく零した。
「約束、破りそうになったから」
傍にいる、という約束を。命よりも優先されるそれを、破りかけた。
レオナルドが呼んでくれなければ、最悪の事態になっていたかもしれない。
それに関しては、奏澄も怒っている。
「なので、あなたに口を出される謂れはありません。ちゃんと二人で解決しますから、黙っててください」
「嬢ちゃん本当オレに当たり強いよな」
乾いた笑いを零して、キッドは酒を口に運んだ。
「まぁ馬に蹴られたくねぇし、これ以上はやめとくか。ほら、嬢ちゃんも飲め飲め。大人なら構わんだろ」
酒の入ったジョッキを押しつけるキッドに、奏澄は思わずそれを受け取った。と思ったら、横からメイズの手が伸びて、ジョッキをさらった。
「お前は飲むな」
敵船で飲むのはどうだろう、と奏澄も思っていたので、そのまま任せようとしたのだが。
「はあ!? 過保護! ガキのお守りか!」
馬鹿にされたようで、奏澄はついムキになってしまい、メイズからジョッキを取り返した。
「このくらい平気!」
メイズが何か言う間もなく、そのまま一気に呷る。
「お! いい飲みっぷり」
笑いながら、キッドが二杯目を注ぐ。メイズはそれを見て、何かを諦めたように息を吐いた。
「お? 嬢ちゃんオチたか?」
メイズに凭れかかる奏澄を見て、キッドはそう零した。
その言葉に、メイズが呆れたように返す。
「あんたが飲ませるからだろう」
「もうちょい話聞きたかったんだがなぁ」
「話を聞くつもりの相手に酒を飲ませるな」
「悪い悪い、ムキになる嬢ちゃんが面白くてつい」
悪気無く笑うキッドを、メイズは睨んだ。
「嬢ちゃんずっとツンツンしてたなぁ。普段からあんなか?」
「いや。俺はこいつが人に敵意を向けるのを初めて見た」
「マジか。嫌われたもんだな」
言いながらも、大してダメージは受けていなさそうだ。
「それに比べて、オマエの信頼されてること。見ろこの安心しきった顔」
「見るな」
「なんだよ随分入れ込んでるじゃねぇか。惚れてんのか?」
「違う」
からかうキッドとメイズのやり取りに、ロバートが重い口を開いた。
「どうやって誑かした」
キッドとは違う、悪意すら感じるその言葉に、メイズは隻眼と視線を合わせる。
「そんな純朴そうな女がお前に懐くなんてな。いったい何をした」
「……俺は、何もしていない」
視線をずらして、メイズは奏澄を見た。穏やかな寝顔に、自然と目が細くなる。
「こいつが、俺を救った」
奏澄の顔にかかった髪を、羽毛に触れるような手つきで払う。
「残りの命はこいつのために使うと決めた。俺には、こいつを救うことなんてできやしないが……それでも、せめて一人にしないと。ずっと傍にいると、誓った」
言って、メイズは決意を秘めた目で、二人を見た。
「だからお前らに殺されてやるわけにはいかない」
それを受けて、キッドは肩をすくめ、ロバートは重く息を吐いた。その溜め息に言葉を乗せるようにして続ける。
「……彼女に、血生臭いものを見せるなよ」
「わかってる。こいつが嫌がることはしない」
「ちゃんと配慮しているのか。お前の基準は狂っているぞ」
「日々、教えてもらっている。普通の人間が、どういうことを怖がるのか。嫌がるのか。何をされたら嬉しいのか。喜ぶのか。ガキからやり直してる気分だ」
メイズは思い返すように目を伏せた。
一つ一つを、試している。本で読んだこと。街で見たこと。女に言われたこと。流すだけだったそれらを、初めて、実感として。その一つ一つを、受け止めてくれる。
彼女の慈愛は、いつか鼻で笑ってあしらった聖母の御伽噺のようだ。自らが触れるまではそんなものは存在しないと思っていたのに、在ると知ってしまえば、欲しくて欲しくてたまらない。
純粋で、穢れなく。柔らかで、温かい。その腕の中にだけ、安寧がある。生涯縁の無いものだと、諦めていたものが、そこにある。
それでいて、潰されそうなほどの信頼を。ひたむきに、ぶつけてくる。眩しくて目を逸らしそうになるのに、彼女がそれを許さない。
曇り硝子の向こう側の景色に放り込まれて。手探りで頼りなく歩く自分を導く、ただ一つの光。
「……メイズ。一個、忠告しとくぞ」
メイズの様子を見て何を思ったのか、真剣な声色でキッドが告げる。
「嬢ちゃんは、ただの女だからな。多くを求めるなよ」
それを聞いて、メイズは眉を寄せた。奏澄は海賊でもなんでもない、ただの女だ。そんなことは誰よりわかっている。だから、自分がついている。何者にも傷つけられないように。放っておけばすぐに壊れてしまう小さくて弱い生き物を、外敵から守るのが自分の役目だ。
「俺はこいつに何かを求めるつもりは無い」
メイズは奏澄のものだが、奏澄はメイズのものではない。
何も求めることなど。そもそも、求めずとも充分に与えられている。
「それはそれでどうかと思うが……まぁ、あんま神聖視すんなよってことだ」
意味がわからず、メイズは更に眉間の皺を深くした。
「一つに執着しすぎると、人は盲目になる。忘れんなよ。今日、オマエを守ろうとしたのは、嬢ちゃんだけじゃなかったはずだ」
「……ああ」
それには、メイズ自身も驚いていた。
仲間はついでに過ぎなかった。彼女と海を渡るための。彼女が大事にしろと言うから、壊さないようにはした。そのくらいだ。それが、いつの間にか。
何かをした覚えはない。人に好かれる性質ではない。それなのに、何故。
「人間一年目、みたいな顔すんじゃねぇよ。やりにくいな」
舌打ちしかねない顔でキッドが吐き出す。
自分の表情に自覚の無いメイズは口をへの字に曲げた。
凭れかかった奏澄が、少しだけずり落ちた。絡めた腕は起こさないようにそのままにしているので、肩を抱いて支えることはできない。一応条件でもあったわけだが、重しが役目を果たしていないので、もうそれは無視していいだろう。
「嬢ちゃん暫く起きそうにねぇし、オレはちょっとレオと話してくるかな」
「待て、その前に一つ聞いておきたいことがある」
席を立とうとしたキッドを呼び止め、メイズは少しだけ間を置いて問いを口にした。
「無の海域への行き方を知っているか」
「あん? 無の海域ぃ? オマエでもそんなオカルトを気にすんのか」
聞かれたキッドは、片眉を上げた。四大海賊であれば或いは、と考えたが、当ては外れたようだ。
「俺たちは無の海域にある『はぐれものの島』を目指している」
「はぁ? なんでまた」
「込み入った事情がある」
情報を得ようとする以上、船団の目的は話すが、奏澄個人のことまで詳細に伝える必要は無いだろう。下手に興味を持たれても困る、とメイズは濁した。
「ふぅん……。何にせよ、オレは知らねぇな。そういうのに詳しいとしたら、エドアルドだろ」
「……白虎か」
「あのオッサン古株だしな。セントラルのきな臭い話にも敏感だし、実在するなら行き方くらい知ってそうなもんだが」
自分で口にした言葉に、キッドは一瞬考え込んだ。
「……いや待て。セントラル?」
それにキッドは訝しんで、急にはっと思い出したように声を上げた。
「あっもしかして、嬢ちゃんが指名手配されてるのって、それでか!?」
勘のいい男だ、とメイズは舌打ちした。余計な情報を与えてしまったようだ。
「オカルトっつったらセントラルの十八番だもんな。セントラルの禁忌に触れたんだな!?」
楽しそうなキッドに、メイズは答えなかった。しかし、キッドはその様子を肯定と捉えたようだ。
「オマエはともかく、なんで嬢ちゃんが指名手配されてんのかは不思議だったんだ。だから船長を引っ張り出したかったんだが……いやー、その甲斐あったわ。やっぱ嬢ちゃん面白ぇな!」
キッドの興味を惹いてしまったことは、メイズにとっては面白くないが、奏澄の立場を思えば良い方へ働くだろう。四大海賊の一角が好意的ということは、この先協力を得られる可能性があるということだ。
「ま、オレの方でもなんかわかったら教えてやるよ」
そう言い残して、キッドはロバートを伴い、レオナルドの方へ向かった。
残されたメイズは、ずり落ちてくる奏澄を支えて、少し考えてから膝に寝かせた。
肩に凭れさせたままではバランスが悪く、またずり落ちてくるだろう。
コバルト号に寝かせに戻ってもいいが、他の仲間が全員ブルー・ノーツ号にいる状況で自分が姿を消すのは、余計な誤解を与えかねない。
膝に乗せた奏澄の寝顔を見て、メイズは手持無沙汰に髪を弄んだ。
――いつかと逆だな。
メイズと奏澄が初めて出会った日。彼女は、熱にうなされるメイズを膝に乗せ、ずっと汗を拭っていた。あの手の温もりを、忘れたことは無い。
あの時の恩義に、報いるために。
それだけの、ために。
離れた場所から二人の姿を見ていたキッドとロバートは、何とも言えない顔で会話を交わした。
「でろっでろじゃねぇか」
「あれに目を潰されたと思うと、かなり腹が立つ」
「同感だ。やっぱ殺しとけば良かったかな」
「キッドは女に甘い」
「あんだけ泣かれちゃなぁ」
奏澄の剣幕を思い返して、キッドは頭をかいた。
奏澄に危害を加えるつもりはなかった。しかし、メイズのことは本当に殺しても構わないと思っていた。それを思い止まったのは、彼女の存在があったからだ。
「しかし、ありゃちょっと危ねぇな」
「あの女船長に何かあったら、多分黒弦時代に逆戻りだろう」
「うーん……。嬢ちゃんの手腕に期待するしかねぇなぁ」
知らぬところで勝手に期待をかけられているなど、知る由も無く。
彼女は穏やかに寝息を立てる。そこが、世界で一番安全な場所だというかのように。
コバルト号船内、食堂にて。
こほ、という小さな咳を耳にして、メイズは音の方へ視線を向けた。
それに気づいたのはメイズだけではなく、近くにいたアントーニオが奏澄に声をかけた。
「カスミ、大丈夫? 喉痛い?」
「んん、大丈夫、です。なんかちょっと、乾燥して」
「この辺砂っぽいもんね。喉にいいお茶淹れよっか」
「わ、ありがとうございます」
咳払いをする奏澄に、アントーニオは湯を沸かす準備を始めた。奏澄は喉を気にしながらも、朝食後の片付けを続ける。
船内の食堂には他にも数人乗組員がいたが、咳をしているのは奏澄だけだった。このくらいで影響が出るものか、とメイズは眉を寄せた。
コバルト号は、金の海域へ入っていた。
今後の進路を決めるにあたり、玄武海賊団の船長キッドの発言を受けて、白虎海賊団の船長エドアルドにコンタクトを取れないか、という話になった。今現在、白虎がどこを航海中なのか、正確な情報は不明だ。ひとまず金の海域に入り、いくつかの島で情報を集める方針となった。
金の海域は、他の海域に比べて島が少ない。加えて、島の大きさと人口の多さが比例せず、海域の情報に疎いと栄えている島に辿り着くことも難しい。
その原因は、金の海域が乾燥帯であるからだ。砂漠が多く、小さな島ではオアシスが存在せず、無人島となっていることも少なくない。大きな島に見えても、砂漠地帯が広ければ街は小さい。全てはオアシスに左右される。
過酷な環境に置かれることの多い海域において、支援活動を行っているのが白虎海賊団だ。四大海賊が義賊とも言われる所以は、元は白虎にある。設立は最も古く、船長のエドアルドも六十近い。セントラルの一強状態だった世において、切り捨てられることの多かった金の海域を守るため、レジスタンスとして活動したのが始まりだ。
その成り立ち故、残虐性の高い黒弦との相性は非常に悪い。メイズは白虎と直接の面識は無いが、交渉の場には出ないつもりでいる。当然この船にメイズがいることは向こうも把握済みだろうが、奏澄と直接話をすれば、大事になることは無いだろう。
現在航海している場所は、近くに島は無いはずだが、この海域はどこも風で砂が運ばれ、空気が全体的に乾燥している。耐性が無いと、体に影響が出やすいのかもしれない。
これまで奏澄は大きな病にかかったことは無く、特に体が弱いという印象は持っていない。しかし、玄武との一件で奏澄はかなり消耗していた。船旅も長くなっている、疲労も蓄積されていることだろう。ここの気候は、お世辞にも体に良いとは言えない。
早めに目的を済ませてこの海域を抜けてしまいたい、と咳を続ける奏澄を見てメイズは思った。
それが、朝のことだった。
昼を過ぎて暫く。メイズはおかしい、と感じていた。奏澄の姿を、全く見かけない。
常時見張っているわけではないが、普段ならあちこち移動していたとしても、視界には入る。どこかの部屋に篭っている可能性もあるが、それなら居場所を伝えているはずだ。
やけに気になって、メイズは通りがかりのライアーを捕まえた。
「カスミを見てないか」
「え? カスミなら、倉庫のロープを日干ししてたと思いますけど」
「甲板にはいなかった」
「じゃ倉庫の方じゃないですか? なんか急ぎの用です?」
「いや、そういうわけじゃないが」
言葉を濁すメイズに、ライアーは呆れたように半眼でメイズを見上げた。
「メイズさん。常に居場所を把握しようとすんのは束縛ですよ」
束縛。そんなつもりは毛頭なかったが、メイズは苦虫を嚙み潰したような顔になった。
あまり褒められた行動ではない、ということくらいわかる。
「女の子には一人の時間も大事なんですよー」
言い残して、それじゃ、と去っていくライアーの背を何とも言えない感情で見送る。
自船の中で何があるということもあるまい。気にするのはやめよう、とメイズは溜息を吐いた。
いよいよ違和感が強くなったのは、夜。夕食の時間が過ぎても、カスミは姿を見せなかった。
普段なら、アントーニオを手伝っているはずだ。メイズは厨房のアントーニオに声をかけた。
「アントーニオ」
「えっ!? あ、メ、メイズさん」
挙動不審なアントーニオに、メイズは片眉を上げた。これは絶対に何かある。
「カスミはどうした」
「え? さ、さぁ……ぼくは、知らない、かなぁ」
明らかに目が泳いでいる。隠し事が下手過ぎて不安になるが、今は好都合だ。
「カスミは、どうした」
メイズは圧をかけて詰め寄った。だらだらと冷や汗をかいたアントーニオは、観念して口を割った。
「じ、実は……」
*~*~*
「カスミ!!」
メイズがノックも忘れて奏澄の自室のドアを開けると、奏澄は奇妙な悲鳴を上げてベッドに潜った。
「何!? なんで!? 何事!?」
「熱は」
すっぽりと頭まで毛布に包まる奏澄に、メイズは顔色を見ようと毛布に手をかけた。しかし、奏澄がそれに抵抗する。
「誰だメイズに告げ口したの……!」
それを聞いて、メイズは大げさに溜息を吐いた。憎まれ口を叩ける程度には元気らしい。
「むしろ何で隠せると思ったんだ」
奏澄の部屋はメイズの部屋の隣だ。夜になれば、自然と気づいただろう。何故そういう無意味なことをするのか。
「薬飲んだし、夜までには回復するかもと、思ったの」
毛布の中からもごもごと返す奏澄に、メイズはベッドの端に腰掛けた。
「いつからだ」
「昼前くらいから……風邪だったら移すと大変だし、部屋に引きこもってた」
昼前。ということは。
「あの野郎……」
平然と嘘を吐いたライアーの顔を浮かべて、メイズは低く零した。名は体を表すとはよく言ったものだ。
「誰か知らないけど、怒らないでよ。私がメイズには黙っててって頼んだの」
奏澄が、毛布から僅かに顔を出した。こんな時でも、他人の心配ばかりする。
「何で俺に隠す」
「だって……色々、あったし。あんまり心労かけたくなくて」
色々、とは、玄武のことを指しているのだろう。あの件で一番疲弊したのは、奏澄のはずだ。それでも、メイズがそのことで自分を責めるのではないか、と危惧したのだろう。
言いたいことはあるが、この件に関しては深掘りすると堂々巡りになる。今は奏澄の体調が優先だ、とメイズは思考を切り替えた。
「熱、下がらないのか」
少しだけ開いた毛布の隙間から手を入れて、奏澄の首元に手を当てた。
「ひぇっ」
「……熱いな」
その温度に、メイズは顔を顰めた。普段の体温からすると、かなり高い。
「なんで、首」
「体温を測るなら、血管の太い場所じゃないのか?」
「普通、手を当てるなら額、だと思う」
そういうものか、とメイズは手を引っ込めた。
「今夜はこっちの部屋にいる」
「え、ダメ」
即座に否定されて、メイズは思わず黙った。何故か、断られるとは思っていなかった。そして、そう思っていた自分に動揺した。
「同じ部屋にずっといたら移るでしょ。マリーたちがたまに様子を見にきてくれるから」
「夜中に何かあったら」
「呼ぶから、大丈夫。いられた方が気になる」
そう言われると、居座るとも言い辛い。言葉だけなら遠慮しているとも取れるが、なるべく顔を見せないようにしている姿からしても、今回は本当にいられたくないと見える。ライアーにも小言を言われたばかりだ。心配ではあるが、本人の気が休まることが一番だろう。
「わかった。いいか、何かあったらすぐに呼べ。壁を叩けば、来るから」
「うん、ありがとう」
少しだけ覗かせた顔が、力無い笑みを作った。顔を完全に出さないのは、やはり見られたくないのだろう。これ以上ここにいない方が良さそうだ、と判断して、メイズは部屋を出た。
ドアの前で、メイズは奏澄の首元に触れた手を、じっと見た。
薬は飲んだと言っていた。なのに、あれほど熱が下がらないものか。
いつかのレオナルドの話が、蘇る。異世界から来た、彼の母親だけが、薬が効かなかった。
嫌な予感がして、じりじりとした焦燥感が襲う。
そんなはずはない、とメイズは首を振った。すぐに、治るはずだ。そうでなければ。
そうでなければ、自分は。
夜の間、壁の向こうから聞こえる咳にやきもきしながら、翌朝メイズはマリーを捕まえた。
「調子は」
「良くないね。咳が続いたせいで、体力を消耗してる。熱もまだ下がらない」
「薬は飲んでるんだろう」
「そうだけど、あんまり効果あるように見えないね。ただの風邪じゃないのかも」
険しい顔のマリーに、メイズは拳を握りしめた。
次の島までには、まだ日がかかる。その島に医者がいるとも限らない。このまま何もできなければ、彼女はどうなるのか。
「しっかりしな!」
背中を強く叩かれて、沈みかけていたメイズの意識が引き戻される。
「あんたがそんな顔してたら、他の奴らも不安になるだろ。副船長なんだから、こんな時こそどんと構えててくれないと」
腰に手を当てるマリーを、メイズは複雑な気持ちで見下ろした。遠慮のない物言いをする彼女は頼もしい。比例して、自分を情けなく思う時がある。
「心配なのはわかるけど、カスミのことはあたしらに任せて。むやみに顔出さないこと」
「……わかってる。俺がいても、何ができるわけでもないしな」
人の看病など、したこともない。いても役に立たないのなら、邪魔になるだけだろう。
自虐的に零した言葉に、マリーは目を瞬かせた後、軽く吹き出した。
「そうじゃないよ。女はね、身なりに気をつかえない時に、あんまり人に姿を見られたくないもんなのさ。特に、気になる相手には」
その言葉に、メイズは訝しんだ。奏澄は元々、身なりにそれほど拘る方じゃない。それに、出会った時のぼろぼろな姿も、泣きじゃくる顔も、割とさんざんなところを見てきている。今更何を気にすることがあるのだろうか。
その疑問が顔に出たのか、マリーは苦笑していた。
「乙女心ってやつさ。ま、様子はちゃんと教えるから」
「ああ、頼む」
乙女心。こういう言葉を使う時は、理解しようとするだけ無駄だ。今は言う通りにするしかない。
ざわつく胸を押さえて、メイズはその場を立ち去った。
船長の不調は、この日乗組員たちにも伝えられた。さすがに丸一日以上姿を見せないとなれば、説明しないわけにもいくまい。
身の回りの世話は女性陣が行い、男性陣の見舞いは禁止された。奏澄が気をつかうこと、加えて感染の恐れがあることが理由だ。この船には船医がいない。常備薬程度ならあるものの、薬の調合はできない。複数人が感染し薬が尽きたら、船内での対処は不可能になる。
こうなると、船医がいないことが悔やまれる。レオナルドの話を聞いて不安を覚えた時点で、何かしらの手を打っておくべきだった。
通常、海賊船に船医などいるものではない。医者のような特殊な人間は、いるだけで金に困らない。わざわざ船に乗るメリットがない。金のある商船は長期航海になると雇うこともあるが、海賊船に乗る医者がいるとしたら、それは医学知識のある海賊だ。そんなレアケースは滅多にあることではない。
次見つけたらさらってくるか、と考える程度には、メイズは既に冷静さを欠いていた。
奏澄の体調は、一向に良くならなかった。咳のせいでどんどん体力は消耗され、熱は下がる気配もなく、食べ物も喉を通らなかった。船全体が暗い空気のまま、二日目が過ぎた。
そして発熱から三日目。ついに、奏澄の意識が戻らなくなった。
マリーから報告を受け、メイズはすぐに奏澄の部屋に向かった。さすがにこの段階では、マリーもメイズを止めることは無かった。
「カスミ……!」
メイズが声をかけるも反応はなく、手を握ってもそれはだらりと力が抜け、握り返されることはなかった。熱の高さから汗がひどく、眉は苦し気に歪められている。
メイズは、人間がこんな風に弱っていくのを初めて見た。いや、正確には、初めて認識した。
今までは、いたとしても見えていなかった。生きるも死ぬも、どうでも良かった。それはただの現象に過ぎなかった。
同じ団の人間がいつの間にか姿を消しても、死んだのか、としか思わなかった。人間が動かなくなれば、それはもうただの肉の塊だった。命というものを、意識したことが無かった。奪うも奪われるも、物と同じだ。殺すのは、金品を奪うことと何ら変わりはなかった。奪われる方が悪い。弱いものが淘汰されるのは、自然の摂理だ。
知らなかった。一人の人間が、誰かにとって神にも等しい存在になり得ることを。命が、取り返しのつかないものだということを。力だけが、生きる術ではないことを。世界が、それほど残酷ではないことを。
知らなかった。奏澄に、出会うまでは。
自分の理解の外にあるものを、切り捨ててきた。わかろうとはしなかった。だから容易く奪えた。誰かの神を殺してきた。これはその罰なのかもしれない。
だとしても。
それを大人しく受け入れてやる義理は無い。
元来海賊など、自分本位な生き物だ。根底はそうそう変わるものではない。
神でも悪魔でも、邪魔をするなら殺してやる。
殺してやる。殺せるものなら。殺して助かるなら。殺せばいいなら、いくらでも血を被るのに。
怒りの矛先がわからない。腹の底に渦巻くものを吐き出すこともできず、メイズは唇を震わせた。
とにもかくにも、どこかの島に降りる必要がある。この船の中ではできることが限られている。海の上では医者も探せない。風土病のようなものなら、医者がいなくても現地の人間が対応できるかもしれない。
なんとか、島に。
「ちょっと、メイズ!?」
呼び止めるマリーの声を無視して、メイズは乱暴にドアを開け奏澄の部屋を出ていき、そのまま足早にライアーの部屋に向かった。その勢いのまま、大きな音を立ててドアを開ける。
「えっメイズさん!?」
驚いてドアの方を見たライアーは、ぼさぼさの髪をしていた。机上には海図とメモが散乱している。医学書も開かれていたが、それらは全てメイズの目には入らなかった。
「次の島までどれくらいかかる」
その一言だけで、メイズの言わんとしているところはわかったのだろう。ライアーは悔しそうに歯噛みした。
「どう急いでも、あと四日はかかります」
四日。意識の無い状態で四日は、待てない。メイズは舌打ちした。
「何とかならないのか」
「気持ちはわかりますけど、こればっかりは」
そう言われて、メイズは思わず頭に血が上った。
「お前に、俺の気持ちがわかるか」
低く、低く。辛うじて聞き取れるほどの小さな声で、吐き出すように呟いた。
わかるものか。誰にも、自分の気持ちなど。わかって、たまるか。
衝動のままに手が出て、ライアーの胸倉を掴み上げた。
「航海士だろ。何とかしろ!」
額を突き合わせ、脅すようなメイズの気迫に、ライアーが言葉を詰まらせる。しかしライアーが何かを言おうと口を開いた瞬間、メイズは後ろから肩を掴まれ、強く引かれた。
その動作に苛立って相手を怒鳴りつけようとすると、甲高い破裂音が響いて、遅れて痛みがやってきた。
「目は覚めたかい?」
すぐには事態が飲み込めず、メイズは半ば呆然として、マリーを見つめた。
マリーは、ライアーに詰め寄るメイズの頬に、思い切り振りかぶった全力の平手打ちをお見舞いしていた。
「仲間に当たるんじゃないよ、みっともない」
「……ッ」
射抜くような鋭い視線に、メイズは反射的にマリーを睨み返した。並みの人間なら悲鳴を上げて尻込みするようなその眼光に、マリーは一歩も引かなかった。
「あんたの気持ちなんか、あたしらにはわかんないよ。でもあんただって、あたしらの気持ちはわかんないだろ。カスミが倒れてからライアーが何をしてたか、あんたは知ってんの?」
マリーの言葉に、メイズは黙った。ライアーが、奏澄のために何もしていないわけがない。当然だ。メイズがそれに目を向ける余裕が無かっただけだ。
同じことを、繰り返している。周囲が目に入らずに、結局、守れない。
自分に力が、足りないばかりに。
思い詰めたような顔のメイズに、マリーは一つ息を吐いて、視線を和らげた。
「人の気持ちなんて、全部はわかんないさ。けど、全部わかる必要はない。あたしたちは、メイズがどれだけカスミを大切にしてきたかを知ってる。同じものが大事なら、それだけで命を張る理由になる」
マリーはメイズの胸元に、軽く拳をぶつけた。
「あたしたちはみんな、カスミが大事。あの子のためなら、全力を尽くす。だからそのための方法は、みんなで考えよう。仲間だろ」
仲間。その言葉はメイズにとって、同じ船の乗組員、という以上の意味を持たなかった。
ただの括りでしかない。上っ面の言葉。
けれど奏澄は、その言葉を、存在を、関係を、とても大切にしていた。
メイズには、その感情はまだわからない。けれども。
「マリー」
呼んだはいいものの、真っすぐに顔が見られなくて、メイズは片手で顔を覆ったまま続けた。
「……お前がいてくれて、助かった」
それにマリーは一瞬目を見開いて、力強く笑った。
「メイズさん! オレ、オレは!?」
「悪かった」
「それだけ!?」
しれっと返すメイズに、ライアーは大げさな反応を示す。それをメイズは適当にあしらった。ライアーにも感謝の念はあるが、この態度で来られると言う気にならない。
しかし、メイズにもいい加減わかっている。これはわざとやっているのだ。彼は空気を読む能力にはとても長けている。
マリーも、ライアーも。初期からこの航海を支えてきた面子だ。単純な労働力ではない。気を配ってもらった、自覚がある。
二人とも、黒弦のメイズのことは事前に知っていた。だが、メイズに対して遠慮はしなかったし、奏澄とメイズを引き離そうとするようなこともなかった。ただありのまま、自分たちの見た姿を信じて、受け入れた。それがメイズにとって、どれほど助けになったことか。
メイズが『常識人のふり』ができたのは、奏澄の力だけではない。メイズの思考が、行動が、外れそうになった時。引き戻してくれた言葉が、確かにあった。
疑念は消えない。こればかりは、自身の性根によるものだ。それでも、信じたいと思う。
自分も誰かを、信じられるのかもしれない、ということを。
ようやく落ちつきを取り戻した三人の耳に、ばたばたと忙しない足音が響いた。かと思うと、上甲板にいたはずのルイが顔を覗かせた。
「あっいた!」
「ルイ。どうしたのさ、何かあったのかい?」
マリーが問いかけると、ルイが興奮した様子で告げた。
「白虎の船がいます!」
その言葉に、三人は息を呑んだ。マリーはルイの両肩をがっしと掴み、叫んだ。
「でかした!!」
その言葉に、ルイは嬉しそうな、泣きそうな顔をした。ライアーも、力が抜けたように眉を下げて、大きく息を吐いた。
「あ~……奇跡って、起きるんだな」
白虎海賊団は、探していた。まだ何の情報も得られていなかったが、まさか偶然にも海上で会えるとは。しかし、皆の反応は、元々の目的からではない。
「白虎の船には、船医がいる……!」
微かに希望が見えて、メイズが確かめるように口にした。それに、皆が頷く。
白虎海賊団は医者のいない島での医療活動を行うため、船医を抱えている。彼らの気質からしても、『急病人の少女』であれば、助けてもらえる可能性は高い。
「よし、白虎の船にはあたしとライアーで行こう。構わないかい?」
メイズに確認を取るマリー。
マリーは奏澄の様子を看てきたので、一番病状を把握している。丸腰の女性がいることは、安心材料にもなるだろう。ライアーも機転が利くし、交渉事には向いている。この二人であれば、任せられる。
「頼んだ」
メイズの眼差しを受け止めて、マリーとライアーは力強く頷いた。
近くにいたのは、正しく白虎海賊団の主船、ゴールド・ティーナ号だった。
白虎へ向けて合図を送り、たんぽぽ海賊団はコバルト号を寄せた。ゴールド・ティーナ号に向かうマリーとライアーに全員が希望を託し、祈るような思いで戻りを待った。いち早く出迎えられるようにと、見張りと奏澄の看護を除いて、皆が上甲板に集まっていた。
メイズは無意識に首から下げたペアリングを握りしめていた。こんなものに、何の力も無い。何の意味も無いのに、縋ってしまう。そこに思い出があるから。無機質なただの物でしかないのに、ほの温かい気さえする。この温かさは、記憶の温度だ。今の自分には、振り返りたくなるような記憶が、ある。
どうかその思い出が、ここで途切れてしまわないように。
「戻ってきた!」
乗組員の誰かが声を上げ、メイズは顔を上げた。メイズの元へ向かってくるマリーとライアーの表情は、暗い。まさか、と嫌な想像に鼓動が速まる。
もしもの時は、その時は、何をしてでも。
メイズは慣れ親しんだ武器を、指で確かめた。
「……駄目だったのか」
硬い声色で問いかけるメイズに、マリーが緩く首を振った。
「いや、まだ断られたわけじゃないんだけど」
煮え切らない返答に、メイズは視線で先を促す。
「白虎の船長が、副船長が頼みに来るのが筋だろうって。勿論、それがメイズだってわかった上でね」
メイズは唇を引き結んだ。やはり、白虎はメイズの存在を快く思っていないらしい。マリーやライアーは言葉を尽くしてくれただろう。それでも、決断するに至らなかった。『黒弦のメイズ』の存在が、足を引っ張っている。
邪魔をするなら殺してやる。
殺してやる。殺せるものなら。殺して助かるなら。殺せばいいなら。
――それが例え、自分自身でも。
「メイズ!!」
ぱん、と目の前で手を叩かれて、はっとする。今、何を考えたのか。
メイズは、今度は意識的にペアリングを握りしめた。しっかりしなくては。約束を、違えるわけにはいかない。誓ったのだ。ここで命を投げ出すのは、彼女への裏切りだ。
「わかった。俺が、行ってくる」
「なら、あたしも一緒に」
「いや。一人でいい」
マリーの申し出を、メイズはきっぱりと断った。
殺されるつもりはない。だが、わざわざ呼びだすということは、制裁程度はあるかもしれない。そうなった時、巻き添えにするわけにはいかない。庇おうと、するかもしれないから。
「行ってくる」
簡潔に告げて、白虎の元へ向かうメイズ。その背中に、声がかかった。
「行ってらっしゃい!」
その言葉に、思わず振り返る。そこでメイズは、自分を見送る乗組員たちの顔を目にした。
急に、視界が開けた気がした。
唇を開いて、だが何を言葉にすることもなく、ただ吐息を漏らして。メイズは前を向き、歩を進めた。
残された乗組員の誰かが、ぽつりと呟いた。
「……今、メイズさん、笑った……?」
メイズがゴールド・ティーナ号に乗り込むと、周囲の空気がぴりりと張り詰めた。あちらこちらから視線を感じる。それらを無視して、メイズは案内役に促されるまま、船内の一室に足を踏み入れた。
「来たか」
重々しい言葉は、部屋の奥、中央に立つ男から発せられた。
男は老人と言うほど老いてはいなかったが、深く刻まれた目尻の皺や、白髪の混じった色褪せた金髪、蓄えられた髭から年齢を感じさせた。何よりも、声に重圧感と深みがある。しかし目の光は強く、一九〇ほどはある厚い体躯をしっかりと支えている。海賊としての衰えは感じさせない。金の海域の民のほとんどがそうであるように、ゆったりとした服装に、体を覆うことのできるローブをまとい、頭には日射を遮るためのターバンを巻き、目の周りを黒く縁どる化粧をしている。
彼が四大海賊の始まり、エドアルド。
メイズが視線だけ動かすと、エドアルドの両脇には六人の男たちが立っていた。一人を除いて、皆一様に隙が無い。おそらく、白虎海賊団の幹部だ。白虎は規模が大きいため、統率を取るためにいくつかの部隊によって構成されている。
一人だけ、異質な男が混ざっていた。白衣をまとい、眼鏡をかけた初老の男。優し気な目元をしており、うすく髭を生やした口元は、メイズの視線を受けて穏やかな笑みをかたどった。
呼ばれた立場ではあるが、礼を失したのはこちらだ。先に挨拶をすべきか、とメイズは口を開いた。
「たんぽぽ海賊団副船長、メイズだ。用件は先の二人から聞いているだろうが、まずは非礼を詫びる。俺が姿を見せることで、そちらに余計な混乱を与えまいとした。決して軽んじたわけではないが、誤解を与えたのなら悪かった」
その言葉に、エドアルドは品定めをするかのように、すっと目を細くした。
「いや、その懸念は正しい。だからこちらも部屋を用意させてもらった。狭くて悪いが、お前の姿が見えていると、落ちつかない奴らもいるもんでな」
落ちついた返しに、メイズは怪訝な顔をした。てっきりメイズに対し何かしらの感情があるから呼びつけたものと思っていたが、エドアルドからは特に敵意も悪意も感じない。
「俺は白虎海賊団の船長、エドアルドだ。事情は聞いているが、お前の口から、もう一度話を聞きたい」
感情の読めないエドアルドの表情に、メイズは慎重に言葉を紡いだ。ここでのやり取りは、奏澄の命に直結する。絶対に失敗するわけにはいかない。
「うちの船長が、三日前から熱病に罹っている。解熱剤を飲ませたが一向に体温が下がらず、今はもう意識が無い。次の島まではまだ日がかかる。かなり弱っていて、そこまで待っていたら体がもたないかもしれない。無理は承知だ、望む対価を払う。白虎の船医に診てもらいたい」
メイズの言葉と視線を受け止めて、エドアルドは考えるように髭を撫でつけた。
メイズの態度が気に食わなかったのか、灰色の髪を横で括った幹部の一人が苛立ったように零した。
「頼み事すんのに、頭の一つも下げらんねぇのかよ」
「おい」
「誠意が感じられねぇっつーんだよ」
「船長が話してんだろ、黙っとけ」
隣に立つ仲間に窘められ、幹部の一人は舌打ちをして黙った。
メイズは予想外の言葉に面食らった。どんな対価を要求されるか、という懸念はあったが、頭を下げるという発想は無かった。
誠意。その言葉は、記憶にある。
――『誠意を見せろよ』
かつての船の連中が、泣いて許しを乞う相手に、下卑た笑いと共にそう言っていた。無駄を嫌うメイズは、悪趣味だとは思ったが、大して気にもしなかった。それを言われた相手は、どうしていたか。
思い返しながら、メイズはその場に膝をついた。ぎょっとしたような顔が見えたが、構わずに両膝をついて、同じように両手をついて、そのまま――額を、地につけた。
「俺には、あいつを助ける手段が無い。もう、これ以上は、苦しんでいる姿を見ていられない。頼む、この通りだ。助けてくれ……!」
懇願するメイズに、幹部たちの動揺した空気が伝わる。この行動が果たして正しいのか、メイズにはわからない。ほとんどのことは力で解決してきた。人に頼み事をするのに、対価以外で、どうすれば誠意が伝わるのかなど、わかるはずもない。
しかし、できることなら何でもやる。土下座程度で済むのなら、己の矜持など。泥を被っても、足蹴にされても、何一つ削られることは無い。
重力に従って、首から下げていたペアリングが、シャンと音を立てて目の前に落ちてきた。
「頭を上げろ、メイズ」
エドアルドの言葉に、メイズは膝をついたまま、ゆっくりと上半身だけを起こした。
「うちのが余計なことを言ったな。悪かった」
そう言って、エドアルドは幹部の一人に視線をやった。
「お前も謝れ、アニク」
呼ばれた男――アニクは、ばつが悪そうに頭をかいて、メイズの前まで歩いてきた。
「悪かったよ。まさかそこまでするとは思わなかったんだ。やけに上からもの言うから、偉そうにと思っただけで」
ほら、と手を差し出されて、メイズは戸惑った。手を出さないメイズに痺れを切らせたアニクは、メイズの腕を掴んで立たせた。
「ふっつーに頭下げりゃいいものを。極端だなお前」
呆れたように言われて、メイズはやっと思い至った。そうか、ただ腰を折ればそれで良かったのか。どうにも気負い過ぎていたらしい、とメイズは肩の力を抜いた。
悪意を感じないはずだ。当然知られている相手に名乗ってみせる、礼儀を重んじる誠実さ。格下の海賊相手にも躊躇なく謝ってみせる、この謙虚さ。白虎の乗組員は、船長を筆頭に根が善人なのだろう。
「お前の気持ちはよくわかった。船医を貸そう」
「本当か!」
エドアルドの言葉に、メイズは身を乗り出した。
「最初は、お前があまりに冷静に見えたから、どうしたものかと思ったんだがな。見捨てるつもりはなかったが、場合によってはお前から保護する必要があるかもしれないと考えていた」
その言葉に、メイズは目を瞠った。
そうだ。白虎が『急病人の少女』を見捨てるわけがない。では、何を渋っていたのか。その可能性を、考慮しなかった。メイズと奏澄が共にいることを、不自然だと感じる方が自然なのだ。
「俺たちは」
「わかった、と言っただろう。お前が彼女を、心から大切にしていることは伝わった。それで充分だ」
「……恩に着る……!」
メイズは、今度は心からの感謝に、深々と頭を下げた。
他人の大切なもののために、力を貸してくれる者たちがいる。そのためには、まずこちらが心を開く必要がある。
悪意を、敵意を、疑って。捻じ伏せれば、同じものが返ってくるのは当然だ。それでいいと思っていた。自分一人なら。けれど、それでは彼女と同じ世界には生きられない。
彼女の教えてくれた世界は。面倒で、やりにくくて、心配事も多いが。
少しだけ、メイズにも、優しい。
それをどう受け止め、どう向き合っていくかは、メイズ次第なのだろう。
「疑うわけじゃないが、うちの大事な船医を貸すとなれば、それなりの担保がほしい。お前の大事な物を、何か一つ預けてくれないか」
言われて、メイズは眉を寄せた。メイズにとって大切なものは、たった一つしかない。
「俺の大事なものは、船長ただ一人だ。患者本人は預けられないだろう」
臆面もなく言ってのけるメイズに、エドアルドは多少驚いた様子を見せた。
それを気にも留めず、メイズは続ける。
「俺を拘束してもらっても構わないが」
「いや、人質がほしいわけじゃない。何より、お前は向こうの船に必要だろう」
言って、エドアルドはメイズの姿を眺め、胸元に目を留めた。
「その指輪は」
「……ああ、これは」
先ほど土下座をした時に、服の外に出てしまったのだった。メイズは指輪を持ち上げて、目を細めた。
「船長と、揃いで持っている」
それを聞いて、アニクが「えっ」と声を上げた。訝しんだメイズが視線を向けたが、アニクは口を押さえていた。さきほどの件を反省し、余計な口を挟まないようにしているのだろう。
「……なるほどな」
エドアルドは、妙に納得したように息を吐いた。
「いつの時代も、男を変えるのは女か」
ひとり言のように呟かれた言葉に、メイズはむっつりと黙った。直接的な言葉でないだけに、肯定も否定もしづらい。そもそも白虎は奏澄の年齢を知らないと思われる。下手なことを言えば墓穴を掘る。
「それを預かろう。構わないか?」
「ああ」
メイズはチェーンを首から外し、指輪をエドアルドに預けた。
「これは契約だ。船医が戻った時、この指輪も必ず返そう」
「よろしく頼む」
二人の約束が成されると、エドアルドは白衣の老人に声をかけた。
「ハリソン。すぐにでも、向こうの船に行ってやれ」
「わかりました」
返事をした老人――ハリソンは、メイズの前に来ると、友好的に手を差し出した。
「船医のハリソンです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、頼む」
メイズはその手を握り返した。仕事をする人間の手だが、戦う人間の手ではない。彼は完全に非戦闘員、医療のみを行う者だ。それでもこの部屋にいたということは、彼もまた、メイズを見定めるための一人だったのだ。エドアルドの信頼が厚いと見える。
そのままエドアルドは、もう一人、幹部に声をかけた。
「アニク、お前も行ってこい」
「えっ俺ぇ!?」
「ハリソン一人で行かせるわけにもいかないだろう。護衛も兼ねて、雑用でもしてこい」
「うへぇ……わかりましたよ」
嫌そうにしながらも、アニクは船長の指示に従った。
そうして、メイズは無事、船医であるハリソンと護衛のアニクを連れて、コバルト号へと帰還した。