隙間を埋めるように抱き合って、その余韻を残しながら、微睡む意識で触れ合った。このまま眠ってしまっても良かったが、メイズはもう少し話したそうだ。今を逃したら、もう過去の話が聞ける機会は無いかもしれない。彼の満足がいくまで話が聞きたいと、奏澄は目を見つめた。
「カスミの話も、聞いてもいいか」
予想外の言葉が出てきて、奏澄は目を瞬いた。
「どうしたの、急に」
「気にはなっていたんだ。故郷に帰りたがっていた頃から、お前は家族の話や向こうの人間の話を、ほとんどしなかっただろう」
指摘されて、どきりと心臓が跳ねる。それをごまかしたくて、奏澄は空笑いした。
「ピロートークにしては重い話選ぶなぁ」
「茶化すな」
真剣な声色に、奏澄の顔から笑みが消える。
「ごく普通の、家族だよ。普通に友達がいて、普通に暮らしてた」
「俺は普通は知らない。カスミの話が聞きたい」
聞かれて、奏澄は眉を下げた。
メイズは、奏澄がこの話題を避けていることに気づいている。今も、濁した言葉を追及した。
今までのメイズなら。言いたくないなら言わなくていい、と言っただろう。
けれど、今この人は。奏澄の深くに踏み込む覚悟を、決めたのだ。
それは嬉しいことのはずなのに。やめてほしい、と奏澄は俯いた。
自分は相手の嫌な記憶を引きずり出しておきながら。こっちは見ないで、なんて。
だってメイズとは比べ物にならない。自分のは、甘えだ。生まれが既に、相当恵まれている。生きるに困った彼に対して、いったいどんな弱音を吐けると言うのだろう。
「幸せ、だったよ」
ごとり。
「清潔な服を着て、十分な栄養の食事が取れて」
ごとり、ごとり。
「立派な家があって、温かな布団で眠れる。両親が健在で、きちんとした教育も受けて。満たされた、生活だった」
ごとりと、胸の内から重い音がする。自分の台詞一つごとに、石が積まれていく気分だった。胸がどんどん重くなる。
言葉を聞いたメイズは、眉を顰めた。
「それはただの条件であって、お前の主観は入ってないだろ」
「生活環境は、幸せに生きるための条件だよ」
「そうかもしれないが、俺が聞いてるのは、お前がどういうことを感じながら、何を思って、どんな風に暮らしてたのかってことだ」
わかっている。奏澄は目を伏せた。
奏澄は最初に普通だ、と口にしたのだから、これらの条件は奏澄が特別恵まれていたわけではなく、一般的には備わっているものだと推察しているだろう。
それでも。最低限がきちんと揃っている、ということは、俯瞰で見れば幸福なことだ。
マズローの欲求五段階説、という有名な心理学の理論がある。
一段階目は、生理的欲求。生きていくための、最低限の欲求。
二段階目は、安全欲求。安心な暮らしへの欲求。
三段階目は、社会的欲求。人や組織に受け入れられたいと言う欲求。
四段階目は、承認欲求。人から認められたい、という欲求。
五段階目は、自己実現欲求。何者かになりたい、と願う欲求。
現代日本において、餓死するほど食に困っており尚且つ何の保障も受けられない人というのは、そう多くは無い。むしろこの一段階目が満たせない人間ばかりの国は大問題である。
安全面でもそうだ。日本人は安全への意識が高いが、ここでの安心は生命に直結するものと考えて良いだろう。程度の差はあれど、最低限屋根のある家で暮らしている人が大半のはずだ。寒さで凍死する危険も、武器を持って襲われる危険も、確率で言えば決して身近ではない。
その二つが満たされて初めて、社会的欲求について悩み始める。つまり、三段階目以上の事柄について悩むのは、贅沢なことなのだ。満たされているから。最低限暮らしが保障されているから、それ以上のことで悩めるのだ。
悩みとは、同じステージにあるもの同士でないと共有できない。
今日食べる物にも困っている相手に、「夕食を魚にしたいのに肉しか手に入らない」などと相談する者はいないだろう。それは共感を得られないだけでなく、相手を馬鹿にする行為だからだ。
奏澄は当然、メイズを馬鹿にするつもりはない。メイズの方も、奏澄を馬鹿にしたりはしないだろう。
それでも、思うのだ。この程度のことでと、呆れられやしないかと。必死に生きてきた相手に、小さな世界で小さな悩み事を抱えていただけの自分が、辛いという顔をしてみせるのは。とても恥ずかしいことのように思えた。
「ただのわがままで、愚痴みたいなものなんだけど」
たっぷり間を置いた後で、それでも保険をかけるようにして、そう前置きした。
頷いたメイズに、そのまま言葉を続ける。
「私が最初にしてたネックレス、あるでしょ? あれ、両親からのプレゼントだったの」
それを聞いたメイズは、顔を曇らせた。あのネックレスは、出会った時のメイズの治療代として消えた。取り戻せない、思い出の品。しかし、あれは。
「でも、あれ。本当は、そんな大した思い出はないの。私が唯一向こうから持ってきた物だったから、そういう意味での執着心はあったんだけど。思い入れ、とかは別に。なんていうか、物を与えておけば、みたいなところがあって。あれは、その一環っていうか」
宝石を貰っておいて、と思うだろうか。価値で言えば、そうだ。高価なものだ。けれど。
「両親は、あまり仲が良くなくて。それは、私のせいかもしれなくて」
言い訳をするように、言葉が早くなる。
思い出す。かつての世界を。国を。家族を。
私を。
「カスミの話も、聞いてもいいか」
予想外の言葉が出てきて、奏澄は目を瞬いた。
「どうしたの、急に」
「気にはなっていたんだ。故郷に帰りたがっていた頃から、お前は家族の話や向こうの人間の話を、ほとんどしなかっただろう」
指摘されて、どきりと心臓が跳ねる。それをごまかしたくて、奏澄は空笑いした。
「ピロートークにしては重い話選ぶなぁ」
「茶化すな」
真剣な声色に、奏澄の顔から笑みが消える。
「ごく普通の、家族だよ。普通に友達がいて、普通に暮らしてた」
「俺は普通は知らない。カスミの話が聞きたい」
聞かれて、奏澄は眉を下げた。
メイズは、奏澄がこの話題を避けていることに気づいている。今も、濁した言葉を追及した。
今までのメイズなら。言いたくないなら言わなくていい、と言っただろう。
けれど、今この人は。奏澄の深くに踏み込む覚悟を、決めたのだ。
それは嬉しいことのはずなのに。やめてほしい、と奏澄は俯いた。
自分は相手の嫌な記憶を引きずり出しておきながら。こっちは見ないで、なんて。
だってメイズとは比べ物にならない。自分のは、甘えだ。生まれが既に、相当恵まれている。生きるに困った彼に対して、いったいどんな弱音を吐けると言うのだろう。
「幸せ、だったよ」
ごとり。
「清潔な服を着て、十分な栄養の食事が取れて」
ごとり、ごとり。
「立派な家があって、温かな布団で眠れる。両親が健在で、きちんとした教育も受けて。満たされた、生活だった」
ごとりと、胸の内から重い音がする。自分の台詞一つごとに、石が積まれていく気分だった。胸がどんどん重くなる。
言葉を聞いたメイズは、眉を顰めた。
「それはただの条件であって、お前の主観は入ってないだろ」
「生活環境は、幸せに生きるための条件だよ」
「そうかもしれないが、俺が聞いてるのは、お前がどういうことを感じながら、何を思って、どんな風に暮らしてたのかってことだ」
わかっている。奏澄は目を伏せた。
奏澄は最初に普通だ、と口にしたのだから、これらの条件は奏澄が特別恵まれていたわけではなく、一般的には備わっているものだと推察しているだろう。
それでも。最低限がきちんと揃っている、ということは、俯瞰で見れば幸福なことだ。
マズローの欲求五段階説、という有名な心理学の理論がある。
一段階目は、生理的欲求。生きていくための、最低限の欲求。
二段階目は、安全欲求。安心な暮らしへの欲求。
三段階目は、社会的欲求。人や組織に受け入れられたいと言う欲求。
四段階目は、承認欲求。人から認められたい、という欲求。
五段階目は、自己実現欲求。何者かになりたい、と願う欲求。
現代日本において、餓死するほど食に困っており尚且つ何の保障も受けられない人というのは、そう多くは無い。むしろこの一段階目が満たせない人間ばかりの国は大問題である。
安全面でもそうだ。日本人は安全への意識が高いが、ここでの安心は生命に直結するものと考えて良いだろう。程度の差はあれど、最低限屋根のある家で暮らしている人が大半のはずだ。寒さで凍死する危険も、武器を持って襲われる危険も、確率で言えば決して身近ではない。
その二つが満たされて初めて、社会的欲求について悩み始める。つまり、三段階目以上の事柄について悩むのは、贅沢なことなのだ。満たされているから。最低限暮らしが保障されているから、それ以上のことで悩めるのだ。
悩みとは、同じステージにあるもの同士でないと共有できない。
今日食べる物にも困っている相手に、「夕食を魚にしたいのに肉しか手に入らない」などと相談する者はいないだろう。それは共感を得られないだけでなく、相手を馬鹿にする行為だからだ。
奏澄は当然、メイズを馬鹿にするつもりはない。メイズの方も、奏澄を馬鹿にしたりはしないだろう。
それでも、思うのだ。この程度のことでと、呆れられやしないかと。必死に生きてきた相手に、小さな世界で小さな悩み事を抱えていただけの自分が、辛いという顔をしてみせるのは。とても恥ずかしいことのように思えた。
「ただのわがままで、愚痴みたいなものなんだけど」
たっぷり間を置いた後で、それでも保険をかけるようにして、そう前置きした。
頷いたメイズに、そのまま言葉を続ける。
「私が最初にしてたネックレス、あるでしょ? あれ、両親からのプレゼントだったの」
それを聞いたメイズは、顔を曇らせた。あのネックレスは、出会った時のメイズの治療代として消えた。取り戻せない、思い出の品。しかし、あれは。
「でも、あれ。本当は、そんな大した思い出はないの。私が唯一向こうから持ってきた物だったから、そういう意味での執着心はあったんだけど。思い入れ、とかは別に。なんていうか、物を与えておけば、みたいなところがあって。あれは、その一環っていうか」
宝石を貰っておいて、と思うだろうか。価値で言えば、そうだ。高価なものだ。けれど。
「両親は、あまり仲が良くなくて。それは、私のせいかもしれなくて」
言い訳をするように、言葉が早くなる。
思い出す。かつての世界を。国を。家族を。
私を。