真っ暗な夜道をあてもなく歩いていく。特に明日用事があるわけじゃないから、スマホや時計は家に置いてきた。
空を見上げると数え切れないくらいの星が儚げに瞬いている。草むらからは鈴虫が鳴いている音が聞こえて、蒸し暑い夏の空気をちょっと誤魔化してくれた。
私は今久しぶりに実家に戻ってきている。社会人になって3年目にしてようやく仕事が板につくようになってきたからだ。1、2年目は帰る余裕なんてなくて休みがあれば寝ていたような生活を送っていた。仕事は大変なことも多いけれど、やりがいがあって結構気に入っている。
道を歩きながら、学生の頃はこの道を歩いて学校に行ったっけなあ、なんて懐かしんでいたら自然と足が向いてしまったらしく、気がついたら母校の前まで来てしまった。
この高校に入学したのはもう10年も前のこと。時間の流れは早いものだ。あの頃から私は成長できているだろうか。変わったようにも思えるし、あんまり変わっていないようにも思える。年々過ぎる時間の流れが早くなっているように感じて、これが大人になるってことなのかな、なんて思ったりもする。
校門はしっかりと施錠されていて、校舎を眺めることしかできない。私は校門から少し移動をした。学校の敷地を囲むように建てられているフェンスの間からは図書室が見えた。高校生の時はよくこの場所から図書室の窓際を見て、ある人がいるか確かめていたものだ。
「蒼さん元気かな」
八本蒼さん。高校の時の先輩で、私の初恋の人。
彼と出会ったのは私が中学2年生で、蒼さんが高校一年生の時だった。あの頃の出来事は昨日のことのように思い出せる。あの頃が今までの人生の中で一番世界が輝いて見えた時期だったと思う。中でも一番印象に残っているのはあの日だ。
その日は近年稀に見る猛暑日だった。いつもは市営バスに乗って向かうのだけど、その日は運悪く逃してしまった。 汗をダラダラかいて、必死だ。けど、はっきり言って、私は本が好きなわけじゃなかった。
中学校では陸上部に入っていて、眼鏡もかけてないし、髪はシ ョートカット。全然イメージと違いすぎる。
けど、この図書館に通い始めてからもう少しで、一つの季節が巡ろうとしていた。
「蒼さん、こんにちは」
ようやく図書館たどり着いた。声をかけたその人は、本から目線を外し、黒髪をさらりと動かした。図書館全体にクラーが聞いているせいか汗ひとつかいていない。
瞬間的に焦点が重なる。
「あ、星ちゃん。外暑かった?汗すごいけど」
とんでもないものを見るような目だった。
少し目の細い、和風な感じの 美青年だ。そして毎回、なにかしら青いものを身に着けているら、この図書館では、通称「蒼の君」と呼ばれていた。
おそらく、本人は知らない。
「暑かったですよ。マジで死ぬかと思いました」
「バスで来てても?」
「電車一本遅く乗ったらバス、逃したんですよ。おかげで歩きです」
汗で体に張り付いたTシャツをはがして、ほら、とやってみせる。
「そっか、大変だったね。後でアイスおごるよ。ほんと見てて暑そう」
「えっ、大丈夫ですよ。お金持ってきてるんで、後で自分で買い ます」
「うーん。 それじゃ、面白くないから、アイスおごりあうっていうのはどう?ウィンウィンだよ」
「それならいいですけど。蒼さん、そんなに私にアイス食べてほしいんですか?」
私は今、絶対にアイスを食べなければならないほど辛そうに見えるのだろうか。自分としてはそこまでではないと思うけれど。 でも案外、自分で思っているよりも酷い顔をしている時ってあるし、 今の私も、そう見えているのかもしれない。
「うん。食べてほしいアイスがあって。僕、前にコンビニで買って食べたのが、美味しかったから星ちゃんにも食べてほしいなって思ってたんだ」
「それは、楽しみです」
予想は外れたけど、私に食べてほしいと思っていてくれたのは 素直に嬉しい。不意打ちのセリフに、顔がニヤけてしまいそうだ。
「それじゃ、始めようか」
それを合図にして、席に座る。私は、持ってきた中学校のテキストを広げ始めた。蒼さんの席の前で。
「今日は、隣じゃないの?」
「汗、ヤバいんで止めときます」
「気にしなくていいのに」
やっぱり匂うんじゃない。隣にしなくてよかった。 私は毎週蒼さんに、勉強を教えてもらっている。 蒼さんはこの近 所の高校に通っていて、成績は上位のほうだと勝手に思っている。
きっかけは、約一年前のこと。定期テストの結果が絶望的で、ほとん どの教科で補修、みたいな感じだった。自分の家の近くにも図書館はあるけど、同級生がたくさんいると思うし、気恥ずかしくて 行こうとは思わなかった。誰もいない教室で、ぼんやりしている と唐突に、友達が隣町に新しく図書館ができたと、話してくれた ことを思い出した。勉強とちょっと気分転換もかねて、私は行ってみることにした。
空いている席に座ってテキストを広げてみる。勉強しようと試みるも、内容がさっぱり入ってこない。あと数分考えてわからなかったら帰ろう。このままじゃ先生に個人指導をお願いする方がマシかもしれないと思った。
そんな時、
「大丈夫?よかったらそこ教えようか」
と蒼さんが声をかけてくれたのだ。
「えっでも、見ず知らずの私のために申し訳ないです」
「大丈夫だよ。さっきから難しい顔してたから気になって。学校の課題も終わって暇だったしね」
そう言われてしまえばもう藁にもすがる思いだった。ありがとうございますとお礼を言って早速教えてもらう。
蒼さんの教え方がうまくて一人で何十分も考えた問題がたったの数分で溶けてしまった。
「やった、できました!」
「よかった。幼なじみにも教えているから、その経験が君に生かせてよかったよ」
幼なじみと言ったときに少し表情が柔らかくなったような気がした。気になって追及してみる。
「幼なじみは女性の方なんですか?」
すると蒼さんは驚いたような反応をする。
「うんそうだけど、そうしてわかったの」
「女の勘です。その人のこと好きなんですか?」
気になってさらに問いかける。
「すごいね。そんなことまでわかるんだ」
「女の勘、侮っちゃだめですよ」
ふっと蒼さんが笑った。笑うと少し幼い。
「面白いね、きみ」
「よく言われます。 取り柄、そこくらいなので」
「そんなことないと思うけど」
「たとえば?」
「顔がかわいいとか?」
「どうして疑問形なんですか」
途中で、蒼さんがトイレに行ってる間、図書館のカウンターの おばさんが「彼、イケメンだよね」とやってきた。彼はよくこの 図書館に来ていて、自分たちはこっそり陰で「蒼の君」と呼んでいるのだと教えてくれた。 「あなたは、いつも一緒にいる女の子じゃないわね」とも言っていたから、きっとその人が蒼さんの好きな人なんだろう。
もしかしたら、私と同じように勉強が苦手なのかもしれない。
「ね、僕いつもこの図書館で勉強してるんだけど、よかったら、 きみがここに来ている日だけでも、勉強教えようか?」
思ってもみなかった提案だった。
いや、でも、
「嬉しいですけど、大変じゃないですか?ココに勉強しに来てる
んですよね?」
「大丈夫。きみと話していると楽しいし」
え、私としては真剣に勉強の話をしているだけのつもりだった
のだけれど。何か変なことを言っていたのだろうか。
「でも、私だけ得するのは申し訳ないです」
「じゃ、こうしようよ。僕がきみに勉強を教えて、きみは僕に恋
愛について教える」
「そんなんでいいんですか?」
「うん。女の勘について教えてよ。そういうの、疎くて」
自覚済みだった。
「......なんか、そんな感じします」
「ひどい!」
それから、私たちの「勉強会」は続いている(私の学力は上が
ったが、蒼さんの女の勘把握力はちっとも上がっていない)。
あのテストの時は、世界の終わりくらいには思っていた。
けれど、今となっては(言い方はおかしいけれど) あの頃の自分
に感謝したい。
そのくらい、蒼さんとの時間は自分の中で、大切なものになっ
ていた。
「……星ちゃん、大丈夫?さっきから手、動いてないけど」
びっくりして、私は思わずのけぞる。
急に顔を覗き込まれるのは、心臓に悪い。
「だ、だ、大丈夫です」
「そう?暑いから疲れが出てるのかもね。今日はこの辺にしよう」
図書館を出ると、空はもう赤く染まっていて、木々がさわやかな風に揺れていた。 私たちは、近くのコンビニに行ってアイスを買った。私が選んだのは小豆バーで、蒼さんが選んだのはソーダ味のアイスだった。
恋しかったアイスを、パクリと頬張る。
「!!中に練乳が入ってる!」
「ね、おいしいでしょ。ギャップがいいよね」
「はい!」
二人で貪るように食べた。蒼さんも私のセレクトを気に入って
くれたらしい。
「・・もう、夏だね」
「今更ですか」
「うん、なんか実感した」 そこでなんとなく決意が固まった。 「・・蒼さん。私、来週からここ、来れないと思います」
「うん。受験生だもんね」
私は、本格的な受験対策に入るために両親と話し合って、来週からは塾に通うことになっていた。当然、土日もつぶれる。
「だから、その・・これを」
「僕に?」
渡したのは、大きな向日葵がプリントされた、黄色のハンカチ。
「蒼さん、いつも青いものばかり使っているから、たまには違う のもいいかなって。お礼に、選びました」
「もしかして今日、バス逃したのもこれが理由?」
「・・・・・・はい」
変なところで勘がいい。
「そっか。ありがとう。 大事にするね」
蒼さんの目が少しだけ、細まった気がした。
ベンチから立って歩き始める。
「・・あの!」
「ん?」
屈託なく蒼さんは振り返る。
「あの私、今度蒼さんと同じ高校、受けようと思います」
「うん。わかった」
そうして私と蒼さんの繋がりは一度途絶えた。
今思えば年上の先輩に対して生意気な態度をとっていたなと思う。でも当時はそれが一種の照れ隠しでもあったのだ。
その後猛勉強の末、蒼さんと同じ学校に入学し、図書室での勉強会を再開してもらった。それは蒼さんに会うための口実みたいなものだった。
そばにいると胸の高鳴りが止まらなくて、変な髪型になってないかな、汗臭くないかななんて考えてしまって勉強に集中できていたとは言えない。
そしてある日私は蒼さんがあの幼なじみであろう彼女と手を繋いで下校しているところを目撃してしまったのだ。
恋愛相談をしたいとか言って、さりげなく彼女がいるのか確認したので間違いない。
その日は家に帰って布団にくるまりながら泣いた。あんなに優しくてかっこいい人は誰でも好きになる。きっと彼女さんもそうだったのだ。
はにかむような優しい笑顔が思い出されて、さらに胸が締め付けられる。苦しくて、悲しい。好きになってもらうことはないのだと突きつけられているような気さえしていた。
その後も蒼さんの姿を見るのが苦しくて図書室に行くことを避けていた。勉強会をそのままお開きとなり、蒼さんは高校を卒業していった。
当時はずっと蒼さんへの気持ちは変わらなくて、ずっと恋したままなのだと思っていた。でも人は忘れていく生き物といって然るべきなのか、失恋の痛みも時が経つにつれて薄れていく。
今まで引きずっていた恋だった。でももう前に進む時が来たのかもしれない。高校になんとなく来てしまったのは、無意識にこの恋に終止符を打とうと思ったからなのかもしれない。
「……好きでした、恋をしていました。八本蒼さん」
そう呟いて、高校を後にする。頬を伝う熱いものに知らないふりをして。