君との出会いはきっと必然だった。
灰のように薄暗く廃れた僕の人生に、白く美しい雪が降り注いだんだ。
雪はいつか必ず溶ける。
時間が経てば経つほど、美しい白色は濁り、跡形もなく消え去ってしまう。
それでも、僕にっとてはこの世界でいちばん美しかったんだ。
※
「千晶、今日は早く帰って来られる?お父さんとね、久しぶりに外でご飯を食べようかって話をしてたんだけど。千晶も一緒に、みんなで」
「そうなんだ。なるべく早く帰るようにするね」
毎日家を出るときに母と会話をする。会話の内容はそれほど濃いものではなくて、大抵『今日は早く帰ってくる?』『お友達と楽しくやってる?』『学校で困ったことはない?』と聞かれるだけだ。きっと、血の繋がっていない僕に、お母さんなりに気を遣ってくれているんだと思う。
僕なんかを気遣わなくていいのに。
家族と呼ぶには程遠い僕なんかを。
僕の母は所謂不妊症ってやつで、五年前たくさんの人に相談して、やっとの思いで僕を養子にとることを決めたらしい。せめて僕が幼い頃に養子にとってくれたら良かったのに、と今まで何度も思った。
10歳の子供になんの知識もないわけがなく、養子として育てられることに僕は少し抵抗があった。でも、養子の僕に二人が実の親のように接してくれたから、僕はそれが素直に嬉しかった。生まれて初めて安心出来る居場所ができた気がした。
そんな中、母の長年の努力を神様は見ていたのか、母の元に新しい命が宿った。
僕が養子になってから一年も経たないある日のことだった。
父と母は泣いて喜んでいた。僕も家族として喜ぶべきなのに、僕は微塵も喜ぶことができなかった。それどころか二人の子供は僕なはずなのに、僕だけで充分なはずなのに、という絶対に言葉にしてはいけない感情が込み上げた。
そこからというもの、大好きだった家が、家族で過ごす時間が、居心地の悪い息苦しいものに変わってしまった。
全部全部、自業自得だ。父と母が築いてくれた暖かい居場所を、僕自身が自分の手で壊してしまった。
*
いつもと変わらない通学路、相変わらず騒がしい同級生。
代わり映えのしない世界がここまでつまらないものだとは思わなかった。
小説や漫画に登場する主人公はなにかと“日常”を望む。僕にはそれの何がいいのか理解ができない。僕にとって日常はさほどいいものではなくて、今すぐにでも日常のなんらかが変わってくれればいいのになと、常日頃思っている。
もし今日地球になにかしらの出来事が起こり、明日から今まで通りの生活ができなくなったとしても、僕はそれとなく生きていけると思う。なんならその世界の方が僕にとって生きやすいのかもしれない。
そんなことを考えながら登校していると、いつの間にか学校に着いていた。
学校では既にたくさんの挨拶が交わされていた。元気な人、眠そうな人、静かな人、能天気な人。たくさんの人が挨拶を交わす中で、僕に挨拶をする人は誰一人としていなかった。
入学したての頃は僕に話しかける人も多かった。僕の容姿が物珍しいのか、ほとんどの人の第一声が『その髪色地毛?』『もしかして髪染めてる?』だったけど。
そんな人たちも、僕に人と深く関わる気がないことを察したのか、数ヶ月も経たないうちに全員僕の周りから離れていった。
挨拶を交わしたいと思うような人なんて、僕にはいないからどうだっていいけど。
重い足取りで教室へ向かい、席に着く。
僕の席は窓際の一番後ろだ。僕は結構この席を気に入っている。暇なときは窓の外を眺められるし、隣は空席だし、何より肌寒くなってきた今の時期は、一日中照り続けてくれる太陽の陽射しが暖かい。
ホームルームが始まるまで外を眺める。
相も変わらず動き続ける雲、見え隠れする太陽、僕らの町を取り囲むように大きく連なる山々。
僕の目に映る世界はいつも壮大で、のびのびとしている。
とてつもなく広く、美しい世界を見ていると、僕は自分の存在がより居た堪れなくなる。
世界はこんなにも眩しく、美しいのに、僕の心はどうしてこんなにも荒んでいるんだろう。いつからこうなってしまったんだろう。
きっとこの世界に生まれたときから僕の心は灰のように廃れていて、たくさんの色で溢れている鮮やかなこの世界に、僕が居ていい場所なんて、僕が居られる場所なんて、何処にも無いのだろう。
教室の扉が開く音がした。そしてそれと同時に何やら教室がどよめき始めた。
「今日はみんなに転校生を紹介する。これからみんなと学校生活を共にする春野雪さんだ。来たばかりでまだわからないことが多いと思うから、みんな優しく教えてあげるように」
先生の言葉を聞いて、僕はやっと教室がどよめいていた理由を理解した。
「じゃあ春野、自己紹介頼む」
「はい、春野雪です。これからよろしくお願いします」
「それだけか?」
「はい」
「趣味とか好きな物とかないのか?みんな春野のこと知りたがってるぞ」
「特にありません」
「そうか。ならいいんだ」
息を飲むほどの淡麗な容姿をしているのにも関わらず、何にも興味が無いかのように淡々と話す彼女を見て、これほどまでに『雪』という名前がぴったりな人間は彼女以外に存在しないのではないだろうかと思った。
「もう席に着いてもいいですか?」
「ああ、そうだな。じゃあ橘の隣に座ってくれ」
クラス中の視線が一気に僕に集まるのを感じた。いつもは僕に見向きもしないのに、こういうときだけ見てくるのは一体なんなんだ。
彼女が席に着いたとき、誰かが口を開いた。
「なんであいつが隣なんだよ。そこしか空いてないからって、もう少し会話が成り立つやつが隣にいた方が春野さんも生活しやすいだろ」
僕だって常に人の視線を集めそうな人間の隣の席になんてなりたくなかった。隣が空席だからこの席も結構気に入っていたのに。
そんな僕の気持ちなんか知る由もない先生は、今僕が一番聞きたくないことを口にした。
「橘、今日一日春野に教科書を見せてやってくれ」
ただでさえクラスの男子の反感を買いつつあったのに、とんだ仕打ちだ。なんで僕が見せなきゃいけないんだ。
「おい、聞いてるのか橘」
今にも怒りだしそうな先生を目にし、僕は「はい、わかりました」と答えるしかなかった。
「春野さん。僕の教科書使っていいよ」
彼女は口にさえしていなかったけど、「君が使う教科書は?」という顔をしていた。
「僕はいいんだ。真面目に授業を受けてることの方が少ないから」
僕の言葉を聞いて納得したのか、彼女はそっと僕の手から教科書を受け取った。
家族や先生以外の人とまともに会話をしたのはいつぶりだろうか。どうせ僕と彼女のやり取りも今日一日だけのものだから、どうでもいいけど。
いつも通りのつまらない授業が終わり、僕はやっと一息ついた。実際はまだ授業が残っているけれど、昼休みを迎えるとほぼ終わったも同然だ。少しは気が楽になる。
僕の隣の席には既にたくさんの人が集まっていた。
囲まれているのは僕じゃないものの、昼休みは一人で中庭や屋上をフラフラしている僕からすると、その空間はまさに地獄そのものだった。
「どうしてここに来たの?」
「好きな芸能人いる?」
「やっぱりその見た目だと彼氏とかいたりした?」
「行きたいところとかある?放課後一緒に行こうよ!」
次々に口を開くクラスメイトを見ていると、彼女の自己紹介をしっかりと聞いていた人間は、僕一人だけだったのではないかという錯覚に陥る。
あの自己紹介を聞いたうえで、何故ここまで彼女に質問攻めができるのだろうか。
なんの中身もないくだらない質問に、本当に彼女が答えてくれるとでも思っているのだろうか。
そんな僕の予想が的中していたのか、彼女は「ごめん、そういうのじゃないから」と、クラスメイトからの質問を全て払い除けるかのように口にした。
「そうなんだ。たくさん質問しちゃってごめんね」と彼女の元から立ち去っていくクラスメイトを見て、僕は勝手ながらに既視感を覚えた。
きっと彼女は、僕と同じように“在るようでないもの”としてこれから扱われるのだろう。僕も彼女も自業自得だが、転校してきて早々そうなってしまうのは少しばかり可哀想だなとも思う。
彼女が幾ら自分の行動を後悔しようが、僕には関係ないけど。
一人で昼食を取り始める彼女を傍らに、僕はいつものように教室を後にした。
騒がしい昼休みが終わり、午後の授業が始まった。
午後の授業は体育と美術だったので、一生椅子に座り、先生が言ったことをロボットのようにノートに書き写す授業と比べ、比較的気が楽だった。
教室へ戻り、ホームルームが始まる。
いつも変わらず同じことを言う先生、話を聞いているように見えて放課後どう過ごすかで頭がいっぱいな生徒。こんなホームルームになんの意味があるのだろうか。
意味もない無駄な時間にすぎないホームルームなんて、無くなってしまっても構わないのに。
ホームルームが終わると、みんなは放課後どう過ごすかという話題で盛り上がっていた。部活に励む人もいれば、数人でどこかで遊ぶ人もいる。僕には程遠い世界だ。
「教科書ありがとう」
突然目の前に差し出された手と、僕だけに向けられた言葉に、僕は動揺を隠せなかった。
お礼なんて言われないものだと思っていたので、「ああ、うん」と情けない声が出てしまった。
彼女の後ろ姿を名残惜しそうに見つめるクラスメイトの視線と、恨めしそうに僕を見るクラスメイトの視線の対比が、今の僕には痛かった。
*
【ごめん。先生からの頼みごとをしてから帰るから、今日も少し遅くなりそう。僕のことは気にせず、夕飯は3人で食べに行って】
慣れた手つきで母にメールを送る。
本当は先生に何かを頼まれたことなんてないし、部活に入っているわけでもないので、今すぐに帰れる。でも、今すぐ家に帰ろうという気持ちにはどうしてもなれない。
そんな僕はなにかと理由をつけて、放課後はできるだけ一人で過ごすようにしている。
海に行って時間を潰す日もあれば、校内の隅々まで見て周り部活が終わった人達が帰る頃まで学校で過ごす日もある。普段居心地の悪い学校も、誰もいない場となるととても息がしやすい。
でも、そんな場所も比べ物にならないほど僕には誰にも教えたくない大好きな場所があった。
学校から少し離れたところにある小さな山だ。
僕が初めてその山に行ったのは、お母さんのお腹に赤ちゃんがいることがわかった日で、どうしようもできない重い感情を抱えた僕は、こっそりと家を抜け出し一人で町を歩き回った。そして最後に行き着いたのがその山だった。
そこは、十年前までキャンプ場として使われていたらしく、今となっては誰にも使われていないものの、休憩スペースなどは綺麗そのまま残っていた。
僕はそこから見る景色が好きだ。
そこは僕らが住んでいる町を一望できるだけでなく、夕暮れ時は辺り一面オレンジ色に染まった町を見ることができる。
その光景を初めてみた時、幼いながらも僕は『死んでもいい』と思った。
山に行くには急な上り坂を登らなきゃいけなく、徒歩で向かうにはあまりにも辛く苦しい道のりだ。それでも、着いた先の景色を思い浮かべるだけで頑張ろうという気持ちが湧き上がる。また、登りきって山の美味しい空気を吸ったとき、一気に気持ちが楽になる。
登りきったあとのことを考えると辛く長い道のりも気にならない。
母さんには悪いけど、僕は朝起きたときから今日は山に行こうと決めていた。僕には家族で過ごす時間よりも、山で過ごす一人の時間の方が大切だった。
でも、今日は一人じゃなかった。
いつもなら誰もいない場所に見覚えのある姿があった。
ここにたどり着くまでの苦労を考えると惜しいけど、今日は他の場所へ行こう。大好きな場所で誰かと過ごすよりも、違う場所で一人で過ごす方が楽だ。
そう思い僕がその場を後にしようとしたとき、後ろから「橘くん」と声をかけられた。
どうせなら無視してくれて良かったのにと思いながら、僕は彼女と逆方向に進む足を止め、「どうしたの春野さん」と返した。
僕以外の人物がここへ来ること自体信じ難いが、それが引っ越してきたばかりの彼女だということはもっと信じ難い。
「どうしてこんなところにいるの?」と喉元まで出かけた言葉を飲み込み、「奇遇だね」と作り物の笑顔で言った僕を見て、彼女はまた口を開いた。
「私、学校も家も好きじゃないの。自分のことも好きじゃない。そんなこと知りもしないのに、私に興味本位で近づいて来る人たちも好きじゃない。学校にいるのも家に帰るのも嫌だったから何も考えずに歩いたの、そしたらここに着いてた」
自分のことについて聞いてもいないのに話し出す彼女を見て、僕は驚きを隠せなかった。本当に学校にいた彼女と同一人物なのだろうか。
驚いている僕を見て僕が考えていることに気がついたのか、彼女は「私、今日一日橘くんの隣の席で過ごしてみて、橘くんってって私と同じなんじゃないかなって勝手に思ってた」と口にした。
僕と彼女が同じ?どういうことだろうか。今の僕には彼女が言っていることが理解できない。
「橘くんって何にも興味が無いでしょ?もちろん、私にも。転校生って良くも悪くも珍しいから最初のうちはみんなその人に集まるの。でも、橘くんだけはつまらなそうに窓の外を眺めてた。だから私、この人はこの世界がどうなろうと、気にせず生きていくんだろうなって思ったの。違う?」
何も違わない。彼女の言っている通りだ。僕は僕の周りでどんな出来事が起ころうがどうだっていいし、興味なんかない。ただ、いつも少しずつ風景や空気、周りの環境が変わっていってくれたらなとは思う。
“塵も積もれば山となる”というように、少しの変化も積み重なることでいつか大きな変化をもたらすかもしれない。
その大きな変化がたとえ人類にとって悪いものだとしても、僕にとって良いものなら僕はそれを望む。
「なにも違わないよ。よくわかったね。一応誰にも悟られないように隠してたつもりだったんだけど」
「だから言ってるじゃない、私も同じだって」
僕と彼女に似ているところが一つもないと言ったら、それは嘘になるだろう。でも、醜く荒んだ僕とみんなから注目を集める華やかな彼女を『同じ』という言葉で一括りにするのは、あまりにも彼女に失礼だと思った。
「君と僕を一緒にしたらだめだよ。君は僕なんかとは違う。僕のすべてを知ったら、きっと君は僕に幻滅するよ。僕は君が思っているような人間じゃない。だから冗談でも君と僕が同じだなんて言うべきじゃないんだ」
「勝手に決め付けないで」
そう言った彼女の声が、ほんの少しだけ震えているような気がした。
「今日一日みんなが楽しそうにしている中、橘くんだけはどこか苦しそうで、なんでだろうって思ってた。隣の席の私とも必要最低限の会話しかしなくて、会話をしているときも私自身を見ようとはしてなかった。誰も橘くんに話しかけないし、橘くんもそれが当たり前みたいに過ごしてたからなにか理由があるんだろうなって思った」
「普段何にも興味が無い私が、どうしてここまで橘くんのことを気にしているのか最初はわからなかった。でも、気がついたの。橘くんってもう一人の私を見ているみたいなんだって」
「もう一人の私?」
「うん。家にも学校にもどこにも居場所なんてないって思いながら日々を過ごしている私を、客観的に見てるみたい」
その言葉を聞いて、やっと僕は彼女が言っていた『同じ』という言葉の意味を理解した。
「私、橘くんとなら理解し合える気がするの。同じ感情を抱えたもの同士」
彼女の目に見えない隠された感情を聞いた上で、それを否定するという行為は僕にはどうしてもできなかった。
「それもそうだね」
*
そこから僕らはいろいろな話をした。
僕が養子だということ、妹の誕生を素直に喜べなかったこと、そこから家族といる時間が息苦しいものに変わってしまったこと。
僕が自分のことを包み隠さず彼女に伝えたように、彼女も同じように僕に自分のことを教えてくれた。
彼女の家族は全員優秀で自分だけが何も出来ないということ、家族全員に失望されて今は期待すらされなくなったこと、そんな家族と一緒に過ごすのが辛く、おばあちゃんと暮らすためにこの町へ来たこと、そのおばあちゃんすら昔のように優しくしてはくれなくなったこと。
彼女が今置かれている状況は、僕のものとは比べ物にならないほど酷く苦しいものだった。
でも、そのことを語る彼女は辛そうな顔なんて一切していなくて、淡々とただ冷静に自分のことを語り続けた。
そんな彼女を見て、今までの辛さに耐え抜いた彼女の強さを身にしみて実感した。
やっぱり彼女は僕なんかとは大違いだ。あまりにも弱く、自分の置かれている状況から逃げ続けている僕なんかとは。
「ねえ橘くん。今日一日ずっと気になってたんだけど、その寝癖わざと?」
今までの重苦しい会話とは裏腹に、面白可笑しそうに彼女は僕に言った。
「寝癖ついてるの、今知った」
「え、毎朝鏡見ないの?」
いつもは避ける話題も、彼女になら話してみようと思えた。
「鏡を見るのが好きじゃないんだ。鏡というか自分の髪を」
彼女は何も言わずに話を聞いてくれていた。
「僕の髪の毛地毛でこの色で、染めたりなんてしたことないんだ。きっと、僕を捨てた両親のどちらかの髪色がこの色だったんだと思う。そんな僕と違って、僕の家族はみんな綺麗な真っ黒なんだよ。ほんとに、日本人らしい綺麗な真っ黒。それを毎日見ているから、鏡で自分の髪色を見る度に自分の存在が居た堪れなくなる。だから毎朝見るようにしてた鏡も、いつからか見なくなった」
「自分の髪の毛を黒色に染めようとは思わなかった?」
躊躇いがちに聞く彼女の声は震えていた。
「一度だけ染めようと思って、自分で染め粉も買ったんだ。でも、それに気づいた母さんに『お願いだから染めないで。お母さん、千晶の髪色大好きなの。千晶らしい明るくて暖かい色。だから染めないで。』って止められて。それを聞いたとき、どうして僕が染めようとしてたのかも言えなくなっちゃってさ。千晶らしいなんて、本当の僕はそんなに暖かい人間じゃないのにね」
自嘲的に笑う僕を見て、それまで淡々と冷静に話すだけだった彼女が食い気味に口を開いた。
「私も千晶の髪色好きだよ。綺麗なオレンジ色で、まるで夕日みたい。見ているだけで暖かい気持ちになれるの」
いつの間にか呼び捨てにされていた名前も、少し恥ずかしくはあるけれど、それも彼女なりの優しさなのだと思ったら胸の奥がじんと熱くなった。
「ありがとう。雪が気に入ってくれているなら良かったよ」
それを聞いた彼女は、屈託のない表情で僕に笑ってみせた。
その笑顔があまりにも綺麗で、暖かくて、僕は彼女の笑顔をまた見たいと心の底から思った。
そんなことを考えていると、徐々に辺り一面がオレンジ色に包まれ始めた。
「雪、今からいいものが見れるよ。こっちに来て」
彼女の手を引き、僕は町を一望できるところまで移動する。
オレンジ色に染まった町を目にし「すごく綺麗」と呟く彼女を見て、僕は同じ場所でもう一度、誰にも見せたくないほど綺麗だと思えるものを見つけた。
彼女と僕が出会った日、それは僕が誰かと過ごすのも悪くないなとまた思えるようになった日として、僕の心に深く刻まれた。
もし物語が始まるのなら、雪との出会いこそが僕の物語における“新たな日常”のスタートだろう。
灰のように薄暗く廃れた僕の人生に、白く美しい雪が降り注いだんだ。
雪はいつか必ず溶ける。
時間が経てば経つほど、美しい白色は濁り、跡形もなく消え去ってしまう。
それでも、僕にっとてはこの世界でいちばん美しかったんだ。
※
「千晶、今日は早く帰って来られる?お父さんとね、久しぶりに外でご飯を食べようかって話をしてたんだけど。千晶も一緒に、みんなで」
「そうなんだ。なるべく早く帰るようにするね」
毎日家を出るときに母と会話をする。会話の内容はそれほど濃いものではなくて、大抵『今日は早く帰ってくる?』『お友達と楽しくやってる?』『学校で困ったことはない?』と聞かれるだけだ。きっと、血の繋がっていない僕に、お母さんなりに気を遣ってくれているんだと思う。
僕なんかを気遣わなくていいのに。
家族と呼ぶには程遠い僕なんかを。
僕の母は所謂不妊症ってやつで、五年前たくさんの人に相談して、やっとの思いで僕を養子にとることを決めたらしい。せめて僕が幼い頃に養子にとってくれたら良かったのに、と今まで何度も思った。
10歳の子供になんの知識もないわけがなく、養子として育てられることに僕は少し抵抗があった。でも、養子の僕に二人が実の親のように接してくれたから、僕はそれが素直に嬉しかった。生まれて初めて安心出来る居場所ができた気がした。
そんな中、母の長年の努力を神様は見ていたのか、母の元に新しい命が宿った。
僕が養子になってから一年も経たないある日のことだった。
父と母は泣いて喜んでいた。僕も家族として喜ぶべきなのに、僕は微塵も喜ぶことができなかった。それどころか二人の子供は僕なはずなのに、僕だけで充分なはずなのに、という絶対に言葉にしてはいけない感情が込み上げた。
そこからというもの、大好きだった家が、家族で過ごす時間が、居心地の悪い息苦しいものに変わってしまった。
全部全部、自業自得だ。父と母が築いてくれた暖かい居場所を、僕自身が自分の手で壊してしまった。
*
いつもと変わらない通学路、相変わらず騒がしい同級生。
代わり映えのしない世界がここまでつまらないものだとは思わなかった。
小説や漫画に登場する主人公はなにかと“日常”を望む。僕にはそれの何がいいのか理解ができない。僕にとって日常はさほどいいものではなくて、今すぐにでも日常のなんらかが変わってくれればいいのになと、常日頃思っている。
もし今日地球になにかしらの出来事が起こり、明日から今まで通りの生活ができなくなったとしても、僕はそれとなく生きていけると思う。なんならその世界の方が僕にとって生きやすいのかもしれない。
そんなことを考えながら登校していると、いつの間にか学校に着いていた。
学校では既にたくさんの挨拶が交わされていた。元気な人、眠そうな人、静かな人、能天気な人。たくさんの人が挨拶を交わす中で、僕に挨拶をする人は誰一人としていなかった。
入学したての頃は僕に話しかける人も多かった。僕の容姿が物珍しいのか、ほとんどの人の第一声が『その髪色地毛?』『もしかして髪染めてる?』だったけど。
そんな人たちも、僕に人と深く関わる気がないことを察したのか、数ヶ月も経たないうちに全員僕の周りから離れていった。
挨拶を交わしたいと思うような人なんて、僕にはいないからどうだっていいけど。
重い足取りで教室へ向かい、席に着く。
僕の席は窓際の一番後ろだ。僕は結構この席を気に入っている。暇なときは窓の外を眺められるし、隣は空席だし、何より肌寒くなってきた今の時期は、一日中照り続けてくれる太陽の陽射しが暖かい。
ホームルームが始まるまで外を眺める。
相も変わらず動き続ける雲、見え隠れする太陽、僕らの町を取り囲むように大きく連なる山々。
僕の目に映る世界はいつも壮大で、のびのびとしている。
とてつもなく広く、美しい世界を見ていると、僕は自分の存在がより居た堪れなくなる。
世界はこんなにも眩しく、美しいのに、僕の心はどうしてこんなにも荒んでいるんだろう。いつからこうなってしまったんだろう。
きっとこの世界に生まれたときから僕の心は灰のように廃れていて、たくさんの色で溢れている鮮やかなこの世界に、僕が居ていい場所なんて、僕が居られる場所なんて、何処にも無いのだろう。
教室の扉が開く音がした。そしてそれと同時に何やら教室がどよめき始めた。
「今日はみんなに転校生を紹介する。これからみんなと学校生活を共にする春野雪さんだ。来たばかりでまだわからないことが多いと思うから、みんな優しく教えてあげるように」
先生の言葉を聞いて、僕はやっと教室がどよめいていた理由を理解した。
「じゃあ春野、自己紹介頼む」
「はい、春野雪です。これからよろしくお願いします」
「それだけか?」
「はい」
「趣味とか好きな物とかないのか?みんな春野のこと知りたがってるぞ」
「特にありません」
「そうか。ならいいんだ」
息を飲むほどの淡麗な容姿をしているのにも関わらず、何にも興味が無いかのように淡々と話す彼女を見て、これほどまでに『雪』という名前がぴったりな人間は彼女以外に存在しないのではないだろうかと思った。
「もう席に着いてもいいですか?」
「ああ、そうだな。じゃあ橘の隣に座ってくれ」
クラス中の視線が一気に僕に集まるのを感じた。いつもは僕に見向きもしないのに、こういうときだけ見てくるのは一体なんなんだ。
彼女が席に着いたとき、誰かが口を開いた。
「なんであいつが隣なんだよ。そこしか空いてないからって、もう少し会話が成り立つやつが隣にいた方が春野さんも生活しやすいだろ」
僕だって常に人の視線を集めそうな人間の隣の席になんてなりたくなかった。隣が空席だからこの席も結構気に入っていたのに。
そんな僕の気持ちなんか知る由もない先生は、今僕が一番聞きたくないことを口にした。
「橘、今日一日春野に教科書を見せてやってくれ」
ただでさえクラスの男子の反感を買いつつあったのに、とんだ仕打ちだ。なんで僕が見せなきゃいけないんだ。
「おい、聞いてるのか橘」
今にも怒りだしそうな先生を目にし、僕は「はい、わかりました」と答えるしかなかった。
「春野さん。僕の教科書使っていいよ」
彼女は口にさえしていなかったけど、「君が使う教科書は?」という顔をしていた。
「僕はいいんだ。真面目に授業を受けてることの方が少ないから」
僕の言葉を聞いて納得したのか、彼女はそっと僕の手から教科書を受け取った。
家族や先生以外の人とまともに会話をしたのはいつぶりだろうか。どうせ僕と彼女のやり取りも今日一日だけのものだから、どうでもいいけど。
いつも通りのつまらない授業が終わり、僕はやっと一息ついた。実際はまだ授業が残っているけれど、昼休みを迎えるとほぼ終わったも同然だ。少しは気が楽になる。
僕の隣の席には既にたくさんの人が集まっていた。
囲まれているのは僕じゃないものの、昼休みは一人で中庭や屋上をフラフラしている僕からすると、その空間はまさに地獄そのものだった。
「どうしてここに来たの?」
「好きな芸能人いる?」
「やっぱりその見た目だと彼氏とかいたりした?」
「行きたいところとかある?放課後一緒に行こうよ!」
次々に口を開くクラスメイトを見ていると、彼女の自己紹介をしっかりと聞いていた人間は、僕一人だけだったのではないかという錯覚に陥る。
あの自己紹介を聞いたうえで、何故ここまで彼女に質問攻めができるのだろうか。
なんの中身もないくだらない質問に、本当に彼女が答えてくれるとでも思っているのだろうか。
そんな僕の予想が的中していたのか、彼女は「ごめん、そういうのじゃないから」と、クラスメイトからの質問を全て払い除けるかのように口にした。
「そうなんだ。たくさん質問しちゃってごめんね」と彼女の元から立ち去っていくクラスメイトを見て、僕は勝手ながらに既視感を覚えた。
きっと彼女は、僕と同じように“在るようでないもの”としてこれから扱われるのだろう。僕も彼女も自業自得だが、転校してきて早々そうなってしまうのは少しばかり可哀想だなとも思う。
彼女が幾ら自分の行動を後悔しようが、僕には関係ないけど。
一人で昼食を取り始める彼女を傍らに、僕はいつものように教室を後にした。
騒がしい昼休みが終わり、午後の授業が始まった。
午後の授業は体育と美術だったので、一生椅子に座り、先生が言ったことをロボットのようにノートに書き写す授業と比べ、比較的気が楽だった。
教室へ戻り、ホームルームが始まる。
いつも変わらず同じことを言う先生、話を聞いているように見えて放課後どう過ごすかで頭がいっぱいな生徒。こんなホームルームになんの意味があるのだろうか。
意味もない無駄な時間にすぎないホームルームなんて、無くなってしまっても構わないのに。
ホームルームが終わると、みんなは放課後どう過ごすかという話題で盛り上がっていた。部活に励む人もいれば、数人でどこかで遊ぶ人もいる。僕には程遠い世界だ。
「教科書ありがとう」
突然目の前に差し出された手と、僕だけに向けられた言葉に、僕は動揺を隠せなかった。
お礼なんて言われないものだと思っていたので、「ああ、うん」と情けない声が出てしまった。
彼女の後ろ姿を名残惜しそうに見つめるクラスメイトの視線と、恨めしそうに僕を見るクラスメイトの視線の対比が、今の僕には痛かった。
*
【ごめん。先生からの頼みごとをしてから帰るから、今日も少し遅くなりそう。僕のことは気にせず、夕飯は3人で食べに行って】
慣れた手つきで母にメールを送る。
本当は先生に何かを頼まれたことなんてないし、部活に入っているわけでもないので、今すぐに帰れる。でも、今すぐ家に帰ろうという気持ちにはどうしてもなれない。
そんな僕はなにかと理由をつけて、放課後はできるだけ一人で過ごすようにしている。
海に行って時間を潰す日もあれば、校内の隅々まで見て周り部活が終わった人達が帰る頃まで学校で過ごす日もある。普段居心地の悪い学校も、誰もいない場となるととても息がしやすい。
でも、そんな場所も比べ物にならないほど僕には誰にも教えたくない大好きな場所があった。
学校から少し離れたところにある小さな山だ。
僕が初めてその山に行ったのは、お母さんのお腹に赤ちゃんがいることがわかった日で、どうしようもできない重い感情を抱えた僕は、こっそりと家を抜け出し一人で町を歩き回った。そして最後に行き着いたのがその山だった。
そこは、十年前までキャンプ場として使われていたらしく、今となっては誰にも使われていないものの、休憩スペースなどは綺麗そのまま残っていた。
僕はそこから見る景色が好きだ。
そこは僕らが住んでいる町を一望できるだけでなく、夕暮れ時は辺り一面オレンジ色に染まった町を見ることができる。
その光景を初めてみた時、幼いながらも僕は『死んでもいい』と思った。
山に行くには急な上り坂を登らなきゃいけなく、徒歩で向かうにはあまりにも辛く苦しい道のりだ。それでも、着いた先の景色を思い浮かべるだけで頑張ろうという気持ちが湧き上がる。また、登りきって山の美味しい空気を吸ったとき、一気に気持ちが楽になる。
登りきったあとのことを考えると辛く長い道のりも気にならない。
母さんには悪いけど、僕は朝起きたときから今日は山に行こうと決めていた。僕には家族で過ごす時間よりも、山で過ごす一人の時間の方が大切だった。
でも、今日は一人じゃなかった。
いつもなら誰もいない場所に見覚えのある姿があった。
ここにたどり着くまでの苦労を考えると惜しいけど、今日は他の場所へ行こう。大好きな場所で誰かと過ごすよりも、違う場所で一人で過ごす方が楽だ。
そう思い僕がその場を後にしようとしたとき、後ろから「橘くん」と声をかけられた。
どうせなら無視してくれて良かったのにと思いながら、僕は彼女と逆方向に進む足を止め、「どうしたの春野さん」と返した。
僕以外の人物がここへ来ること自体信じ難いが、それが引っ越してきたばかりの彼女だということはもっと信じ難い。
「どうしてこんなところにいるの?」と喉元まで出かけた言葉を飲み込み、「奇遇だね」と作り物の笑顔で言った僕を見て、彼女はまた口を開いた。
「私、学校も家も好きじゃないの。自分のことも好きじゃない。そんなこと知りもしないのに、私に興味本位で近づいて来る人たちも好きじゃない。学校にいるのも家に帰るのも嫌だったから何も考えずに歩いたの、そしたらここに着いてた」
自分のことについて聞いてもいないのに話し出す彼女を見て、僕は驚きを隠せなかった。本当に学校にいた彼女と同一人物なのだろうか。
驚いている僕を見て僕が考えていることに気がついたのか、彼女は「私、今日一日橘くんの隣の席で過ごしてみて、橘くんってって私と同じなんじゃないかなって勝手に思ってた」と口にした。
僕と彼女が同じ?どういうことだろうか。今の僕には彼女が言っていることが理解できない。
「橘くんって何にも興味が無いでしょ?もちろん、私にも。転校生って良くも悪くも珍しいから最初のうちはみんなその人に集まるの。でも、橘くんだけはつまらなそうに窓の外を眺めてた。だから私、この人はこの世界がどうなろうと、気にせず生きていくんだろうなって思ったの。違う?」
何も違わない。彼女の言っている通りだ。僕は僕の周りでどんな出来事が起ころうがどうだっていいし、興味なんかない。ただ、いつも少しずつ風景や空気、周りの環境が変わっていってくれたらなとは思う。
“塵も積もれば山となる”というように、少しの変化も積み重なることでいつか大きな変化をもたらすかもしれない。
その大きな変化がたとえ人類にとって悪いものだとしても、僕にとって良いものなら僕はそれを望む。
「なにも違わないよ。よくわかったね。一応誰にも悟られないように隠してたつもりだったんだけど」
「だから言ってるじゃない、私も同じだって」
僕と彼女に似ているところが一つもないと言ったら、それは嘘になるだろう。でも、醜く荒んだ僕とみんなから注目を集める華やかな彼女を『同じ』という言葉で一括りにするのは、あまりにも彼女に失礼だと思った。
「君と僕を一緒にしたらだめだよ。君は僕なんかとは違う。僕のすべてを知ったら、きっと君は僕に幻滅するよ。僕は君が思っているような人間じゃない。だから冗談でも君と僕が同じだなんて言うべきじゃないんだ」
「勝手に決め付けないで」
そう言った彼女の声が、ほんの少しだけ震えているような気がした。
「今日一日みんなが楽しそうにしている中、橘くんだけはどこか苦しそうで、なんでだろうって思ってた。隣の席の私とも必要最低限の会話しかしなくて、会話をしているときも私自身を見ようとはしてなかった。誰も橘くんに話しかけないし、橘くんもそれが当たり前みたいに過ごしてたからなにか理由があるんだろうなって思った」
「普段何にも興味が無い私が、どうしてここまで橘くんのことを気にしているのか最初はわからなかった。でも、気がついたの。橘くんってもう一人の私を見ているみたいなんだって」
「もう一人の私?」
「うん。家にも学校にもどこにも居場所なんてないって思いながら日々を過ごしている私を、客観的に見てるみたい」
その言葉を聞いて、やっと僕は彼女が言っていた『同じ』という言葉の意味を理解した。
「私、橘くんとなら理解し合える気がするの。同じ感情を抱えたもの同士」
彼女の目に見えない隠された感情を聞いた上で、それを否定するという行為は僕にはどうしてもできなかった。
「それもそうだね」
*
そこから僕らはいろいろな話をした。
僕が養子だということ、妹の誕生を素直に喜べなかったこと、そこから家族といる時間が息苦しいものに変わってしまったこと。
僕が自分のことを包み隠さず彼女に伝えたように、彼女も同じように僕に自分のことを教えてくれた。
彼女の家族は全員優秀で自分だけが何も出来ないということ、家族全員に失望されて今は期待すらされなくなったこと、そんな家族と一緒に過ごすのが辛く、おばあちゃんと暮らすためにこの町へ来たこと、そのおばあちゃんすら昔のように優しくしてはくれなくなったこと。
彼女が今置かれている状況は、僕のものとは比べ物にならないほど酷く苦しいものだった。
でも、そのことを語る彼女は辛そうな顔なんて一切していなくて、淡々とただ冷静に自分のことを語り続けた。
そんな彼女を見て、今までの辛さに耐え抜いた彼女の強さを身にしみて実感した。
やっぱり彼女は僕なんかとは大違いだ。あまりにも弱く、自分の置かれている状況から逃げ続けている僕なんかとは。
「ねえ橘くん。今日一日ずっと気になってたんだけど、その寝癖わざと?」
今までの重苦しい会話とは裏腹に、面白可笑しそうに彼女は僕に言った。
「寝癖ついてるの、今知った」
「え、毎朝鏡見ないの?」
いつもは避ける話題も、彼女になら話してみようと思えた。
「鏡を見るのが好きじゃないんだ。鏡というか自分の髪を」
彼女は何も言わずに話を聞いてくれていた。
「僕の髪の毛地毛でこの色で、染めたりなんてしたことないんだ。きっと、僕を捨てた両親のどちらかの髪色がこの色だったんだと思う。そんな僕と違って、僕の家族はみんな綺麗な真っ黒なんだよ。ほんとに、日本人らしい綺麗な真っ黒。それを毎日見ているから、鏡で自分の髪色を見る度に自分の存在が居た堪れなくなる。だから毎朝見るようにしてた鏡も、いつからか見なくなった」
「自分の髪の毛を黒色に染めようとは思わなかった?」
躊躇いがちに聞く彼女の声は震えていた。
「一度だけ染めようと思って、自分で染め粉も買ったんだ。でも、それに気づいた母さんに『お願いだから染めないで。お母さん、千晶の髪色大好きなの。千晶らしい明るくて暖かい色。だから染めないで。』って止められて。それを聞いたとき、どうして僕が染めようとしてたのかも言えなくなっちゃってさ。千晶らしいなんて、本当の僕はそんなに暖かい人間じゃないのにね」
自嘲的に笑う僕を見て、それまで淡々と冷静に話すだけだった彼女が食い気味に口を開いた。
「私も千晶の髪色好きだよ。綺麗なオレンジ色で、まるで夕日みたい。見ているだけで暖かい気持ちになれるの」
いつの間にか呼び捨てにされていた名前も、少し恥ずかしくはあるけれど、それも彼女なりの優しさなのだと思ったら胸の奥がじんと熱くなった。
「ありがとう。雪が気に入ってくれているなら良かったよ」
それを聞いた彼女は、屈託のない表情で僕に笑ってみせた。
その笑顔があまりにも綺麗で、暖かくて、僕は彼女の笑顔をまた見たいと心の底から思った。
そんなことを考えていると、徐々に辺り一面がオレンジ色に包まれ始めた。
「雪、今からいいものが見れるよ。こっちに来て」
彼女の手を引き、僕は町を一望できるところまで移動する。
オレンジ色に染まった町を目にし「すごく綺麗」と呟く彼女を見て、僕は同じ場所でもう一度、誰にも見せたくないほど綺麗だと思えるものを見つけた。
彼女と僕が出会った日、それは僕が誰かと過ごすのも悪くないなとまた思えるようになった日として、僕の心に深く刻まれた。
もし物語が始まるのなら、雪との出会いこそが僕の物語における“新たな日常”のスタートだろう。
