倉庫に辿り着くと、男は崩れるように座り込んだ。
奏澄は医者から受け取った薬を飲ませ、できる限りの手当てを施す。熱が高くふらつく男の頭を膝に乗せ、無いよりはましと荷物を隠すのに使っていたボロ布を男の体にかけた。
解熱剤が効くまでには暫くかかるだろう。汗が伝う額を、水で濡らした布でそっと押さえる。
「あんた、なんでここまでする」
熱でぼんやりしたままの男に問われ、奏澄は口ごもった。一言では、説明できない。
「俺が海賊だって、気づいてるんだろ。動けるようになったら、襲われるとは考えないのか」
「……海賊かもしれない、とは、医者から聞きました。あまり、現実感はないですけど」
奏澄の返答に、男は怪訝な反応をした。それを見て、ここでは海賊は一般的な存在なのかもしれないと認識を改める。
少し考えて、奏澄はぽつりと呟いた。
「……あなたも、私と同じ、ひとりぼっちなのかなって……」
ひとりぼっち。言葉にすると、その事実が重くのしかかる。
そのまま、奏澄はぽつりぽつりと語りだした。
「私、迷子みたいなんです。凄く……凄く、遠い所から来てしまったみたいで。ここには、知っているものが何もなくて、知っている人も誰もいなくて。帰り方も……わからなくて。なんだか、リアルな夢でも見ているような、気分で」
誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。話すことで、頭の中を整理したかったのかもしれない。熱にうかされた相手なら、深く考えないと思ったのかもしれない。
男は奏澄の独白を、黙って聞いていた。
「私、何もないんです。ここには、私を証明するものが、何もなくて。だから、実感が欲しかったのかもしれません。私がした、何かが。結果の残る何かが欲しくて、あなたを利用しました」
或いは、見返りを期待したのかもしれない。誰も手を差し伸べない孤独な男に自分を重ねて。男が救われるのなら、自分も、誰かに救ってもらえるのではないかと。孤独のまま打ち捨てられ野垂れ死ぬ人生など、存在しないのだと。そんな優しい世界を、期待した。
助けたかったのは、男ではなく自分だ。
それはひどく浅ましいことのように思えて、口にはできなかった。
――ああ、だから私は。
――世界に、捨てられたのかもしれない。
違う、違うと嘆くばかりで。出来損ないの自分を、それでも必要としてくれる誰かを欲した。何もできない自分が、それでもできることを欲しがった。
本当に必要とされたいのなら、なりふり構わずに、手を差し伸べれば良かったのだ。何もできなくとも。何を失っても。例え自分が、傷ついても。
自分が可愛い臆病者が、何も手放さないまま何かを欲しがるから。きっと、全部取り上げられた。
「もう、失くすものなんて何もありませんから。きっと、怖いものもないんです。例えあなたに殺されたとして、それは、私の見る目がなかったってだけの話です」
本心だった。全部失って、やっと気づいた。『うまくやろう』なんて、傲慢だったということに。
きっとうまくはいかないだろう。見返りは無いだろう。相手は感謝なんかしないだろう。
それでも、と思えなければ。最初から、求めるべきではないのだ。
ふと奏澄が視線を落とすと、男は目を閉じていた。眠っているのだろう。奏澄の話を最後まで聞いていたかどうかもわからない。
ひとり言のようになってしまったが、口にしたことで、奏澄は幾分かすっきりとした気分になっていた。
熱は少し下がったように思うが、まだ汗ばむ男の額を、奏澄は再度濡らした布で押さえる。
一晩中、そうして過ごした。
その間、奏澄はこの地へ来てから、一番穏やかな心持ちだった。
*~*~*
「……ん……」
瞼に光が差して、慌てて身を起こす。それに合わせて、奏澄の肩から布がずり落ちた。見ると、それは男の体にかけていたボロ布だった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。既に日が昇っているようで、倉庫の窓から日が差していた。
男はどうしたのだろうと周囲を見回してみるが、人の気配は無かった。
いなくなってしまったのか、と奏澄は多少気落ちした。だが、相手が海賊だということを考えれば、無事でいることだけでも御の字だろう。水や薬が入った袋もそのままだった。
ろくに話もできず、また一人に戻ってしまったことへの寂しさはあったが、おそらく奏澄にボロ布をかけたのは男だろう。あの強面な男の不器用な優しさを目にしたようで、奏澄はくすりと微笑んだ。
その瞬間、倉庫の扉ががらりと音を立てて開いた。
文字通り飛び上がって驚いた奏澄は、座り込んだまま入口へと勢いよく顔を向けた。
「あ……」
そこには、眠るまで共にいた男が立っていた。身なりは昨日とは変わっていて、血染めだったターバンやシャツは新しいものになっていた。
だが、何より奏澄が注目したのは、男の腰元だった。赤いサッシュベルトに差し込まれた、フリントロック式のマスケット。平成の世では博物館などでしか実物を目にする機会のない骨董品だが、それが銃であるということくらいは奏澄にもわかった。飾りではないだろう。武器を携帯しているという事実に、奏澄は戦慄した。
「起きたのか」
「え……あ、はい。あの、体調の方は」
「問題無い」
短くそう答え歩いてくる男に、奏澄は驚いた。僅かに庇うような仕草はあるが、自力で歩いている。あの怪我では暫くまともに動けないとばかり思っていたが、回復力が高いのだろうか。
「お前に渡すものがある」
「え? ……っわ!」
何かの袋を投げ渡されて、反射的に受け取る。中身を見ると、貨幣のような物が詰め込まれていた。ぎょっとして袋と男の顔を交互に眺める。
「それを渡す代わりに頼みがある」
戸惑う奏澄の目の前に、男が膝をついた。
「俺はメイズ。俺を、お前の傍に置いてほしい」
メイズと名乗った男の、真っすぐに射抜いてくる瞳に、奏澄は目を奪われた。
――海が、ある。
メイズの瞳は、深い海の色だった。それは、奏澄が持っていたサファイアの色によく似ていた。
色だけではなく。海賊だから、なのだろうか。メイズの瞳は、本当に海を湛えているように、奏澄の目には映った。
「これでも、それなりに名のある海賊だった。用心棒くらいなら務まる。お前に救われた命だ。お前の好きに使ってほしい」
喉が、震えた。孤独感に苛まれている奏澄にとって、一も二もなく頷きたいほどの言葉だった。
でも、救われたと、言ってくれた。自分の行いで、救えたものがあるのだと。それだけで、奏澄には充分だった。
だから、尋ねなくてはならない。
「あなたには、帰る場所は、ないんですか」
「無い」
「行きたい場所は。会いたい人は」
「何も無い。俺にはもう、何も無いんだ。だからあの時、死んでもいいと思った」
もう、何も無い。それはつまり、元々は持っていたということ。奏澄と同じように、メイズも、全てを失うほどの何かがあったのだろうか。
「だが、お前が助けた。俺が生きていることが、お前の成した結果だ。目の届く所に置いておけ」
「私は、あなたを、利用しただけです」
「それでいい。好きなだけ利用しろ。……少なくとも、お互い、独りではなくなる」
お互い、とメイズは言ったが、それが奏澄のためであることはわかりきっていた。
メイズは引かない。きっと奏澄が何を言っても、覆すことはしないだろう。
答えの代わりに、零れ落ちたのは涙だった。後から後から溢れ出して、止まらない。
この地に来てから、奏澄は一度も泣かなかった。無意識に、泣いてしまったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうな気がして、歯止めをかけていたのだろう。それが今、メイズの言葉で決壊した。
泣きじゃくる奏澄を前にメイズはうろたえて、迷うように手を伸ばした後、ひどく不器用に頭を撫でた。
奏澄は医者から受け取った薬を飲ませ、できる限りの手当てを施す。熱が高くふらつく男の頭を膝に乗せ、無いよりはましと荷物を隠すのに使っていたボロ布を男の体にかけた。
解熱剤が効くまでには暫くかかるだろう。汗が伝う額を、水で濡らした布でそっと押さえる。
「あんた、なんでここまでする」
熱でぼんやりしたままの男に問われ、奏澄は口ごもった。一言では、説明できない。
「俺が海賊だって、気づいてるんだろ。動けるようになったら、襲われるとは考えないのか」
「……海賊かもしれない、とは、医者から聞きました。あまり、現実感はないですけど」
奏澄の返答に、男は怪訝な反応をした。それを見て、ここでは海賊は一般的な存在なのかもしれないと認識を改める。
少し考えて、奏澄はぽつりと呟いた。
「……あなたも、私と同じ、ひとりぼっちなのかなって……」
ひとりぼっち。言葉にすると、その事実が重くのしかかる。
そのまま、奏澄はぽつりぽつりと語りだした。
「私、迷子みたいなんです。凄く……凄く、遠い所から来てしまったみたいで。ここには、知っているものが何もなくて、知っている人も誰もいなくて。帰り方も……わからなくて。なんだか、リアルな夢でも見ているような、気分で」
誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。話すことで、頭の中を整理したかったのかもしれない。熱にうかされた相手なら、深く考えないと思ったのかもしれない。
男は奏澄の独白を、黙って聞いていた。
「私、何もないんです。ここには、私を証明するものが、何もなくて。だから、実感が欲しかったのかもしれません。私がした、何かが。結果の残る何かが欲しくて、あなたを利用しました」
或いは、見返りを期待したのかもしれない。誰も手を差し伸べない孤独な男に自分を重ねて。男が救われるのなら、自分も、誰かに救ってもらえるのではないかと。孤独のまま打ち捨てられ野垂れ死ぬ人生など、存在しないのだと。そんな優しい世界を、期待した。
助けたかったのは、男ではなく自分だ。
それはひどく浅ましいことのように思えて、口にはできなかった。
――ああ、だから私は。
――世界に、捨てられたのかもしれない。
違う、違うと嘆くばかりで。出来損ないの自分を、それでも必要としてくれる誰かを欲した。何もできない自分が、それでもできることを欲しがった。
本当に必要とされたいのなら、なりふり構わずに、手を差し伸べれば良かったのだ。何もできなくとも。何を失っても。例え自分が、傷ついても。
自分が可愛い臆病者が、何も手放さないまま何かを欲しがるから。きっと、全部取り上げられた。
「もう、失くすものなんて何もありませんから。きっと、怖いものもないんです。例えあなたに殺されたとして、それは、私の見る目がなかったってだけの話です」
本心だった。全部失って、やっと気づいた。『うまくやろう』なんて、傲慢だったということに。
きっとうまくはいかないだろう。見返りは無いだろう。相手は感謝なんかしないだろう。
それでも、と思えなければ。最初から、求めるべきではないのだ。
ふと奏澄が視線を落とすと、男は目を閉じていた。眠っているのだろう。奏澄の話を最後まで聞いていたかどうかもわからない。
ひとり言のようになってしまったが、口にしたことで、奏澄は幾分かすっきりとした気分になっていた。
熱は少し下がったように思うが、まだ汗ばむ男の額を、奏澄は再度濡らした布で押さえる。
一晩中、そうして過ごした。
その間、奏澄はこの地へ来てから、一番穏やかな心持ちだった。
*~*~*
「……ん……」
瞼に光が差して、慌てて身を起こす。それに合わせて、奏澄の肩から布がずり落ちた。見ると、それは男の体にかけていたボロ布だった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。既に日が昇っているようで、倉庫の窓から日が差していた。
男はどうしたのだろうと周囲を見回してみるが、人の気配は無かった。
いなくなってしまったのか、と奏澄は多少気落ちした。だが、相手が海賊だということを考えれば、無事でいることだけでも御の字だろう。水や薬が入った袋もそのままだった。
ろくに話もできず、また一人に戻ってしまったことへの寂しさはあったが、おそらく奏澄にボロ布をかけたのは男だろう。あの強面な男の不器用な優しさを目にしたようで、奏澄はくすりと微笑んだ。
その瞬間、倉庫の扉ががらりと音を立てて開いた。
文字通り飛び上がって驚いた奏澄は、座り込んだまま入口へと勢いよく顔を向けた。
「あ……」
そこには、眠るまで共にいた男が立っていた。身なりは昨日とは変わっていて、血染めだったターバンやシャツは新しいものになっていた。
だが、何より奏澄が注目したのは、男の腰元だった。赤いサッシュベルトに差し込まれた、フリントロック式のマスケット。平成の世では博物館などでしか実物を目にする機会のない骨董品だが、それが銃であるということくらいは奏澄にもわかった。飾りではないだろう。武器を携帯しているという事実に、奏澄は戦慄した。
「起きたのか」
「え……あ、はい。あの、体調の方は」
「問題無い」
短くそう答え歩いてくる男に、奏澄は驚いた。僅かに庇うような仕草はあるが、自力で歩いている。あの怪我では暫くまともに動けないとばかり思っていたが、回復力が高いのだろうか。
「お前に渡すものがある」
「え? ……っわ!」
何かの袋を投げ渡されて、反射的に受け取る。中身を見ると、貨幣のような物が詰め込まれていた。ぎょっとして袋と男の顔を交互に眺める。
「それを渡す代わりに頼みがある」
戸惑う奏澄の目の前に、男が膝をついた。
「俺はメイズ。俺を、お前の傍に置いてほしい」
メイズと名乗った男の、真っすぐに射抜いてくる瞳に、奏澄は目を奪われた。
――海が、ある。
メイズの瞳は、深い海の色だった。それは、奏澄が持っていたサファイアの色によく似ていた。
色だけではなく。海賊だから、なのだろうか。メイズの瞳は、本当に海を湛えているように、奏澄の目には映った。
「これでも、それなりに名のある海賊だった。用心棒くらいなら務まる。お前に救われた命だ。お前の好きに使ってほしい」
喉が、震えた。孤独感に苛まれている奏澄にとって、一も二もなく頷きたいほどの言葉だった。
でも、救われたと、言ってくれた。自分の行いで、救えたものがあるのだと。それだけで、奏澄には充分だった。
だから、尋ねなくてはならない。
「あなたには、帰る場所は、ないんですか」
「無い」
「行きたい場所は。会いたい人は」
「何も無い。俺にはもう、何も無いんだ。だからあの時、死んでもいいと思った」
もう、何も無い。それはつまり、元々は持っていたということ。奏澄と同じように、メイズも、全てを失うほどの何かがあったのだろうか。
「だが、お前が助けた。俺が生きていることが、お前の成した結果だ。目の届く所に置いておけ」
「私は、あなたを、利用しただけです」
「それでいい。好きなだけ利用しろ。……少なくとも、お互い、独りではなくなる」
お互い、とメイズは言ったが、それが奏澄のためであることはわかりきっていた。
メイズは引かない。きっと奏澄が何を言っても、覆すことはしないだろう。
答えの代わりに、零れ落ちたのは涙だった。後から後から溢れ出して、止まらない。
この地に来てから、奏澄は一度も泣かなかった。無意識に、泣いてしまったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうな気がして、歯止めをかけていたのだろう。それが今、メイズの言葉で決壊した。
泣きじゃくる奏澄を前にメイズはうろたえて、迷うように手を伸ばした後、ひどく不器用に頭を撫でた。