『名越くんの、女ともだち』
 
 私の目の前で、じくじくと腐ったいつかの恋が酔いつぶれている。
 
 大学時代の男友達、名越くんから連絡がきたのは三年ぶりだった。
『久しぶり。出張で明日までこっちに戻ってきてるんだけど、時間あったら飯いかない?』
 仕事が終わり、女子更衣室のロッカーから私物を出してスマホをチェックして、私はその場で小さく声を上げるほど驚いてしまった。
 隣りで帰り支度をしていた同僚の加藤さんが、「どうしたの佐原さん、大丈夫?」と声を掛けてくれる。
 私は慌てながら、「ありがとう、なんか大学生の時の友達から連絡きて」と答えた。
「ああー、そういうのびっくりするよね」
「うん。なんか、こっち帰ってきてるっぽい」
 少し緊張しながらもう一度、メッセージが表示されたスマホの画面を見つめる。
 メッセージが届いたのは二時間前ほどだ。
 ──途端に頭の隅で薄れつつあった名越くんの姿が鮮明に、輪郭を取り戻していく。
 
 同じ歳。大学で同じサークルだった名越くんとは、生きていく中で持ち続ける価値観みたいなものが私ととても似ていた。
 ゴミはポイ捨てしない。ご飯を粗末にしない。なにかして貰ったらありがとうを伝える。
 子供の頃から大人達から教えられるマナーの基本みたいなものだけど、環境や生まれ持った性格などでそれらを次第に重要としなくなる人もいる。
 だけど、私たちの中では割とこの三つは大切なことで、自分が正しく生きてると確認できる小さなポストみたいなものだった。
 
 名越くんは、誰かが目の前で紙くずなんかをポイっと捨てたらさりげなく黙って拾う。
 飲み会では余りがちな大皿料理を、好き嫌いを聞きながら冷めないうちに先に取り分ける。
 どこに行っても誰にでも、挨拶やお礼を伝える。
 困っていそうな人には声を掛けるし、とにかく一度気になったら見過ごすことができない。
 雨の日に人の傘なんて、絶対に盗まない。
 私たちはお互いがそれらを大事にして、ある日なんとなくどうしてかと理由を話題にした。
『基本的には自分が気持ちよく生きるためでもあるけど、なんとなく常に誰かに見られてる気がするんだよね』
『ああー、誰かというより、神様だよね。悪い事をしたり、見逃したりしたらこっちにも罰が当たりそうって思う。それと同時に、徳を積むチャンスみたいな』
『あはは! でもわかる。一日一善、積もり積もった徳が、いつか良い感じにまとまって返ってくるのを期待してる。あと……』
『佐原や俺みたいなのは、ぐいぐいいけない大人しいタイプ。問題が起きる前に、身を呈してこっそり未然に防ぐんだけど、誰にも気づかれない損な役回りが多いし良心の呵責に耐えられない』
 私たちはお互いの顔を見合わせて、大笑いをした。
 堅実に地道に生きている同じタイプだとわかっていて、自然と一緒にいることが多くなった。
 
 私たちは、似た者同士なのだ。
 
 とにかく一緒にいて、名越くんとは変な緊張が走る瞬間がないところがいい。
 店員さんにも優しいし、
 ただ、私は異性として少しだけ特別に想っていた。
 髪はつやつやで、肌も綺麗。奥二重の目はすっきりしていて、笑うと片方だけ八重歯が目立つのが……なんだか心をとてもくすぐる。
 それに血管の浮いた手の甲がやけに男っぽくて、私はそれを盗み見するのが好きだった。
 意外と言ったら失礼だけど、できれば誰にも名越くんのこの可愛いところに気づかなければいいのに。
 だけど人あたりの良い名越くんには、私以外にも普通に女友達がいて、気さくに声を掛けられている。
 そうしてある日、突然他の学校に通う彼女ができたのだと、めちゃくちゃ嬉しそうに私に報告してくれた。
 心臓が止まるかと思った。
 時間も一緒に止まったかと思った。
 淡い恋心を、今はっきり自覚してしまった。
 名越くんが「どうした?」なんて私の顔を無邪気に覗き込んでくるものだから、目にゴミが入ったなんて言ってじわりとわいた涙を誤魔化したのだ。
 
 それから名越くんとはなんとなく、少しだけ疎遠になった。
 というか、私が避けてしまっていた。
 名越くんから感じはじめた、彼女の気配。
 知らない香水の香り、整えられはじめたヘアスタイル、美味しかったというおしゃれなカフェご飯の話。
 明らかに彼女の影響だった。
 見え隠れする彼女の気配、存在に、私の心は惨めにすり減っていった。
 それから名越くんと一緒にいる事が少なくなっていき、大学の卒業式後に『また遊ぼうな』とメッセージが届いてお終い。
 名越くんは地元に帰る彼女にくっついて、地方での就職を決めていたのだ。
 私は、ありがとうも、好きだったとも返信できずに、あれから三年が経っていた。
 
 『久しぶり。出張で明日までこっちに戻ってきてるんだけど、時間あったら飯いかない?』
 仕事で疲れ果てた夕方。飛び込んできた名越くんからの三年ぶりのメッセージに、私は何かをほのかに期待して間髪入れずに飛びついた。
『久しぶり。元気だった? ご飯、いつでもいいよ』
 あくまでも、軽く。期待なんてしてないよってノリで、スタンプも押す。
 た
 心臓はどんどん、ばくばくとうるさく鳴りはじめる。
 我ながら素直でないと思うけど、そうしないとまだあの惨めで傷ついた気持ちがおさまらないのだ。
 すぐに、送ったメッセージに既読がついた。
『佐原のそういうとこ、変わってなくて安心した。じゃあ、この勢いでこれからどう?』
「きたぁ……」
 思わず、小さくガッツポーズをする。
 加藤さんは私がスマホと睨めっこしている間に「また明日ね」と言って帰った。今度は声を出しても、私を気にする人はいない。
 ひと呼吸してから、返信を打つ。
『いいよ。待ち合わせ場所を決めてくれたら、行くよ』
 
 
 それからは早かった。
 待ち合わせ場所は、勤め先と自宅のちょうど真ん中、全国にチェーン展開しているカジュアルな居酒屋だった。
 学生時代に、名越くんともよく飲みに行っていたお店だ。
 待ち合わせの時間まで、あと一時間。
 私は会社のパウダールームで入念にメイク直しをする。
 三年ぶりだ。大学生の頃よりも、私は変わっただろうか。
 ゆるく纏めていた髪に丁寧に櫛を通し、持ち歩いていた外出用のコンタクトに替える。
 ネイルは一昨日塗り直したばかり、まつパの調子もいい。
 浮かれた自分に、もうひとりの私が忠告をはじめる。
『もしかしたら、結婚の報告とかされちゃうかもしれないよ? 彼女を連れてきたりしたりね』
 リップを塗り直す手が、一瞬止まったけれど。
「……そうなったら、その場で御祝儀包んでやる」
 
 緊張しながら向かった居酒屋の自動ドアが開くと、三年ぶりでも変わらない店内の内装や雰囲気に一瞬目を見開く。
 賑やかさ、匂い、空気。それらに一気に眠っていた思い出を叩き起こされて、心がぎゅっと切なくなった。
 仕事帰りの社会人達で賑わう中、奥のテーブルから誰かがこちらにひょいっと手をあげた。
「おーい、こっち」
 楽しくお酒を飲んでいる人達が、えっと驚かれないほどの気をきかせた声量。
 それは、三年ぶりに見た名越くんだった。
 すっかりスーツを着こなして、ちょっとだけネクタイを緩めた姿が私の知らない名越くんの三年間を想像させる。
 私の心臓は思った以上にドキドキして、まだ意識してしまうほど気持ちが残っているのを実感してしまった。
 2人がけのテーブルの、向かいは空席でホッとした。
「……久しぶり、元気だった?」
 ゆっくりと近づき、つとめて普通を装ったけれど声がうわずってしまう。
「元気は元気だったんだけどなぁ〜」
 社会人らしく、軽く整えた髪に触れながら、名越くんは私の好きな顔でわざとらしく大きくため息をついて見せた。
 
 
 小さなテーブルにはすでに空いた生ビールのジョッキが二つ。それに手つかずの枝豆と、冷やしトマトが乗っていた。
 名越くんの向かいに座り、近くにいた店員さんに生ビールを頼む。
 ほんの少しの間。それから、なにがあったのかを聞いて欲しそうな名越くんにまっすぐに向き合う。
「いきなり呼び出して、なにかあったんでしょ」
 いくつか言葉を交わしただけで、私達の間に流れる空気は三年前に近いものに戻る。
 名越くんが、小さくふふっと笑う。これは酔っている時にしか見せない顔だ。
 懐かしいあの頃に戻ったようで、ちょっとだけ涙が出そうになった。
「お互いの近況報告もなしで、いきなり話聞いてくれるの?」
「近況は後から聞くよ。名越くんがもっと酔う前に、どうしたのかちゃんと聞きたいの」
 名越くんは一瞬、酔って赤くなりつつある瞳を潤ませてから、がくりと下を向いた。
 地方での仕事が上手くいってない?
 ──それとも……彼女関係とか?
 ちらりと見た名越くんの左手の薬指には、指輪はない。多分、まだ独身みたいだ。
 そのタイミングで、注文した生ビールが届く。
 私はざわざわする胸のざわめきを落ち着かせるために、ジョッキまでキンキンに冷えた生ビールをひと口飲んだ。
 
「あのさ……、俺が大学の時から付き合ってる彼女のこと覚えてる?」
 ”付き合ってる”と聞こえた言葉に、名越くんは今でもあの彼女と続いているのがわかった。
 途端に膨らんだ気持ちに穴が空いて、そこから期待がしおしおと抜けて……心はぺしゃんこになってしまった。
 なにを期待して、ここに来ちゃったんだろう。
 浮かれてはしゃいで、懐かしいなんて涙ぐんだりしちゃって。
 時間がもし戻るなら、名越くんからの誘いを断ったのに……。
「う……うん。覚えてるよ、まさか名越くんが彼女の地元で就職を決めるなんて……驚いたもん」
「あれ、言わなかったっけ。そうか、最後の方はお互い忙しくて、ゆっくり話もしないまま卒業したんだった」
 名越くんは彼女とのお付き合いで忙しかったから、私が避けていたのにも気づいていなかったみたいだ。
 私がひとり、空回りをしていたことを今更知ってしまった。
 
 
 潰れそうな胸に無理矢理に空気を吸い込んで、ひりつく喉から声を出す。
「……それで……その彼女と、どうかしたの?
 ひと口飲んだだけで置かれたままのビールが、ジョッキの中で微細な泡を生み出し続けるのを見つめる。
 がやがやとした賑やかな話し声や笑い声も、やたらと遠くに感じる。
 もう、名越くんの顔が上手く見られない。
「彼女なんだけどさ……」
「うん」
「……ケンカしたんだ。俺、知り合いも居なかった土地で毎日必死に頑張ってるのに、彼女からは冷たくなったって言われちゃって……。まだ謝れてない」
 一気に。一気に怒りに似た感情が、しぼんだ胸の奥から湧き上がった。
 地元までついて来てくれた名越くんに、どうしてそんなことが言えるのかと怒りに震える。
 どうして、名越くんが彼女に謝らなければいけないんだ。
「……ケンカしたままこっちに一人で出張できて、こっちがものすごく懐かしくなってさ。あのままここに残って就職してたらって想像してたら、佐原といつも飲んでたことを思い出して連絡しちゃった」
 いきなりごめんなと、名越くんが謝る。だから私は今度はちゃんと目を合わせて、大きく首を横に振った。
「全然いいよ、私を思い出してくれたの、すごく嬉しかったよ」
 思い切ってそう伝えると、名越くんはすん、と鼻を鳴らした。
 
 名越くんは、相当参っていたようだ。
 誰も知り合いの居ない土地での就職、ひとり暮らしで精一杯。
 最初は彼女も甲斐甲斐しくサポートしてくれていたようだけど、そのうちに少しずつ不満を募らせていたらしい。
 彼女のために割く時間が減ったことが原因だという。
 それで一度破局の危機を迎えたけれど、名越くんがどうしても別れたくなくて謝り倒したのだと苦い顔をして笑う。
「大学の友達ともなんとなく疎遠になってて相談できなくて、ひとりでぐるぐる悩んでた」
 その時はなんとか別れは回避できたけど、再びの同じ理由で破局の危機らしい。
 もっと大事にして欲しいと彼女に言われ、名越くんはまた失敗したと落ち込んでしまった。
 ちょうど出張でこっちに戻ってきた傷心の名越くんは、懐かしさに見事に里心がつき私に連絡を寄越したのだ。
 
 
「男として、もっとちゃんと彼女を大事にしなきゃなのに情けないよな」
 私は胸がずきりと痛んだ。
 大人びて見えた名越くんの表情の影に、あの頃みたいな幼さみたいなものがちらりと見えたからだ。
 地元から離れていても、ここを捨てていった訳じゃないんだ。
 それに、私は名越くんから忘れられてはいなかった。
「……今日は昔に戻ったつもりで、なんでも話してよ。ちゃんと聞くからさ」 
 名越くんの為なら、彼女の話だって聞くよ。
 彼女より優しい声をかけて、彼女より気遣って……彼女より、私の方が良かったって思わせたい。
 私なら、彼女よりずっと名越くんを大事にできるのに。
「ありがとう。もう忘れられてるかもって迷ったけど、やっぱり……勇気を出して佐原に連絡して良かった」
 深く頭を下げる名越くんの安心した様子に、私の胸はじわりと切なくなった。
 
 そうして名越くんは堰を切ったように彼女との三年間の楽しかったこと、不安だった日々を私に話して、ハイペースでお酒を煽りひとりで潰れてしまった。
 
 時刻は二十一時半を回った。
 惚気や愚痴を聞かされまくった私は疲れてしまったけれど、聞くと言い出したのは自分だ。
 正直言えばしんどい瞬間もあったけれど、それよりも目の前で名越くんが私を顔を見て話をしてくれている事実が嬉しかった。
 そうして、ついにはテーブルに突っ伏した名越くんを見て、ふたりきりの時間の終わりを悟る。
 次は、いつ会えるかはわからない。
 今回思い出してくれたことが、イレギュラーだったのだ。
 学生時代ならこのまま名越くんの姿を眺めていたいけど、社会人となったいまはそうもいかない。
 このまま時間が三年前に、名越くんが彼女と出会う前に戻ってくれたらいいのに。
 ──そうしたら、私は今度こそ名越くんに気持ちを伝える。
 ……けれど時は戻りはしないし、盛大な惚気までしっかり聞かされてしまった。
 好きだった、いまも好き、だなんて言えやしない。
 二、三度躊躇ったけれど、腹を決めて小さく声をかけた。
「……名越くん、大丈夫? 明日は午前中のうちに地元に帰るんでしょう、朝早いんじゃない?」
 この居酒屋の近くにビジネスホテルに宿泊していると聞いている。
 明日は早い時間の新幹線で戻る、とも。

 名越くんは頭をあげたけれど、「うん、うん」と酔っ払いの返事をしながら、開き切らないとろんとした瞳で私を見つめた。
「へへ、まだ佐原と別れたくないなぁ……。もっと話したいことがあるに……。そうだ、泊まってるホテルで飲み直そうよ」
 目尻を赤くして、名越くんがじっと私を見る。
 
 ドキリとした。
 それから心臓が、激しく鼓動を打つ。
 
 名越くんがそういう意味で言っている訳でないのはわかっているのに、私の顔はどんどん熱くなっていく。
 断る、それとも覚悟を決めて……行ってみる?
 案外そのまま普通に、飲み直して終わりになるかもしれない。
 終電、明日の仕事への影響、これからの名越くんとの関係。色々なことが頭のなかで、嵐になって巻き上がる。
 私の酔いは、とっくにさめてしまった。
 あの時出せなかった勇気を、いまここで出すために息を吸った。
「……行ってみようかな。……って、名越くん?」
 半開きだった瞳は、私が返事を一生懸命に考えている間に完全に閉じてしまったようだ。
 何度声を掛けても、かろうじて返事するだけで名越くんは半分夢の世界へ旅立ってしまった。
「……もう」
 お会計を済ませ、二人分の荷物を持ち、名越くんを支えて居酒屋を出る。
 外はすっかり夜になっていたけれど、数々の飲み屋の明かりや、行き交う人々で賑やかに見える。
 支える名越くんから伝わる、重みや体温。こんなにも密着したのは初めてでまた顔が熱くなる。
 名越くんはかろうじて歩いている状態で、きっと赤いであろう私の顔なんて見えていないようだ。
 
 居酒屋から出るとすぐ、名越くんの宿泊先であるビジネスホテルの前についた。
 酔ってぐでんとしながら、名越くんは自分のワイシャツの胸元をごそごそ探り、ポッケからカードキーを取り出した。
 そのままエレベーターに乗り込むと、カードをボタンの下にかざす。
 ピッと弟がしたあと、五階に止まるボタンを流れで押してくれた。
「……部屋、すっごい狭くてさ。ふふっ」
「まだだいぶ酔ってるね。部屋についたらお水飲もう」
 エレベーター特有の、しんとした息苦しく狭い空間。
 飲み直すはずだったのに、名越くんを抱えたままでは買い物ができなかった。
 ……部屋飲みは、なしだろうな。
 残念なような、もう彼女の話は聞きたくないような、二つの気持ちがせめぎ合う。
 ホテルに着いて余計に気が抜けたのか、名越くんがぐいっと私に体重をかけて寄りかかる。
 ドキドキが止まらなくなった頃、エレベーターの扉が開いた。
 
 
 静かなフロアに満ちる、ホテル特有の清潔なリネンの匂い。緊張は最高潮になっていく。
「……あれ、あそこの角が泊まってる部屋」
 指をさされた方向に、歩き出す。
 パンプス越しに感じる廊下に敷かれた消音のためのカーペットの感触が、ここがホテルなのだと意識させる。
 部屋の前までくると、名越くんは「よいしょ」と、扉にカードキーをかざした。
 ピッと小さく電子音が鳴ったあと、ガチャリと鍵が開いた音がする。
 雪崩込むように、部屋に入る。
 後ろで扉が閉まる音に、私は小さく肩を揺らした。
 必要最低限の設備が整った部屋、テーブルに置きっぱなしのペットボトル、ちょっとだけ乱れたベッドが生々しくうつる。
「名越くん、いったん座ろ?」
 二人分の荷物をいったん床に置く。
 それから狭い部屋の半分を占領するベッドに名越くんを座らせようとするけれど、支えたままの腕を離してもらえない。
 結局そのまま、二人してベッドに並んで腰掛けることになってしまった。
 
 
 ぎしり、と微かにベッドが音を立てる。
 名越くんにくっついたままじゃ、この心臓の音が聞かれてしまいそうだ。
 テレビもつけていないから、部屋は静まりかえったまま。
 呼吸する息の音さえ気を使うようななかで、名越くんが私を包み込むように突然抱きしめた。
「……少しだけ、こうしていて……いいかな」
 伺うように名越くんの大きな手が、意図を持って私の背中を撫でる。
 まだ酔っていそうなのに、明らかにがらりとふたりの間に流れる空気が変わった。
「──……っ!」
 破裂しそうな心臓。
 世界が、この部屋のなかだけで完結したような感覚。
 夢みたい、夢みたいだ……。
 嬉しさや、理由を知りたくない寂しさ。そうして彼女への罪悪感を無理矢理に飲み込んで、私はこくりと頷いた。
 そうして名越くんのたくましい背中に腕を回そうとした瞬間だった。

「……やっぱり、佐原は大事な友達だわ……ごめん」
 
 優しく包み込んでくれていた腕をそうっと離し、名越くんは私を解放した。
 まっすぐ、私を見ている。
 夢見ているみたいに浮かれて、身を任せようとした私を。
 どうしたらいいんだろう。盛り上がってしまって、ものすごく恥ずかしい。
 そして。
 そして……めちゃくちゃ惨めだ。
 
 じくじくと腐りはじめた恋は、ぼとりと落ちて潰れてしまった。
 
 私は名越くんから目をそらす。
「……あ……わ、私だって、私だって名越くんは大事な友達だよ」
 嘘だ。
 名越くんは私の好きな人で、もうただの友達として見れなくなってしまっている。
「……良かったぁ、真に受けてなくて。なんか、急に彼女の顔が頭に浮かんできてさ……ごめんな。……佐原?」
 私は、自分でもよくわからないけど、笑っていた。
 そうしないと恥ずかしくて惨めで、情けなくて死にそうだったからだ。
 ゆっくりと離れて立ち上がって、床に置いた自分のバッグを拾う。
 涙でゆらゆら揺れる視界では、いま名越くんがどんな表情でいるかなんて、ちっとも確認なんてできない。
 ……それでいいと思った。
 だって同情でもされていたら、もう立ち直れないから。
 ぽたりと一粒、涙が頬を伝わって落ちる。
 私はそれを合図に、踵を返して部屋から飛び出した。
 
 なかなかこないエレベーターにやきもきしながら飛び乗って一階へのボタンを連打する。
 名越くんは、追ってはこなかった。
 ビジネスホテルをあとにすると、まだ賑やかな街の、駅へと向かう人の群れにまぎれる。
 どんどん溢れ出す涙は私の顔をぐっしょりと濡らして、止まらない嗚咽に驚いた人がこちらを振り返った。
 
 その夜、名越くんからは電話もメッセージもこなかった。
 
 翌日。泣き腫らした顔で出社した私に、女子更衣室でこっそり声をかけてくれたのは加藤さんだった。
「佐原さん、どうしたの。大丈夫?」
「……大丈夫じゃないけど、罰が当たったんだと思う。人の彼氏を寝取ろうとしたから、好きな人と友達、どっちもなくしちゃった」
 小さな声で、加藤さんにだけに話す。
 私たちはそこまで話す仲ではないけれど、私は自分の愚かさを声に出し、誰かに知ってもらうことで刻みたかった。
 
 もしあの時、あのまま名越くんと寝ていたら。
 私は名越くんの彼女から相当恨まれたろうし、名越くんは私を選ばなかったろう。
 ──名越くんは、彼女のことが大好きだから。
 
 加藤さんは、「ああ〜」と眉を下げた。
「 昨日連絡してきた人でしょう、彼女いたんだ」
「うん。抱き締められたけど、『彼女の顔が浮かんだ』とか急に言われて謝られちゃった」
 加藤さんは、目を丸くしたあと。声を殺してくつくつと笑いだした。
 私は、その光景になぜか救われていた。
 恥ずかしくて情けなかったあのことが、加藤さんにとっては笑えることなんだと。
「……ふふっ、最悪じゃん、その人。普通そこでそんなこと言う? 自分だけ急にまともぶって、恥かかしじゃん」
「私も最悪だよ。彼女いるって知ってるのに、ホテルまでいった」
 加藤さんの頭のなかでは、一体どんなシュールな光景が浮かんでいるのだろう。
 でも確かに、思い出したら変なシーンだったかも。
「じゃあ、二人は似た者同士だったんだね」
 こちらをちらりとも見ないで、加藤さんは着替えながら何気ない風にぽんっと言った。
 その言葉が、ぽっかり空いた心の穴に吸い込まれていく。
 責める訳でもない、味方する訳でもない。
 
 私と名越くんは、似た者同士。
彼女がいるのに、宿泊先で女ともだちである私を抱きしめた名越くん。
彼女がいると知っていたのに、身を委ねようとした私。
どっちもどっち、最悪だった。
 
「……そうかも。そんなところまで、私たちって似てたのかも……あはは!」
 笑い出した私に、加藤さんは「もうその人とは会わないほうがいいよ〜」と明るく言ってくれた。
 
 
 
 
 おわり