その日もいつかみたいに蒸し暑い日だった。


「ああ…結局、結婚したのか…」


 長い一日が終わって、へとへとになって帰宅する毎日。

 郵便受けを開けると、一枚のハガキが入っていて、「結婚しました!」の文字が大きく目に入った。


「今時ハガキなんて、随分古風なことだ」


 最近の入籍のお知らせは大概SNSだ。

 結婚式に呼ばれるほどの仲のいいやつでもない限り、SNSの投稿を見て、「ほーおめでと」と思いながらハートを押すくらいのもんだ。

 そもそもこのもらったハガキの処理はどうしたらいいというのか。

 保存するにも捨てるにも、なんだか少し対応に困る。



「ただいま」


 真っ暗な部屋に声をかけて、部屋の電気をぱちんと付ける。

 部屋には日中の熱気がこもっていて、俺は慌てて窓を全開にした。

 生温くはあるが、まぁないよりましな風が入ってくる。

 ハガキを適当にダイニングテーブルに置いて、俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 カシュっと子気味いい音を立てた缶を、ぐびっと一気に飲み干す。


「あーうま」


 仕事上がりのビールってなんでこんなにうまいんだろうか。

 今日が金曜日ということもあって、なんだか尚更うまく感じる。


「一週間お疲れ、俺」


 一人きりの部屋に、その声が虚しく響いた。

 俺はビールを飲みながら、先程のハガキに視線を落とす。

 写真に写っている新郎新婦は、幸せそうに見えた。二人共笑顔で、まさに幸せの絶頂って感じだ。


「なんだ、うまくいったんじゃないか」


 幸せそうな笑顔を浮かべる新婦の顔を見つめ、思わずそうつぶやいてしまった。

 特段彼女のことを心配していたわけではないが、まぁ、少し気掛かりに思うことがあった。

 あれは確か、ちょうど一年前。

 去年の夏のことだった。







 あの夏は、父が亡くなって初めてのお盆だった。

 今の部署に異動になったばかりで、毎日へとへとだった俺は、正直お盆休みくらい家でぐうたらしていたかった。

 けれど母にせっつかれ、渋々帰省したのだ。

 実家は千葉の奥の方にあるが、東京と比べると幾分か涼しいように感じた。

 駅を降りるとセミがうるさく鳴いていて、煩わしさはあるけれど、木々が多いおかげでなんだか涼しく感じる。

 THE田舎の街並みに、都会で精神を擦り減らしていた俺の心が少し和んだような気もした。


「ただいま」


 実家に戻ると、母が嬉しそうに出迎えてくれた。

 独りになってしまった母は、父の葬式で会った時よりもなんだかとても老け込んだように見えた。

 夕方になって、母と一緒に玄関先でお盆の迎え火をした。

 素焼き皿に麻がらと新聞紙を置いて、火を付ける。

 少しずつ煙が立ち昇ってきて、その煙は俺の方にやってきた。

 俺が咳き込んでいると、母は「これやるといっつもあんたんとこ煙行っちゃうねえ」なんて言って笑った。

 小さい頃から迎え火や送り火の手伝いをしていたが、いつもきまって煙は俺の方にやってくる。風向きなんて関係なくだ。

 それをずっと不思議に思っていたけれど、「あんたが来てくれてお父さんもご先祖様も嬉しいんだよ」と母が楽しそうに笑うので、まぁそういうことにしておこうと思った。


 実家で流れる時間は、何故だかゆっくりだ。

 東京で一人で暮らす俺の時間はいつだって忙しなくて、あっという間に過ぎていく。

 けれど実家に帰ってくると、その時間が嘘のように一日が長く感じる。

 電波があまり良くないので、スマホをいじらないからなのかもしれない。スマホで動画なんか見ていると、あっという間に時間が経ってしまうから。


「少し散歩でもするか」


 暇を持て余した俺は、近所を散歩することにした。



 当然ながら、田舎は田舎のままだった。

 あ、ここ、この前まで畑だったのに家が建ってる…!なんてことは全くなく、相変わらず見渡す限り畑だった。

 俺がここを出て行った時と、何一つ変わっていなかった。

 見渡す限り何もない道を、俺はただただぼーっと歩く。

 なんだかこんな風にゆっくり過ごすのは久しぶりかもしれない。たまには実家もいいものだ。

 大分傾いてきた夕陽を背に受けながら、ふと俺は小学生の時に父や母に言われていたことを思い出していた。

 日が暮れて一人で歩いていると狐に化かされるから、陽が落ちる前に帰るって来るんだよ、というありがちな帰宅推奨文句だ。

 当時から然程信じてはいなかったが、この歳になると更に迷信染みてくる。

 そんなわけないのにちゃんと言いつけを守ってた小学生の俺偉いな、なんて思いながら、二十代後半に差し掛かろうとしている俺は、当然気にせず散歩を続けた。

 辺りに宵闇が迫ってきた頃、ぽん、っと誰かの手が俺の肩に触れた感覚がして、俺はその場で飛び上がった。


「うわあっ!!」


 叫びながら飛び退ると、後ろに立っていたのは、俺とそう歳の変わらない女性だった。

 女性は申し訳なさそうに俺に頭を下げた。


「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだけど…」


 その声には聞き覚えがあったし、聞き間違えるはずなんてなかった。


「…えっと、もしかして夏川か?」


 俺は彼女にそう問い掛けた。

 すると彼女は嬉しそうに頷いた。


「そう!夏川!よかった!憶えててくれたんだ…!久しぶり!冬木くん」


 彼女、夏川は当時と変わらない可憐な笑顔で俺に微笑みかけた。



 夏川 香子(なつかわ かこ)とは、高校時代の同級生だ。

 当時同じクラスであったものの、それほど接点はなく、一度だけ体育祭委員かなにかを一緒にやったことがあったくらいだろうか。

 彼女はクラスの人気者で、当時から根暗で日陰者の俺なんかとは比べ物にならない、明るい学生生活を送っていた。

 男女共に友人も多く、色んな行事にも積極的で、うちのクラスの代表みたいな人間だった。


「びっくりした…この辺に住んでるやつはみんな、もうとっくに引っ越したと思ってたから」


 田舎すぎる町だ。みな進学や就職をきっかけに都内に引っ越したものと思っていた。まさか知り合いに会うなんて、全く考えもしなかった。

 俺の言葉に夏川は笑った。

「そうだね。私も今、お盆で帰って来てるだけなんだ」
「そうか、俺と同じ理由か」

 夏川もお盆で実家に帰省したようだった。


「それにしても、よく俺だってわかったな」

 当時から接点があったわけでもない俺を、夏川みたいな人気者が憶えていてくれているとは思わなかった。


「憶えてるよ」

 夏川は暗がりでも分かるくらいに明るく笑った。

「だって私、当時冬木くんのことが好きだったから」
「え……?」

 彼女からさらっと出てきた言葉に俺は目を丸くした。


「なぁんて!冗談でしたっ!ドキッとしたでしょ?」

 夏川はいたずらっぽく笑った。


「お前なぁ…」


 ドキッとし損だ。

 でもきっとこういう気さくなところがみんなから好かれる要因でもあったのだろう。

 夏川の人柄もあるだろうが、夏川の冗談には全く嫌味っぽいところがなかった。


「ねえ、冬木くん。この後時間ある?」
「今度はなんだよ」
「デートしよう!」


 またさっきの冗談の延長だと思ったのだが、どうやらデートのお誘いは本当だったようで、近所で夏祭りがあるから一緒に行かないか、というものだった。

 暇していた俺は、まぁいいか、と夏川と夏祭りに行くことにした。



 田舎の小さな夏祭りにしては、随分と人が多かった。

 お盆の時期に開催されるこの神社のお祭りは、小さい頃に何度か来たことがあったはずだ。その時はこんなに人手があっただろうか。

 若者が住んでいない田舎の割には、お祭りには若い人の姿が目立った。


「最近はお祭りとか花火大会のために色んな地方に行く人も増えたんだよ。ここも小さなお祭りだけど、一応花火は上がるし」

 俺が疑問を口にすると、夏川はそう答えた。

 とっぷり日も暮れて、辺りは真っ暗なはずなのに、夏川の姿だけが明るく見えた。


「蒸し暑いな…」
「それでも東京よりはマシだけどね」


 俺達はその夜、たっぷりとお祭りを満喫した。

 好きなものを山ほど食べ、お酒を飲み、金魚すくいや射的なんかで遊んで、こんなに楽しいいと思ったのは何年ぶりだっただろうか。



「冬木くんは、今どんなお仕事してるの?」
「ただの営業だよ」


 学生の頃からなにかに特別秀でていたわけでもない俺は、普通の大学に進学し、大きくもない普通の会社に就職した。そこで営業として働いてはいるが、これまた特別いい業績を上げているわけでもない。


「冬木くんが営業?絶対愛想笑いとかできなさそうなタイプなのに!」
「ほっとけ」

 夏川は「あはは」と楽しそうに笑う。


「で、夏川はどんな仕事をしてるんだ?」
「私はただの事務。普通の会社の普通の事務」


 少し意外だった。

 夏川だったら、もっといい企業、というよりは会社勤めなんて狭い檻に収まるような人間ではないと思っていた。

 自分でアパレルブランドを立ち上げて~とか言い出してもおかしくない。


「そうか…。まぁ、そんなもんだよな」
「うん。そんなもんだよ」


 社会に出れば、みんなそんなものだ。

 学校なんて小さな檻の中でどれだけ活躍しようとも、結局社会に出てしまえばみんな同じだ。



「私さ、」

 夏川は星の瞬く空を見上げ、ぽつりと呟く。


「結婚するはずだったんだ」
「するはずだった…?」
「うん。結婚しようってプロポーズされて、式の準備も始めた頃だったかな。彼の浮気が発覚したの」


 学生の頃の夏川だったら絶対しないような、なんだか暗くてやつれたような表情を見た気がした。


「自分から私にプロポーズしておいて浮気って、信じられないよね?表向きは私との結婚の準備をしていて、裏では彼の会社の若い女の子と浮気してたの」


 俺はなんて声を掛けたらいいのか分からなかった。


「…それで、結婚はどうなったんだ?」

 夏川は自嘲気味に笑う。


「彼、浮気してたこと、ものすごく反省してるみたいで謝ってきたよ。でもどうにも心の整理がつかなくて、こっちに逃げてきちゃった」


 夏川がこっちに帰って来ていたのは、お盆休みだから、という理由だけではなかったようだ。結婚の約束をし、浮気され、傷心した心身を休めるためだったのだ。


「私、もうどうしたらいいのかわからなくなっちゃった……」
「まぁ、…そうだろうな…」


 こんな時、女性になんて声を掛けて励ますべきなのか、そんなことも分からない自分が情けなくて腹立たしい。

 ドンっと大きな音がして、辺りがいっそう明るくなった。

 どうやら花火の打ち上げが始まったようだった。


「綺麗だね、花火」
「そうだな」


 花火を見上げる夏川の顔は、すごく綺麗だった。

 まじまじと彼女の顔を見てみると、高校生の頃よりも大分大人っぽくなっていて、可愛いと表現するよりは、美人と言う言葉が似合うと思った。

 生温い風に火薬の匂いが乗って、夏川の長い髪を揺らす。

 髪がふわっと横に流れた時、首に大きな痣のような黒い跡が見えた気がした。

 見間違いか?と思いながら、暗がりに目を凝らす。

 俺の視線が鬱陶しかったのか、花火を見つめていた夏川がぱっとこちらに顔を向けた。


「なあに?私のことじっと見て」
「あ、いや…別に」
「ふふ、変なの」

 夏川は笑ってまた花火を見上げた。


 髪が揺れた時、やっぱりその痣ははっきりと首にあった。

 大きな黒い、火傷みたいな跡だった。


「夏川、その首の痣…」

 俺が考えなしに呟いてしまうと、彼女はぱっと首元を隠した。


「あー、見えちゃったか…」


 夏川は恥ずかしそうに首元に手を当てる。


「ぶつけた…なんて、冬木くんに嘘ついても仕方ないよね…」

 夏川は無理に笑うと、こう続けた。


「結婚相手の彼に付けられたの。…彼、暴力を振るうんだ」


 俺は息を呑んだ。


「なんで……」

 なんでそんなやつと結婚しようとするんだよ、そう言いたかったのに言葉が上手く出てこなかった。


「なんでそんな人と結婚なんて?、でしょ?分かってるよ。浮気するし、暴力振るうし、最低な人だよね」

 「でもね、」と夏川は続ける。


「普段は優しい人なの。いつもは私のことを一番に考えてくれるし、私にすっごく優しくしてくれる。だからね、」
「そんなわけないだろ!!」


 思わず出てしまった大きな声に、周りにいた人だけじゃなくて、俺自身が一番驚いた。


「そんなわけないだろ…。夏川を傷付けるやつが夏川を幸せにできるわけがないだろ…」


 そんなのおかしい。暴力を振るわれているのに、その相手を擁護するなんておかしい。

 こういう話はよく聞く。

 共依存の状態に陥っているから、なかなか別れられないのだと。

 でもそんなの、夏川が苦しいだけだ。



「俺にすれば?」
「え…?」
「そんなやつやめて、俺にすればいいだろ」


 急に訳の分からないことを言い出した俺に、夏川は目を丸くしていた。

 とにかくその時の俺は、なにがなんでも夏川を救ってやりたかったんだ。


「俺、高校生の時、夏川のことが好きだった」
「へ…?」


 これは夏川を助けるためのでまかせや嘘なんかじゃない。本当の話だ。


「高校の時、俺は夏川に惹かれてた。でも当然この恋は叶わないんだって、諦めてたんだ。だってクラスの人気者の夏川と、教室の隅で独りで過ごしているような俺だぞ?そんなの、告白する前から結果は分かってるだろ」


 夏川の明るさに惹かれた。どんなことにも一生懸命で、いつだって楽しそうにしている姿。

 俺はそんな夏川が好きだった。

 それなのに。

 誰がそんな夏川に悲しい顔を、想いをさせているのだろうか。

 俺だったら、夏川にこんな顔をさせない。

 そう強く心で思っているのは本当だ。

 でもこんな風に力説するような人間だっただろうか、俺は。

 お酒の力?それとも、久しぶりに好きな人に会えて、テンションでも上がってしまっているのだろうか。

 夏川は驚いたような顔をして俺の言葉を聞いていたが、次第に学生の時のような笑顔に戻って、ぷっと吹き出して笑った。


「なあんだ!そうだったんだ」

 夏川は何がそんなに可笑しいのか、俺の一世一代の告白を盛大に笑う。

 俺はいたたまれなくなって、さすがに口を挟んだ。


「おい、人の告白を笑うな」
「あはは、ごめんごめん」

 夏川は涙が出るほどに笑っていた。


 今の告白にそんなに笑える要素があっただろうか?


「何がそんなに可笑しいんだ、まったく」

 俺が不貞腐れていると、夏川はまだ笑いを引きずりながら謝った。


「ごめんって。ただね、高校生の頃の私にね、教えてあげたいなって思ったの」
「何を?」
「あなたの片想いをしている冬木くんは、あなたのことが好きですよって」

 夏川の言葉に、今度は俺が目を丸くする番だった。

「は?」
「私、高校生の頃、冬木くんにずっと片想いしてから」
「は?それはさっき冗談だって…」
「ごめん、冗談じゃないの。さっきはやっぱり恥ずかしくて誤魔化しちゃったけど。本当の話だったんだ」


 少し大人っぽくなった夏川の顔が、俺の記憶の中の夏川に重なった。


「私も冬木くんのこと好きだったんだ。私達、両片想いだったんだね」

 「あーあ、あの時ちゃんと告白していればよかった」、なんて夏川が笑うから、俺は夏川の腕を引っ張った。


「別に、今からでも遅くないと思うけど」

 俺の言葉にきょとんとした夏川は、少し寂しそうに笑った。


「今日はやっぱり暑いね。少し、うちに寄って行く?」


 夏川の言葉に、俺は静かに頷いた。



 八月とあって、夜になってもなかなか熱が引かない。

 じめじめむしむしと不快なほどに身体に湿気がまとわりつく。

 夏川に連れて来られたのは、小さな木造の一軒家だった。


「ここって、夏川の家?」
「そう。うちの実家。家族はみんなお祭りの手伝いに行ってるから誰もいないよ」
「そうか…」
「麦茶持ってくるから、ここに座ってて」


 そう案内されたのは、多分夏川の部屋だ。

 当時流行っていたアイドルの色褪せたポスター。数年前で時の止まったカレンダー。たくさんシールの貼られた勉強机。

 きっとここは、夏川が学生時代を過ごした部屋なのだろう。

 夏川が俺のことを好きだったなんて、信じられない。

 俺に好きになってもらう要素なんて、きっと当時からないと思っていたから。


「はい、どうぞ」

 夏川はお盆に麦茶を乗せて、部屋に入ってきた。


 明るい部屋で見ると、夏川の身体には至る所に痣のような火傷のような黒い跡が付いていた。

 暗がりでしか彼女の姿を見ていなかった俺は、その腕や脚についた痣に、全く気が付かなかったのだ。


 胸が苦しくなって、俺は天井から吊るされている電気のひもを引っ張った。

 辺りが一気に暗くなって、遠くでかすかに光る花火が、ときたま俺達の顔を照らした。

 俺は静かに夏川を抱きしめた。

 夏川は何も言わなかった。


 しばらくして小さく鼻をすするような音がして、俺はそれを宥めるように強く強く抱きしめた。

 傷付いている夏川を慰めたかった。

 俺は彼女にキスをした。

 そのまま彼女をゆっくりベッドに押し倒して、彼女に触れる。

 華奢すぎて、俺が触れたら折れてしまうのではないかと心配になった。

 彼女はもともと細かったとは思うが、こんなにガリガリだっただろうか。


「あのとき…」


 夏川が何かを小さく呟いて、俺はそれに耳を傾けた。


「あの時、冬木くんに告白していたら、こんなことにはならなかったのかなぁ…」


 俺の後ろに誰かを見るような、そんな遠い目をして夏川は呟いた。

 俺はまた夏川を強く抱きしめて、優しくキスをした。

 彼女を救いたい。

 いつも太陽みたいに笑っていた彼女に、曇った表情は似合わない。

 俺に何ができる?


 ピリリリリリリリ。

 電子音が部屋に響き渡る。

 机の上で、スマホがぴかぴかと光って、着信を告げていた。


「ごめん…冬木くん…」


 夏川はそう言って廊下に出ると、電話に出たようだった。

 部屋にいた俺には何を話しているのかは分からなかったけれど、おそらく結婚相手からの電話だったのだろうと思う。

 夏川は、うんうん、と返事をしながら、明後日には帰るから、と言っていた。

 結局、そういうことなのだ。

 夏川は俺の元には来てくれない。

 結局どんなことがあっても、あのDV男の元に戻っていくのだ。

 俺はゆっくりと立ち上がると、電気を付けた。


 いつの間には花火の音は聞こえなくなっていた。

 お祭りももう、終わりの時間なのだろう。

 電話を終えた夏川が部屋に戻って来た。


「冬木くん、」


 何かを言いかけた夏川の言葉を遮って、俺は頷いた。


「今日はもう帰るよ。またな夏川」
「うん…」


 夏川は特に俺を引き留めるようなことはせず、玄関まで見送りに来てくれた。

 最後に夏川はこう言った。


「冬木くん、会えてよかった」

 俺は彼女に笑顔を向ける。


「俺も。久しぶりに夏川に会えてよかった」

「またね」
「ああ、また」


 そう言って俺達は別れた。

 それから連絡は一切取っていない。


 




「うまくいってよかったな、夏川」


 ハガキに写るウエディングドレス姿の彼女に、そう声を掛ける。

 5年の交際の末、結婚いたしました!、と書いてあるから、この隣に映っている新郎男が、DV男なのだろう。

 無事結婚したということは、きっと暴力の件も浮気の件も片が付いたと言うことなのだろうな。

 夏川が幸せなら、俺はそれでいい。

 缶ビールに口を付けようとして、空になっていることに気付いた。


「今日はどんどん開けるか。ついでになにかつまみでも作るかな」


 俺は立ち上がると、台所へ向かう。



 去年の夏のあの一夜のことも。

 学生時代の淡い初恋も。

 今晩ここでさよならしよう。



 俺は生温い風を身体に感じながら、キンキンに冷えたビールを一気に喉に流し込んだ。





 夏川の訃報を聞いたのは、
 それから少し経ってからのことだった。




 俺はまたあの田舎町に帰ってきた。

 何もない、畑や田んぼだらけの小さな町。

 夏が終わって、少し涼しい空気が漂うようになった頃、夏川の葬式が行われた。

 みな一様に夏川の死を悲しんでいた。

 夏川は、自殺だったらしい。

 遺書などもなく、原因は分からないらしい。

 分からない…?

 本当に分からないのだろうか。

 俺はあの夏に、苦しいほどに悩んでいた夏川を知っている。


 ささえられなかった。

 よく考えればわかることなのに。平気なわけない。助けられたのは俺だけだったんだ。

 なのに。

 らくになったのだろうか、夏川は。


 俺の頬には自然と涙が伝っていた。

 これが夏川の幸せなのか…?




 あつかった夏が終わって、君のいない冷たい冬がやって来る。





 終わり