自然消滅


 好きだなんて、陳腐な言葉で言い表せなかった。
 声が、瞳が、笑った時にできる目の横の皺が、全部が好きだった。
 今でも頭から離れないくらい好きだった。
 なのに今、君はどうして、そんな綺麗な笑顔で誰かの横に立ってるの。

「来てたんだ」

 昔から変わらない声のトーン。
 嬉しそうな笑顔に、頭が錯覚してしまう。
 変わらずに刻まれた目の横の皺は、少しだけ濃くなった気はするけど。
 まだ、あの時で時間が止まっているみたいな、ふわふわとした淡い期待感。
 いっそ、君の言葉をあの時信じきれなかった私を責めてくれれば、やり直せたのかもしれない。

 歯痒さに唇を噛み締めて、ワンピースの裾を握りしめてぐちゃぐちゃにした。
 ガヤガヤとした店内なのに、私の声は一際大きく聞こえて惨めだ。

「そりゃあね、みんなに会いたかったし」

――嘘。君に会いたかったから。

 口に出せない嘘は喉の奥に隠して、もう一度作り笑いをする。
 君の笑顔を、もう独り占めはできない。
 わかっていた。
 君の腕に縋り付くように甘える白い腕に、目配せをする。

 目に入れたくないけど、入ってしまうんだからしょうがない。
 手の中のグラスがやけに重たく感じて、腕が痛い。
 少しだけ、腕を下ろす。

「あ、俺の彼女。って、知ってるよな。同級生だし」
「さえちゃん、久しぶりだね」

 幸せです、と顔に貼り付けて、私の方を見つめる。
 その笑顔に、胸の奥がチクチクと痛んだ。
 
「そうだね、あの時はあんまり話したことなかったけど」

 毒気をはらみかけた言葉を、ゆったりと言うことでなんとか誤魔化す。
 こんな時勢に同窓会なんて、誰が企画したんだ。
 会いたくなかった。
 会いたくて、会いたくて、たまらなかったのに。

「さえちゃんは、ご結婚とかされてるの?」

 フッと下げた視線に、苛立ちが募る。
 彼女は私の全身を、見定めるように視線を這わせた。
 手に持ったグラスの中身を飲み干して、苛立ちも飲み込む。
 軽く漂う、甘い香りにクラクラしそうだ。

「ううん、今は仕事が楽しくて」

 これは、嘘じゃない。
 嘘ではない。
 だから、これ以上この場に居させないで。
 作り笑顔はうまく作れてるだろうか、見れないから分からないけど。
 唇の端の方がヒクヒクと、勝手に揺れ動く。

「ちょっと行くね」

 逃げるように、外へと向かう。
 今の私には、新鮮な空気が必要だった。

 大地とまだ付き合っていた五年前のあの日を、今でも後悔してる。
 赤提灯の下で、しゃがみ込んで、あの日の大地を思い出す。

「さえ、久しぶり」

 高校時代より少し伸びた身長に、焼けた肌。
 手を上げた指先を、見つめて苦々しく思った。
 会うたびに大人に近づいてるのを感じさせる指が、大嫌いだ。
 大地は変わらず爽やかな石鹸の香りを、纏っている。
 高校生の頃から、変わらない。
 胸をすぅっと、させる香り。

「久しぶりだね」

 拗ねてるのをバレないように、声を作ればいとも簡単に気づかれてしまう。

「ご機嫌斜め?」
「だって、大地、全然連絡とかくれないし」

 自分自身がこんなにめんどくさい女になるなんて、大地と付き合いだした時は全く思わなかった。
 大地は同じ部活の仲間で、友達みたいな付き合いだったから。

 気楽な関係を続けたまま、私も大地も変わらず二人で過ごしていくと思ってた。
 それなのに、大地は遠くの大学に進学して、私は地元で大地を待つばかり。
 会えない日々は、ただ寂しさが募っていく。

「機嫌なおしてくださいよ」

 ほっぺたを潰されながら、瞳がぶつかり合う。
 いつもと変わらない笑顔に少しだけ安堵した。
 芯の部分は変わってない。

「うっさいな、もう! で、どこいくの?」

 立ち上がって右手を差し出せば、当たり前のように繋がれる左手。
 変わらない暖かさとか、変わらない柔らかさとかに唇が弧を描く。
 ついつい、嬉しくなってしまう。

「どこでしょう」
「なにそれ」
「さえの好きそうなとこ?」

 単純な言葉なのに胸が高鳴って、痛いくらいに脈打つ。
 やっぱり、私のこと大切に思ってくれてる。
 そう実感したはずなのに。

「あ、ごめん電話」

 あっさりと解かれた右手は行き場を失って、ポケットに突っ込んでみた。
 落ち着かなくて、すぐ出してしまったけど。

 大地には、大地の人間関係がある。
 違う大学に行ってしまった私の知らない人間関係が。
 分かってるのになんだかドギマギしてしまって、大地の背中にそっと近づく。

 スマホ越しにかすかに聞こえた女の声に、聞き覚えがあった。
 同級生の小柄な可愛い女の子。
 わかっているのに、わざと聞いてしまうのは意地が悪い。

「今のだれ?」

 スマホをしまうか、しまわないかのところで口をついて出た言葉はもう取り返しがつかない。
 冷たい空気を含んだ言葉は、痛いくらいに刺々しく聞こえる。
 自分で放ったくせに。

「サークルの仲間。さえの知ってる奴もいるよ、ほらあの」
「女の子いたよね」
「そりゃ、サークルにはいるよ」

 分かってる。
 分かってるのに、どうしても我慢できない。
 久しぶりに会ったのに。
 私と通話だって、あんまりしてくれないのに。
 連絡だって、すぐ返ってこないのに!

 募っていくのは、わがままなのか、苛立ちなのか。
 判断は付かず、ただ、怒りだけが身体中を支配していた。

「帰る」
「はぁ?」
「もういい、もういい、帰る!」

 繋がれそうになった左手を振り払えば、傷ついた表情の大地。
 今のは、私が悪い。
 大地にだって付き合いがあるし、別に浮気してるわけでもないのに。
 それでも、私にくれる優しさよりも、大きい優しさを他の子にあげてる気がして、嫉妬で気が狂いそうになる。
 大地の彼女は、私なのに、
 私が隣にいるのに、私を優先してくれない。
 そんな、大地なら、いらない。

「なんだよそれ、俺今日どれだけ楽しみに」
「ごめん、でも帰る」

 それからは、あっさりだった。
 自然消滅。
 大学生の幼い遠距離恋愛に、相応しい末路。
 その日以来、大地と連絡を取ることもなく、日々だけが過ぎていった。
 
 はぁと吐き出したため息は、夜の生ぬるい空気に混ざってしまう。
 しゃがみ込んだアスファルトは、暗闇を吸収してほんのり冷えてて寒い。

「なにたそがれてんの」

 ヨッと言わんばかりの顔で、居酒屋から顔出したのは会いたくて会いたくない大地で。
 顔を見てから、慌てて顔を背ける。
 こんな醜い嫉妬に塗れた顔で、会いたくない。

 別れたのは私のわがままのせいだし、私が一方的に距離を置いたのに。
 数年経って再会した時に、大地の彼女を見せつけられて浅ましくも嫉妬してしまった。
 久しぶりに会ってどうにかなるわけないなんて、分かってたのに。

 でも、私は誰と付き合っても、誰といても、大地のことを思い出してた。
 大地と一緒なんじゃないか、って漠然と信じ込んでた。
 だから、今日、久しぶりに会えば、私たちはまた恋人として再び歩き始める都合のいい妄想を抱えている。
 だって、私たちは、別れようも、何も伝えなかった。

 今ならもう、あんな些細なことに怒らないし、大地と居る時間を大切にできる。
 それなのに、大地は……

「綺麗になったよな、さえ」

 私の横にまるで最初から決まってたように、しゃがみ込んで目線を合わせる。
 そう言うとこも、好き。
 あの頃の関係に戻ったみたいに、勘違いしてしまう。
 私のこと、まだ好き?
 ねぇ、大地も同じ気持ちだったのに、ごまかすためにあの子と付き合ってるの?
 そんな考えは、流石にずるいか。

 一人でぐるぐる考えて、出た言葉は、他人行儀だった。

「ありがとう、お世辞でも嬉しい」
「お世辞じゃねーよ」

 あんな散々な別れ方した元カノにも、そんなに優しいとこも好き。
 あの時は、誰にでも優しいのが嫌でたまらなかったけど。
 もう、私は大地の中で、過去の記憶なんだね。

「あの時はごめんね」

 やっと素直に、言葉にできた。
 五年越しの謝罪に、大地は戸惑ったように頬を指でかいた。

 何年越しなんてどうでもいいか。
 私はあの時をまだ引きずって、恋をできずにいる。
 ううん、ずっと大地に恋したまま来てしまった。
 今でも、まだ、大地のことが好きなんだよ。
 言いたくなって、生ぬるい空気を、胸いっぱい吸い込んで辞めた。
 
 優しすぎる大地は、私の感情を読み取ったように、まっすぐ空を見上げて謝罪の言葉を口にする。
 微かに甘ったるい匂いが、香って、あの頃とは変わってしまったことを実感した。

「俺もごめんな」

 一ミリも大地は悪くないのに、謝ってくれるそういうとこも好き。
 好き、だった。
 ううん、まだ、好き。
 胸がぎゅうっと締め付けられて、今すぐ、大地の腕の中に飛び込みたいくらい。

 大地の横顔を見つめていれば、不意にこちらに振り向く。
 目が合えば、あの時と変わらない笑顔を見せてくれる。
 目の横に濃い皺を残して、私だけを目に映すような目線。
 でもあの時より少し太ったし、あの時よりシワが増えてる。
 当たり前だけど。
 私たちは、あの時より、大人になった。

「お互い大人になったねぇ」

 事実を口にすれば、大地は唇を緩める。
 頬に浮かび上がったエクボに、今更気づく。
 私はずっと、大地の目ばかり見ていた。
 ずっと、ずっと。
 
「そうだな。俺、実はさ」

 ほんのりと頬が赤らんで、期待が高まってしまう。
 もしかして、私とずっと、同じ気持ちだった。
 なんて、ありえないんだけど。
 知ってるのに、少しの可能性に、胸が弾けそうだ。

「なによー」

 ふざけたふりをして、大地の肩をトンっと押せば、ますます濃く、甘い香りが浮かび上がる。
 あの頃の、石鹸の香りじゃない。
 新しい、大地の香り。
 
「あの時をずっと後悔してた」

 過去形の言葉の端に、私たちの関係の終わりが今告げられる。
 自然消滅したんだから、終わってたのは終わってたんだけど。
 私の中では、終わってなかった。

 まだ、大地とやり直せるなんて、馬鹿みたいに信じきっていた。

 実感したら、涙が込み上げてきた。
 目頭を強く押してなんとか押し込む。

「あやふやなまま、何も連絡せず終わっただろ」
「そうだね」
「もっとちゃんと話してたら違ったかなって」
「そうだね」

 ひたすら肯定マシーンになったように、頷く、
 終わってなかった。
 もっとちゃんと、私を見て欲しかった。
 でも、私は、ただ求めるだけで動かなかった。
 こんなにも、好きで好きでたまらないのに。
 
「だから、ごめんな、さえ」

 その「ごめんな」は正直聞きたくなかった。
 胸が痛くて、仕方ない。
 脈打つ度に、血管が張り裂けそうで、腕をさする。
 全身が、燃え盛ってるように、痛かったの。

 ドキドキと脈打つのは、恋心なのか恥ずかしさなのか、痛みなのかもうわかんないくらい。

 目に涙が溜まってしまって、見られまいと空を見上げる。
 私より数センチ高い大地には、きっと見えてしまうんだけど。
 星が瞬く度に、私の瞳から涙が溢れ落ちていく。

 大地も空を見上げながら気づかないフリもせず、ハンカチを差し出してくれた。

 そんなとこも好き。
 前からそうだった。
 ちゃんとハンカチとか、持ち歩く几帳面なところも好き。
 すぐに、差し出せる優しいところも好き。

 こうやって追いかけてくる程度には、私のこと、まだ思っててくれてるんじゃないの?
 言いたくなって、でも、言葉は音にならなかった。
 ありがたく受け取って涙を拭いたハンカチは、やけに甘ったるい香りがしたから。

 大人になって、わかるようになってしまった。
 同じ匂いのする恋人が、示す答え。
 私のことを追いかけてきてくれた理由は、ただの罪悪感からでしょう?
 聞きたくないのに、唇は勝手に動いていく。

「結婚するの?」

 潤んだ声は震えてしまって、どんどん萎んでしまう。
 そっと組んだ大地のあの時より太くなった左の薬指には、シルバーの指輪がはまっている。
 見たくなくて、見ないようにしていた。
 あの子の左の薬指にも、同じシンプルな指輪が存在してた。
 キラキラと見せつけるように、輝きながら。

「うん、今はまだ同棲中」

 知りたくなかったよ。
 そんなこと。
 まだ好きなんだよ。
 私のわがままのせいで、離れてしまったけど。

 思ってる言葉と、裏腹な言葉が口を動かす。

「そっか、おめでとう」

――幸せになりなよ。

 なんて言えるほどまだ大人じゃなくて、社会人にもなったのに馬鹿みたいに声を上げて泣いてしまった。
 幸せにならないでほしい。
 不幸にはなってほしくないけど。
 私のことを、何度も思い出して、何度も、あの時こうしてればって後悔してほしい。

 いやらしい自分の思想回路に、吐き気がしそうだった。
 相手の幸せを願えるほど、私は大人にはなれない。
 大地と幸せになるのは、私が良かった。
 大地とやり直せると思ってた。
 それでも、好きの気持ちを口にする勇気も、振られる勇気も、もうなかった。

「ありがとう。じゃ、先戻ってるね」

 大地がスッと立ち上がって、私を見下ろす。
 目がまた合って、かすかに笑ってくれる。
 その目の横には、やっぱり私が大好きだったシワが合って息が止まった。

 シワの一つすら、好きなのに。
 大地は、他の人と付き合ってる。
 私じゃない、別の人。

 さぁあと血の気が引く中、なんとか、呼吸を戻して返事をする。
 たったニ文字の掠れた言葉。

「うん」

 慰めるわけでも、何かを言ってくれるわけでもなく、振り返りもせずに大地が戻ってしまう。
 それが、今の彼女のための優しさなんだろう。
 私の時に、その優しさをくれてれば、まだ私は付き合っていたのに。

 痛いくらいに、現実が目の前に迫ってくる。
 私と、大地がもう終わっていて、大地は、私よりもあの子を大切に思ってること。
 もういっそのことこのままなかったことに、してしまえば楽なのに。
 押し潰されそうなくらいの想いで、胸がいっぱいだ。

 もう、届かないんだな。
 分かってたのにな。

 好き。
 こんなに、痛いくらい溢れるくらい好きなのに。
 どうして言えないの。
 ううん、言わないを選んだのは私だ。
 だって、今言ったって困らせるだけだもん。
 傷つくだけだもん。
 すでに、こんなに傷ついてるけど。

 ゆがんだ視界で見上げた夜空には、星も、月も、キレイに輝いていた。
 視界の中で星も月もぼやけて混ざる。
 涙がぼつぽつと溢れて、アスファルトにマダラ模様を作っていた。

 もう一度だけ涙を拭ったハンカチは、やっぱり甘ったるい香りがした。

<了>