どうしようもない物語

木曜夜、20:30、居酒屋はほとんど席が埋まっている。


「ぴーくんが先週から連絡取れなくなっちゃってさあ、もうこれ別れたってことなのかな?ねえ、美紀、どう思う?」

彼女の4回目の失恋を聞かされた美紀は、居酒屋の向かいの席で、彼女のことを本当にどうしようもない女だと思った。
「うーん、次探したほうがいいんじゃない?」
当たり障りのない返事をして美紀は考え直した。いや、どうしようもないのは恋愛に関してだけだ。さっぱりした性格で人当たりもよく、仕事に関しても手を抜かない、私の誕生日には必ず連絡をくれるし、私がもらってうれしいプレゼントを必ず用意してくれる。そんな彼女と友人でいられていることはこの上ない幸せであることは間違いないのだが、こと男に関しては、本当にどうしようもない。

「ちょっとだけどお金も貸してたからさあ」
「え?お金貸してたの?」
「ぴーくんなんか全然、たった2万円だよ?」
「たったって言ったって…ねえ、ぴーくんの本名ってなんだっけ」
「えーっとね、スミダヒロキ。スミダは真っ黒の墨に田んぼ。ヒロキは…えっとね、ぴーくんがくれた名刺がある」
「墨田博希…株式会社フールズシー…これこんな名前の会社無いよ!フールズシーってバカが見るじゃん!もう!付き合う前に一回ちゃんと調べた方が良いよ!お金貸して消えた男、これで何回目?」
「5回目?」
どうやら美紀の知らない1回があるようだ。
「もういい、仕方ない。諦めよう。もう次も探さなくていいよ。しばらく恋愛から離れた方が良いんじゃない?ひとまず、見事な失恋に乾杯」
美紀が勢いよく差し出したグラスに、彼女はジョッキを持ち上げはしたが、そのまま当てることなく、抱えたまま呟いた。
「えー、でも、私、男いないと生きていけないー」

美紀はふーっと長い溜息をついた。


木曜夜、21:00、居酒屋は席がまばらになってきた。

「せっかく引っ越してきたのに、この町って風営法が厳しいらしくて、全然いいお店が見つからないんですよー!池田先輩、いい風俗店、知りませんか?」


3年ぶりの再会の直後に風俗店の紹介を迫ってきた2学年下の大学時代の後輩をどうしようもない男だと思った。
学年こそ違うが、同じゲームが好きで、時間が合うときには部室にこもって一緒にプレイしていた。大学を卒業して地元に帰って就職してからも、新しいゲームが発売するたびに連絡をくれたし、どうしてもクリアできないときにはオンラインで協力して手伝ってくれた。3年前に会ったのは彼が仕事の出張でやってきた時だ。今でもこうして俺の方が電車を乗り継いででも会いに行きたくなるような奴ではあるのだが、こと女に対しては、本当にどうしようもない。

「風俗の事聞かれたって、俺行かないから分かんないよ」
「先輩、真面目だなあ」
「お前が不真面目なだけだよ。俺奥さんも子供もいるし」
「そうかあ。そういうもんなんですね。ホクト君とハルト君とユイカちゃんでしたよね。みんな元気ですか?」
こういうところはマメなのだ。頻繁に子供の話をしているわけでもないのに、子供の名前を3人ともしっかり憶えている人は少ない。
「…今、良い人はいないの?」
「良い人、ですか?」
「そう。真剣に付き合う、みたいなさ」
「いやいやいやいや、僕、彼女いたことないですもん」
池田は衝撃の事実に言葉を失った。そうか、大学時代から今まで聞かされた女の話、全部、彼女じゃない。
「それに、僕の何が良くて付き合うんですか?」
「それは…」
とっさに思いつかず口ごもってしまった。
「ほら、そういうことなんですよ」

池田はふーっと長い溜息をついた。


「はあー、セックスしたいなあ」

まばらな席の居酒屋、背中合わせの座席で、同じ言葉を吐きながら天を仰いだ2人の頭同士がこつんと当たった。

「すみません」
男も女も、軽く振り返ったが顔は見えなかった。
ただ、確実に、男は女の声を聞き、女は男の声を聞いた。

この一瞬のやり取りを、男の向かいに座る池田は、あさっての方向に飛んでいった枝豆を拾い上げている最中で気づいていなかった。女の向かいに座る美紀も、机の上に置いていたスマートフォンのケースにいつのまにかついていた焼き鳥のタレを拭き取っている最中で気づいていなかった。

何事もなかったかのように、男は池田と話し続け、女は美紀と話し続けた。

ただ、確実に、男も女も、背中越しに生ぬるい相手の体温を感じていた。


偶然、美紀がトイレに立ったのと、池田が仕事の電話で居酒屋の外に出たタイミングが重なった。

男も女も、互いの背中越しに体温が上がったのを感じた。

「あの」
2人は同時に振り返り、わずかな間の後、女の方が先に口を開いた。

「連絡先…」
「僕も同じこと思ってました」

男は、女の顔を見た。歌番組で見るたびに、歌はいいけど顔は微妙だと思っていた女性歌手にそっくりだと思った。

女は、男の顔を見た。生理的に無理なラインのギリギリのところに乗るか乗らないかだと思った。

そうして、°˖*ゆうぴゃ˖*°と清水の連絡先が交換された。

男は、女のアイコンを見て、3人で写っている写真のどれが目の前にいる女なのか、判断がつかなかった。テーマパークでの自撮り写真は、あまりにも加工されすぎていた。

女は、男のアイコンのアニメキャラクターを知っていた。ヒロインが出てくる王道のハーレムものの作品の中で、いちばんおとなしくて、いちばん言うことを聞きそうなキャラクターだ。生理的に無理な方へ傾きかけた。

「ありがとうございます」
「いいえ」

背中越しの体温がすっと冷めていったのを感じた。

連絡先は交換したものの、連絡することは無いだろうと思っていたのに、男と女は、偶然にも居酒屋を出て1人になるタイミングが一緒だった。

互いに顔を見合わせる。
互いに、そこまで思ってもいない言葉が口をついた。
「ホテル、行きましょうか」

こういう、さほど乗り気でもない相手とセックスをする流れになった時に、自分を、そして相手を傷つけないようにする方法は、男も女も心得ていた。


女は、バスルームで、保存済みに入れてある、好きなアイドルのキスシーンや濡れ場の切り取り動画を見漁った。
男は、ベッドの上で、ブックマークに入れてある成年向けの同人誌を読み漁った。


「もう準備できてそうですね」
「お互い様ですね」
「じゃあ、もう挿れちゃいますか」
「あ…ゴムだけつけて…」
「もちろん…」

前戯もなく、手っ取り早くセックスが始まった。
細い人だと骨が当たって痛かったり、太い人だと苦しくなったりするが、体格差も程よい2人には、どの体勢にも無理がない。相性は決して悪くなかった。


決して悪くはないのだが…

男も女も同じことを考えていた。

イケそうにない。

角度を変えても、体位を変えても、何をしても、ずっと良いのに、ずっとイケない。
どちらかが片方がイケれば、そこで終わらせてしまえばいいのに。



2人は、もどかしい時間を終わらせることにした。

軽く唇同士が触れ合い、それが終わりの合図になった。


「ごめんなさい」
「こちらこそ」

男は、トイレでコンドームを外そうとした瞬間に果てた。
女は、ベッドの上でティッシュを取ろうと腹圧をかけた瞬間に登り詰めた。

「どうして今…」


身支度を整えて潔く部屋から出る。

「私、こっちです」
「僕、逆です」
「じゃあ」
「はい」


その夜に、どんなに不完全燃焼のセックスをしようが、やがて日は昇り、すぐにまた夜がやってくる。


金曜夜、21:45、居酒屋は混雑している。


女は、昨日と同じ居酒屋の暖簾をくぐった。
男は、1人でカウンターに座っていた。

お互いに連絡を取り合ったわけでもないのに、女は男が居ることを、男は女が来ることを分かっていた。

そして、女はさも当たり前のことのように、男の隣の席に腰を掛けた。