震える声で、フローラ姫がそう言うのを聞いて、カトリーヌは一瞬びくっとしたが、ここは冷静でなければいけないと悟った。慌てたら、王妃様のピアノが怯えてこちらの呼びかけに応じてくれないに違いない。ここは慎重にいかなければならない。カトリーヌは、どきどきしながらも、広間の中央へと歩いて行った。
 これからいったい何が行われるのか、トラヤヌス王子は、それを見極めようと鋭い目つきでカトリーヌの姿を追った。彼女はその視線から逃れるように、大丈夫と、心の中で呟きながら、ピアノを出してもよさそうな場所まで歩を進めていった。カトリーヌの木靴の音のみが、響き渡り、見守っているフローラ姫とタムまでも一様に緊張していた。三人の緊張が最高に高まった時、ようやくカトリーヌは、ピアノを出すべき場所までたどり着いた。そして後ろを振り返ってフローラ姫にこう告げた。
「こちらにお出しします」
 フローラ姫はカトリーヌと目が合うと、真剣な面持ちで、ゆっくりと頷いた。それは必ず魔法が成功すると信じ切っている顔だった。その信頼に応えられるよう、がんばらなければと、目をつぶり、大きな深呼吸を一つした。ピアノはさっきの剣よりも、物が大きいので、集中力が途絶えたら、ピアノ全部をこちらに持ってくることなど、とてもできない。でも今はこの魔法の銀の杖もある。この銀の杖の魔力を使えば、きっとうまくいくに違いない。誰の持ち物の杖か分からなかったが、杖を持っているうちに、カトリーヌは、この杖には並々ならぬ魔力が宿っていることを感じとっていた。彼女は息を整えると、意識を集中して再び目を閉じた。頭の中に、魔女の塔で見た王妃様のグランドピアノを思い浮かべた。黒塗りのグランドピアノは、今や魔法の封印を解かれ、自由の身であったがが、しかし未だにあの音楽の間でぽつんと一人取り残されているその様をまざまざと想像した。誰か弾いてくれる人がいなければ、ピアノはただの大きな箱にすぎない。ピアノの魔法を呼び寄せるには、その誰かがいなければいけないことを。カトリーヌは、魔女の塔にいるピアノに、心の中で呼びかけた。
『ここには、あなたの欲する弾き手がいます。さあ、どうかこちらに来て、あなたの音色を聴かせてください』
 それから彼女は思った。
『マリア王妃様。いえ……、お母様。お母様のピアノを貸してください。そして最高の音色を奏でさせてください』