あれほど心配していた海賊旗だったが、拍子抜けするほどに特に大きな問題が起こることもなく。暫く緑の海域を点々としていた奏澄たちは、コンパスに変化が無いため、予定通り青の海域へ入ることにした。

「あれがヴェネリーア島だ」
「わ、きれい……!」

 ヴェネリーアには色とりどりの家々が立ち並び、大きな一つの島というより、小さな群を橋などで繋いでいた。水路には小舟が浮かんでおり、その数から移動手段として普段使いされていることがわかる。
 コバルト号を港に泊め、奏澄たちはヴェネリーア島へ降り立った。

「風が気持ちいい。ここの気候は過ごしやすそうで良かった」
「そうだな。緑の海域に比べれば湿度も低い」

 緑の海域も食糧に困らず良かったが、あの湿気は苦手だったので、奏澄は上機嫌だった。広場の方からは楽しげな音楽が聞こえてきて、アルメイシャ島を思い出す。気分が高揚するのを感じながら、最低限の割り振りを確認して、いつものように乗組員たちは散った。

 奏澄はメイズと二人、まずは気になった広場の方へ向かった。そこでは予想通り、音楽を奏でたり、踊りを踊ったり、人形劇を披露したりと、パフォーマンスの場になっていた。石畳は歩きやすく、大きな噴水もあり、景観も整えられている。

「すごい。水の都、って感じ。水が豊富なんだね」
「水の量が豊富と言うよりは、水を確保するために水道設備がかなり整っている」
「そっか、川じゃないのか」

 足元に水が流れているのを見るとつい日本の川のように感じてしまいがちだが、この水路は海と繋がっているので海水だ。そのままでは使えない。むしろ水源になりそうな山や森が少ないからこそ、水をうまく回していくために水回りのインフラを重視したのだろう。

「ああ、ここなら多分シャワーが使えるぞ」
「えっそれはすごい」

 セントラルにもあったらしいが、あそこには長居しなかったので結局使っていない。その情報だけで、奏澄は今夜の宿が楽しみになった。

「お嬢さん、こっちで踊らない?」

 華やかなドレスを身にまとった女性に手を差し出されて、奏澄はメイズを窺った。行ってこい、というように手を払ったので、そのまま女性の手を取り、人の輪に加わる。

「わわ」

 足をもつれさせながらも、バイオリンの音に合わせ、適当なステップを踏む。踊りは得意ではないが、この場の空気に浮かれているようだ。周囲の人たちの歌声につられ、わからないながらも調子を合わせて口ずさむ。

「可愛らしい声ね」

 美しい女性に褒められて、奏澄は照れ笑いした。女性の声は澄んでいて、声まで美しい。こんな風だったらな、と奏澄は憧れの眼差しを向けた。
 一曲終わって、踊っていた人々がお辞儀をする。メイズの元へ戻ろう、と視線を向けて、奏澄は固まった。メイズの腕に、豊満な体の女性が腕を絡めていた。

「あら。お連れさん、誘われてるわね」

 一緒に踊ってくれていた女性が、奏澄の隣に立った。

「残念。私も誘おうと思っていたのに」
「!」

 驚いた顔で、奏澄は女性を見た。陽気な島だから観光客に親切にしてくれたのだとばかり思っていたが、もしかして自分をだしにメイズに声をかけるつもりだったのだろうか。身内だと思われたのかもしれない。
 奏澄は焦った。今すぐ駆け寄って引き剥がしてしまいたい気持ちもあるが、そもそもメイズはどう思っているのだろう。もしメイズがあの女性と一緒にいたいと思っているのなら、むしろ邪魔なのは自分の方なのではないだろうか。メイズは護衛だが、船に戻れば別の人を連れてくることもできる。だが、しかし。
 迷った結果、奏澄は近くで演奏していた奏者の一人に声をかけた。

「すみません、それお借りできますか?」

 奏澄が借りたのはギターだった。昔友人に軽く触らせてもらったことがあるくらいで、正直演奏技術に自信は全く無い。しかし、この賑やかな島で伴奏無しはきつすぎる。ものすごく簡単なコードしか弾けないが、奏澄は覚悟を決めた。
 
 ギターを鳴らし、大きく息を吸って、歌を紡ぐ。この島に相応しい、陽気な曲を。

 気づいた周囲が、手拍子をくれる。粗がごまかせるので、ありがたい。弾きながらの歌唱はかなりしんどい。
 奏澄が歌えば、メイズは絶対に気づく。気を引く方法がこのくらいしかないなんて、情けない。それでも、もしこれでメイズの目がこちらに向くなら。
 向かなければ、それはそれでいい。あの女性と話したいということなのだから、その時は船に戻って別の同行者を探そう。
 あの腕を無理やり解く権利は、奏澄には無い。
 メイズは奏澄のものだと言ってくれたが、それは彼個人の思想や嗜好を制限するものではない。行動は多少制限してしまうが、それでも縛りつけるようなことはしたくないと思っている。
 声が沈みそうになるのを、無理やり笑顔で明るく歌う。今は、この島の空気が、力を貸してくれる。

 歌が終わると、拍手と共に、何人かがギターケースにおひねりをくれた。ギターの持ち主は奏澄の取り分を渡そうとしてくれたが、ギターのレンタル代として奏澄はそれを辞退した。
 さて状況はどうなっているか、とおそるおそるメイズの方へ視線を向ければ、もうあの女性はいなかった。ほっとして、奏澄はメイズの元へ駆け寄った。

「お待たせ」
「お前ギターなんか弾けたのか」
「弾けるってほどじゃないんだけど、少しだけ、ね」

 奏澄は恥ずかしそうに笑った後、聞くべきではない、と思いながらも、どうしても気になって尋ねた。

「さっき女の人といたけど、どうしたの?」
「ああ、少し世間話をしただけだ」
「そっか」

 メイズがそう言うのなら、それ以上奏澄に言えることは無い。笑って答えたが、落ち込みが顔に出てしまったのか、メイズは気まずそうにした。

「ギター、買うか?」
「え? なんで?」
「最近よく歌ってるだろ。弾けるんなら、あってもいいんじゃないか」

 これは、機嫌を取ろうとしているのだろうか。元々怒っていたわけでもないし、メイズが罪悪感を抱く必要も無い。しかし、物でごまかせると思われているのなら心外だ。

「別にいいよ。大して弾けないし」
「練習すれば弾けるだろ。お前が弾けない内は、誰かに弾いて貰えばいいんじゃないか」
「弾いて貰うには、私の知ってる曲をどうにかして伝えないといけないわけだから、やっぱり無理かなぁ」
「こっちの曲を覚えたらどうだ」
「それは……」

 奏澄は顔を曇らせた。こちらの曲を覚えるのでは、意味が無い。そう言おうとして、言葉を切った。その言い方じゃ、喧嘩腰になる。そうじゃない。

「私が最近よく歌ってるのは、忘れたくないから」
「……何をだ?」
「向こうの、記憶」

 思いがけず、重い空気になってしまった。こんな風にしたかったわけじゃないのに。けれど、メイズは話を聞く体勢だ。ここで切り上げてしまうと、逆に気をつかわせてしまうかもしれない。

「私、身一つでこっちに来たから。元の世界から持ち込めたものって、記憶しかないの」

 本当は、一つだけ持っていた。だけど、それはもう無い。あったはずの場所に今収まってるペンダントを、無意識に撫ぜた。

「でも記憶って、不確かでしょ。思い出は、ぼやけて、薄れていく」

 確かに覚えていたはずの人の顔が、声が、風景が。今は、確かだと自信を持って言えない。

「歌なら、覚えておける。旋律も歌詞も決まっているから、それを再現すればいい。音楽と思い出は結びついていることも多いから、歌を忘れなければ、思い出も蘇る」

 奏澄の時代には、音楽が溢れていた。テレビで、ラジオで、街中で。至る所で音楽が流れていて、それは記憶に深く根付いている。音楽を思い返す時、それが流れていた場面も思い返すことができる。

「だから、ね。いいの。確認作業みたいなもので、人に聞かせたりとかしたいわけじゃないから」

 寂しそうに笑った奏澄に、メイズは眉を顰めた。何かを言いたそうにしていたが、結局口を噤んだ。

「ほら、せっかく楽しそうな島に来たんだし、もう行こう? あっちの露店とか見たいな」
「……ああ」