子どもは生む。
 万が一危険な事態になった時は、子どもを優先する。後回しになったとしても、自分は決して生きることを諦めない。
 その決意を、奏澄はメイズと共に、ハリソンに伝えた。
 それを受けたハリソンは、静かに頷いた。

 それからは、奏澄はバハジャマ島で療養に専念した。驚いたことに、なんと青龍海賊団の船長、アンリが見舞いに来た。
 赤の海域にいた時に、ロッサには挨拶を済ませてある。緑の海域に入った後、アンリに会う前に療養に入ったため、アンリにはまだ会えていなかった。どうも偶然傘下の海賊がバハジャマ島に来ていて、黒弦討伐の件でたんぽぽ海賊団のことを知っていたものだから、一応とアンリに報告を入れたらしかった。

「ご挨拶に伺えずに、すみませんでした」
「気にすることは無い。むしろその状態で来られても困る」

 変わらず冷静なアンリに、奏澄は苦笑を零した。

「キッドさんとエドアルドさんにも、まだ暫く会えそうになくて。お手紙でも出した方がいいですかね」
「やめておけ。手紙なんか出したら飛んでくるぞ。無事に子どもが生まれたら、君が直接会いに行くといい」

 奏澄は目を瞬いた。遅くなるようなら、先に報告だけでも、と思ったのだが。そこに潜んだ弱気に、気づいたのかもしれない。手紙で伝えてしまえば、用は済んでしまうから。奏澄が、直接会うようにと。
 アンリの不器用な気づかいに、奏澄は微笑んだ。 



 腹が大きくなってくると、奏澄はよく子守唄を歌うようになった。宥めるように。安心させるように。生まれてくるのを拒むように腹を蹴る子どもを、よしよしと撫でながら。
 子どもは腹の中でなんとか育っているようだったが、奏澄の体調はずっと悪いままだった。いつ、何があるかわからない。誰もが不安に思っていたが、誰も口には出さなかった。
 そして迎えた、九ヶ月目。奏澄が破水した。
 予定よりも早いそれに、部屋は一斉に慌ただしくなった。
 ハリソンは早い内から島の助産師と連携を取っていたため、すぐに助産師を呼び、メイズを含めた仲間たちは全員邪魔になるので外へ追い出された。

「カスミさん、頑張ってください。ここまで来れたんですから、あと一息ですよ」

 ハリソンの励ましに、奏澄は脂汗を浮かべながらも微笑んだ。
 本当に、やっとだ。生むと決めたあの日から。目が覚める度に、ほっとした。まだ、生きていられると。この子と、一緒にいられると。日に日に大きくなっていく腹が、愛おしかった。まるで奏澄の生気を吸い取るように育つ子を、それでも元気であってほしいと、祈り続けた。

 助産師の指示に従って、何とかいきむ。痛み以外の感覚が全て消えてしまったようだった。喉が裂けるほどに叫んで、舌を噛まないようにと布を噛まされた。
 目の前が暗くなって、闇の中に光が明滅した。駄目だ。気絶するわけには。
 頭の中で、何かがばちばちと爆ぜる。全身にひどい痛みが走る。ハリソンの声が遠い。自分が今、何をしているのかもわからなくなってきた。
 まずい。意識だけじゃない、(せい)が遠のく感覚がある。せめて、せめてこの子だけは。

「駄目ですカスミさん、意識をしっかり保って!」

 負けない。そう決めた。自分のことも、諦めたくない。
 けれど、自分の状態もわかっていた。だからせめて。

 ――少しだけ、手を貸そう。

 ふっと、響く声があった。色も温度も無いような声だった。なのに、何故か怖いとは思わなかった。

 ――君には、後始末を押し付ける形になった。異界の者にそれをさせたのは、本意ではない。綻びを、ここで正そう。

 だれ。そう問うことはできなかった。それはただ一方的に、奏澄に力を与えてくれた。そうだと、感じた。
 意識がはっきりしてきて、力が戻って。何度もいきんで、そして。

 産声が、上がった。



*~*~*



 諸々の片づけが済んで、母子の健康状態を確認して。それからやっと、メイズは面会を許された。
 母子共に無事であることは仲間たちにはすぐに伝えられ、皆が安堵した。中には泣き崩れる者もいた。しかし皆が一斉に面会に押しかけるには、まだ奏澄の体調が万全でない。ひとまず、メイズだけが先に会うことになった。

 緊張した面持ちでノックをすると、中から返事があった。ゆっくりと、ドアを開ける。

「メイズ」

 柔らかく微笑んだ奏澄は、ついでブイサインをした。

「勝ったでしょ」

 弱々しいながらも強がってみせる彼女に、メイズは全身から力が抜けるのを感じた。生きている。無事を聞いてはいたが、自分の目で確かめて、やっと実感が湧いた。
 続いて、彼女の上に乗っているものに目を向ける。小さな小さなそれは、人間の形をしていた。

「早めに生まれたから、ちょっとちっちゃいんだよね。でも、何とか元気だって。暫く注意が必要だけど」
「……そう、か」

 それは、呼吸をしているようだった。眠っているせいで、瞳は見えない。髪の色は、薄い黒のように見えた。
 人間、だ。

「抱っこする?」

 奏澄に問われて、メイズはぎょっとした。抱っこ。これを、持ち上げる?

「無理だ」
「無理って。しっかりしてよ。この先私一人で面倒見るんじゃないんだから」

 呆れたように言われて、メイズは尻込みした。そう言われても、こんなぐにゃぐにゃとした小さなものを持ったりしたら、殺しそうな気がする。

「じゃぁ、せめて触ってあげて。パパですよーって」

 パパ。馴染みの無い単語に、動揺が隠せない。
 どこなら触って良いのだろうか。手でも握ろうかと思ったが、小さすぎて指すらよくわからない。
 比較的面積の大きい頬を、軽く指で突いてみる。ふにゃふにゃと声を上げて、赤子が顔を動かした。

 唐突に、涙が落ちた。

 何故かはわからない。ただ、ひどく胸が苦しかった。息が吸いづらかったが、嫌な感覚ではなかった。

「あらら。パパは泣き虫ですねー」

 からかうように言って、奏澄が赤子に笑いかける。
 そして赤子に気をつけながらも手を伸ばして、メイズの頭を撫でた。

 この感情を。何と言おう。

「……カスミ」
「うん?」
「ありがとう」

 陳腐な言葉しか、出なかった。それでも、彼女には充分だったようで。

「こちらこそ。ありがとう」

 女神のように、笑った。