「いらっしゃい。どうぞ」

 インターフォンを押すと先輩はすぐにドアを開けてくれた。

「お、おじゃまします」

 先輩の家には以前にも一度来たことがある。そのときは和幸やほかの先輩もいた。だけど、今日はひとり。なにもないんだけど緊張する。先輩が後ろで鍵をガチャリと閉めた。その音が、俺と先輩が今ふたりきりなんだということを告げているような気がした。
 そんな緊張を悟られないように、ビニール袋を広げて見せる。

「い、色々適当にですけど買ってきたんで」
「気を使わなくても良かったのに。でも、ありがとう」

 先輩が冷蔵庫に飲み物や食べ物をしまっている間に、ついつい部屋を観察してしまう。
 シンプルで、整頓された、なんというか丁寧な部屋。あらためて、なんとも先輩らしい部屋だと思った。

「拓海くん、何飲む? チューハイ? ウィスキー? いちご牛乳のリキュールもあるけど」
「え、いちご牛乳もあるんすか?」
「拓海くん好きでしょ。さっき買ってきた」

 先輩は悪戯をする子どものように笑った。
 その細やかな心遣いに胸のあたりがじわっとあたたかくなる。
 だけど、すぐに神谷先輩のことを思い出して、熱は急激に冷めていく。

「……なにか手伝いましょうか?」
「いいから、座っててテレビでも見てな」

 俺は先輩に言われた通り、二人掛けのソファーに腰を下ろす。
 いつもは和幸や神谷先輩たちがいると勝手に騒ぎ出して、話題を振ってくれて、なんとなく飲み会の雰囲気になっていく。だけど俺と道春先輩のふたりだけでは「飲み」という雰囲気になっていかないことに気づく。
 苦手だと思っていたけど、あのパーリーピーポーのノリに助けられている部分も、もしかしたらあるのかもしれない。夜七時にやっているテレビは、どれも退屈なものばかりだった。

「――乾杯」

 合わせたグラスからチン、と小気味よい音が鳴る。テーブルには様々なおつまみと、それから夕食のかわりにもなる総菜が並べられている。
 先輩はいちご牛乳のリキュールを割る牛乳まで買ってくれていた。一口飲むと、苺の果肉の味を感じる。安物のいちご牛乳ではなくて、ちょっといいところのいちごミルクみたいだ。

「どう? その酒おいしい?」
「はい、思ってた以上にうまいです。うまくて飲みすぎるかも」
「それなら良かった」

 話題は自然と大学の話になる。実習の話やテストの話、なぜこの大学に来たのか。
 普段の飲み会では話さないような真面目な話が多いけれど、つまらないわけではない。いつも聞き役にまわることが多い道春先輩が饒舌になっている。先輩の家は教師の家系らしく、両親もどっちも現役の教師らしい。そんななか、なぜ教師を志したのか、そんな話をしている先輩の目はきらきらと輝いていて、俺はやっぱりこの人が好きだな、と思った。
 
 思えば、先輩を恋愛対象として見始めたのはいつだろう。ハイボールの氷をくるくると回す先輩を見ながら、俺は思い出していた。あれは二回目か三回目だかの飲み会だったか。悪ノリして神谷先輩たちが王様ゲームをはじめて、俺と先輩がキスすることになったときか。「逆に男同士なんだからいいじゃん」「王様の命令は絶対」というふざけたノリ。逆にの逆の意味もわからない。誰も俺の恋愛対象が男だなんて1ミリも想像していない。先輩は困ったように笑って「どうしようか」と言ってくれたのを覚えている。俺は空気を悪くすることはしたくなかったし、自分が万が一にもゲイ……セクシュアルマイノリティだと疑われるようなことがあったら怖くて「しましょう」と返したんだよな。

 うるさい手拍子、キスのコール、そのなかで触れるようなキスをした。先輩の唇は柔らかくて、少しだけ冷たかった。初めてのキスでもなんでもないけど、先輩が直前まで飲んでたレモンチューハイの味はした。そこからだなぁ、意識するようになってしまったのは。元々魅力的な人だと思っていたのに、中途半端に触れちゃったりできたもんだから。
 日常生活を過ごすなかで、男相手の恋はまず叶わない。
 だから、叶わない恋はしない。
 そう決めて生きてきたのに。今、こうやって苦しくなってしまっている。
 
「……俺もハイボールください」
「いいけど、大丈夫?」

 強く頷く。先輩が慣れた手つきでハイボールを作ってくれて、それをぐいっと飲み干した。少し苦くて、買ってあったチョコレートで苦味をかき消す。今日は酔った方がいい。

「……そういえば、道春先輩は神谷先輩と付き合ったんですか?」

 ずっと気になってたことを、勢いに任せて聞いた。
 酒を飲もうとグラスを傾けていた先輩の手がピタリと止まる。

「和幸くんから聞いた? 神谷と話してたもんね」
「はい、なんかけっこう、壮大だったみたいで」

 先輩は少し黙って、らしくない言葉を発した。

「――バカみたいだろ。バレバレの演技でふたりきりにさせて、影から覗いて、神谷の告白の瞬間にさ、遠くの方から打ち上げ花火まで上がったんだよ」
「い、いえ、そんなことは……」
「そこまでされて、断れるはずないじゃん。全員で断れない空気を作ってきてる。最低だよ、あれは」

 道春先輩はグラスにあったハイボールを一気飲みした。半分以上も、まだ残っていたのに。
 こんな冗談を言う人でもないし、悪戯に人を蔑んだりする人ではない。先輩があまりにも悲しい顔をしているので、それが本当のことだとわかった。

「じゃあ……OKしたんですか?」
「……うん」

 ずきっと胸が痛む。神谷先輩のことを、道春先輩が本当に好きなら、このような表情になるだろうか。先輩はいつも周りの人間を気遣って、慮って、自分を押し殺してきたのではないだろうか。その優しさゆえに。

「好きなんですか? 神谷先輩のこと」

 先輩は空いたグラスにウィスキーを注いで、ゆらりと俺の方を見た。目がとろんとしている。先輩の睫毛がいつもより長いように感じられた。

「……拓海くんは、どう思う?」
「俺を今日飲みに誘って、こうやって話しているってことは、神谷先輩が好きかどうかわかんないんじゃないですか?」

 先輩はふっと笑った。

 「そうだね。そういう気持ちもある」

 曖昧な返し。先輩の言葉の意図がわからなくて、なんだかもどかしい気持ちになる。
 少しだけ沈黙が続いて、道春先輩は崩していた姿勢を直すように、背筋を伸ばした。

「僕が優柔不断で幻滅した?」
「……そんなことはないです。たぶん、俺が先輩の立場でそんな風に告白されたら、嫌だったと思うし」
「拓海くんは、やっぱ優しいね」

 困ったように笑う道春先輩。その笑顔を見ると、なんだか俺まで泣きたくなった。

「神谷のこと、嫌いじゃない。好きな方だと思う。だけど、恋愛的に好きかどうかなんて、考えてなかった。いや、考えないようにしてたんだ」
「……はい。その気持ち、わかります」

 俺も今まで、そういうことは何度もあった。

「だからさ、自分でもよくわかんなかった。だから流されてOKしちゃった。でもやっぱり違う気がして、ぐるぐる考えこんじゃってさ。どうしてもひっかかることがあって、それを今日確かめたかったんだ」
「確かめ……?」

 先輩をまっすぐに俺を見つめた。

「僕、拓海くんのことが好きなんじゃないかと思って」
「――は、はあ!? 冗談はやめてください!」

 突然の告白に、照れるとか恥ずかしいを超えて理解できなくなる。

「冗談じゃないよ。……うん、やっぱり僕、拓海くんが好きだ。ごめん。ずっと好きだったんだ」

 先輩が片手を顔隠すようにして話す。耳まで赤くなっているのは、酒のせいではないようだった。

 先輩もゲイだった? そんな風にはとても思えなかったんだけど。嬉しい気持ちもある。だけど、どう自分の気持ちを伝えたらいいのか。色々な考えが頭に浮かんでは消える。うまく言葉にならない。

「男が男を好きなんて、気持ち悪いよな。ごめん」
「いえ、そんなことは……」

 ていうか、俺もそうだし。続けようとする言葉を遮るように、先輩は続ける。

「たぶん自分でもそう……恋愛対象が同性かなとは前から思ってたんだけど。なんか、認めたくなくて。さっきも話したけど、うちは両親がどっちとも教師なんだよね。だから結婚にもうるさくって。二十代のうちに結婚をしろって言われてるんだ。結婚をしていないと世間に対する体裁が悪いとか、結婚してない男は出世できないだとか、おかしいだとか」
「うわ、めちゃくちゃ昔の価値観……ってすみません」

 先輩の両親にそんなこと言ったらだめなのに、思わず口から出てしまった。

「いや、本当のことだから気にしないで。でもその期待に応えないといけないって重圧もあって、認めたくなかったんだと思う。女性と恋愛して、結婚しないとって。なんだかできないという感じもしないような気がして。わかんなくて」

 自分の性に対して答えが出なく、あやふやな時期っていうのはあると思う。なかには後天的に変化する人もいるくらいだから。俺も一時期は迷って、悩んで、たくさん調べたりしていた。

 道春先輩のその真面目さと背景を考えると、喉がきゅっと掴まれたように苦しくなる。

 俺は、先輩にひとつ質問をしてみることにした。

「……道春先輩、神谷先輩のこと、抱けますか?」

 先輩とそんな話をするのは初めてだから、恥ずかしい。

「抱ける……とは思う。たぶん」
「じゃあ、俺のことは抱けますか?」
「……抱けるかどうかというより、抱きたい、のかも」
「なら先輩はきっと、ゲイ寄りなんすよ。……俺と一緒で」

 ちくたく、ちくたく、時計の短針の動く音が、流しているテレビの音より大きく聞こえる。

 カラン、と溶けた氷がグラスの中で傾く。俺は深呼吸をしてから先輩を見た。

「――それで、俺も先輩を好きだって言ったら、どーします?」
「……たぶん、めちゃめちゃ幸せで、きっと死にたくなる」
「なんですかそれ」

 くっくと笑いを押し殺すと、先輩は声を出して笑った。先輩のそんな笑い方を見たのは初めてのことだった。
 ひとしきり笑って、落ち着いてから俺は先輩に話した。

「神谷先輩には悪いですが、ちゃんと別れた方がいいです。セクシュアリティのことはわざわざ言わなくてもいいと思いますけど」

 告白の方法が悪かったとしても、中途半端な気持ちで付き合うのは神谷先輩やほかの先輩に対しても失礼だと思う。マイノリティ当事者の俺ですら、先輩がゲイだなんて想像もしてなかった。一連の行為に、悪意なんてきっと微塵もなくて。だけどそれで、傷つく人もいて。俺たちは誰も彼もみんな普通だと決めつけて生きている。なにが普通かなんてわかっていないのに。

「そうだね。うん、神谷たちには誠心誠意謝ることにする」

 あの人達も根っからの悪人なんかじゃない。きっと、きっと先輩の気持ちを汲み取ってくれるはずだ。

「拓海くんに話せてすっきりした。ありがとう」

 先輩がソファに背中を預ける。広げた足が俺の膝にあたって、先輩と視線がぶつかった。
 お互いそれに気づいたけど、あえて体を離すようなことをしなかった。
 これ以上強く触れたら、なにかが割れてしまいそうな気がする。
 
 普通でいることと、普通になることは違う。普通の演技をするのは、もっと辛い。
 先輩が選んだこの道が、本当に正解なのかはわからない。
 真っ暗な夜のようで、苦しくて、寂しくて、生きにくい世界が広がっているのを、俺は知っている。
 
 道春先輩はテレビを見ながら、いや、たぶん見てるふりをしながら、小さな声で言った。
 
「拓海くん、僕さ、もっとちゃんと確認したい。自分はなんなのかってことを」
 
 唾を飲み込むと、想像以上に大きな音で喉が鳴った。
 
「道春先輩。俺、初めてじゃないんです。男とヤるの」
「……そうなんだ。僕は初めて」


 リモコンでテレビの電源を落とす先輩の指は、微かに震えていた。