「ひ、ひぃぃっ! ゆ、許しておくれ! お、おら、おらはもう破落戸は辞めるって決めたんだ! か、堪忍しておくれ!」
再び与太郎ちゃんががばりと土下座。
あたしだけじゃなく良庵せんせからも凄まれちまいました。これじゃ地獄耳のごっちゃんが嘘ついたみたいになっちまう。
「あ、すまん与太郎。僕はなにも与太郎に怒ってる訳じゃないんだ」
「お、おら怒られねぇ?」
「ああ、怒らん。だから話しておくれ。お前にそんな事をさせた奴と、そんな依頼を出した奴の事を」
良庵せんせを巻き込んじまいましたが、とんとん拍子に話が進みそうですよ。
「そ、その……おらにさせたのは蝮の三太夫って破落戸の元締めで……」
「依頼人は?」
「そ、その……おらは会ってねえだけど、女の人だったって……」
……女、ねぇ――。
女ってったらきっとあの人しかいないですよね。ほんと嫌んなりますねぇ。
「女……。お葉さん、なにか心当たりありますか?」
「そうですねぇ。もしかしたら良庵せんせの昔の良い人があたしに嫉妬して、だったりして」
「そ――っ、そんな事ありませんよ、何を仰るんですかお葉さんたらホントにもう」
慌てちゃう良庵せんせが可愛くってつい冗談言ってしまった訳ですけど、言った手前が予想外に衝撃受けてて自分で驚いちまいました。
そうですよね。良庵せんせもこれで三十路過ぎですからね、昔に付き合った女の一人や二人、男前だし十人二十人いたっておかしくありません。
ありませんけど、考えるとムカっ腹が立つのはどうしてでしょうね。
「その蝮の三太夫さん? それに聞いたとて依頼人の名は明かさないでしょうし、依頼自体もただの体当たりですから可愛いモノ、依頼人の事は良いんじゃありません?」
依頼人があの人だとするとバレるのもきついモノがある被害者、辛いですねぇ。
ふむん、と腕を組んで思案顔の良庵せんせ。
眉間に皺、袖から覗く腕の筋、悩む素振りも色気があってどきどきしちまいますねぇ。
「お葉さんがそう仰るなら依頼人の事は良いでしょう。その代わりしばらくの間、一人で出歩くのは控えて下さい。良いですね?」
「ええ。畏まりました」
良庵せんせならそう言いますよね。
けどいざともなったらごっちゃん達と入れ替わって出歩いちゃうんですけどね、あたし。
「よし。行こうか与太郎」
「え? い、行くってどこへだ?」
「決まってるじゃないか。蝮の三太夫のところだよ。とにかくお前を堅気に戻そう」
あれよあれよで決まっちまいました。
「さ、与太郎、案内を頼む。お葉さんは留守番ですからね」
こくりと頷きはしたものの心配です。
与太郎ちゃんを伴って門の所で立つ良庵せんせにちょっと待って貰うようお伝えし、いそいそと部屋に入ってお尻をひと撫で。
「しーちゃん、お願いね」
現れた真っ直ぐ綺麗な毛の毛玉に声を掛けると、しーちゃんは心得たもので一度狐の姿を取ったかと思うとキューっと一声小さく鳴いて、ググっと縮んで獣の後ろ足先に化けてくれました。
きちんと革紐つきです。さすがはしっかり者のしーちゃん。
ちなみにごっちゃんは可愛らしい感じの狐ですけど、しーちゃんは綺麗な感じの狐の姿。みんな違ってみんな良いってやつですね。
「良庵せんせ、これを」
「なんですかこれ? ――はっ!? まさかなっちゃんの――」
「嫌ですよ良庵せんせったら。さすがにそんな怖いことしませんよ。昔もらった舶来品の御守りです。これをこうして結んでおけば……さぁ、これで安心です」
良庵せんせの帯の右側に括り付けました。思ったよりも可愛らしくて素敵なんじゃありません?
「お、お葉さん、それでコレ、なんの後ろ足なんです?」
「兎の足ですって。よくは知りませんが幸運の御守りらしいんですよ」
あたしがこの間まで主にうろうろしてた辺りじゃ流行ってませんでしたが、そこから北西に海を渡った国の風習なんですって。
まぁあたしは別に信じてません。ただしーちゃんを良庵せんせに持たせたかっただけですからね。
これで良庵せんせがどこに居たって居場所が分かりますし、いざともなれば即座に駆けつけることもできます。
……あら。これって良庵せんせが万が一浮気なんかしやがったとしてもすぐ判っちまいますねぇ。
良庵せんせに限ってそんな事はないでしょうけど、せっかくだからずっと付けてて貰いましょっか。うふふ。
「良庵せんせ、これからずっと付けててくれます?」
「え、良いんですか? 大事なものなんじゃ?」
「良庵せんせが一等大事ですから」
「お葉さん!」
お互いぎゅっと手を取り合って見つめ合うあたしら二人を、お芝居でも観るかのようにわくわく顔で与太郎ちゃんが見下ろして、いつの間にかやってきていたなっちゃんが見上げていました。
「ではお留守番よろしくお願いします」
「はい。お気をつけて」
なっちゃんを抱っこして良庵せんせと与太郎ちゃんをお見送りしました。
並んで歩いて行く二人、与太郎ちゃんが声を掛けていますね。
『ね、ねえ良庵先生。あ、あの可愛い小狐飼ってるだ?』
『ああ、うちの家族のなっちゃんだよ』
『い、良いなぁ。お、おらもなっちゃんと遊びにまた行っても構わねえ?』
『もちろん良いよ。なっちゃんが遊んでくれるかは分からないけどね』
さすがしーちゃん、良い仕事するねぇ。
感度良好、引き続きよろしくね。
〜〜〜
良庵せんせがGPSつけられましたΣ(゚д゚lll)
〜〜〜
心配ですけど良庵せんせの剣の腕ならまぁ平気――
『そういや刀とか持って行かねえだ?』
『与太郎を破落戸から足を洗わせる話し合いに行くんだぞ。そんなのぶら下げてちゃ話もできやしないよ。そんな時代でもないしね』
…………無手でもせんせは滅法お強いですから平気でしょう。
いざとなったらしーちゃんも付いていますしね。
さて。
あたしもやる事やっちまいましょ。
ぷつんぷつんと自分の髪を抜くと、胸に抱いたなっちゃんが自分の毛も使えときゅーきゅー鳴いてくれました。
「じゃちょいと貰うよ。ありがと」
合わせて十本ほど、これくらいあれば充分ですか。
両手の指にそれぞれ幾つかずつ挟み、一気に巫戟の力を籠めます。
全ての毛がうぞうぞ蠢いてさまざまな形を象りますが、ちょいとなっちゃんの毛は短すぎましたねぇ。
あたしの髪はいつも通りネズミになりましたけど、なっちゃんの毛は虫に――てんとう虫にしか出来ませんでした。
ま、てんとう虫なら空を飛んでもおかしくありませんし丁度良いですね。
「じゃ、みんな。あの女を探してここに来るよう伝えておくれ。分かったらお行き」
ネズミとてんとう虫をそれぞれ見送って、あたしはなっちゃんに構われながらお洗濯。
そうやっていると、ふわりふわりと風に吹かれてごっちゃんが帰って来ました。
「お疲れごっちゃん。ありがとうね」
ぽよんと掌で受け止めて、お尻に撫でつけるようにやって仕舞い、そして再びお洗濯。
良庵せんせ達の動向も気に掛けつつ手を動かして、そして今までの事を考えます。
意図は分かりませんが、町の破落戸に依頼を出したのは十中八九あの人でしょう。
なんだったらもう、彼女であって欲しいくらいですよ。新たないざこざの種はいりませんから。
良庵せんせと与太郎ちゃんが蝮の三太夫の店に着くまでもう少し、という頃あたしが洗い終えた洗濯ものをぱんぱんやりながら干していると――
「お葉ちゃんちょっと、なんなのよこの子たち」
――ぐにょん、とあたしの結界を通って庭に現れたのは当然あの人、あたしの姉の菜々緒です。
「お呼びだてしてすみませんでしたねぇ」
最後の一枚、良庵せんせの道着を干してぱんぱん叩き、洗濯かごに入ったままのなっちゃんをかごごと縁側へやってから姉の方へと向き直りました。
「菜々緒も顔出そうとは思ってたからそれは良いんだけどさ、とにかくこの子たちどっかやってよ。鬱陶しくてしょうがないの」
でしょうねぇ。胸の辺りに数匹のてんとう虫が蠢いて、両肩で二匹のネズミがちうちう鳴いていますから。
ぱちんと指を鳴らすと姉に集るてんとう虫もネズミも、同時に町を走り回るネズミたちもが一斉に元の毛に戻りました。
「今度は潰さなかったんですね。姉さんにしてはお優しいことで」
「今度は、って何のことか判らないんだけど一体なんの用? 今夜は賢哲さんの家でご飯よばれるんだから」
賢哲さんのところで晩ご飯ですって。着々とお嫁入りが進んでいるんですねぇ。
破落戸の事を聞くつもりでしたけど、せっかくだからそちらも訊ねておきましょうか。
「ところで姉さん。姉さんが人に嫁入りなんて一体どういうおつもりです?」
「なんだそんなこと? そんなの決まってるじゃない……――」
頬を染めていやんいやんと体を捩じって見せる姉。
人なんてゴミクズ――そう言って憚らなかったあの姉さんが人に嫁入りですよ? 腑に落ちなさすぎなんですが。
「だって菜々緒……――、賢哲さんに出逢ってしまったんだもの! しょうがないじゃない!」
出逢ってしまったからしょうがない……、つい最近どこかで……ってあたしですか。
「という事はなんです? 姉さんも人に――賢哲さんに、その、恋しちまったってのかぃ?」
「姉さんも? ちょっとお葉ちゃん、貴女もしかして賢哲さんに――」
「ち、違いますよ! 人聞きの悪いこと言わないで下さい!」
「人聞きの悪い? 賢哲さんに恋するのが悪いことみた――」
ちっとも話が進まないじゃないですか。姉さんは昔っからこうですよ。早合点で早飲み込みの早忘れ、なんなら与太郎ちゃんよりおつむが足りてないんじゃないかしら。
「姉さんが賢哲さんを好き、それは分かりましたけど一体どんな風の吹き回しです? もともと人なんてゴミクズって言ってらしたじゃないですか」
「人なんてゴミクズよ。けど賢哲さんだけは違うの! あの人だけはゴミクズの中のただ一つの宝石なの!」
……恍惚とした表情でアツく語る姉のお話しを要約すると。
あたしと良庵せんせが楽しく暮らすのをひと月ほど前に目にしたそうで、羨ましくなっていっちょ人間の男を味見してみよう、そう考えた姉は裏から色々と手を回し、賢哲さんとこの檀家の遠縁の娘という背景を拵えてお見合いしたんだそう。
賢哲さんを選んだのは、我が家に顔を出す男の中で一番見た目が良かったから。
ここからは口に出すのも憚られますが、すぐさまその日にもつれ込み、一夜にして賢哲さんの虜になったそう。
「賢哲さんの優しい手付き…………思い出しただけで菜々緒――あんっ……」
昔っからこうですよこの人は。
頭で考えないで体のどこか、主にヘソより下で考える性質なんですよねぇ。
こんな人を見て育ったせいで、どうにもあたしはその手のことに奥手になっちまったんですよ。
ですけど姉は、あたしが悪いと言い出したんです。
「大体ね、お葉ちゃんが悪いのよ?」
「あたしが? 一体なんのことです?」
「だってようやく見つけたお葉ちゃんがさ、あんなに楽しそうに嬉しそうに人間の男と暮らしてるんだもの」
「ようやく見つけた? どういう事です?」
あたしはそりゃ、良庵せんせと仲睦まじく暮らして楽しく嬉しく幸せですけど、どうしてあたしを……?
「菜々緒はずぅっと何十年もお葉ちゃんのこと探してたんだから! なのにようやく見つけたと思ったら人妻になってるわ楽しそうに暮らしてるわで菜々緒とっても可哀そうじゃないのよ!」
あたしを? ずっと探してた? もしかして…………
「姉さん、もしかしてですけど……まだあの人、あたしを……?」
「そうよ! だから菜々緒はずっとお葉ちゃんを探させられてたんだからね! いなくなっちゃったお葉ちゃんのせいで!」
なんてことでしょう。
あの人がまだ、あたしの事を……
……めんどくさいったらありゃしませんねぇ。
『ではどうあっても与太郎を堅気に戻すつもりはないと?』
『誰もそんなこた言ってねえ』
『ならば――』
『辞めるのは勝手だ。だがな、そんな二朱銀っぱかし持ってきたくれえで辞められると思ってるのは甘すぎるんじゃねえかってえ話よ』
姉とのやり取りに集中してたせいで少し耳がお留守しちまいました。
いつの間にかお話し始まっていたようですねぇ。
聴覚だけでなくしーちゃんの視覚を共有させます。
場所はどうやら蝮の三太夫たちが根城にしているらしい商家に入ったすぐの土間。
一段上がった帳場の板敷きにどっかと座る男が三太夫の様ですね。
「ねえお葉ちゃん、あいつの事だけど――」
「しっ。ちょいとの間だまってお待ち下さいな」
あの人の話ももちろん気になりますが、少し良庵せんせを見守らせて下さい。
『こんな年端もいかぬ子供を破落戸などにしておいて、そのうえ金を求めるとは』
良庵せんせはお人好しの、ああ見えて熱血感ですからね、曲がったことが許せない性質なん――
『それは百歩譲って許しても良い。けれど僕のお葉さんにぶち当たって捻挫をさせた事は絶対に許せない』
――あら? あららら? そっちは許しても良いんですか。
良庵せんせったらやっぱり怒っていらしたんですねぇ。
『ならどうするよ? 貴様一人で俺らを叩き潰すとでも言うんかよ。えぇおい!?』
『それで納得するならそれでも構わないぞ』
しーちゃん視点でもよく分かるのは、小柄な体に細く吊り上がった目をした蝮の三太夫とかいう人が、なかなかイラッとさせる男の様だと言う事ですね。
けれどよく分からないのは、破落戸どもがどの程度の数いるのかです。
くいっ、と三太夫が視線を上げると共に、良庵せんせの背後や側面で誰かが動く気配がします。
『与太郎、少し下がっていろ』
自分よりも二回りは大きい与太郎ちゃんの襟を突然掴んだ良庵せんせ、『え? あ?』なんて言う与太郎ちゃんをブンっと部屋の隅へと放り投げ、そしてその、ご自分の頭上あたりでガギンと鈍い音。
『ちょいとしーちゃん。視線だけ上へ向けておくれよ』
良庵せんせの腰にぶら下がる兎の足が、ぶらりと自然に揺れて見上げてくれます。出来る子だねぇほんと。
『オメエ気付いてやがったのか!?』
『そんな殺気だらけじゃそりゃ気付くよ』
良庵せんせに振り下ろされた木刀を、せんせが掲げ挙げたあのお手製の筆入れで受け止めていました。
……か――、
かっこ良すぎませんかうちの亭主。あたしうっとりしちまいますよ。
「ちょっとお葉ちゃん、何をぽんやりしてるのよ。なんか覗いてるんなら菜々緒にも見せてよ。ねぇってば」
うるさい人ですねぇ。今せっかく良庵せんせの良いとこなんですから黙ってて下さいよ。
相手するのが面倒なんで、洗濯カゴに入ったままのなっちゃんを呼んで姉さんに抱っこされて貰いました。
「こんなの見れるんだ! お葉ちゃんの尾っぽ便利だね!」
あたしの分身であるなっちゃんを通して姉さんもしーちゃんの視界を覗き見ることができるんです。もちろんあたしが許した場合だけですけどね。
脳筋だからって訳じゃありませんけど、姉さんは巫戟の力も使えませんし、尾っぽの分離もできません。できない代わりに姉さんには姉さんらしい尾っぽの使い方があるんですけどね。
しーちゃん越しの良庵せんせは筆入れで受け止めた木刀を手首を返して絡め取り、そしてその手首を掴んでふわりと投げ飛ばしました。
『ぐはぁ!』
『何が、ぐはぁ、ですか! 捻挫したお葉さんに比べれば痛くも痒くもない!』
……いやぁ、そんな事なさそうですよ。
土間に叩きつけられた破落戸の悶絶っぷりたるや相当ですもの。
『良庵先生! その木刀使うだ!』
与太郎ちゃんが言う様に、良庵せんせの足下に先ほどの破落戸が使っていた木刀が転がっています。
けれど良庵せんせはその木刀を蹴り飛ばして隅へやり、右手に持った筆入れだけを構え直して言いました。
『要らない要らない。僕お手製のこれだけで充分さ』
『者ども! 生意気言うバカやっちまえ!』
まっ! 人の亭主を馬鹿呼ばわりなんて許せません! 良庵せんせ、懲らしめてやりなさい!
死ねや、喰らえや、そんな破落戸どもの怒号が飛び交いますが、特に気を吐くでもない良庵せんせが筆入れ一つを武器に破落戸どもを黙らせていきます。
せんせの腰にぶら下がるしーちゃん視点ですから細部はよく判りませんが、振り下ろされる木刀を入り身で捌いては握った筆入れを脇腹辺りへ突き入れ悶絶させているようですね。
ちなみに墨壺側を握っていますから、あの時のあたしみたいに蓋が開いて染みったれになることはなさそうですよ。
あれよあれよで土間に十数人の破落戸を重ねた小山が仕上がりました。
筆入れを帯に手挟んだ良庵せんせがぱんぱんぱんと手を叩き、そして三太夫へと視線を遣りました。
「……ちょ、ちょっと……、お葉ちゃん……」
「なんです? いま良庵せんせの良いとこなんですけど!?」
「菜々緒……きも゛ちわる゛いの……」
「きゅ?」
胸に抱えたなっちゃんに見上げられながら、青い顔した姉さんがそんな事を言いました。
……ゆらゆら揺れるしーちゃん視点を覗いてますからね。慣れないせいで酔っちゃいましたか。
ほんと面倒な女ですねぇ。
『さぁ三太夫、あとはお前だけだ』
なっちゃんを抱えた姉はどうやら縁側で横になって目を閉じて、耳だけで様子を伺うことにした様です。せっかくの良庵せんせのカッコいい所を目に焼き付けないなんて勿体ないってのにねぇ。
けど確かに辛いんですよね乗り物酔いって。あたしは馬はともかく駕籠があんまり得意じゃなくって――
『ふふふ……はははは……、あっはっはっは!』
蝮の三太夫が唐突に笑い出しました。良庵せんせに追い詰められて開き直ったんですかね。
『強いねぇ兄さん……。月に五両出すからウチに来ねえか?』
月に五両ですって? それって年に六十両ってことですよ? という事は今の何倍に……、鯵の開きを一枚買うか二枚買うかだとかの話じゃありませんねそりゃ。
『断る』
いやまぁもちろん分かってましたよ。良庵せんせがそれを是としないのを。
『じゃあ月に五両はそのままでよ、たまぁにウチの頼みを聞いて貰う、それならどうでぇ?』
『断る。たとえ百両でも二百両でも同じだ。諦めろ』
良庵せんせゴメンなさい。月に百両だったら考えても良いかもしれません、なんて思っちまいました。
「お葉ちゃん、菜々緒だったら月に十両でも手を打ってたかも」
額の問題じゃないですよね。姉妹そろってゴメンなさいね。
けれど、良庵せんせの強さを目の当たりにしたにしては三太夫が落ち着いているのが気になりますねぇ。
『どうする蝮の三太夫? 大人しく与太郎を解放するか、それともあの連中に混ざるか、お前が決めろ』
良庵せんせは破落戸どもで拵えた小山を指差しそう言います。そして雪駄を行儀良く揃えて脱いで板敷に上がって綺麗に正座。
そうしてからゆったりと胸の前で腕を組んで続けました。
『少しだけ待つ。考えて答えろ』
役者顔負けのカッコ良さじゃありません? あれウチの亭主なんですよ? 普段の可愛らしい良庵せんせとの隔たりが物凄くってあたしもう鼻血が出そうなんですけど。
俗に言う隔たり萌えってやつですねぇ。
『考えるまでもねぇ』
『と言うと?』
『おつむの足らぬ与太郎なぞはどうでも良いが、アンタの腕は惜しい』
『……? だったらどうだと言うのだ』
良庵せんせの言葉に蝮の三太夫がにやりとイヤラシく笑って見せました。
そして懐に手を入れて、細く折り畳まれた袱紗を取り出す三太夫。
『ふん。殴り倒して言うこと聞かせてやるよ』
『……む? それは――』
床に置いた袱紗をぱたりぱたりと三太夫が開いていくと、中からつやつやと黒く光る数本の細い針状のもの。
それを見た良庵せんせにピリッと緊張が走ったのが分かりました。良い勘してますうちの亭主。
しーちゃん越しのあたしにも分かりました。
間違いなく、あの針はこちら側のものですよ。
『――三太夫! 待て――!』
『そう言われて待つ馬鹿はいねえよ』
一本の針を逆手に持った三太夫、勢いよく自らの胸へと突き入れました。
あたしも驚きましたけど、何より驚いたのはそれを目前で目にした良庵せんせ。
『何をやっている! 死にたいのか!』
良庵せんせは膝立ちから倒れ込むように踏み込んで、三太夫の手首目掛けて筆入れを振り下ろしました。
――が。
いかんせん良庵せんせの手にあるのは剣でなく筆入れ。どうしたって長さが足りません。
三太夫が自ら突き入れた針は、その過半をずぶりとその左胸へと飲み込まれてしまいました。
『この馬鹿が! いかに細くともそんな所に刺しては死ぬぞ!』
良庵せんせはそう怒鳴ると筆入れから素早く筆を取り出して、帳場にあった紙を裏返し何事かを認め始めます。……
『あいにく治癒の呪符は手持ちがない! 間に合わなくとも自業自得、恨むなよ!』
こないだ熊五郎棟梁に渡した呪符ですね。慣れたものでサラサラと淀みなく書き進める良庵せんせでしたけど……恐らく治癒の必要はありません。
そんな事よりも……――とにかくその場を離れて下さい!
「姉さんあたしちょっと留守しますから! お話しは今度聞かせて下さい! しーちゃん、こっち頼――!」
「ちょっと待ちなさいお葉ちゃん。あっちの尾っぽと入れ替わるつもりなの? バレちゃうわよ?」
「そんなこと言ってる場合じゃありません! それにハナから何かに化けちまえばバレやしません!」
「あっちの尾っぽ、お葉ちゃんがせんせーに渡したんでしょ? バレなくても怪しまれるわよ〜」
脳筋の姉のくせに正論ですが、ニヤニヤしながら何を言ってるんですか。
確かに御守りから人が出てくりゃおかしいですけど、アレはきっとあたしの巫戟の力によく似た代物。
筆入れ一つの良庵せんせが相手できるものではないんですよ!
『りょ、りょりょ良庵せんせー! ま、蝮の、蝮の三太夫の体が――!』
『血でも吐いたか――なっ!? なんだこれは!?』
呪符から顔を上げた良庵せんせが慄きそう叫びます。
それもそのはず、みしみしみしと音を立てる三太夫の体が肥大して、小柄だったその体が与太郎ちゃんより大きくなっているのですから。
ほら見なさい! 四の五の言ってる場合じゃないんですよ!
「安心なさいお葉ちゃん。菜々緒が行ってあげるから――」
姉さんが? 行ってあげる?
「――三郎太! 出番だよ!」
おえっ、と一度えずいた姉がアタシに向けて微笑んで、自分の三本目の尾っぽに声を掛けた途端にカッと光が爆ぜました。
爆ぜた光が落ち着いたそこには、与太郎ちゃん並の大きな体のでっぷりした男の姿。
「三郎太……久しぶりだねぇ」
「オレらは翔んでくが、お葉、オマエは普通に走ってきな」
「ちょ、ちょいとお待ちよ三郎太――!」
慌ててその――あご髭とモミアゲがくっついちまって境目のわからなくなった大男――三郎太へ声を掛けますが、三郎太の胸の辺りからニュっと顔だけ出した姉がそれを妨げました。
「お葉ちゃん、貸しとくから今度なにかで返してね。行くよ三郎太! まだちょっと気持ち悪いからあんまり揺らさずにね!」
「だからちょいと待っ――」
バンっと地を蹴り跳び上がった菜々緒が少しだけ宙に留まって、ぐるりと首を回して行き先を見遣り、そして蝮の三太夫の店の方へと翔び去りました。
……あたしはぽかんと口を開けて少しのあいだ眺めていましたけど、ぷるぷる首を振って正気を取り戻して駆け出しました。
「ほんっっとに姉さんは! 脳筋なんですから!」
「きゅーっ!」
「なっちゃんは留守番! 大人しく待ってて!」
駆け出しはしたものの着物の裾が上手く捌けなくって走りにくいったらありゃしない。
ああもうまだるっこしい!
お行儀良くなんて言ってられません。両手でそれぞれ裾を掴んで膝を出し、お上品とは程遠い姿で再び駆け始めました。
そして駆けながら良庵せんせの様子も確認しなくっちゃあいけません。
『与太郎! その木刀を放ってくれ!』
『わ、分かっただ!』
明らかに様子のおかしい蝮の三太夫へ、土間へ降りた良庵せんせが背に与太郎を庇って木刀を構えたところでした。
『りょ、良庵先生! な、なん、なんなんだコレ!』
『僕にも分からん! 分かるのは普通じゃないって事だけだ!』
苦しそうに頭を抱える三太夫を見詰める二人。
『で、でもどうするだ!?』
『……そうだな。とりあえずは……叩き伏せてみるか』
そう言った良庵せんせは跳躍し、頭上に掲げた木刀を一気に振り下ろして三太夫の頭頂部へ叩き込みました。
着地する良庵せんせが間髪入れずに跳び退り、与太郎ちゃんの所へと舞い戻ります。
『やっただか!?』
『……手応えはある。けど、効いてる素振りはないみたいだな』
頭を抱えていた両手を開き、板敷きから片足を下ろした三太夫があの細目を開いて二人へと視線を遣りました。
『……蛇、って訳でもないんだな』
『そ、それおらも思っただ……』
二人が言うように、蝮の三太夫の顔や首、着物の弾けたその体、至るところから黒々とした毛が生えて、体は肥大し前に飛び出すように伸びた顔、人と羆を足したような不可思議な姿となっていました。
やはりあの針――
『グ、グギャ……こ、こんナ……は、ズじゃ……』
依然と苦しそうな三太夫がのそりと一歩、さらにまた一歩と二人の方へ足を進めます。
『与太郎! 可能ならば外へ! 逃げろ!』
声とも叫びともどちらとも判らぬ唸りを上げた三太夫が、丸太のような腕を振り上げ二人へと迫ります!
――良庵せんせ! 危ない!
振り下ろしきる寸前の三太夫の腕を、良庵せんせは木刀で弾いてさらに前へと踏み込みます。
そしてすれ違いざまに胴へと木刀を叩き込み、そのまま三太夫の背後で振り向き構え直しました。
『そんな愚鈍な拳では当たらぬぞ! こっちだ三太夫!』
さすがの良庵せんせですけれど、せんせが打ち振るった木刀では全く堪えていない様子……
やはり幻術や何かではなく、アレは人を妖魔へと変える術の籠められた針。
『グギャァァ!』
『――ばか! こっちだ三太夫!』
『りょ、良庵先生!』
良庵せんせの挑発に応えず、三太夫はそのまま壁際に後退る与太郎ちゃんへとにじり寄り、再び腕を振り上げました。
『横へ跳べ与太郎!』
『ひっ――、ひぃぃ!』
三太夫の振り下ろした腕はそのままバガァンと壁を叩き破り、通りへ向けて大きな穴を拵えました。
遠巻きに不安げな顔で様子を見守る人々が見えますね。
でも大丈夫、とりあえず与太郎ちゃんもせんせの声に反応してちゃんと土間を転がって難を逃れています。
『ギャオァァ!』
叩き壊した壁の板切れを引っ掴んだ三太夫が振り向きざま、良庵せんせ目掛けてそれを投げつけました。
危なげなくそれを木刀でカッと弾く良庵せんせ。さすがです。
けれどこれは――姉さんを待ってる場合じゃありません。やはりあたしがしーちゃんと入れ替わるしか……
『わっ、わわわ! ま、またおら!?』
『こっちだと言っているだろう!』
店の外を目指して土間を這っていた与太郎ちゃんを追って再び三太夫が近付くのを、横から割って入ろうと良庵せんせが踏み込みました。
三太夫は与太郎ちゃんへ向けて腕を振り上げていましたが、ぐるりとあり得ないほど首を捻って良庵せんせへと顔を向けました。
『――ぬっ!?』
ぱかり、と口を開いた三太夫の喉奥から迫り上がった光が爆ぜるように飛び出し――
……りょ……良庵せんせ――!
――吐き出された光の直撃を受けた良庵せんせが……
…………良庵せんせが……
ぷつん――
と、しーちゃんとの視界の共有が切れちまいました。
地べたにぺたんとお尻をつけちまったあたし。
人の身で妖魔の放った波動をまともに受けちまっちゃひとたまりもありません。
もう、急いで走ってく必要もありません。
それでも良庵せんせに酷いことした三太夫だけは消し炭にしなくっちゃ、そう思いはするんですけど、どうにも足に力が入らなくって……。
なんにもやる気が出やしません……。
と、ぼんやり道端で座ってたら。
ドォンドォン、と二つ三つの破裂音。そして――
『じゃじゃーん! 菜々緒、登っ場っ!』
――空気を読まないバカ姉の声が聞こえてきました。
そうですね、大口叩いて間に合わなかった脳筋も八つ裂きにしなきゃ気が済みませんねぇ。
そう思ってなんとか立ち上がろうと踏ん張ると、お尻にビリッと痛みが走りました。
痛っ、と思ってお尻をさするとどうやら四本目の尾っぽ、しーちゃんが喰らっちまった攻撃のせいみたいですね。
良庵せんせはともかくしーちゃんは消滅しちまってもまた生えてくるんで全然心配していなかったんです。ごめんねしーちゃん。
『おう菜々緒。オレが出てる時には喋るな。オレの雰囲気に合わねえ』
『あんただって菜々緒なんだからね! 生意気言うんじゃないの!』
姉さんの三つ目の尾っぽ、三郎太の言う通りです。三郎太を前面に出した姉さんの姿はこれでもかと言うほど厳つい姿なんですから、じゃじゃーん! とか言うのは相当似合っていませんよ。
間に合わなかったクセに何をぴーちくぱーちくイチャついてんでしょうねぇ……
って、あれ? そう言えばしーちゃん越しの声、聞こえてますね。
「……しーちゃん、無事なのかい?」
『きゅ……、きゅ〜――』
段々としーちゃんの視界が見えてきました。
どうやら三太夫の攻撃で目を回しちまったみたいで視界の共有が切れてただけらしいですね。
あたしはてっきり良庵せんせもろとも消し飛んだものだと思っちまったよ――
……でもしーちゃんには悪いけど、良庵せんせが消し飛んじまっちゃなんにも嬉しく感じないけどね。
ぺたんとお尻を地面につけたまま、はぁぁぁあ、と深いため息ひとつ。
不思議と涙も出ませんけど、なんにもやる気が起きませんねぇ。
またしばらく海の外でも巡ってこようかしらね。
『きゅきゅー! きゅ、きゅー!』
分かったってば。しーちゃんが生きてたのは嬉しいけどさ、どうせあんたはまた生えてくるんだから。
『きゅーー!!』
うるさいよしーちゃん。もう三太夫のバカも与太郎ちゃんもどうでも良いじゃないのさ。
もう全部打っちゃって帰ってきなよ。
『きゅっ! きゅーー!!』
はいはい、分かったってば。しーちゃんは良くやってくれたよ。ありがとね――
え? 良くやってくれたのかい? なにを?
『………………う……、うぅ……』
その声――――良庵せんせ!! 無事だったのかい!?
がばっ! と立ち上がり、道ゆく人らが気遣わし気に見守ってくれてるのも無視して叫び、再び駆け始めます!
「しーちゃん! 一体何がどうなってるのさ!」
しーちゃんはあたしの言葉に答えるように、ぐるりと首を回して状況をあたしに見せてから説明してくれました。
天井に空いた大穴がまず見えて。
与太郎ちゃんはと言うと、土間と板敷きの間の段差のところで気を失っていて。
三太夫はと言うと、脳筋姉とがっぷり手四つで力比べの真っ最中。
自分で鏡に写り込んだしーちゃんはと言うと、足だけでなくって全身ウサギの姿で鼻をヒクヒクさせてます。
そして壁際でうーんと唸って気を失っているのは良庵せんせ。板敷きの方の壁に叩きつけられたみたいですが、特段どこにも怪我はなさそうです。
――良庵せんせぇ……良かったよぉ……
さっきはちっとも出なかった涙が、駆けるあたしの頬から真横に流れて飛んでくけど、ざぶざぶ溢れて止まる気配がありません。
聞けばしーちゃんはね、あたしが思ってた以上にしっかり者だったんですよ。
三太夫が腹の底から吐き出した光の波動、あたしや姉さんならともかく、ただの尾っぽの一つであるしーちゃんじゃどうしようもないはずだったんです。
けれど、兎の足に化けていたしーちゃんは、今度はマルっと兎に化けた姿で三太夫とおんなじ様に口から波動を吐き出して、三太夫の放った波動を上へと逸らしてみせたそう。
衝撃だけは抑えられなくって良庵せんせもろとも壁に叩きつけられ目を回しちまったみたいなんだけど。
しーちゃーん!! できる子! 偉い! 可愛い! さすがあたしの尾っぽ!
どっかにいっちまってたやる気が漲るねぇ! よーっし! あたしも急いで駆けつけるよ!
この世の終わりみたいに重たかった体が、今は羽根が生えたように軽やかだよ! あたしも現金なものだねぇ!
しーちゃんは元の通りに兎の足に化け直し、倒れたままの良庵せんせの腰へと戻ってあたしに状況を届けてくれています。
『ギャァァ!』
『うるせえ! 臭え息をオレに吐きかけるんじゃねえ!』
がっぷり手四つの三太夫と菜々緒でしたけど、力比べで三郎太が負ける事はまず有り得ません。
『もう死ねや!』
三郎太がその髭面の顔を憤怒の形相に染めるや否や、バキバキっと三太夫の両腕を畳むように叩き折りました。
ギャァとかなんとか叫ぶ三太夫でしたが、組んだ両掌を全力で振り下ろした三郎太の一撃が脳天に炸裂、土間に叩きつけられ静かになりました。
『おい、しーちゃんよ』
『きゅ?』
ふぅ、と一息ついた三郎太がしーちゃんへ呼び掛けました。厳つい三郎太も「ちゃん」づけで呼んでくれるのがちょっと可愛いですけど、なんでしょうね?
『お葉に言え。急いで来るな、ゆっくり来いってよ。それでお前はじっとしてろ』
『きゅ? きゅー』
『次は菜々緒。四郎太も出せ』
『えー? なんで? もうコイツ死んだよ?』
『良いから黙って出せ』
四郎太と言や姉の尾っぽで唯一変化の術を使える尾っぽ。一体なんでしょうね?
ぶっちゃけ脳筋の姉さんよりも、ただの尾っぽの三郎太の方が賢いですからここは任せて見守りますけど。
どうやら姉が四本目の尾っぽ四郎太も出したらしく、三郎太がその厳つい姿を、目の前に倒れる三太夫とよく似た妖魔の姿へと化けさせました。
そして――
『ふん……バカだバカだと思ってたけど、まさか自分達に使うとは救いようのないバカ共だったわけね』
三太夫が根城にしていたぼろぼろになった商家の入り口、そこから顔を覗かせた一人の女の姿がしーちゃんの視界に入り込んだんです。
「良庵せんせ、まだ起きあがっちゃいけませんよ」
「もうなんともありませんから」
あたしが庭でお洗濯を干していると、書斎の文机に向かって座る良庵せんせが縁側越しに目に入りました。
あちこち包帯を巻いた良庵せんせですけど、確かにどこも痛そうにはしていません。手ずから描いた呪符が良く効いたみたいですね。
なんてったってあたしが貼っつけましたからねぇ。
あれから二日。
あのあと三太夫の店に顔を見せた女、どうやらあれが件の依頼人らしいってのが三郎太の見解です。
っていうのもね、三郎太には思い当たる事があるらしいんですよ。ちなみに姉はピンと来てなかったらしいですけど。
あたしはてっきり脳筋姉さんの仕業だとばっかり……。
けどよく考えたら、もしそうなら三郎太が姉さんを止めてくれそうなもんですよね。
『ふん……バカだバカだと思ってたけど、まさか自分らに使うとは救いようのないバカ共だったわけね』
謎の女がそう言った直後、妖魔に化けた――っても実際に妖魔なんですけど――三郎太は彼女から逃げるように商家を飛び出してっちまいました。
興味なさげに三郎太の背を横目に見ながら、それを具にしーちゃんが見てるとも知らずに女は――
『またどっかのバカを唆さなきゃいけないか。面倒……だね』
――そう言ってその場を後にしました。
その後しっちゃかめっちゃかになった三太夫の根城へ大挙して現れた邏卒(警察官)が現場を調べている最中、あたしも素知らぬ顔で飛び込んだんです。
あたしが飛びついた事でようやく目を覚ました良庵せんせ。無事な姿に思わず感極まって子供みたいに泣きじゃくっちまったよ。
良庵せんせがのした破落戸どもは元から目を付けられてたらしくって軒並みしょっぴかれはしましたが、良庵せんせと与太郎ちゃんは無罪放免。
与太郎ちゃんの件がありましたし、騒動を目にした人も多くいましたからね、二人は巻き込まれた被害者として特に問題になることもなかったんです。
現場から逃げるように出て行った毛むくじゃらの大男だけは指名手配されちまいましたけど、四郎太が化けた羆みたいな姿だったし平気でしょう、たぶん。
「お葉さん。少し良いですか?」
せんせが真面目な顔で言うもんだから、ドキッとしちまいました。
良庵せんせの認識じゃ初めての妖魔との邂逅でしたけど、あたし何か怪しまれることしてないかしら?
「もう終わりますからちょいとだけ待ってくださいね」
手早く済ませて書斎へ上がり、正座の良庵せんせの前にあたしも正座で座ります。
「お葉さん」
「はい良庵せんせ」
「今回のこと、みっともない所を見せてしまって申し訳ない」
そう言った良庵せんせは深々と頭を下げちまいました。
倒れた良庵せんせに飛びついたあたしがわんわん泣きじゃくっちまったもんだからねぇ。
いつだって優しい良庵せんせ、ごめんなさい。
今回のことは甘く見たあたしの失態――、いえ、失態どころかあたしのせいなのかも知れません。
あたしの方こそ謝らなけりゃなのにそれを正直に言えないあたし……。
でも、今の良庵せんせとの暮らしを手放したくないんです。ごめんなさい。
「何言ってるんです! 与太郎ちゃんも言ってたじゃないですか! 良庵せんせはとってもカッコ良かったって!」
嘘つき妖狐のお葉さんは嘘ばっかりですけど、せめても明るく振る舞います。だから、お願いですからあたしの正体には気付かないで下さいね。
「いやぁ、僕も途中までは上手くいってると思ったんですけどね。たはは……。結局は連中の仲間割れのお陰で命拾い、修行不足を痛感しましたよ」
良庵せんせはあたしが思ってた以上に強くてカッコ良かったです。いかんせんちょっと相手が悪かっただけで。
それにしたって三郎太の機転にゃ助けられましたねぇ。
敢えて三太夫によく似た妖魔に化ける事で、見物人や邏卒にも、さらにはあの女にまで仲間割れだと思わせたんですから。
相変わらず三郎太は頼りになる尾っぽだねぇ。
「それでお葉さん、聞きたいことがあるんです」
「なんです? あたしに分かることなら良いんですけど」
なんでしょう? 妖魔のことならあたしにゃ分からない設定ですからね。あんまり突っ込んだ質問は勘弁して下さいよ。
「三太夫に化けていた妖魔――」
そうそう、良庵せんせや邏卒の認識ではそうなんです。三太夫が妖魔になったのではなくて、三太夫に化けていたヒグマの妖魔が変化を解いた、そうなっているんですよね。
「――が放った光。あれをこの兎の足が弾いてくれたのです。兎の姿となって」
……あ、そうか。
あの時なんでしーちゃんがわざわざ兎の姿に化けたのか不思議だったんですけど、そう言われりゃ良庵せんせが気を失う前だったねぇ。
狐の姿の方が楽だったろうにね。三郎太に負けず劣らずしーちゃんも頼りになる尾っぽだねぇ!
「そんな事があったんですか。その御守りにそんな力があるとは知りませんでしたねぇ」
「お葉さんもご存じありませんでしたか……これはやはりお葉さんがお持ちになった方が――」
良庵せんせならそう仰るとは思いますけど、これは何度でも言いますよ。
「いけません、あたしにとっちゃ良庵せんせが一等大事なんですから! あたしは絶対に受け取りませんよ!」
ちょいときつめに言いましたけど、決して浮気対策の盗聴用じゃぁありませんからね。
「そんなに僕の事を……すみません。では、もっと腕を磨いてお葉さんのことは僕が守りますから」
まっ。せんせったらほっぺた染めてそんな事言っちゃって。あたしまで照れちまうじゃないですか。
でもその日、すっかり傷も癒えた様子の良庵せんせでしたけど、道場に入ることもせずずっと書斎で野巫三才図絵とにらめっこをしていたんです。
どうしたのかしらと覗いてみると、昔からずっと読んでいらした「人の部」でなく「天の部」の頁を眺めていたんですよね。
すらすらとって訳じゃなさそうですけど、どうやら良庵せんせは野巫三才図絵の『天の部』を読んでるみたいですねぇ。
以前は全くさっぱり分からないと言ってましたけど、もしかして良庵せんせったら――
「お、お葉さん! ま、薪割り終わっただ!」
「きゅきゅー!」
「ありがと与太郎ちゃん、それになっちゃんも。お茶でも淹れるから手ぇ洗っておいでよ」
そうそう、与太郎ちゃんは一昨日のあの晩からウチに泊まって色々お手伝いして貰ってます。
案外となっちゃんは与太郎ちゃんを気に入ったみたいで後をついて回ってんですが、特には役に立ってないみたいですねぇ。
与太郎ちゃんに大した怪我なんてありゃしませんでしたけど、帰ったって一人ぼっちですし、もしかしたら破落戸の残党もいるかも知れませんからね。
ちゃんと甘酒屋のご隠居のとこには地獄耳のごっちゃんを遣ってしばらくウチで預かる旨を伝えてきて貰いましたよ。
もちろん、こないだ食い逃げしちまった甘酒代も持たせてね。
「こ……こんな良いお茶飲んでるんだか!?」
「良庵せんせがお好きだからお茶っ葉だけは奮発してるんだよ」
これ買ってるお茶屋さんでもあたしらみたいな貧乏人はほとんど見ませんものねぇ。
なっちゃんを膝の上で遊ばせる与太郎ちゃんとゆっくりお茶を頂いてると、スラリと襖が開いて良庵せんせが顔を見せました。
「僕にも一杯頂けますか?」
「ええ、もちろんです」
あたしが淹れたお茶をしっかり味わうように飲んで一言。
「お葉さん、野巫三才図絵なんですが――」
「良庵せんせがいつも読んでらっしゃる本ですか」
さぁ本題ですね。ほんとに『天の部』なんて読めてるんでしょうかねぇ。
「どうやらこの本、ただの野巫医の為の本では無さそうです」
「へぇ……? というと何なんです?」
やはりどうやら良庵せんせ、何かを掴んじまったみたいです。
「この本の冒頭『人の部』、これはそのまま人――つまり僕らの為のもの。そして残る二つ、『天の部』と『地の部』、これらは恐らく……妖魔のため……いや、人ではない何かの為のものだと思われます」
良庵せんせ……
……ちょっっっと違います! 惜しい!
「という事は……? 良庵せんせには使えない本って事ですか?」
「そんな筈はないと思うんですが……筆者である睦美先生が人なのですから――あ、あれ? そうとも限らない……のか?」
あわわわわ。
三太夫のバカのせいでせんせが要らない事に気づいちゃうじゃないですかっ! 人に化ける妖魔なんてそうはいないのに!
「ど、どうして妖魔のため、なんて思っちまったんです?」
「それはこの地の部と天の部にだけ出てくる『巫戟』という言葉なんです。これがなんなのかは分かりませんが――」
巫戟の巫は『かんなぎ』、神を招くを語源とする言葉。
巫戟の戟は、そのまま『げき』、三叉の矛のこと。
前にも一度言った件ですが、本の中にある『巫戟』の説明もこれだけ。これで意味の分かる人はいないでしょうねぇ。
あたしだって字面からじゃちんぷんかんぷんですしね。
「――恐らくは何か不思議な力。音の同じ言葉に巫覡というのがありますが――」
良庵せんせが宙空に字を書くように指で巫覡となぞります。
よく勉強してますねぇ、ほんと。
「――あれは巫も覡も、男女の違いはあれど神事を執り行う者のこと。なんとなく繋がりがありそうにも思いますが、以前調べた際には結局なんにも分かりませんでした」
ぽかーん、と与太郎ちゃんが口を開いています。
でしょうねぇ。何一つ意味の分かる内容じゃないですもんねぇ。
「ところがです」
はいきた、本題の本題ですね。
「小さい頃から何度読んでも分からなかったこの巫戟というもの。この間の三太夫や兎が放った光――あれがそうなのではないかと考えたのです」
…………大まけにまけて、もう正解で良いでしょう。
アレは巫戟ではありませんがその一端ではありますし、根本的に巫戟の力を使える者はとっっっても限られてますからねぇ。
「仮にあれが巫戟だとして、それを僕が使える様になれば地の部や天の部が理解できる……――そうなれば、たとえ相手が妖魔であろうとお葉さんを守ってあげられるんじゃないかと思うんです」
……まっ。良庵せんせったら。
腕を磨く、って剣ではなくて野巫の腕を磨こうって考えだったから三才図絵と睨めっこしてらしたんですか。
良庵せんせの優しい気持ち、あたしにとっちゃ守って貰えるよりもそれが何より一等嬉しいねぇ。
ほんとにもう、良庵せんせ、好き。
けれど問題は、その巫戟の一端でさえもあたしが良庵せんせに教えてあげられない事ですね。
もちろん能力的には可能どころかあたしが適任なんですが、だってあたしが急にそんなの教え始めちゃおかしいでしょう?
あたしはただのやぶ医者の女房なんですから。
でも、ま、なんでしたっけね、すぐ西の大陸の言葉に『整えば師が現れる』なんてのもありますものねぇ。
ちょいと違ったかしらと思いますけど、大体合ってりゃ良い――――おや?
どうやらお客さん、というかあのお二人さんですね。
「おーぃ! 生きてるかよ良人! なんだかコテンパンだったらしいじゃねえか! だはははは!」
「何がおかしい! こっちは本当にお前んとこの世話になるかと思ったんだぞ!」
案内も請わずに勝手にずんずん上がってきたのは賢哲さんと脳筋姉。
なんだかんだ言っても二人が来るとうるさ――明るくなって良いですねぇ。
「で? 何しに来たんだ?」
賢哲さんと話すときには幼馴染だけあって良庵せんせも砕けた物言いですよね。
と言うかあたしにだけ丁寧な物言いなんですよねぇ。
「良人がコテンパンだったと聞いて来たんだが、まぁ無事そうなんでソレは置いといてよ」
「置いとくのかよ」
賢哲さんがそう言いながら、視線を与太郎ちゃんへと向けました。
「菜々緒ちゃんから聞いたんだがよ、コイツも巻き込まれてたらしいじゃねぇの」
「菜々緒さんから……? ん、まぁそうだ。巻き込まれたというか今回の騒動の発端だな」
ふぅぅ、と少し深めに息を吐いた賢哲さんが額の汗を拭う素振りをしましたが、ちょいと芝居掛かっていますねぇ。
「なんだ? 与太郎がどうかしたのか?」
「与太郎の両親が死んじまったろ? ウチの寺で弔ったんだが、そのあと様子見に行ってみりゃコイツいねぇんだもんよ」
ちょうど一年ほど前に亡くなられたご両親ですね。与太郎ちゃんと賢哲さん、面識があったんですか。
「す、住んでた長屋は引き払っちまったから。で、でもなんで賢哲さまがオラんちに……か、金ならねえだぞ!?」
「金なんていらねぇよ。弔ったと言っても大した事はしてねぇし、単に人別帳の件でちょっとな。なんつってもオマエ、ガキだが世帯主だかんな」
ああ。寺請証文ってやつですか。人の世は面倒ですねぇ。
ちなみにアタシと良庵せんせは夫婦ですけど、檀那寺である賢哲さんとこから特に婚姻の証文は頂いてません。
家出中って事になってますし、なんてったって戸籍だってありませんからね、あたし。
「でだ与太郎。おめぇ、ウチに来ねえか?」
「け、賢哲さまんとこ? な、なにしにだ?」
「ウチの寺男の後釜にどうかと思ってよ」
「て、寺男? そ、それって仕事け? 寺男ってなにすんだ?」
「何ってオメェ……おつかいから風呂焚きに掃除、まぁ色々だよ」
「お、女の人にぶち当たったりは?」
「はぁ? ……そりゃぶち当たるこたぁあるかも知らねえが、ぶち当たれって言われるこたぁないわな」
「な、ならやるだ! お、おら寺男与太郎んなるだ!」
破落戸に比べたら百倍どころか千倍も万倍も良いですもの。あたしは応援しちゃいますよ。
「良人、という事だ。与太郎はウチで預かるが、良いか?」
「構わないよ。もちろんウチで暮らしても良いんだけど、雇ってやれるほど余裕もないしな」
与太郎ちゃんにとってもその方が良いでしょう。昨日今日と色々とお手伝いもして貰いましたけど、賢哲さんとこのお寺は大きいですからねぇ。
と、話題がひと段落したところで突然、今まで黙ってた姉が立ち上がって言いました。
「お、お葉ちゃん!」
「なんです姉さん?」
「そ、その、ちょっと顔貸してくんない!?」
…………一同、ポカーンですよ。
どこの破落戸なんですか貴女は。
「……ぷ――ぷはっ!」
噴き出した賢哲さんが笑いを収めきれずに続けて言います。
「くっくっくっ、菜々緒ちゃんは面白えなぁホント。お葉ちゃん、姉ちゃんに顔貸してやってくれよ」
つるりと頭を撫でてカラカラ笑う賢哲さんに見惚れる姉がうっとりしてます。きちんと段取り通りやって下さいよ姉さんったら。
「なんだかよく分かりませんけど、ちょいと行ってきます。ついでにお昼も拵えてきますから、賢哲さんも召し上がってって下さいな」
姉と共に居間を離れ、台所へと誘いました。
ここなら居間ともそれなりに距離がありますから安心ですね。
「姉さんったら。『お稲荷さんの作り方教えてちょうだい』じゃなかったでしたっけ?」
「だぁってー。いざ言おうと思ったらさ、賢哲さんに『そんなモノも作れないのか』なんて幻滅されちゃうと思ったんだもん」
唇とんがらせて何言ってんですか。
「作れるんですか? なら教えなくて良いですね? あたしはどっちでも構いませんよ」
「作れない。教えてお葉ちゃん♡」
まぁ良いですけどね。
間に合いやしませんでしたけど、この間のお礼もしなきゃなとは思っちゃいましたからねぇ。
「先に返しとくねコレ」
姉が袂から出したのは、手のひらに乗るぐらいに小さく縮んだ毛玉、ごっちゃんです。
昨夜ごっちゃんには姉のところへ行って貰ったんです。
そのままごっちゃんを通して細かくやり取りできれば良かったんですけど、良庵せんせに聞こえちゃ拙いですし、今あたしは一人で外出できませんから。
ですからこうやって、わざわざお稲荷さんの作り方を教える体で姉妹の時間を作ろうって話になってた筈なんですけどね。
受け取ったごっちゃんに、おつかれさんありがとね、と一声労いお尻に仕舞い、炭を熾した七輪に鍋を乗せて湯を沸かします。
湯が沸くまでの間に油揚げを全て二つに切って箸で押さえて転がし、押し潰してから袋状に開きます。
それを沸いた湯に潜らせ油抜き。
今度は先に作っといた出汁を鍋に張ってお酒とお醤油とお砂糖を足して温めます。
お醤油とお砂糖が黒いですからね、けっこう黒くなりますけど今日は怯まず濃い目にしましょう。
「味付けは全部おんなじ量で良いですよ。覚えやすいでしょ?」
「…………ねぇ三郎太」
「なんだ」
「覚えといて」
「…………分かった」
三郎太は良いやつですねぇ。
まぁ、もう慣れっこなだけでしょうけど。
油抜きして冷ましておいた油揚げを沸いた煮汁に放り込み、煮汁があらかた無くなるまではこのまま放置。
あ、出汁の取り方も教えておいた方が良かったかしら。
「鰹の出汁の取り方は分かります?」
「ああ、分かる。それくらいは飛ばしてくれて大丈夫だ」
姉は首を捻ってましたけど、姉のお尻の辺りから返事が返ってきました。ならちゃっちゃと進めて平気ですね。
「ご飯は炊いておきましたけど、酢飯にするにはちょいと冷めちまったからね。今日は簡単に高菜を刻んで混ぜる漬け物稲荷にしちまうよ」
「ふーん、そんなのもあるの。菜々緒食べた事ないよ」
「あたしだって自分で作るのしか聞いたことありませんよ。あたしが手前で勝手にやってるだけですから」
きちんとしたお稲荷さんはまた今度教えてあげましょ。また姉さん……――三郎太と相談すること出てきそうですしね。
「そういや姉さん。お稲荷さんの別名知ってます?」
「別名? ううん、知らない」
「『信太寿司』って言うらしいですよ」
「信太? 信太ってあそこの事?」
「そうらしいです。人の頭ってのは柔軟ですよねぇ」
「母様にも食べさせてあげたかったね」
「ええ。きっとお好きだと思います」
ちょいとしんみりしちまいますねぇ――
「おい。そんな事より本題はどうした。何のために集まったんだオマエらは」
「きゅー!」
あ、いけないいけない。
三郎太とごっちゃんの言う通り、謎の女についてが本題でした。
姉妹揃って尾っぽに怒られちまいましたよ。