重い沈黙が流れた。
話を聞いた奏澄は、絶句した。
善い行いをしてきたとは、思っていなかった。黒の海域出身だということも、わかっていた。そこが、スラムのような場所であることも。
それでも。まさか。黒弦との決別の原因が、母親に子どもを喰わせようとしたこと、だったとは。
それを想像した奏澄は、込み上げた吐き気に、思わず口を押さえた。
「メイズは……どうして、止めたの」
吐き出すようにして、そう尋ねた。決定打となったその行動の動機は、なんだったのか。あまりにも惨い仕打ちではあるが、聞く限りでは、その時のメイズに良心のようなものがあったとは思えない。
「……なんだろうな。俺にも、よくわからない」
途方に暮れたような声で、メイズはそう答えた。
「ただ……あの光景を見た瞬間、俺の母親を思い出した」
「メイズの、お母さん?」
「ああ。あの人が殺された時、俺はその場にいた。というか、あの人は……もしかしたら、俺を、庇ったのかもしれない」
口ごもるようにして、不安げにも見える態度で零された言葉に、奏澄は目を見開いた。
「多分、勘違いなんだ。あの人が、そんなことをするはずがない。記憶違いか、見間違いか。たまたま、俺と賊の間に、あの人の体が入っただけかもしれない。それでも、俺はなんでか……あんな人でも、母親で、少しは子どもを気にしたんじゃ、ないかって」
「――うん。そうだね。きっと、守ってくれたんだよ。そのおかげで、私は今メイズといられる。メイズのお母さんに、感謝しなくちゃ」
小さな子どものように見えて、奏澄は宥めるようにメイズの背をさすった。
これは優しい嘘だ。相手はもう死んでいるから、それが暴かれることは無い。真偽を確かめる術も無い。だからこそ、言えた嘘。
母親が必ずしも子どもを愛さないということを、知っている。こんな言葉は、ただの気休めでしかない。それでも、メイズが口にしたのは、『そうだったらいい』と思ったからだ。幼心に母親の愛情を求めて、それを今も、心の片隅に持ち続けている。その希望を守ることの方が、正しさなどよりよほど尊い。
「理由は、それだけだ。子どもが焼かれるのは、黙って見ていた。喰わされるのが父親だったら、俺は多分止めなかった。その程度のことだ。そんな人間だった。俺は」
メイズは背を丸めて、顔を覆った。奏澄の顔を、見られないのだろう。
「軽蔑するか」
顔も上げずに問われた言葉に、奏澄は静かに答えた。
「そうだね、する」
刺されたように、メイズが息を詰めて体を固くした。
「でも、愛してる」
奏澄は手を伸ばして、小さく丸まった体を精一杯抱き締めた。
思っていたよりも、ずっと酷い人だった。世間の誰に聞いても、極悪非道だと罵られるだろう。
それでも、愛している。この人を。唯一無二の片割れを。
「許すのか」
顔を上げ、呆然としたような表情で零すメイズに、奏澄は首を振った。
「それを決めるのは私じゃないよ」
受け入れることと許すことは違う。何もされていない奏澄に、メイズを許す権利は無い。それは、メイズによって傷つけられた人にのみ与えられる。
「メイズに傷つけられた人は、一生メイズを許さないと思う。でも、メイズに救われた人は、ずっとメイズに感謝すると思う」
黒弦のメイズは、多くの人を傷つけてきたのだろう。それを否定する気は無い。許してくれと懇願することもしない。恨むのは当然の権利だ。だから全てを、受け入れる。
この人の罪は、私の罪だから。
共に背負うと決めた。どれほど重くとも、逃げない。
それでも。メイズの人生は、それだけではない。黒弦のメイズでいた時間だけじゃない。奏澄に出会ってからのメイズ。たんぽぽ海賊団に入ってからのメイズ。その彼に救われた者も、確かに存在する。
「誰に対しても善人でなくていいように、誰に対しても悪人じゃなくたっていいんだよ」
人はいくつもの顔を持つ。例え聖職者であっても、全ての人類に対して善良であることは不可能だ。敵と味方があるならば、両方にいい顔はできない。全ての人に好かれることはできない。
誰かを愛して、守ろうというのなら。その誰かを害す相手には、当然悪人になるだろう。逆も然り。
どんな人でなしであっても、大切な家族には良き親であったりもするのだろう。その大切な家族を守るために、人でなしであり続けるのかもしれない。
善人か。悪人か。人はそんな風に振り分けられるものではない。それは見た者によって顔を変える。
行いが、返るだけだ。良いことも悪いことも。全て、自分のした行いが、自分に返るだけ。
「だから自分を諦めないで。これから先は、ずっと私がいるから。ずっと私が見てるから。なりたい自分を思い描いて、そのための行動をしよう」
諦めないで。その願いを、手放さないで欲しい。どうせ悪人だったからと。誰も自分を許しはしないからと。それは過去のことだ。ずっとついてくるとしても。過去が永遠に自分を許さないとしても。それでも、未来は描ける。
「俺は、お前と同じ場所で生きられる自分になりたい」
「うん。私も、メイズと一緒に生きる未来が欲しい」
思い描く未来は、同じものではないかもしれない。
だから努力をしよう。同じものを見られるように。同じものが見たいと、願おう。
それを共に受け止めてくれる人がいるのなら。人生は、きっとそれほど悪くはない。
触れるだけのキスをして、ゆっくりと顔を離す。
薄く涙が張った瞳を見て、奏澄は苦笑した。そして次第に深くなっていくキスを、心ごと受け入れた。
話を聞いた奏澄は、絶句した。
善い行いをしてきたとは、思っていなかった。黒の海域出身だということも、わかっていた。そこが、スラムのような場所であることも。
それでも。まさか。黒弦との決別の原因が、母親に子どもを喰わせようとしたこと、だったとは。
それを想像した奏澄は、込み上げた吐き気に、思わず口を押さえた。
「メイズは……どうして、止めたの」
吐き出すようにして、そう尋ねた。決定打となったその行動の動機は、なんだったのか。あまりにも惨い仕打ちではあるが、聞く限りでは、その時のメイズに良心のようなものがあったとは思えない。
「……なんだろうな。俺にも、よくわからない」
途方に暮れたような声で、メイズはそう答えた。
「ただ……あの光景を見た瞬間、俺の母親を思い出した」
「メイズの、お母さん?」
「ああ。あの人が殺された時、俺はその場にいた。というか、あの人は……もしかしたら、俺を、庇ったのかもしれない」
口ごもるようにして、不安げにも見える態度で零された言葉に、奏澄は目を見開いた。
「多分、勘違いなんだ。あの人が、そんなことをするはずがない。記憶違いか、見間違いか。たまたま、俺と賊の間に、あの人の体が入っただけかもしれない。それでも、俺はなんでか……あんな人でも、母親で、少しは子どもを気にしたんじゃ、ないかって」
「――うん。そうだね。きっと、守ってくれたんだよ。そのおかげで、私は今メイズといられる。メイズのお母さんに、感謝しなくちゃ」
小さな子どものように見えて、奏澄は宥めるようにメイズの背をさすった。
これは優しい嘘だ。相手はもう死んでいるから、それが暴かれることは無い。真偽を確かめる術も無い。だからこそ、言えた嘘。
母親が必ずしも子どもを愛さないということを、知っている。こんな言葉は、ただの気休めでしかない。それでも、メイズが口にしたのは、『そうだったらいい』と思ったからだ。幼心に母親の愛情を求めて、それを今も、心の片隅に持ち続けている。その希望を守ることの方が、正しさなどよりよほど尊い。
「理由は、それだけだ。子どもが焼かれるのは、黙って見ていた。喰わされるのが父親だったら、俺は多分止めなかった。その程度のことだ。そんな人間だった。俺は」
メイズは背を丸めて、顔を覆った。奏澄の顔を、見られないのだろう。
「軽蔑するか」
顔も上げずに問われた言葉に、奏澄は静かに答えた。
「そうだね、する」
刺されたように、メイズが息を詰めて体を固くした。
「でも、愛してる」
奏澄は手を伸ばして、小さく丸まった体を精一杯抱き締めた。
思っていたよりも、ずっと酷い人だった。世間の誰に聞いても、極悪非道だと罵られるだろう。
それでも、愛している。この人を。唯一無二の片割れを。
「許すのか」
顔を上げ、呆然としたような表情で零すメイズに、奏澄は首を振った。
「それを決めるのは私じゃないよ」
受け入れることと許すことは違う。何もされていない奏澄に、メイズを許す権利は無い。それは、メイズによって傷つけられた人にのみ与えられる。
「メイズに傷つけられた人は、一生メイズを許さないと思う。でも、メイズに救われた人は、ずっとメイズに感謝すると思う」
黒弦のメイズは、多くの人を傷つけてきたのだろう。それを否定する気は無い。許してくれと懇願することもしない。恨むのは当然の権利だ。だから全てを、受け入れる。
この人の罪は、私の罪だから。
共に背負うと決めた。どれほど重くとも、逃げない。
それでも。メイズの人生は、それだけではない。黒弦のメイズでいた時間だけじゃない。奏澄に出会ってからのメイズ。たんぽぽ海賊団に入ってからのメイズ。その彼に救われた者も、確かに存在する。
「誰に対しても善人でなくていいように、誰に対しても悪人じゃなくたっていいんだよ」
人はいくつもの顔を持つ。例え聖職者であっても、全ての人類に対して善良であることは不可能だ。敵と味方があるならば、両方にいい顔はできない。全ての人に好かれることはできない。
誰かを愛して、守ろうというのなら。その誰かを害す相手には、当然悪人になるだろう。逆も然り。
どんな人でなしであっても、大切な家族には良き親であったりもするのだろう。その大切な家族を守るために、人でなしであり続けるのかもしれない。
善人か。悪人か。人はそんな風に振り分けられるものではない。それは見た者によって顔を変える。
行いが、返るだけだ。良いことも悪いことも。全て、自分のした行いが、自分に返るだけ。
「だから自分を諦めないで。これから先は、ずっと私がいるから。ずっと私が見てるから。なりたい自分を思い描いて、そのための行動をしよう」
諦めないで。その願いを、手放さないで欲しい。どうせ悪人だったからと。誰も自分を許しはしないからと。それは過去のことだ。ずっとついてくるとしても。過去が永遠に自分を許さないとしても。それでも、未来は描ける。
「俺は、お前と同じ場所で生きられる自分になりたい」
「うん。私も、メイズと一緒に生きる未来が欲しい」
思い描く未来は、同じものではないかもしれない。
だから努力をしよう。同じものを見られるように。同じものが見たいと、願おう。
それを共に受け止めてくれる人がいるのなら。人生は、きっとそれほど悪くはない。
触れるだけのキスをして、ゆっくりと顔を離す。
薄く涙が張った瞳を見て、奏澄は苦笑した。そして次第に深くなっていくキスを、心ごと受け入れた。