その夜。航海日誌と日記を閉じて、奏澄は自室で大きく伸びをした。
ライアーが追われるハプニングはあったが、そう大きな騒ぎでもない。急いで出航することもないので、コバルト号はまだ島に停泊している。宿を取っても良かったが、念のため奏澄は船の方にいることにした。
今日の日記は、少し長くなってしまった。反省点や、思ったことなどをつらつらと書いていたら、文章がどんどん伸びてしまった。しかし、文字にすることで、多少気持ちが整理できたような気がする。
事前に可能性を考慮していたから、手配書を見た時、大きく動揺するようなことは無かった。それでも、まさか自分が罪人として手配されるようなことが人生の内にあるとは思ってもみなかった。至って善良な一市民として生き、生涯そのままだと思っていた。
元の世界に戻った時、自分は自分のままでいられるだろうか。
今の自分は、昔ほど嫌いではない。失敗も多いが、大切な仲間がいて、仲間も大切にしてくれて、試行錯誤を繰り返す中で成長も感じていた。楽しい、と感じる時間が、確かにある。
壁にかけられた、ライアーが選んでくれた服を見る。ライアーの手腕は、魔法のようだった。わくわくした。思い返して、笑みが浮かぶ。
元の世界でだって着飾ることはしたが、どちらかと言うと体面を気にして、みっともなくないように、同行者に迷惑をかけないように、という意識が強かったように思う。着飾って、それを誰かに見てほしい、だなどと。
メイズの言葉を反芻して、奏澄はにやけそうな顔を手でぐにぐにと伸ばした。別に、深い意味はない。褒められたら誰だって嬉しい。こちらに来てからおしゃれなどしなかったから、少しテンションが上がっただけだ。
それだけの、はずだ。
コンコン、とノックの音がして、奏澄の肩が跳ね上がった。
「ど、どうぞ」
「入るぞ」
訪ねてきたのはメイズだった。こんな時間に部屋に来るような人物は他にいないので予想はしていたが、今まさに考えていた相手だったので、動揺してしまう。
「どうしたの?」
「今日のことで、ちょっとな」
それを聞いて、奏澄は気を引き締めた。ギルドに行ったのは、メイズの意向だったはずだ。今後についての、重要な話かもしれない。
しかしメイズは、すぐに話を切り出さず、何か言いにくそうにしている。
「メイズ? 何?」
「いや……お前、何か俺に話したいこととかないか」
「話したいこと?」
奏澄は首を傾げた。メイズが聞きたいことならまだしも、奏澄が話したいこと、というのはどういう意味だろう。
「えっと……手配書のこと? ライアーから聞いたんじゃなかったっけ」
「ああ、そっちは聞いてる。そうじゃなくて、ライアーと別れた後、何ともなかったか」
「ああ、うん。ラコットさんたちと合流できたから、特には」
「……そうか」
そう言ったものの、納得いかない顔をしている。真意が読めなくて、奏澄は不安になった。もしかして、ラコットたちがあの出来事を話したりしたのだろうか。
「何か気がかり?」
奏澄が問うと、メイズは逡巡する様子を見せた後、重い口を開いた。
「お前が、誰かに泣かされたんじゃないかと」
「えっ」
それは誤解だ。奏澄は勝手に泣いただけで、誰にも泣かされてなどいない。驚いた僅かな沈黙をどう取ったのか、メイズは言葉を続けた。
「言いたくないなら、言わなくていい。ただ、お前は抱え込むところがあるから、俺に遠慮しているなら話を聞こうと思っただけだ」
その言葉を聞いて、奏澄は胸がぎゅっとなるのを感じた。奏澄が、何か辛いことがあったんじゃないかと心配して、でもそれを無理やり聞き出すのも憚られ、わざわざ様子を見にきてくれたのだ。
衝動的に抱きつきたくなって、ぐっと堪えた。これがマリーだったら、多分、遠慮なく飛びついていた。でも今、メイズ相手には、何故かできなかった。
「心配かけてごめん。でもそれ、誤解で、誰にも泣かされてないよ」
「……つまり、あいつの勘違いだと」
「あ、いや、えと、泣いたことは泣いたんだけど」
あいつ、がライアーなのかラコットなのかはわからないが、伝聞なのだとしたら相手を嘘つきにしてしまう。それは避けたくて補足したが、余計なことを口走ったかもしれない。
「やっぱり何かあったのか」
「えーーっと」
断片的に情報を出すと、誤解が加速しそうだ。奏澄は観念して、ライアーと別れた後のことを話した。
「そういう、感じなので……自業自得というか、とにかく、大丈夫だから」
話を聞いたメイズは、理解はしたようだが、納得はしていない、という顔だった。
「男に絡まれたことには変わりないだろう」
「だから、絡まれてないから。善意だから」
「善意とは、限らないだろ。下心があったんじゃないか」
「……メイズ?」
何故だろう。ラコットと出会った時と同じような不機嫌さを感じる。
「今後、ああいう格好はしない方がいいんじゃないか」
「なんで?」
「女に見える」
予想外の言葉が出てきて、奏澄は一瞬固まった。変化に無頓着なのかと思ったが、そういうわけでは無かったようだ。
「私、最初っから、女だけど」
「そういう意味じゃない。わかって言ってるだろ」
わかる。わかるが、わからない。それは、悪いことなのだろうか。そして、メイズに指摘されるようなことなのだろうか。
少しだけむっとして、なのに、何故か僅かに喜びがあった。
多分、ここは、怒るところなのだ。奏澄の服装をメイズに決められる謂れはない。たまにはおしゃれしたい時だってあるだろう。その度に嫌な顔をされたら、奏澄だって傷つく。
それでも。メイズは奏澄を子ども扱いしている節があったから、年相応に見てくれた気がして、嬉しい、と思ったのだ。着飾って良かった。やってくれたのはライアーだが。
「じゃぁ、ああいう格好するのは、メイズといる時だけにする。それならいい?」
そう言うと、メイズは微妙な顔をした。
「絡まれるのが心配なんでしょ? 一緒にいれば、問題ないじゃない」
「片時も目を離さずにいられるわけじゃない」
「お父さんか」
思わずつっこんだ。幼児か。一瞬でも目を離したら消えるとでも思っているのか。
しかしその言葉を受け取ったメイズは、むしろ得心がいった、という顔だった。
「そうかもしれないな」
「はい?」
「父親ってのは、娘に虫が寄りつくのを嫌がるものなんだろ」
奏澄は呆然とした。何だろう、この、一歩進んで二歩下がったような感じは。
今度こそむっとして、奏澄はメイズに枕を投げつけた。
「メイズのばーーーーか!!」
部屋から追い出して、ドアを閉めた。肩で息をして、そのまま座り込む。
「何してんだか……」
それこそ、十代の反抗期のような態度を取ってしまった。自分でも、何故こんな馬鹿な真似をしたのかわからない。
十代と違うのは、奏澄は自制が利く方なので、すぐに謝る方向へ思考が向くことだろう。
今日はもう恥ずかしさから顔も合わせられないが、明日になったら自分から謝罪しよう、と心に決めた。
翌朝。船に残っている乗組員のために朝食を用意するべく、アントーニオは厨房に立っていた。
「アントーニオ」
「メイズさん。どうかした?」
「カスミ見てないか」
「今日はまだ見てないなぁ。何か用? 会ったら伝えておくけど」
「いや、いい。邪魔したな」
それだけ言うと、メイズは立ち去った。それから少しの間黙っていたアントーニオは、手を止めないまま、誰もいないはずの厨房に話しかけた。
「メイズさん、行ったよ」
「ごめん、アントーニオさん。ありがとう」
足元から返事をしたのは、奏澄だった。
アントーニオの手伝いで厨房にいたが、メイズが来たので咄嗟にしゃがみ込んで隠れたのだった。何も言わなかったが、アントーニオは察して隠してくれた。
「どうしたの? メイズさんと喧嘩でもした?」
「う~ん、喧嘩……では……ない、気がします」
昨日の時点では、会ったらすぐにでも謝ろうと思っていた。なのにどうしたことか、今日は思わず隠れてしまった。自己分析は得意な方だと思っていたのに、今回は自分のことがよくわからない。
「何かしちゃった?」
「そう、ですね。ちょっと、大人げないことを」
奏澄がそう言うと、アントーニオはおかしそうに笑った。
「そんなの、メイズさんの方がずっと大人なんだから、気にしなくていいのに」
「そういうわけにはいかないでしょう。私だって、子どもじゃないんだから」
「ぼくらからしたら、子どもみたいなものかなぁ」
そう言われ、奏澄は口を噤んだ。やはり、年齢差がある以上、子ども扱いは仕方ないのだろうか。
余談だが、アントーニオがメイズより年上だと知った時は度肝を抜かれた。口から出かかった童顔、という言葉をぐっと飲み込んだ。性格や振る舞いも影響しているだろうが、どちらにせよ奏澄が言えたことではない。
「あ、ご、ごめんね。子どもっぽいって言ってるわけじゃなくて」
「大丈夫です、わかってます」
失言だった、というように慌てたアントーニオに、奏澄は苦笑で返した。
「でも、本当に気にすることないんじゃない? メイズさんも、全然怒ってる感じじゃなかったよ」
「……怒るほどのことでもないんでしょう」
「ああ、怒ってほしかった?」
そう言われて、奏澄は驚いた。そんなこと、考えもしなかった。
しかし言われてみれば、なんだか腑に落ちる気もして、自分の感情に戸惑う。
「カスミはしっかりしてると思ってたけど、メイズさんには甘えてるんだね」
甘えている。言葉を反芻して、ぶわっと顔に血が上る。
メイズに甘えている。それ自体は別にいい。自覚があって甘えている時は、いいのだ。ただ、今の自分の行動にしっくりくる言葉が見つかってしまった。
――試し行動。
「私、幼児でした……」
「ど、どうしたの急に」
頭を抱え込む奏澄に、アントーニオはさすがに手を止めた。
「いえ、なんでもないです。ちゃっちゃと準備しましょう、ちゃっちゃと」
「う、うん?」
奏澄は雑念を消すかのごとく、仕事に励んだ。
朝食の準備が整ったので、奏澄は乗組員たちに声をかけにいった。その中には当然メイズもいたが、目が合うと、奏澄は視線を逸らしてしまった。
結局謝罪はできないまま、朝食は終わり、島に降りていた乗組員たちも戻り、ぎこちない空気のままコバルト号は次の島へ出航した。
その日の内には謝ろう、と心に決めていたはずなのに、奏澄はメイズに声をかけることができずに、結局そのまま一日経ってしまった。このままでは周囲にも気をつかわせる。明日こそ、明日こそ。
「カスミー、ちょっとおいで」
「マリー?」
疑問符を浮かべながら行くと、お茶の誘いだった。二つ返事で了承したが、珍しいことに用意されていたのは二人分だった。
「二人きり?」
「そ。ちょっと聞きたいことがあるから」
奏澄は知らず身構えた。マリーに怒っている気配は無いが、二人きりで話、と言われると、悪い方に考えてしまう。
「そう硬くならないでよ。女同士、ちょっと恋バナでもしようってだけなんだから」
「恋バナ?」
ほっとしたものの、話題のチョイスに奏澄は首を傾げた。
「マリー、好きな人でもできたの?」
「違う違う。あんたの話」
「私?」
「メイズと何かあった?」
奏澄は一瞬黙った。聞かれるかもしれないとは思っていたが、それが何故恋バナなのか。
「ちょっと、気まずいだけ。それに恋バナにはならないよ」
「まぁそこは言葉の綾ってやつで。カスミが長引かせてるの珍しいから、こじれてるなら話でも聞こうと思って」
奏澄は黙って、お茶を飲んだ。自分の気持ちが自分ではっきりしていないのに、何からどう話せばいいのか。
「言いたくないなら、無理には聞かないよ」
「ううん、そうじゃないの。ただ、なんて言えばいいのか、わからなくて」
「ちゃんと話そうとしなくていいから。とりあえず、起こったこと順番に言ってみなよ」
沈黙の後、奏澄はぽつりぽつりと、あの日のことを語り出した。
島で迷子になった時に、泣いてしまったこと。その時、知らない男たちに声をかけられたこと。奏澄が泣かされたと勘違いしたメイズが、心配して話を聞きにきてくれたこと。奏澄の装いに問題があったような言い方をされたこと。メイズが、奏澄を娘扱いしたこと。それに対して、怒ってしまったこと。
「なるほどねぇ。メイズが悪いんじゃない?」
「えっ!?」
自分がどう謝ればいいか、という話になると思っていたのに、いきなり予想外のことを言われて奏澄は戸惑った。
「いや、私が、子どもっぽい拗ね方したから」
「その原因はメイズの独占欲にあるわけでしょ。それを庇護欲とごっちゃにしてごまかして。カスミがどんな格好しようが、カスミの自由じゃないか。口出される筋合いないよ」
独占欲云々はわからないが、服装に関しては奏澄も同じことを思った。思ったが、メイズの指摘は心配故だ。そう思うと、無下にはできない。
「私に何かあって、困るのは私だけじゃないし。一番迷惑がかかるの、メイズだから」
「物分かりがいいねぇ。あんまり甘やかすのもどうかと思うけど」
「……甘やかす?」
甘やかされる、ではなくて。文脈が読み取れなくて、奏澄は首を傾げた。
「そ。あんたはメイズに甘やかされてる、って思ってるみたいだけど、あたしから見たらあんたもメイズを甘やかしてるよ」
「え、えぇ……? どこが?」
「なんかあったら、まず自分のせいだと思ってるところとか。メイズの意見を優先しがちなとことか」
思い当たる節はあるが、それは果たして甘やかしていることになるのだろうか。メイズは奏澄よりずっと多くのことを知っていて、頼りになって、それに長らく甘えてきているのは奏澄の方だ。
「あの男だって完璧じゃないんだから。いつも正しいわけじゃないよ」
それはそうだろう、と思ったが、奏澄は口を噤んだ。人間誰しも間違いはある。当たり前だ。それでも、信仰にも似た形で、メイズの言うことを無条件に受け入れているようなところもあった。
それはつまり、メイズに娘扱いされて怒ったが、メイズを父親扱いしていたのは自分の方だったのかもしれない、ということ。
やはりこの場合、悪いのは自分の方なのでは、と思考がループした。
「でも、私が謝らないと、収まらないよね」
喧嘩をしているわけではないが、一方的に避けているのは奏澄の方だ。奏澄の方から歩み寄らない限り、メイズは気づかって必要以上に接触してこないだろう。
「暫くやきもきさせといたら? そのくらいしたって罰当たらないでしょ」
「船長と副船長がそれだと、周りが困るじゃない」
「いいじゃないか、別に。たまには、周りがどうとか考えないで、好きにしてみたら」
「考えないのは、難しいなぁ」
「簡単なことさ。メイズにするみたいに、あたしたちにも甘えてくれればいいんだよ」
ぱちり、と奏澄は瞬きした。目の前のマリーは、自信ありげに笑っている。
そうか。こんな子どもっぽい態度を取る程度には、奏澄はメイズに気を許している。そして、それを許してくれるほどに、メイズも奏澄を受け入れている。
それは二人に限ったことではない。きっと、乗組員たちも、同じようにしてくれるはずだ。
迷惑に感じる人が、いないとは限らない。けれどそれを理由に奏澄を嫌う人は、この船にはいないはずだ。行き過ぎることがあれば、ちゃんと言ってくれるだろう。
そう信じることは怖い。自分だけが思っているんじゃないか。加減を間違えてしまうんじゃないか。
けれど、奏澄の方が線引きをしていたら、いつまでもその境界は消えない。
信じられるだけの根拠は、目の前のマリーの笑顔で充分だろう。
「なら、お言葉に甘えようかな」
笑顔を見せた奏澄に、マリーも満足げに笑みを返した。
「ま、それはそれとして。距離置いてる間に、カスミは自分の気持ちもちょっと整理した方がいいかもね」
「うん?」
「娘だって言われたの、なんで嫌だったの?」
問われて、奏澄はあの時の気持ちを思い返した。服装のことを言われた時は一度堪えたのに、何故娘扱いは耐え切れなかったのか。
「子ども扱いされたのが、ショックだったから、かな」
一度は歳相応に評価してもらえたと思ったのに、そこからの落差があったことも要因だろう。
「でも、前にメイズは家族みたいなものって言ってたじゃないか。父親は嫌なの?」
「あれは……」
奏澄は口ごもった。あくまで、あえて言うなら家族が近い、というニュアンスだった。あの時は、それ以外に言い方が見つからなかったからだ。
「父娘だと、保護者と被保護者になっちゃうでしょ。もうちょっと、対等な関係でいたいというか」
「メイズはカスミの護衛なんでしょ。守ってもらうだけじゃ嫌?」
言われて、奏澄は考え込んだ。護衛なのだから、役割としては、守る者と守られる者になる。そういう意味では、保護者と被保護者というのもあながち間違いではない。
武力でも、生活面でも、奏澄はメイズに敵わない。それでも、船長として、できることを頑張ってきたつもりだ。乗組員を守ることは、船長の務めだと思っている。そこには、メイズも含まれる。
「私は、船長だから。メイズのことも、守ってあげたいと、思ってる」
「あんなに強いのに?」
「それは、戦闘面じゃ私の出る幕なんてないよ。でも、そういうことじゃなくて。嫌なこととか、悲しいこととか、そういうのからは……なるべく、遠ざけてあげたい」
「それは、他の乗組員も同じ?」
「もちろん。みんな、笑ってて欲しいし、幸せになってほしい」
自分に関わることになったせいで、不幸になどなってほしくない。大変な思いをさせているからこそ、幸せになってほしいと思っている。
「じゃぁ、カスミの知らないところで、誰かのおかげでメイズが幸せになったとして、カスミは嬉しい?」
「メイズが幸せなら、嬉しいよ」
即答したが、僅かに喉が引き攣った。
奏澄はメイズの幸せを望んでいる。メイズが幸せになるというのなら、場所も過程もましてや相手など、関係無い。だというのに、小骨が刺さったようなこの違和感は、なんなのか。
メイズとは、決して離れないと約束した。奏澄の一番近くに居続ける限り、メイズが他の誰かと特別親密になることは難しいだろう。だからだろうか。別の誰かがメイズを幸せにできるのなら、奏澄は必要ない。奏澄はメイズがいないと生きられないが、メイズは奏澄がいなくても生きられる。それが、怖いのだろうか。
眉を顰めて首を捻る奏澄に、マリーは苦笑した。
「フィルターが強いねぇ」
「え?」
「いや。ま、時間はありそうだし、よーく考えるといいよ。この旅の終着点を考えれば、自分の気持ちがうやむやなままだと、後悔するかもしれないからね」
どういう意味か、と聞こうとして、船に大きな音が響き渡った。それに、背筋がひやっとする。これは、警戒態勢の合図だ。直後、船が揺れた。慌ただしい空気が伝わる。
マリーがドアを開け放ち、廊下に向かって叫んだ。
「何事だい!」
「マリー、敵襲だ! お前は船長と船室に隠れててくれ!」
「わかった!」
居合わせたラコットの舎弟と言葉を交わし、マリーは部屋に戻った。
敵襲。その言葉に、奏澄は青ざめた。未だに、慣れない。鼓動が速くなり、手が震える。
「カスミ、カスミ」
落ちつかせるように、マリーがカスミの背を軽く叩いた。
「大丈夫だよ。戦闘員も増えたんだし、腕の見せどころじゃないか」
「うん……。そう、だよね。みんな強いし、大丈夫」
「そうそう。ほら、一応手当ての準備でもしとこうか」
「うん。ありがとう、マリー」
マリーとて、全く不安が無いわけではないはずだ。マリーの部下も戦闘訓練に参加していたということは、おそらく実地訓練で今回の戦闘にも出ているだろう。怪我をするかもしれない。
それでも、カスミがいるから。マリーはカスミを任されたから、この場を離れて部下の様子を見に行くことも、不安な顔を見せることもしないのだ。
だったら奏澄にできることは。例え強がりでも、気丈に振る舞い、マリーを不安にさせないこと。そして、戦闘から戻った乗組員を労わることだ。
万が一怪我を負った乗組員がいた時のために、奏澄とマリーは医療用具の準備をした。
敵襲の知らせから暫くして、戦闘終了の合図が響いた。ほっとして、奏澄はマリーと上甲板に出る。
戦闘の跡が見える様子に、奏澄は一瞬くらりとしたが、何とか踏みとどまる。
ざっと見渡したところ、大怪我をしている乗組員はいなさそうだ。マリーの部下たちは戦闘経験が浅いことから、今回は後方支援に回ったと見えた。全員無傷のようで、マリーがそっと息を吐くのを、奏澄は視界の端で捉えた。
「おいカスミ、こいつ頼めるか」
「! イーサン!」
ラコットが呼んだ方へ慌てて行くと、ラコットの舎弟の一人、イーサンが腕を押さえていた。
「切られたんですか」
「自業自得なんだよ。自分から突っ込んでいきやがって」
「やー、つい興奮しちゃって」
軽い調子で笑っているが、要するに本来負わなくて済む怪我を、無茶な戦い方によって負った、ということだ。イーサンは舎弟たちの中でも年若い。血気に逸ったのだろう。奏澄は黙って手当てをした。
「あざっす、船長。……船長?」
黙ったまま俯く奏澄を覗き込んで、イーサンはぎょっとした。奏澄が、声一つ上げずにぼろぼろと涙を零していたからだ。
「え、せ、せんちょ」
「イーサン、一つ約束してください」
奏澄は、イーサンの怪我をした方の掌を、両手でぎゅっと握った。
「戦闘がある以上、怪我をするなとは言いません。でも、自分の身を危険に晒すような戦い方はしないでください」
「う、うっす」
「本当にわかりましたか?」
軽い返事に、奏澄がずいと顔を近づけると、イーサンはその分体を引いた。
「わ、わかったわかりました!」
「約束ですよ」
涙を拭って、奏澄は他に怪我人がいないかどうか見回りに行った。
残されたイーサンは、大きく息を吐いた。
「は~~、びびった」
「お前役得だなぁ」
「役得とか言ってらんねっすよぉ、罪悪感ハンパないっす」
「んじゃ怪我しねぇことだな。安心しろ、明日からビシバシ鍛えてやっから」
「俺怪我人なんで勘弁してください……」
手当てが必要な者は僅かで皆軽傷だったため、その場で軽く処置をするだけで済み、乗組員たちは甲板の後片付けをしていた。奏澄はマリー、ライアーと共に、戦闘に参加していたメイズ、ラコットから状況を聞いていた。
「大したことない海賊だったぜ。この船を商船だと思って襲ってきたらしい」
「まさかそれで武闘派が勢揃いしてるとは思わないよな……ご愁傷様」
ライアーが相手方に手を合わせるポーズをした。
「けどよぉ、なんでこの船、海賊旗を掲げてないんだ? それがあれば商船だなんて思われねぇだろ」
「あっやっぱり? やっぱり海賊旗いる? 作ってはあるんだよね!」
「ライアー」
ラコットの言葉に乗り気になったライアーを、奏澄が窘めた。
「一応、この船はまだ海賊だと認知されていないので。手配書にも載ってないですし」
「んなもん言った者勝ちだろ。とりあえず目立つように旗あげときゃ、そのうち勝手に広まるんじゃねぇか」
「広まったら困るんですけど……!」
海賊だと知れ渡ったら、余計な敵を増やすことになる。だから、ぎりぎり海賊ではない、と言い張っているのに。
しかし、意外にもマリーが賛成の意を示した。
「まぁでも、一理あるね。海賊だってわかれば、小物相手の小競り合いは減るだろ。特に、メイズがこの船にいるってことが知れ渡れば、かなりの抑止力になる」
「そこ一番知れ渡ったらまずいんじゃないの?」
「けど、今のままだと、多分メイズはまだ『黒弦のメイズ』って手配されてるよ。それでもいい?」
マリーの言葉に、奏澄は黙った。つまり、メイズが今も黒弦のものだ、と世間が認識しているということだ。それは、なんだか面白くない気がした。
「俺は反対だ」
「メイズ」
「今のままなら、小競り合いくらい大した手間にならない。充分対処できる。だが、俺がこの団にいるとわかれば、それなりの力量の奴が来ることになる」
「その危険性は今だって変わらないだろ」
「狙って来るのと偶然来るのじゃ確率が違う。セントラルを出た時点でまとめて手配されていたらお手上げだったが、手配書に団として載っていなかった以上、この先暫くは個人単位で気をつければそれで済む」
メイズの言い分も理解できる。所属がはっきりするということは、居場所を把握されるということだ。
たんぽぽ海賊団にメイズ在り、となってしまえば、海の上で船ごと隠れることは難しい。コバルト号が停泊していれば、その島にはメイズがいるとわかってしまう。そしてそれが海賊旗であるならば、海賊相手には警告だけでなく挑発の意味にもなるだろう。
今のまま、個人だけが指名手配されている状況なら、各々が顔を見られることに注意すればいい。仲間ごと危険に晒すことはない。
しかし、奏澄には気がかりがあった。それは、乗組員たちが既にたんぽぽ団を海賊団だと認識しており、各所で名乗りを上げている可能性があることだった。現に奏澄は、先の島でラコットが『たんぽぽ海賊団』と名乗るのを聞いている。
どうしたものか、と悩む奏澄に、ラコットが声をかけた。
「ま、こういうのは船長が決めるもんだろ。どうする? カスミ」
「う……い、いったん保留で」
「なんじゃそりゃ」
「海賊旗を掲げるリスクはやはり大きいです。今すぐに、というのは……ちょっと決心がつかないので。ただ、時が来たら、それも有りかなという気はしています」
「要は成り行き任せ、ってことか。いいと思うよ」
マリーが賛同してくれて、奏澄はほっと息を吐いた。海賊旗の件はいったん保留となり、その場は解散した。
その日の夜、奏澄はメイズの部屋を訪ねた。マリーは暫くやきもきさせてもいい、と言っていたが、昼間の襲撃でなし崩し的に会話することになったので、もはやその作戦は無効だろう。だったら、早いところ元の関係に戻りたい。でも、普通に謝るのではちょっと釈然としない。なので、別の作戦に出た。
「メイズ。今日は一緒に寝よう」
言われたメイズは、非常に複雑そうな顔をしたが、拒絶はしなかった。慣れたようにベッドに潜り込む奏澄を、奇妙な生き物を見るような目で見ながらも、大人しく従った。
明かりを消して、しんとした空気が漂う。
「もう、怒ってないのか」
口火を切ったのは、メイズの方だった。奏澄は会話が無くてもいいと思っていたので黙っていたが、メイズが話をするつもりなら、それを拒む気も無い。
「怒って、ないよ」
「そうか」
それだけ言って、また黙った。聞きたいのはそれだけか、と少し残念な気持ちで奏澄が目を閉じようとすると、探るようにメイズが話を続けた。
「ライアーに、怒られた」
「……なんでライアーが?」
「お前の様子がおかしかったから、事情を聞かれた。それで、俺の方に要因があると」
「あー……」
ライアーが奏澄の味方だというのもあるだろうが、なかなか察しが良いから、思うところもあったのだろう。その様子は容易に想像できた。
「お前も、怒っていいんだぞ」
予想外の言葉に、奏澄は目を瞬かせた。
「俺に落ち度があるなら、お前が謝る必要は無い。俺は気が利く方じゃない、何に怒っているのか、言われなきゃわからんこともある」
「……女の人が怒ってる場合は、何に怒ってるかを気づいてほしい場合が大半だけど」
少し意地悪をするつもりで返すと、メイズは気まずそうに黙った。思った以上に効いたらしい。その様子がおかしくて、奏澄は軽く笑った。
「ごめん。でもそれ、そのまま返す。メイズだって、怒っていいんだよ」
どういうことか、と視線で問われ、奏澄は続けた。
「私が理不尽に怒ったり、拗ねたり、メイズが嫌だと思うことをしたら、メイズだって怒っていいんだよ」
メイズは、奏澄を甘やかすから。心配から小言や注意を受けることはあっても、メイズ自身の感情によって怒られたことは無い。知らない内に不愉快にさせていたら、と思うと怖くなる。許し合うことは必要だが、一方にばかり我慢を強いるのは良くない。
「俺が本気で怒ったら、お前泣くだろう」
今度は奏澄が黙った。先ほどの意趣返しだろうか。
「冗談だ」
「冗談になってない」
「俺は、基本的にお前にされて嫌なことは無い」
息が止まった。それは、結構な殺し文句なのではないだろうか。
「忘れたのか。俺は、お前のものなんだぞ」
海の瞳で見られて、奏澄はあの日を思い返した。メイズと約束を交わした日のことを。何も持たなかった奏澄が、この世界で初めて手に入れたもの。抱えるものが増えた今となっても、たった一つ輝く、特別なひと。
じわりじわりと込み上げる感情を、吐き出す代わりに頭突きした。メイズにぐりぐりと額を押し付ける謎の行動に、困惑した空気が伝わる。
――この人を、いつかは手放さなくてはならない。
その時が来たら、奏澄はそれを受け入れられるのか。手放すのは、奏澄の方だ。メイズが去っていくことは無い。それなのに。
筋違いだとわかっていて、涙が零れそうになるのを、ぐっと堪えた。
「メイズ。やっぱり、海賊旗、つけよっか」
「……なんで今その話になった?」
「私のものなんでしょ。私のものだって言いたい」
「マリーの言ったことを真に受けてるなら」
「わかってる。馬鹿な拘りかもしれないけど、私には大事なことだから」
「……好きにしろ」
翌日、船のマストに、たんぽぽをモチーフにした海賊旗が掲げられた。
いくつかの島を経由して。立ち寄った島で、奏澄は予想だにしない事態に遭遇した。
「オレを、たんぽぽ海賊団の仲間にしてください!」
「えーーっと」
港についてすぐ。目の前で頭を下げる少年に、奏澄は困惑した様子を隠せなかった。
今まで、奏澄は必要最低限の仲間で航海してきたし、必要だと思う人材にだけ声をかけてきた。なのでまさか、何の募集もかけていないし、勧誘もしていないのに、仲間になりたいなんて言う人がいるとは夢にも思わなかった。
何と答えたものか、と迷う奏澄の前に、ずいとラコットが出てきた。
「帰れ帰れ、ガキの遊び場じゃねぇんだよ」
「ちょっとラコットさん、いきなりそれは」
「オレ、どうしても海賊になりたいんです!」
食い下がる少年に、奏澄は眉を下げた。
「あなた、いくつ?」
「もう十五です! 船乗りになるには充分です!」
「十五かぁ」
奏澄の感覚では、中高生は立派な子どもだ。身長は奏澄より高いが、顔立ちはまだ幼さが残る。
「ご両親はなんて?」
「……親なんて、どうでもいいだろ。オレは、海に出たいんだ!」
この反応を見て、奏澄は彼が目的があって海賊になりたいのではなく、反抗期の一種なのでは、という疑いを強くした。
しかし、子どもだからといって、適当にあしらっていい理由にはならない。
「どうしてうちに?」
たんぽぽ海賊団はまだ旗を掲げたばかりで、名が知られているとは思えない。海賊船を発見して行き当たりばったりに申し込んできたのだとしたら、少年の行動はかなり危険だ。
子ども扱いされたことにまだ不機嫌そうな顔をしているものの、奏澄が門前払いする気は無いことを理解したのか、少年は問いかけに応じた。
「最近手配書が出たばっかりだから、新しい団なんだろ。だったら、オレみたいなのでも下働きとして雇ってくれるかもって。それに……」
ちら、と少年は奏澄の顔を見た。言葉を濁した少年に、奏澄は先を促す。
「それに?」
「いや、なんでもない」
少年は、ごまかすように首を振った。奏澄は首を傾げたが、ラコットは目を眇めていた。
「そっか、私の手配書見たんだ。でも、よくそれで海賊だって思ったね」
「なんだ、知らないのか? アンタと、後ろのオッサンも。同じ海賊団として手配されてたぜ」
「ラコットさんが?」
奏澄は驚きを隠せなかった。以前ギルドで確認した時には、奏澄とライアーの二人しか載っていなかったはずだ。しかし、思い返せば少年は確かに『たんぽぽ海賊団』と言った。偶然見かけただけなら、その名を知るはずはない。
「ラコットさん、知らない内に何かしました……?」
「おいおい、知らないってことはないだろ。多分、カスミといた時だぜ」
「え?」
「ほら、お前が迷子になった島。言ってたんだよ、『目が厳しい』って」
「ま、迷子って……それは置いといて、どういうことですか?」
「相互監視、だったか。要は役人への告げ口が多いんだと。俺が『たんぽぽ海賊団』だって名乗ったのを聞いてたんだろ」
「それだけで……」
あの時のラコットは、小さな騒ぎこそ起こしたものの、最終的には和解をしたし、手配されるほどのことだとは思えない。
島では奏澄は変装していたため、手配書と結びつかなかったが、旗を掲げるようになったことで仲間と判明しマークされてしまったのだろう。
つまり、たんぽぽ団は、いよいよ海賊団としてお尋ね者集団になった、ということだ。
「あ、あのさ!」
「ん?」
「同じ団に、元黒弦のメイズがいるって見たんだけど……マジ?」
少年の目には、疑いの中に、ちらちらと憧れの光が混在している。なるほど、メイズが隠れている理由がわかった、と奏澄は苦笑した。これを予期しての行動かどうかは不明だが、海賊を目指す少年の前には出ない方が良いと判断したのだろう。
「会いたいの?」
「マジ!? 会えんの!?」
少年の目が輝きを増した。メイズからはっきり断りを入れれば少年も諦めるだろう、と思った奏澄だったが、ラコットがそれを遮った。
「おう坊主、お前ごときがそう簡単にメイズに会えると思うなよ」
「な……っ」
「え、ちょっとラコットさん?」
困惑する奏澄に、ラコットは唇を吊り上げた。
「カスミ、こいつは俺に預からしちゃくんねぇか」
「え?」
「ちょうど留守番だしな。その間に、ここでやっていけるか見極めてやるよ。坊主、名前は?」
「ディーノだ」
「ディーノ。この島に滞在する三日間、お前を見習いとして俺の元で働かせる。それで、最終的に船に乗るかどうかは、お前が決めろ」
「え……? オレが、自分で決めるのか?」
ディーノは目を瞬かせた。見極める、と言うからには、ラコットが決めるのではないのか。奏澄も同じ疑問を抱き、怪訝そうにラコットを見る。
「そうだ。どうする?」
「やるやる! やります!」
「よし、決まりだ!」
一も二もなく、ディーノは返事をした。それはそうだろう。ディーノは船に乗りたがっている。自分で決めて良いと言うのなら、例え無理難題を押し付けられたとしても、三日間耐え切れば念願の船に乗れるのだ。しかし、ラコットが何の考えも無しにそんなことを言い出すとも思えない。
「ラコットさん。任せて、大丈夫なんですね?」
「おう! カスミは安心して、メイズと街でのんびりしてこい」
「……わかりました。よろしくお願いしますね」
奏澄の言葉に、ラコットは笑顔で答えた。
*~*~*
「おーい、見習い! こっち片付け終わってないぞー!」
「はーい! ただいま!」
「見習い! ちょっと来ーい!」
「はいはーい!!」
「おい何だぁその返事は!」
言いながら、乗組員はからからと笑っている。本気でいびっているわけではないらしいが、皆新しく来た年若い見習いが珍しいのか、仕事を押し付けたりして可愛がっている。
こうなることはある程度予想していたので、青筋を立てながらも、ディーノは黙々と作業していた。
「訓練始めるぞー!」
上甲板から聞こえたラコットの大声で、乗組員たちが上甲板に集まっていく。ディーノは雑用を続けるべきかどうか迷ったが、訓練の様子にも興味があったので、乗組員たちと共に上甲板へ上がった。
「おう、来たか見習い」
「はい。あの、オレも参加……っすかね」
「当たり前だろ。ガキだからって手加減しねぇぞ」
楽しげなラコットに、ディーノは渋い顔をした。そして宣言通り、ラコットは自分の舎弟たちと変わりなくディーノを扱った。鬼のような筋トレを終えた後、ディーノは既に倒れこんでしまいたかったが、他の乗組員たちは手合わせを始めた。
「お前は俺が直々に手合わせしてやる」
「え……いやぁ、ラコットさんの手を煩わせるまでも」
「遠慮すんな! どーんとぶつかってこい!」
「……おねしゃっす」
嫌々ながら、ディーノはラコットに向き直った。しかし、ディーノには格闘技の経験が無いので、何をどうしたら良いのかもわからない。取り合えず喧嘩の要領で適当にかかっていくか、とやる気なく殴りかかったところ。
「え」
気がついたら、空を見ていた。一瞬だった。何をされたのかもわからないまま、ディーノは甲板に転がっていた。
「おいおい、せめて全力出せ見習い。でないと」
すっとラコットの目から温度が消えた。
「死ぬぞ」
ぞ、っと背筋が寒くなった。この男は海賊なのだと、初めて思った。
無言のまま立ち上がって、ディーノは今度は気を引き締めて、ラコットに向かい合った。
「お、いいねぇ。やっとやる気出したか」
ぐっと力を込めて、ディーノはラコットに向かっていった。
あれほど心配していた海賊旗だったが、拍子抜けするほどに特に大きな問題が起こることもなく。暫く緑の海域を点々としていた奏澄たちは、コンパスに変化が無いため、予定通り青の海域へ入ることにした。
「あれがヴェネリーア島だ」
「わ、きれい……!」
ヴェネリーアには色とりどりの家々が立ち並び、大きな一つの島というより、小さな群を橋などで繋いでいた。水路には小舟が浮かんでおり、その数から移動手段として普段使いされていることがわかる。
コバルト号を港に泊め、奏澄たちはヴェネリーア島へ降り立った。
「風が気持ちいい。ここの気候は過ごしやすそうで良かった」
「そうだな。緑の海域に比べれば湿度も低い」
緑の海域も食糧に困らず良かったが、あの湿気は苦手だったので、奏澄は上機嫌だった。広場の方からは楽しげな音楽が聞こえてきて、アルメイシャ島を思い出す。気分が高揚するのを感じながら、最低限の割り振りを確認して、いつものように乗組員たちは散った。
奏澄はメイズと二人、まずは気になった広場の方へ向かった。そこでは予想通り、音楽を奏でたり、踊りを踊ったり、人形劇を披露したりと、パフォーマンスの場になっていた。石畳は歩きやすく、大きな噴水もあり、景観も整えられている。
「すごい。水の都、って感じ。水が豊富なんだね」
「水の量が豊富と言うよりは、水を確保するために水道設備がかなり整っている」
「そっか、川じゃないのか」
足元に水が流れているのを見るとつい日本の川のように感じてしまいがちだが、この水路は海と繋がっているので海水だ。そのままでは使えない。むしろ水源になりそうな山や森が少ないからこそ、水をうまく回していくために水回りのインフラを重視したのだろう。
「ああ、ここなら多分シャワーが使えるぞ」
「えっそれはすごい」
セントラルにもあったらしいが、あそこには長居しなかったので結局使っていない。その情報だけで、奏澄は今夜の宿が楽しみになった。
「お嬢さん、こっちで踊らない?」
華やかなドレスを身にまとった女性に手を差し出されて、奏澄はメイズを窺った。行ってこい、というように手を払ったので、そのまま女性の手を取り、人の輪に加わる。
「わわ」
足をもつれさせながらも、バイオリンの音に合わせ、適当なステップを踏む。踊りは得意ではないが、この場の空気に浮かれているようだ。周囲の人たちの歌声につられ、わからないながらも調子を合わせて口ずさむ。
「可愛らしい声ね」
美しい女性に褒められて、奏澄は照れ笑いした。女性の声は澄んでいて、声まで美しい。こんな風だったらな、と奏澄は憧れの眼差しを向けた。
一曲終わって、踊っていた人々がお辞儀をする。メイズの元へ戻ろう、と視線を向けて、奏澄は固まった。メイズの腕に、豊満な体の女性が腕を絡めていた。
「あら。お連れさん、誘われてるわね」
一緒に踊ってくれていた女性が、奏澄の隣に立った。
「残念。私も誘おうと思っていたのに」
「!」
驚いた顔で、奏澄は女性を見た。陽気な島だから観光客に親切にしてくれたのだとばかり思っていたが、もしかして自分をだしにメイズに声をかけるつもりだったのだろうか。身内だと思われたのかもしれない。
奏澄は焦った。今すぐ駆け寄って引き剥がしてしまいたい気持ちもあるが、そもそもメイズはどう思っているのだろう。もしメイズがあの女性と一緒にいたいと思っているのなら、むしろ邪魔なのは自分の方なのではないだろうか。メイズは護衛だが、船に戻れば別の人を連れてくることもできる。だが、しかし。
迷った結果、奏澄は近くで演奏していた奏者の一人に声をかけた。
「すみません、それお借りできますか?」
奏澄が借りたのはギターだった。昔友人に軽く触らせてもらったことがあるくらいで、正直演奏技術に自信は全く無い。しかし、この賑やかな島で伴奏無しはきつすぎる。ものすごく簡単なコードしか弾けないが、奏澄は覚悟を決めた。
ギターを鳴らし、大きく息を吸って、歌を紡ぐ。この島に相応しい、陽気な曲を。
気づいた周囲が、手拍子をくれる。粗がごまかせるので、ありがたい。弾きながらの歌唱はかなりしんどい。
奏澄が歌えば、メイズは絶対に気づく。気を引く方法がこのくらいしかないなんて、情けない。それでも、もしこれでメイズの目がこちらに向くなら。
向かなければ、それはそれでいい。あの女性と話したいということなのだから、その時は船に戻って別の同行者を探そう。
あの腕を無理やり解く権利は、奏澄には無い。
メイズは奏澄のものだと言ってくれたが、それは彼個人の思想や嗜好を制限するものではない。行動は多少制限してしまうが、それでも縛りつけるようなことはしたくないと思っている。
声が沈みそうになるのを、無理やり笑顔で明るく歌う。今は、この島の空気が、力を貸してくれる。
歌が終わると、拍手と共に、何人かがギターケースにおひねりをくれた。ギターの持ち主は奏澄の取り分を渡そうとしてくれたが、ギターのレンタル代として奏澄はそれを辞退した。
さて状況はどうなっているか、とおそるおそるメイズの方へ視線を向ければ、もうあの女性はいなかった。ほっとして、奏澄はメイズの元へ駆け寄った。
「お待たせ」
「お前ギターなんか弾けたのか」
「弾けるってほどじゃないんだけど、少しだけ、ね」
奏澄は恥ずかしそうに笑った後、聞くべきではない、と思いながらも、どうしても気になって尋ねた。
「さっき女の人といたけど、どうしたの?」
「ああ、少し世間話をしただけだ」
「そっか」
メイズがそう言うのなら、それ以上奏澄に言えることは無い。笑って答えたが、落ち込みが顔に出てしまったのか、メイズは気まずそうにした。
「ギター、買うか?」
「え? なんで?」
「最近よく歌ってるだろ。弾けるんなら、あってもいいんじゃないか」
これは、機嫌を取ろうとしているのだろうか。元々怒っていたわけでもないし、メイズが罪悪感を抱く必要も無い。しかし、物でごまかせると思われているのなら心外だ。
「別にいいよ。大して弾けないし」
「練習すれば弾けるだろ。お前が弾けない内は、誰かに弾いて貰えばいいんじゃないか」
「弾いて貰うには、私の知ってる曲をどうにかして伝えないといけないわけだから、やっぱり無理かなぁ」
「こっちの曲を覚えたらどうだ」
「それは……」
奏澄は顔を曇らせた。こちらの曲を覚えるのでは、意味が無い。そう言おうとして、言葉を切った。その言い方じゃ、喧嘩腰になる。そうじゃない。
「私が最近よく歌ってるのは、忘れたくないから」
「……何をだ?」
「向こうの、記憶」
思いがけず、重い空気になってしまった。こんな風にしたかったわけじゃないのに。けれど、メイズは話を聞く体勢だ。ここで切り上げてしまうと、逆に気をつかわせてしまうかもしれない。
「私、身一つでこっちに来たから。元の世界から持ち込めたものって、記憶しかないの」
本当は、一つだけ持っていた。だけど、それはもう無い。あったはずの場所に今収まってるペンダントを、無意識に撫ぜた。
「でも記憶って、不確かでしょ。思い出は、ぼやけて、薄れていく」
確かに覚えていたはずの人の顔が、声が、風景が。今は、確かだと自信を持って言えない。
「歌なら、覚えておける。旋律も歌詞も決まっているから、それを再現すればいい。音楽と思い出は結びついていることも多いから、歌を忘れなければ、思い出も蘇る」
奏澄の時代には、音楽が溢れていた。テレビで、ラジオで、街中で。至る所で音楽が流れていて、それは記憶に深く根付いている。音楽を思い返す時、それが流れていた場面も思い返すことができる。
「だから、ね。いいの。確認作業みたいなもので、人に聞かせたりとかしたいわけじゃないから」
寂しそうに笑った奏澄に、メイズは眉を顰めた。何かを言いたそうにしていたが、結局口を噤んだ。
「ほら、せっかく楽しそうな島に来たんだし、もう行こう? あっちの露店とか見たいな」
「……ああ」
お洒落な店はたくさんあったが、地面に直接布を敷いているような露店もあった。こういう店の方が安そうだ、と奏澄は並べられた品を眺めていく。
「あ、これいいな」
一つの露店の前で、奏澄はしゃがみこんだ。
「これ、ちょっと手に取ってもいいですか?」
「どーぞ」
不愛想に答えた店主は、職人にしては随分と若い青年だった。年の頃は奏澄より少し上だろうか。久々に見る黒い髪と黒い瞳に、奏澄は親近感を覚えた。切れ長の目元が印象的で、さらさらとした長髪は後ろで一つに括られている。一見冷たい印象を受けるが、それさえも計算された美術品のような美しい顔立ちをしていた。
奏澄の隣にしゃがみこんだメイズが、並べられた品を見てひとり言のように呟く。
「珍しいな、銀細工か。ここの名産は硝子細工だったと思ったが」
「趣味でね。工房の方には硝子細工も置いてるよ」
ということは、今は露店を出しているが、店舗も持っているということだ。奏澄のイメージでは、職人というのは親方に弟子入りして、親方の工房で働くものだと思っていた。しかしここで自由に商売をしているということは、やはりこの青年が店主なのだろう。一人でやっているのだとしたら、かなりやり手なのかもしれない。そもそも、銀細工と硝子細工は同じ細工物でもだいぶ勝手が違うと思われる。どちらも売り物にできる腕前となると、相当器用なのではないだろうか。
「ね、どう?」
「ああ……いいんじゃないか」
奏澄が胸元に合わせて見せたネックレスに、メイズは肯定を返した。しかし、何か言いたそうにしている。
「似合わないなら、正直に言ってくれた方がいいんだけど」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて……女は、色のついた物の方が、好きなんじゃないか」
「硝子細工の方がいいってこと? でも、硝子は割れやすいから、危ないしなぁ」
普通にしている分にはそうそう割ったりしないだろうが、何せ奏澄たちの主な活動場所は海の上だ。作業の邪魔にもなるし、今まで装飾品の類はつけてこなかった。比較的扱いやすいシルバーなら、と思ったが、似合わないなら無理につけることもない。
「やっぱりアクセサリーはやめとこっかな」
特にどうしても欲しいわけでもない。奏澄が諦めようとすると、何故かメイズが焦りだした。
「……何?」
訝しんだ奏澄が声をかけると、不愛想な店主が溜息を吐いた。
「おにいさん、あんたに何か買ってやりたいんじゃないの」
店主の言葉に、奏澄は目を瞬かせた。露店を見ていたのは、あくまで自分で買うためであって、ねだるつもりなど全く無かったのだが。とはいえ、元々の金の出所を考えると、自分で買うからと強く言える立場でもない。それに、メイズが何か贈り物をしようと考えてくれたのなら、純粋に嬉しい。
黙ったまま否定しないところを見ると、見当違いということもないのだろう。
「もし、本当に贈り物のつもりなら、メイズに選んでほしいな」
「俺にわかると思うか」
「気持ちの問題だよ」
困った様子のメイズには申し訳ないが、奏澄は口の端が持ち上がるのを止められなかった。このくらいのことなら、困らせるのも楽しい。
まるで見当のつかないメイズを見兼ねたのか、店主が並べられた品の一部を示した。
「二人で買うなら、ペアリングとか定番だけど」
「いや、俺は」
「いいですね、ペアリング」
口を挟んだ奏澄に、メイズは驚いたようだった。しかし、当人がいいと言うのなら、否定もできないのだろう。悩んだ末、一組の指輪を店主に示した。
「これ、を」
「まいどあり」
メイズが代金を払おうとして、奏澄はその金額に目を見開いた。異常に高いというほどではないが、思ったよりはずっと高い。安価だと思ったから、店に入らず露店を見ていたのに。
品質を見れば値段は妥当だと思われる。ぼったくりを疑っているとは思われたくないのだが、それとなくもう少し安価なものに誘導できないだろうか、と考えながら、奏澄はメイズに小声で問いかけた。
「ね、今更だけど、予算的な……その、大丈夫?」
「このくらい問題無い」
「問題、っていうか」
「これでも代わりには安いくらいだ」
「……代わり?」
どういう意味か、と奏澄が聞く間もなく、メイズは店主に代金を支払った。
それを受け取ると、店主はペアリングとチェーンを渡した。
「チェーンはオマケね。なんか調整とか必要だったら『ルーナブルー』って工房に来てくれれば対応するから」
「どうも」
受け取ったペアリングの片方を、メイズは奏澄に渡した。
「ほら」
細いシルバーリング。華美さはないが、よく見ると波のような模様が繊細に彫られている。
「ありがとう」
奏澄は満面の笑みでそれを受け取った。
露店から離れ、奏澄は失くさないように、指輪をすぐに身につけた。サイズ的に薬指がちょうど良かったが、さすがに左手に嵌める度胸は無い。右手の薬指に嵌めた。
チェーンで下げても良かったが、首には既にペンダントを下げている。二重にすると絡まりそうだし、奏澄は武器を持つことも無いので、指でも問題ないだろう。
「似合う?」
「……ああ」
「メイズもつけてよ」
「俺は指にはつけないからな」
「いいよ。それを見越してチェーンくれたんだろうし」
奏澄としても、別にペアリングで何かを主張したいということもない。ただ、店主が勧めてくれたし、せっかくなら揃いの物が欲しいと思っただけだ。
何かと葛藤するように指輪を見つめた後、メイズはチェーンを通してそれを首から下げた。
「でも急にどうしたの? アクセサリーなんて」
「別に。身につけていられるものがいいと思っただけだ」
「どうして?」
「身につけていれば、元の世界に持って帰れるだろう」
その言葉に、奏澄は息を呑んだ。
「この世界のことも、いつか記憶から薄れていくだろう。夢だったと思うかもしれない。だから、記憶以外に何か形に残るものがあればいいと思ったんだが……余計だったか」
奏澄は黙って首を振った。奏澄が、元の世界から記憶しか持ってこれなかったと言ったから。この世界からは、記憶以外の何かを持って帰れるように。そう考えてくれたのだ。プレゼントをくれるなんて珍しい、くらいに考えた自分が恥ずかしい。
「私、絶対、忘れない」
絶対などない。それでも、今はそう言いたかった。この思い出を。指輪を見る度、思い出す。
繰り返し、繰り返し。記憶に、刻みつける。
奏澄とメイズが特に目的も無く島を見て回っていると、アントーニオが荷物を抱えて歩いていた。
「アントーニオさん!」
奏澄が声をかけると、気づいて手を振ろうとして、荷物で両手が塞がっていることに慌てていた。
アントーニオらしいその仕草に苦笑して、奏澄たちが歩み寄る。
「荷物多いですね。手伝いましょうか?」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。目的地はこのあたりのはずだから」
目的地、と奏澄が首を捻ると、アントーニオはすぐに説明してくれた。
「調理器具がいくつかだめになっちゃったから、直してもらおうと思って。修理できそうな店を聞いたら、『ルーナブルー』って工房を紹介されたんだ」
「ルーナブルー、ですか?」
驚いて、奏澄は言葉を繰り返した。それは先ほど奏澄たちが聞いたばかりの名前だ。
「あれ、知ってるの?」
「先ほど露店で買い物をしたんですけど、そこの店主さんがルーナブルーの人だって言ってたんです」
「ああ、そうなんだ。じゃぁ今行っても留守かなぁ」
「でも露店ではアクセサリーを売っていたので、修理をやってるなら他の人がいるのかも」
「いや、多分その人だけだと思う。何でも屋みたいなことしてるらしいから」
「何でも屋」
「特に決まった物だけを作ってるんじゃなくて、趣味で何でも作るし、修理も金物から絡繰りまで何でも受けるらしいよ」
「それはまた、随分と凄い人ですね」
「ただ気分屋らしくって、だめな時は何を頼んでもだめらしいけど」
職人らしい、と奏澄は苦笑した。銀細工を見た時も器用な人なのだと思ったが、器用どころではなかったようだ。それに比例して、性格もなかなか難しいときた。アントーニオは人当たりが良いから嫌われるようなことはないだろうが、気分屋というからには相手の人柄は関係無いかもしれない。
「メイズ、私たちも一緒に行かない? 商品を買ったお客さんがいた方が、受けてくれるかも」
「構わないが、戻ってるのか」
「いなかったら待てばいいんじゃない? アントーニオさんも、それ抱えたままあちこち動くのは大変でしょう」
「ぼくは大丈夫だよ。いなかったら、また出直せばいいし」
とりあえず行ってみてから考えようということで、三人でルーナブルーへ向かった。
工房は一軒の家になっていて、工房、店舗、住居が一体となっているようだった。一階のほとんどの部分は作業スペースで、申し訳程度に店舗が繋がっている。既製品の販売よりも、アントーニオが聞いたような修理の請け負いが多いのかもしれない。
「あ、やっぱり閉まってる」
店舗側の入口に、不在の張り紙がしてあった。店番もいないということは、一人でやりくりしているのだろう。
出直すべきか、と顔を見合わせていると、後ろから声がかかった。
「あれ、さっきのお客さん」
振り向くと、先ほど露店で会った店主の青年がいた。
「サイズ合わなかった?」
「いえ、別途用件があって。道具の修理をお願いしたいんですけど」
「そ。今開けるから」
店舗側の鍵を開け、店主に促されるまま、三人は店に入った。
「ありがとうございます。タイミング良かったですね」
「腹減ったから戻ってきたんだよ。ってわけで、俺は今から飯にするから」
店主はどっかりと椅子に腰かけると、手に持っていた布包みを開き、中からパンを取り出した。
「修理する品はそこのテーブルに並べておいて。食べ終わったら見積もり出すから。暇ならその辺見てて」
「あ……は、はい」
――すごい、マイペースだ。
客が来ていても自分の食事が優先とは。この店主だけがこうなのか、この島の人間がこうなのか。奏澄は驚きはしたものの、そういうものなんだろう、とアントーニオの道具を広げるのを手伝った。
言われた通り、奏澄は店内を見て回ることにした。島の名産品だけあって、店舗に展示されているのは硝子製品の割合が多い。アントーニオは、大きな体をぶつけてしまうのが心配なのか、じっと椅子に座っていた。メイズは入口の近くで待機している。
きらきらと輝く細工物に目を奪われていると、隅の方に懐かしいものを見つけた。
「わ、可愛い。とんぼ玉の簪だ」
思わず口に出すと、カタン、と小さな音がした。
「とんぼ玉?」
聞きなれない言葉に首を傾げたのはアントーニオだ。
「こっちでは呼び名が違うかもしれませんね。私の故郷では、こういう模様の入った小さいガラス玉のことを、とんぼ玉って呼んだんですよ」
「へぇ、なんか可愛いね」
「トンボの目に似てるかららしいですよ。可愛い言い方ですよね」
ふふ、と笑って、奏澄は懐かしげにそれを見た。
髪に挿したら、汚してしまうだろうか。簪屋では試着可能な所も多かったけれど、日本人は髪を清潔にしているという前提があってのことかもしれない。
それでも望郷の思いが顔をもたげ、奏澄は店主に問いかけた。
「すみません、これ、ちょっと髪に挿してみても大丈夫ですか?」
「あ……ああ」
店主が、掠れた声で答えた。もしかして良くないだろうか、と奏澄は不安になったが、この店主なら駄目な場合は駄目だとはっきり言うと思われる。
何か他に要因があるのだろう、と不思議がりながらも、奏澄はそれを手に取った。
片手で髪を束ねてねじり、根元に簪を挿す。そのまま串の部分に髪を巻きつかせ、ぐるりと捻じって再び根元に差し込む。奏澄が知る限り、最も簡単な方法だ。
「メイズ、どう……」
ガタン、と大きな音に言葉を遮られる。驚いて音の出所を見ると、店主が椅子から立ち上がり、大きく目を見開いて奏澄を凝視していた。
「……母さん……」
「え……?」
今にも泣きそうな声でそう零した店主に呆気に取られていると、店主は勢いよく奏澄の方へ歩いてきた。
「なぁ、あんたそれどこで――」
「そこまでだ」
奏澄の肩を掴もうと伸ばされた手を、届く前にメイズが掴んだ。
「こいつに危害を加えるようなら、容赦しない」
ぎり、と力を込められた手に、店主が顔を歪めた。
「メイズ、放して!」
奏澄の鋭い一声に答えず、メイズは不服そうに奏澄を見た。
「喧嘩するような人じゃない。職人の手を怪我させたらどうするの。放して」
強く睨みつける奏澄に、メイズは渋々手を放した。
「ごめんなさい。大丈夫ですか? 痣になったりしてませんか?」
「いや……。俺も、悪かった。驚いて……思わず」
ひどくうろたえたその様子に、奏澄は視線を合わせ、できるだけ優しく問いかけた。
「良ければ、お話聞かせてもらえますか?」
店主はそれに戸惑いながらも、間を置いて頷いた。
奏澄とアントーニオは、話を聞きやすいよう、器具を並べたのとは別のテーブル席に着いた。メイズはすぐに動けるようにしたいのか、奏澄の側に立っている。
店主は表に準備中の札をかけ、一度奥に姿を消した。ややあって、一つの木箱を手に戻ってくると、それをテーブルに置き、奏澄たちの対面に着座した。
「俺の名はレオナルド。父はダビデ、母はサクラという」
さくら。故郷では耳慣れた名前に、奏澄が僅かに反応した。
「珍しい名前だろう?」
「そう、ですね。この辺りでは」
「あんたには、聞き覚えがある?」
「……はい。私の故郷では、一般的な名前です」
「その故郷ってさ、もしかして『ニホン』って所じゃない?」
「!」
レオナルドの言葉に、奏澄はひどく驚いた。この世界の誰にも、その国名は通じなかったのに。
「どうして……」
「母さんが、その国の出身だって言ってた。俺のこの髪と目は、母さん譲りなんだ。ニホンじゃ、この色も一般的なんだろ」
この世界にも黒髪黒目がいないわけではないが、アジア系の色艶や髪質とは微妙に異なる。奏澄がレオナルドを見た時の親近感は、勘違いではなかったのだ。
「あの簪は、母さんの形見を真似た物なんだ」
そう言ってテーブルに置いた木箱の蓋を開けると、中に古びたとんぼ玉の簪が入っていた。名を模したのか、とんぼ玉には桜模様が入っている。
「この島に、簪という髪飾りはなかった。とんぼ玉も、ガラス玉自体はあったけど、とんぼ玉って呼び方をしていたのは、母さん以外に聞いたことがない」
その言葉に、奏澄は合点がいった。だから簪に目を留めた時驚いていたのか。店の隅に飾られていた簪は、それが何かを知る人がいないから、隅に置かれていたのだろう。
「母さんがあれを髪に挿していたのを覚えていたから、客には髪飾りだと説明していた。けど、母さんがどうやって挿していたかは覚えていなかった。だから、物好きにもあれを買った客は、だいたい櫛と同じようにまとめた髪に差し込むんだ」
それも間違いではない。簪一本でまとめるのは楽だが、固定度合いが弱いので、激しく動くと落ちてしまう。きちんと固定するやり方では、ゴムやピンでしっかりまとめてから挿す方法が多い。
「でもあんたは、あの簪一本で髪をまとめた。あれは、多分母さんと同じやり方だ。後ろ姿が……記憶の母さんと、よく、似ていて。それで、思わず。――悪かった」
頭を下げたレオナルドに、奏澄は慌てて手を振った。
「いえ! こちらこそ、手荒な真似をして、すみませんでした」
奏澄も、レオナルドに向けて頭を下げる。やらかしたのはメイズだが、あれは奏澄を思っての行動だ。あの場で強く諫めてしまったこともあり、これ以上は責められない。
謝罪した上で、奏澄たちも改めて名乗った。
しかし、思ってもみない所で収穫があった。同じ国から来た人が過去にいたということは、奇跡に近い。奏澄は、心臓が早鐘を打つのを感じていた。
意識して、深呼吸をする。慎重に、話をしなければならない。レオナルドは形見だと言った。つまり、彼の母親は、既に亡くなっている。
「レオナルドさん。私は、元の世界に帰るため……日本に帰るための方法を探して、旅をしているんです」
「元の、世界?」
「日本という国は、この世界にはありません。お母様から聞いているかはわかりませんが、こことは違う世界にある島国なんです」
レオナルドは、ニホンという国の話は聞いていても、それが別の世界であるということは知らなかったようだ。急な話に動揺しているが、心当たりはあったようで、疑う様子は見せなかった。
「お母様の話が、何かの手掛かりになるかもしれません。もし、お辛くなければ、詳しく聞かせてもらえませんか」
「……違う、世界か。そうか、だから母さんは……」
レオナルドは母親を思い出すように目を伏せた。
「母さんも、帰りたがってた。結局、帰ることはできなかったけど。母さんの話が同郷のあんたの役に立つなら、少しは慰めになるかな」
そう言って、レオナルドは寂しそうに笑った。
「ただ、母さんは俺がまだガキの頃に死んだんだ。記憶が曖昧な部分もある。あんま細かいことまでは期待しないで」
「充分です。ありがとうございます」
心からの感謝を述べた奏澄に、レオナルドは過去の話を始めた。
サクラがヴェネリーアに現れたのは、今より三十年ほど前。
島に流れ着いたサクラをダビデが発見し、そのまま行くあてがなかった彼女はダビデの世話になることとなった。
ダビデはヴェネリーアで硝子職人として生計を立てていた。
二人はダビデの持つ工房『ルーナブルー』で共に暮らし、次第に互いを愛するようになり、数年後にレオナルドを授かった。
サクラはそそっかしい性格なのか、よく物を壊しては落ち込んでいた。手先の器用なダビデは、彼女が気に病まなくていいように、あらゆるものを直してみせた。
それを見たサクラは、ダビデのあまりの器用さに、もしかしたらと無茶な頼みをした。彼女の故郷である日本の品々を作ってほしい、という依頼だ。
実物を知るのはサクラだけ。ダビデはそれを再現できたりできなかったりしたが、サクラはダビデが自分の願いを叶えてくれるだけで嬉しかった。
サクラの頼みを聞く内に、工房には硝子以外の作業道具がどんどん増え、ルーナブルーは硝子工房から何でも屋へと変化していった。
幼い頃からダビデの仕事を見て育ったレオナルドは、ダビデと同じくらい、あるいはそれ以上に器用だったため、大概の物なら作れるようになっていた。
サクラ、ダビデ、レオナルド。家族三人で、何不自由なく暮らしていた。
サクラは時折、レオナルドに故郷の話を語って聞かせた。故郷には、自分の名前と同じ『桜』という花の木があって、暖かい季節になると一面ピンク色に染まるのだと。それはとても綺麗で、幻想的なのだと。
幼いレオナルドは目を輝かせ、いつか見せてほしいと駄々をこねた。サクラは「そのうちね」と答えて笑った。
転機はレオナルドが十二の時。サクラが流行り病にかかった。症状は重かったが、ダビデもレオナルドも、治ると信じていた。
当時ヴェネリーアにはちょうど腕の良い医者が来ていて、他にも同じ病にかかった者たちが多くいたが、皆回復していったからだった。しかし。
サクラは、死んだ。
皆の治療に使われていた薬が、サクラにだけ、効果がなかった。
医者いわく、薬に対する耐性や免疫があるのでは、ということだったが、結局詳しいことはわからなかった。確かなことは、他の患者は全員治ったにも関わらず、サクラだけが助からなかったということだ。
サクラは最期に、もう一度故郷に帰りたかったと。レオナルドに、桜を見せてやりたかったと、願った。
レオナルドは、何故一度も帰してやらなかったのかとダビデを責めた。母の願いなら何でも聞いてきた父が、何故、それだけは叶えてやらなかったのかと。
知らなかったのだ。帰せないのだということを。父ですら、その場所を知らないのだということを。
幼いレオナルドに、その理由を説明しても納得できるとは思えなかったのだろう。ダビデもまた、辛さを抱えながらも、真実を伝えることはしなかった。
サクラ亡き後、ダビデは一層仕事に打ち込んだ。何も考える暇も無いくらい、昼も夜もなく働き、そのせいで過労で倒れた。
自身が動けなくなってからは、レオナルドが生きるのに困らないように、持てる限りの技術を叩きこんだ。母を失って、父親として息子にしてやれることは、それしかなかったのだろう。
けれど無理が祟ったのか、ダビデはレオナルドが十六を迎える前に亡くなった。
「俺は工房を引き継いで、今はここで一人で暮らしてる。親父の頃からの客がいるから、生活にも困ってない。気楽なもんだよ」
過去を話し終え、軽く笑って見せたレオナルドだったが、それが強がりであることは、この場の誰もが理解していた。
かつて三人で暮らしていたこの工房で、今はたった一人きり。至る所に思い出があるだろうこの場所で、その寂しさはいかほどか。