フローラ姫はつんけんした様子で、ピアノに向かって歩き出した。
『落ち着け、落ち着け。あいつがあっと驚くような曲を弾いて、ぎゃふんと言わせてやるんだから』
 ピアノに向かって肩を怒らせ歩いているうちにタムが走ってきて、フローラ姫に助言した。
「そんなに気が立っていたら、いい演奏などできぬだろう」
「そんなことは分かってるわ。でも頭にきちゃうんですもの」
 フローラ姫はタムすらも追い払いそうな勢いで、ぶつぶつと文句を言った。
「そなたは王女なんだぞ。一時の感情だけで動いてはいけない」
「それも分かってるわ。分かっているから、さあ、どいて」
 気がつくと、王妃のピアノの前まで二人は来ていた。それでもフローラ姫はいらいらとした様子だった。
「そんな調子なら、そなたに魔法をかけておくぞ」
「私に魔法をかけるですって」
 眉をひそめながら、フローラ姫は、タムをじっと見た。タムは怒った表情のフローラ姫を見返すと、いきなり彼女の顔にふーっと息を吹きかけた。その息は氷の粒のように冷たい息だった。
「なっ、何するの?!」
 とたんに驚き、フローラ姫は思わず叫んでいた。
「何、大したことはしてないさ。気持ちが落ち着く魔法をちょっとかけただけさ」
 そう言うと、タムはしっぽを振りながら、カトリーヌのもとへと戻って行った。
 突然のことにフローラ姫は唖然としたが、言われてみると、今まで怒っていたのが嘘のようにすーっと楽になっていくのが分かった。それどころか、今の局面を楽しもうという気持ちまで湧き起こってきた。
『そうよ、私はいつも通りピアノを楽しんで弾けばいいだけなんだわ。何を躍起になっているのかしら。むしろここには、あいつはいなくて、私ら三人だけの舞台なんだと思えばいいんだわ』
 それから彼女はようやく、ピアノの椅子を手で引き、ゆっくりと落ち着いて座った。そうして大きな深呼吸を一つすると、鍵盤に手を構えた。その姿を見たトラヤヌス王子は意外そうな表情を浮かべた。
「ほう、そなたピアノが弾けるのか」
「さようでございます。それでは弾かせて頂きます」
 フローラ姫は少し和やかな微笑みを浮かべながら、静かにピアノを弾き出した。最初はゆったりとした曲調で、聴く者の心に、何かの兆しを感じさせるような出だしだった。彼女はゆっくりと指を確実に運び、それでいて、ふんわりとした音色を響かせた。