『フランツ! ねぇ、止めて!』
マリアは切実な声でフランツに縋った。ここには魔物の主であるフランツがいる。だからマリアも襲われることは無いが、周囲がどうなっているかは容易に想像がつく。
理不尽に奪われる命。壊れる日常。こんなことが、許されるわけがない。
「止めたいなら、俺を殺すんだな」
青い顔をするマリアを、冷たい表情でフランツが見下ろした。
そして、腰元にある剣に視線を向ける。
「神器なんて下げて来たんだ。その女も、俺を殺す気で来たんだろ」
『それは……』
「しょうがねェよな。なんせ悪魔だ。いるだけで、災厄を撒き散らす。誰からも望まれない、世界中の嫌われ者だ」
『違う!』
「違わねェよ! そういうモンだ。そうでなくちゃいけなかったんだ。なのに、お前が……ッお前の、せい、で……」
込み上げた感情が何なのかわからず、フランツは膝をついた。
「知りたくなかった。恨んだままでいたかった。死んだんだろ。もう、俺のものには、ならないんだろ。いないってことだけ思い知って、こんな世界に何の価値がある。その女の体で、一緒に生きてくれんのかよ」
『それは、できないわ。カスミにはカスミの愛する人がいるもの』
「っは、だよな。他人の体を乗っ取ってまで生きようってガラじゃねェもんな、マリアは。……ならやっぱり、全部壊してやる。神の野郎が作り上げた世界なんか、マリアを殺したこんな世界なんか、全部、粉々に」
『わたしは、この世界を愛しているわ』
言い切ったマリアを、フランツは信じられないものを見るような目で見た。
『だって、ここはわたしとフランツが出会った世界だもの。この場所がなければ、わたしはフランツと出会うことも、フランツを愛することもなかった。大切な場所を、失くしてしまわないで』
「マリア……」
『それに、もう一度、わたしたちは会えるわ』
微笑むマリアに、フランツは怪訝そうな顔をする。
『わたしは輪廻へ還る。最後の心残りを……フランツに、愛してるって、言えたから。再びこの世界に生まれ落ちる。その時、わたしはもうマリアではないけれど……それでも、魂は同じよ。だから、約束して。もう一度、わたしを見つけるって』
マリアは小指を差し出した。戸惑うフランツの手を取って、同じように小指を絡ませる。
『カスミの故郷では、こうやって約束するんだって。なんだか素敵よね。だから真似っこ。ね、約束の証』
少女のような微笑みに、あの島でのマリアの面影を見た。フランツは何かを堪えるように歯を食いしばって、そっと額を重ねた。
「悪魔と約束なんかすんの、マリアくらいだぜ」
『そうかもね』
くすくすと笑った吐息が、かかるほどの距離。困ったように笑ったマリアは、
『カスミ、ごめんね。人生最後のお願い、許して』
果たして奏澄の返答を聞いたのか聞かなかったのか、そのままフランツに口づけた。
『それじゃ、フランツ。またね!』
涙を浮かべながらも、満面の笑みで別れを告げたマリアは、そのまま意識を失った。崩れた体を、フランツが支える。
「マリア!」
呼びかけに応じて瞼が震える。薄く開いた瞳は、もう金色ではなく、元の奏澄の瞳だった。
「……戻ったのか」
虚ろな視線がフランツを捉える。徐々に光を取り戻した瞳からは、はたはたと涙が零れ落ちていた。
「なんでてめェが泣くんだよ」
「わ……かりま、せん。マリア、さんと、同調して。まだ……抜けきらないみたいで……」
フランツが顔を顰める。マリアの気持ちはマリアのものだ。それはわかるが、奏澄にも止められなかった。マリアはもうここにはいないのに、彼女の感情だけが、未だ激しく胸を打つ。
「腑抜けた奴だな。そんなんで俺を殺せンのかよ」
「……え?」
「俺を、殺しに来たんだろ」
奏澄を射抜く瞳に、殺意は無い。奏澄はただ戸惑うしかなかった。
「だ……って。マリアさんを、探すんじゃ」
「聞いてたんだろ。なら、わかるな。俺は了承してない」
「そんな……!」
愕然とした奏澄に、フランツは溜息を吐いた。
「生まれ直してまで、悪魔に会いたい女なんかいるかよ。魂は同じでも、転生したら別人だ。好き好んで悪党に関わりたいわけねェだろ」
「……マリアさんの、ためですか」
奏澄の言葉に、フランツは図星をつかれたかのように顔を歪めた。
この人の言葉が、素直であるはずがない。彼女が、新しい人生を健やかに歩めるように。清らかで、明るいものであるように。自分などが関わらなければいいと、思っているのだ。
「それは、見過ごせません。私は、確かにお二人の約束を見ていました。だから、あなたには、約束を守ってもらわないと」
「物事の優先順位がわからないほど馬鹿なのか? お前は何をしにここに来た」
「それ、は」
「俺を殺さないと、世界はこのまま滅びるぜ。地は腐り、魔物が跋扈して、人間は全部喰われる」
「っやめてください!」
「だから、止めてみせろよ」
フランツは奏澄の手を掴んで、自らの胸に当てた。
「ここだ。ここをその忌々しい神の剣で貫けば、俺は消滅する」
「しょう……めつ……って、魂、は」
「壊れるだろうな。そもそも、神器はそのためにある。マリアが刺した時に残ったのは、失敗したんだとばかり思ってたが……今思えば、マリアが守ったんだろ」
「それは、私にも」
「お前にそんな力があるかよ。マリアは神の眷属になってたからできたんだ」
「でも、だって、そうだ、マリアさんと同じように、輪廻に還ることは」
「無理だ。いい加減腹括れ」
鋭く言葉を切られて、奏澄は震えた。その瞳の奥に、見えるものがある。
「……あなたは。死にたいんですか」
「……かもな」
吐き捨てるように言って、フランツはぐしゃりと髪をかき混ぜた。
「もう、終わりにしたい。疲れた。マリアは俺を愛してくれた。もう、それだけでいい。それだけ抱えて、眠りたい」
奏澄は、フランツのことをほとんど知らない。この人に、かける言葉が見当たらない。マリアの意志には背くことになる。けれど、それがフランツの望みなら。
討たなければならない。そのために来た。仲間の自由がかかっている。フランツの望みと奏澄の望みは合致する。
悪だと思っていた。絶対的な悪だと。だから、討伐は正義の行いだと。
行いは返る。誰に対しても悪逆非道を貫いてきたのなら、報復されるのは道理だ。
けれど。彼の行いが、誰かを救っていたのなら。誰かに愛されるほどの何かが、あったのなら。
フランツという存在は。
「迷うな」
固めた決意がぐらぐらと揺らぐ奏澄を、フランツが一喝した。
「ここで起きたことは全て忘れろ。一切口外するな。俺は悪魔だ。かつて世界を恐怖に陥れ、今また滅ぼそうとしている。世界の敵だ。それ以外に、何も知る必要はない」
「で、も」
「これ以上ぐだぐだ抜かすなら、無理やり弦で操るぜ。神器は俺には使えない。お前がやるしかない。迷ってる間に、どんどん人が死んでくぜ」
止められないのか。この地獄は。フランツを、殺すことでしか。
問答している暇は無い。マリアですら止められなかったのに、奏澄の言葉が響くとは思えない。これしか。これしか、ないのか。
震える手で剣を鞘から抜く。煌めく刃に、目が潰れそうだ。
「外すなよ」
口角を上げたフランツを、涙で歪む視界で見る。ぎゅっと目を閉じて、涙を払った。歪んだままでは、狙いが逸れる。無駄に苦しませるわけにはいかない。
「また、会いましょう」
そう言って、奏澄は切っ先を思い切りフランツの胸へ突き立てた。
マリアは切実な声でフランツに縋った。ここには魔物の主であるフランツがいる。だからマリアも襲われることは無いが、周囲がどうなっているかは容易に想像がつく。
理不尽に奪われる命。壊れる日常。こんなことが、許されるわけがない。
「止めたいなら、俺を殺すんだな」
青い顔をするマリアを、冷たい表情でフランツが見下ろした。
そして、腰元にある剣に視線を向ける。
「神器なんて下げて来たんだ。その女も、俺を殺す気で来たんだろ」
『それは……』
「しょうがねェよな。なんせ悪魔だ。いるだけで、災厄を撒き散らす。誰からも望まれない、世界中の嫌われ者だ」
『違う!』
「違わねェよ! そういうモンだ。そうでなくちゃいけなかったんだ。なのに、お前が……ッお前の、せい、で……」
込み上げた感情が何なのかわからず、フランツは膝をついた。
「知りたくなかった。恨んだままでいたかった。死んだんだろ。もう、俺のものには、ならないんだろ。いないってことだけ思い知って、こんな世界に何の価値がある。その女の体で、一緒に生きてくれんのかよ」
『それは、できないわ。カスミにはカスミの愛する人がいるもの』
「っは、だよな。他人の体を乗っ取ってまで生きようってガラじゃねェもんな、マリアは。……ならやっぱり、全部壊してやる。神の野郎が作り上げた世界なんか、マリアを殺したこんな世界なんか、全部、粉々に」
『わたしは、この世界を愛しているわ』
言い切ったマリアを、フランツは信じられないものを見るような目で見た。
『だって、ここはわたしとフランツが出会った世界だもの。この場所がなければ、わたしはフランツと出会うことも、フランツを愛することもなかった。大切な場所を、失くしてしまわないで』
「マリア……」
『それに、もう一度、わたしたちは会えるわ』
微笑むマリアに、フランツは怪訝そうな顔をする。
『わたしは輪廻へ還る。最後の心残りを……フランツに、愛してるって、言えたから。再びこの世界に生まれ落ちる。その時、わたしはもうマリアではないけれど……それでも、魂は同じよ。だから、約束して。もう一度、わたしを見つけるって』
マリアは小指を差し出した。戸惑うフランツの手を取って、同じように小指を絡ませる。
『カスミの故郷では、こうやって約束するんだって。なんだか素敵よね。だから真似っこ。ね、約束の証』
少女のような微笑みに、あの島でのマリアの面影を見た。フランツは何かを堪えるように歯を食いしばって、そっと額を重ねた。
「悪魔と約束なんかすんの、マリアくらいだぜ」
『そうかもね』
くすくすと笑った吐息が、かかるほどの距離。困ったように笑ったマリアは、
『カスミ、ごめんね。人生最後のお願い、許して』
果たして奏澄の返答を聞いたのか聞かなかったのか、そのままフランツに口づけた。
『それじゃ、フランツ。またね!』
涙を浮かべながらも、満面の笑みで別れを告げたマリアは、そのまま意識を失った。崩れた体を、フランツが支える。
「マリア!」
呼びかけに応じて瞼が震える。薄く開いた瞳は、もう金色ではなく、元の奏澄の瞳だった。
「……戻ったのか」
虚ろな視線がフランツを捉える。徐々に光を取り戻した瞳からは、はたはたと涙が零れ落ちていた。
「なんでてめェが泣くんだよ」
「わ……かりま、せん。マリア、さんと、同調して。まだ……抜けきらないみたいで……」
フランツが顔を顰める。マリアの気持ちはマリアのものだ。それはわかるが、奏澄にも止められなかった。マリアはもうここにはいないのに、彼女の感情だけが、未だ激しく胸を打つ。
「腑抜けた奴だな。そんなんで俺を殺せンのかよ」
「……え?」
「俺を、殺しに来たんだろ」
奏澄を射抜く瞳に、殺意は無い。奏澄はただ戸惑うしかなかった。
「だ……って。マリアさんを、探すんじゃ」
「聞いてたんだろ。なら、わかるな。俺は了承してない」
「そんな……!」
愕然とした奏澄に、フランツは溜息を吐いた。
「生まれ直してまで、悪魔に会いたい女なんかいるかよ。魂は同じでも、転生したら別人だ。好き好んで悪党に関わりたいわけねェだろ」
「……マリアさんの、ためですか」
奏澄の言葉に、フランツは図星をつかれたかのように顔を歪めた。
この人の言葉が、素直であるはずがない。彼女が、新しい人生を健やかに歩めるように。清らかで、明るいものであるように。自分などが関わらなければいいと、思っているのだ。
「それは、見過ごせません。私は、確かにお二人の約束を見ていました。だから、あなたには、約束を守ってもらわないと」
「物事の優先順位がわからないほど馬鹿なのか? お前は何をしにここに来た」
「それ、は」
「俺を殺さないと、世界はこのまま滅びるぜ。地は腐り、魔物が跋扈して、人間は全部喰われる」
「っやめてください!」
「だから、止めてみせろよ」
フランツは奏澄の手を掴んで、自らの胸に当てた。
「ここだ。ここをその忌々しい神の剣で貫けば、俺は消滅する」
「しょう……めつ……って、魂、は」
「壊れるだろうな。そもそも、神器はそのためにある。マリアが刺した時に残ったのは、失敗したんだとばかり思ってたが……今思えば、マリアが守ったんだろ」
「それは、私にも」
「お前にそんな力があるかよ。マリアは神の眷属になってたからできたんだ」
「でも、だって、そうだ、マリアさんと同じように、輪廻に還ることは」
「無理だ。いい加減腹括れ」
鋭く言葉を切られて、奏澄は震えた。その瞳の奥に、見えるものがある。
「……あなたは。死にたいんですか」
「……かもな」
吐き捨てるように言って、フランツはぐしゃりと髪をかき混ぜた。
「もう、終わりにしたい。疲れた。マリアは俺を愛してくれた。もう、それだけでいい。それだけ抱えて、眠りたい」
奏澄は、フランツのことをほとんど知らない。この人に、かける言葉が見当たらない。マリアの意志には背くことになる。けれど、それがフランツの望みなら。
討たなければならない。そのために来た。仲間の自由がかかっている。フランツの望みと奏澄の望みは合致する。
悪だと思っていた。絶対的な悪だと。だから、討伐は正義の行いだと。
行いは返る。誰に対しても悪逆非道を貫いてきたのなら、報復されるのは道理だ。
けれど。彼の行いが、誰かを救っていたのなら。誰かに愛されるほどの何かが、あったのなら。
フランツという存在は。
「迷うな」
固めた決意がぐらぐらと揺らぐ奏澄を、フランツが一喝した。
「ここで起きたことは全て忘れろ。一切口外するな。俺は悪魔だ。かつて世界を恐怖に陥れ、今また滅ぼそうとしている。世界の敵だ。それ以外に、何も知る必要はない」
「で、も」
「これ以上ぐだぐだ抜かすなら、無理やり弦で操るぜ。神器は俺には使えない。お前がやるしかない。迷ってる間に、どんどん人が死んでくぜ」
止められないのか。この地獄は。フランツを、殺すことでしか。
問答している暇は無い。マリアですら止められなかったのに、奏澄の言葉が響くとは思えない。これしか。これしか、ないのか。
震える手で剣を鞘から抜く。煌めく刃に、目が潰れそうだ。
「外すなよ」
口角を上げたフランツを、涙で歪む視界で見る。ぎゅっと目を閉じて、涙を払った。歪んだままでは、狙いが逸れる。無駄に苦しませるわけにはいかない。
「また、会いましょう」
そう言って、奏澄は切っ先を思い切りフランツの胸へ突き立てた。