道春(みちはる)パイセンってさ、拓海(たくみ)のこと気に入ってるよな」
「は、なんで?」

 突然の休講で時間を持て余した俺は、同じゼミの和幸(かずゆき)と一緒に暇を潰していた。
 和幸は湿度の具合で髪のセットが気になるのか、毛先を捩じりながら話を続ける。

「だって、いつも話しかけに来るじゃん。テスト近くなったら過去問のコピーまでしてくれてるし」
「それは道春先輩が面倒見いいからだろ。別に俺だけにじゃない」

 道春先輩は教育学部の四年で、俺たちよりひとつ年上。
 ゼミの教授が一緒だったことをきっかけに仲良くなり、俺たちと親しくしてくれている。
 教授からの評価も高く、人当りもいい。正直、うちの大学はチャラい学生も多いのだが、道春先輩はそのなかでも珍しい人徳者で、大多数の人間から好かれているような人だった。
 そんな人が、俺を特別に気に入ってくれることなんてあり得ない。

「別に否定しなくていいじゃん」
「いや、気に入ってもらえてるなら嬉しいけどさ」

 変に否定するのも怪しいだろうか。ざわりとした焦りを背中に感じる。
 それを悟られないように、できるだけ平静を装った。

「――なんか喉乾いたな。自販機行こうぜ」
「おー」

 俺たちは学生食堂へと向かう。学生食堂前の自販機は、一番品揃えがいい。
 和幸はガムをひとつ口に入れて、だるそうに歩き出す。
 学食前の自販機には飲み物のほかにもアイスやパン、カップラーメンなんかもある。
 いくつかテーブルも置かれているので、空きコマはここでだべる学生も多い。
 俺は紙パックのいちご牛乳を選ぶ。取り出し口からいちご牛乳を取り出していると、和幸が小さく「あ」と声を出した。

「先輩たちだ」

 渡り廊下の途中、道春先輩が歩いている。そのまわりには四人の男女が嬉しそうに先輩に話しかけていた。
 俺は、大学内で道春先輩がひとりでいるのを見たことがない。
 道春先輩は俺たちに気づくと、パッと笑顔を浮かべ片手を上げた。俺は小さく会釈をする。
 和幸も同じようにしてからぼそりと言った。

「ほら、道春パイセンは拓海がいたら絶対挨拶してくれるんだよ」
「いつもしてくれるだろ」
「そうでもないって。オレ、この前スルーされたぜ」
「和幸が嫌われてるだけじゃない?」
「げ、マジ? そんなこと言うなって」

 和幸が笑いながら腕を小突くので小突き返してやると、いつの間にか先輩たちも自販機の前にきていた。

「おつかれ」
「お疲れ様です。先輩たちも空きコマですか?」

 俺は道春先輩に聞いたつもりだったのだけど、その隣にいた女の先輩――神谷(かみや)先輩が答えた。

「そ、しかも二コマも空いてんの。中途半端だからどうしようって相談してたのよ」

 困ったように話すけど、心なしか顔は嬉しそうだ。

「こっちも急に休講になっちゃって」

 俺がそう答えると、次は道春先輩が答えてくれた。

「藤井先生の? あの先生休講多いよな」
「そっすね。突然なのは珍しいけど……」

 和幸は神谷先輩と何やら話し始めていて、少しだけ距離ができていた。
 道春先輩は俺の手元をじっと見ると、ぼそりと言った。

「拓海くんってさ、いつもいちご牛乳飲んでない?」
「え、わかりますか。昔から好きなんですよ」
「わかるよ。いっつも持ってるもん」

 先輩を目を細めて、優しく微笑む。
 ちょっとだけ首を傾げて、少しだけ申し訳なさそうにも見えるその笑顔。
 先輩、俺のことを見てくれているんだな。
 そう思うと気恥ずかしさと嬉しさがないまぜになったものが、心の奥からどくんと湧き上がってくる。
 
 ――俺は、道春先輩のことが好きだった。
 
 先輩としてじゃない。友達としてでもない。恋愛対象として。
 
 和幸と神谷先輩と他の先輩たちはいつの間にか座って話し込んでいる。
 神谷先輩は俺と同じいちご牛乳を買うと、少し離れたテーブルに座って俺に手招きした。

「拓海くんこっち座りなよ。神谷たちはなんか盛り上がっているみたいだし」
「は、はい」

 和幸はコミュ力が高い。神谷先輩たちは一般的に見てパリピの陽キャ、ノリで騒いだりするのが好きな人たちだ。悪い人ではないのだけれど、俺はそういう雰囲気があまり得意でなかった。和幸は人によって多少キャラを変えられるらしい。俺といるときは落ち着いている雰囲気なんだけど、今は先輩たちと一緒に手を叩いて笑っていた。

「どう? 授業は順調?」

 差し障りのない質問。「ぼちぼちですよ」といい加減な返答をする。

「先輩はどうです?」
「こっちもぼちぼち」

 どうでもいい内容のどうでもいい会話。それなのに、心が少し浮かれている。
 先輩はテーブルに肘をついて、俺を見た。

「そう言えば、この前の飲み会はこなかったね」
「ああ、すみません。バイトがあったんで」
「いやいや、気にしないで。そりゃあ拓海くんがきてくれる方が嬉しいんだけど、用事があるなら仕方ないよ」

 この人にとったらなんでもない言葉。ただのお世辞。
 そんなのわかりきっているのに、胸が高鳴った。

「……ありがとうございます」

 恥ずかしくて目を逸らす。いちご牛乳を飲んでいても、味がよくわからない。

「拓海くんさ、もしかして大人数での飲み会とか苦手?」

 ギクリとする。正直あのハイテンションのノリは苦手というか嫌いに近いが、道春先輩に悪い印象を持たれたたくない。それに、先輩からの誘いが無くなってしまうのは正直辛いものがある。迷った末、俺は正直に、だけど無難に答えることにした。

「ほんの少しだけ、苦手ですかね。嫌いじゃないんですけど、俺ってどうしてもみんなのノリについていけなくて浮いちゃうから、迷惑かけちゃうかなって。誘ってもらえるのは本当に嬉しいんですけど」
「そっか。……その気持ち、わかるなぁ」
「本当ですか?」
「うん」

 先輩は目を細めて俺を見る。
 そう言われたら、あのパーリーピーポーたちのなかで道春先輩の存在はちょっと違うかもしれない。
 先輩はノリも良く一緒に騒ぐこともしているけれど、普段の物腰は柔らかいし典型的な優等生タイプだ。自然に相手を気遣えるような人だし、顔だけじゃなくって細かい部分までイケメンだ。そういうところが魅力的なんだけど。和幸と一緒で、先輩も人に合わせてキャラを変えているところがあるのかもしれない。

 先輩の顔をじっと見てると「どした?」と先輩は笑った。思わず「すみません」と返す。

「……拓海くん、大人数が苦手ならさ、今度ふたりで飲まない? お酒は嫌いじゃないんでしょ?」

 突然の誘いに驚く。もちろん、嬉しいし行きたい。
 期待しても意味ないとはわかっている。今までも何度も、そういう期待をしては傷ついてきた。
 それでも。ほんの少しの夢を見てしまう。
 先輩とふたりで遊んだことは今までなかった。
 できるだけ小さく小さく深呼吸をする。気づかれないように。心を落ち着かせて。

「――あ、はい。いいですね! 酒はまあ、強くはないですけど、好きですよ」
「オッケー。それじゃまた連絡する。ってか今日するかも」
「今日!?」
「ダメ?」
「いいですけど」
「やった」

 短い会話の応酬の最後に、先輩は小さくガッツポーズをした。
 こんな先輩を見るのは初めてだ。なんだか不思議な違和感があるけれど、正直嬉しすぎる。
 そのタイミングで、和幸と神谷先輩がテーブルにきた。

「男ふたりでなにニヤニヤ話してんのよ」

 神谷先輩の言葉に、はっとして顔を隠す。俺、すげー笑ってたかもしれない。
 俺の反応が面白かったのか先輩たちはそれをしばらく笑って、そのあとは何気ない会話をして時間を潰したのだった。