ウチの亭主は医者なんですけどね、やぶ医者の中のやぶ医者、それはもうとびっきりのやぶ医者なんですよ。
あら嫌だ。
勘違いなさったかい?
やぶ医者ったって、やぶはやぶでも「野」に「巫」の野巫医者なんですよ。
ご存知ありません?
野巫医者ってったらあれですよ。
呪いなんかで病気を癒そうってぇ訳の分からぬ商売のこと。
だからお薬も出しゃぁしませんし、患者さまの腹を開いて閉じたりなんぞも致しませんよ。
ただまぁ『 野巫医者の中のやぶ医者』の、二つ目の『やぶ医者』の方は、まぁ、正真正銘の藪医者の方なんですけどねぇ。
師もいない、経験もない、さらには当然のように巫戟の力もない、割りとどうしようもない、ほんとのほんとの薮医者さま。
だからウチの亭主はね、野巫医者の中の藪医者なんです。
でもこのあたしがついていますからね、なんとか一人前の野巫医者に――
「お葉さん、アレどこやったかお知りでないか?」
お出でになったこの方がうちの亭主、良庵という名のやぶ医者さまですよ。
歳は三十路を二つ越え、ヒョロリと高い背、惚けた丸眼鏡と少し垂れた目元、髷は結わずにぴんぴんと跳ねる毛を無理矢理に後ろで引き結んだ総髪。
こう言っちゃぁなんですが、目つきの優しそうななかなかの男前、って女房が手前で言ってちゃ可笑しいですかね。
「いつもの筆ならいつもの筆入れの中ですよ」
「いやさ、その筆入れが見当たらんのです。これは物盗り……いや物の怪の仕業かと」
顎に手をやりそんな事を言う良庵せんせ。
けれどそんな筈はありゃしません。
ほんの四半刻まえには確かに文机の上で目にしましたもの。
「ちょいと良庵せんせ?」
「なんでしょうお葉さん」
背筋を伸ばして立つ私に相対し、同じようにぴしゃんとウチのやぶ医者さまも背を伸ばすと……。
「あっ」
「ふふ、見つかりました?」
ニコリと微笑むあたしをよそに、やぶ医者さまが驚いた顔で己れの背に手を回し、次に手を前に回すとその手には細長い木箱。まさに愛用の筆入れです。
それを見詰めて首を捻るやぶ医者さま。
「どうしてこんな所に……?」
まぁそんな事だろうと思いました。
どうせね、仕事に掛かる前に文机を綺麗にしようとして、すぐに使うつもりの筆入れだけは帯に手挟んで、文机を綺麗に拭き取ったあとでこう言ったんでしょうよ。
『いつもの筆、どこやったかな?』
なんてね、たぶんそんなところでしょ。
「今日は呪符作りですか?」
「最近は欲しがってくれる人がちょこちょこいるからね」
少しはにかんだ嬉しそうな顔でそう仰るやぶ医者さま。元々だ〜れにも相手にされない、効き目ゼロの呪符でしたからねぇ。そのお気持ちは良く分かります。
「良庵先生ぇっ! 居んなさるかよ!?」
お客さまの様です。どうやら患者さんの様ですが、ずいぶんとお元気そうなお声ですね。
「居るぞ! 上がってくれ!」
そう一声投げ掛けて、良庵せんせも母屋から渡り廊下を通って道場に併設の診察室へ向かって小走りに急ぎます。
洗濯干しの手を一旦止めたあたしも少し遅れて診察室へと踏み込むと、
「ずいぶんと元気そうじゃぁないか棟梁」
「元気そうに見えるとしたらよ、そりゃもう良庵先生のお陰だぜ!」
あぐらで座るご自分の膝をパシんと叩いてそう仰ったのは大工の熊五郎さん。この田舎町では知らぬ者のおらぬ程には名うての棟梁なんですよ。
「ほぅ。なら効き目がありなさったかね?」
「あったあった! もう効き目どころか前より調子が良いくれぇだぜ!」
「そいつは何よりだ。これで気兼ねなく御銭を頂けるというもの――」
どちゃりっ
「足りるかい?」
熊さんが懐から出して床に置いた巾着袋。音の感じからして結構な額のお金です。
「足りるかって……多すぎるぞこれじゃ」
「だろうな」
ニヤリと笑った熊さんが続けて言います。
「同じのもう二、三枚欲しいのさ。嬶も膝が痛えらしくってよ」
そんな事だろうと思いやした。実際のところもう二、三枚渡したとて十分なお金です。
けれど、良庵せんせは渡すでしょうかねぇ。
「ダメだ」
「な……なんだとぉ!? このぼったくりやぶ――」
「女将さんの膝を診てからだ。症状が同じな訳ないからな」
そりゃそうですよね。良庵せんせならそう仰るでしょうよ。
熊さんの膝の痛みは普請中の屋根から落ちた際にちょこっと骨が折れた怪我、恐らく女将さんの膝の痛みは加齢によるもの。
同じ呪符が効く訳がありやせんものね。
「お、おぅ、そういうもんかよ? なら嬶は明日にでも連れてくるとしてよ、一枚で良いから同じのくれねえか?」
「まだ痛むのか?」
「御守り代わりによ。こちとら体が資本だからな」
「そういう事なら良いだろう。まだ何枚かあった筈だ」
そう言って良庵せんせが棚から一枚の呪符を取り出しました。
が、それはいけません。
それは巫戟の力の入っていない、ただ良庵せんせが図柄を描いただけの呪符、つまりはやぶ呪符です。
「良庵せんせ。ちょいとそれを」
「お葉さん? これがどうかしましたか?」
良庵せんせから受け取ったやぶ呪符を両手で持ち、こっそりと巫戟の念を籠めます。
それほど大した巫戟じゃありません。
痛みを和らげ、治癒を促す、ただそれだけの念を。
「ごめんなさい。端が少し折れていたのが気になったものですから」
初めから折れていたかの様に見せ掛けた端を元に戻しながら、良庵せんせへとやぶ呪符でなくなった呪符を返します。
「ほんと? 気付かなったよ、ありがとう」
じゃあこれ、と良庵せんせが熊さんに手渡し、受け取った熊さんはそれを小さく折り畳んで首から下げた御守りへ忍ばせました。
「これで百人力、心強いぜ」
ポンっ、と胸の御守りを掌で叩いてニッコリ笑顔の熊さんはさらにまた元気が増したようにそう言いました。
それを見た良庵せんせもニッコリ微笑んでいます。
「良庵せんせの呪符があるからって、安心して屋根から飛び降りたりしねえで下さいね」
熊五郎棟梁をお見送りの際そう言ってやりました。
それを聞いてドキっと驚いた顔をしてやがりましたからね、『ちょっと無茶しても大丈夫』くらいには考えてたんでしょうね。
野巫医者として真摯に向き合うのは良いんですけど、それにしたって良庵せんせの巫戟の無さはどうにかなりませんかねぇ。
このままじゃいつまで経ってもやぶの中のやぶのままなんですもの。
「あら。どうかなすったんですか?」
お庭で洗濯干しに勤しんでいましたら、縁側を挟んだ先の書斎にうんうん唸る良庵せんせのお姿が。
今日もあちこちに跳ねる髪を後ろで結え、机に置いた本を食い入る様に見詰めていたんですよ。
「それがさ、ここの所がどう描いてあったのかよく分からないんです」
良庵せんせがお顔をくっつける様にして読んでいるのは、幼い頃から愛読している『野巫三才図絵』です。
『世界でただ一つのこの本に、野巫の全てが記されている』
と冒頭で謳う眉唾ものの一冊ですけど、これが強ち間違いでもありません。
天・地・人、の三部に分かれ――題名の『三才』はこの『三部』を意味しています――、その『人の部』を良庵せんせはお小さい頃から繰り返し読んでいらっしゃるんですよ。
天と地の部については只の人が読むには難解です。まず第一に巫戟の力を理解できねば読んでもちんぷんかんぷんの筈ですから。
「どこですか?」
「ここのところなんですけど」
良庵せんせが指差すところを覗き込むと、
『加齢に伴う節々の痛みにはうんぬんかんぬん――』
ははぁ。昨日お見えになられた熊五郎棟梁の女将さん用ですか。しかし確かにこれは読めませんねぇ。
解説は読めますけれど、肝心の呪符の図柄の細かい所が良庵せんせの手汗のせいか滲んで潰れちまってますね。
「うーん……ちょいと筆と紙を貸して頂けますか?」
「よしきた」
この手の事に勘が良い、良庵せんせは私の事をそう思ってくれていますから、立ち上がって文机の前を私に譲ってくださいました。
ストンと腰を落ち着けて、先ずはじっくり三才図絵の図柄を見詰め、うーん、と小首を傾げる素振りも忘れぬ様に付け加えてから、スラスラサラリンと筆を走らせました。
「こんな感じに見えましたけど、どうです?」
図柄は文字と四角に三角やら丸の模様をがちゃがちゃ混ぜ合わせたもの。
私が描いた図柄を眼鏡を掛けて見、眼鏡を上げて見、さらには角度を変えて凝視する良庵せんせ。
「ふーむ……確かこんな形だったように思えてきました」
良庵せんせはどうにも図形の形を覚えるのが得意でないんですよ。
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。きっとこれで合ってる。いやぁ助かりました」
あら可愛らしい。
私に向けてにっこり微笑んだ良庵せんせがとっても可愛らしくてキュンとしちまいました。
良い歳して恥ずかしいですねぇ。
文机を良庵せんせにお返しして、私はお洗濯の続きを、良庵せんせは丁寧に呪符作りを再開です。
お互いにキリのいいところで切り上げて、早目に軽く昼食を済ませて良庵せんせを誘って一つのお布団で一緒に少し微睡んで、そして起きたらちょうど熊五郎棟梁と女将さんが見えられました。
「ほれ、とろとろ歩いてんじゃねぇや」
「この馬鹿! 膝が痛えって言ってるじゃないのさ!」
罵り合っていますけど、ここらじゃ仲良し夫婦で有名なんですよ。
現に女将さんの小荷物を棟梁が持ってあげての道行ですもの。
「相変わらず仲睦まじいお二人ですねぇ」
「僕らもああなれたら良いですね」
門から道場へと歩んでくる二人を、良庵せんせと並んで見ながらそう溢したら、
「お葉ちゃんも先生も何言ってやんでぇ!」
「このヤドロクと仲良くなんてありゃしませんよ!」
熊五郎夫妻にも聞こえてしまってましたが、照れ隠しの仕方までそっくりで、やっぱりちょっと可愛らしくて微笑んでしまいますね。
診察室にお通しして、良庵せんせが女将さんの膝をサスサス触って曲げ伸ばし。
やはり外傷もありませんし、腱や筋肉に損傷もないようです。
「ふむ。やはり棟梁と同じ呪符ではダメだった様だ」
ヒビの入った骨を治すには、元々備わっている元に戻る力を促進させるだけで効果がありますが、加齢による膝痛ではそんな、元に戻る力がまず存在しやしませんからね。
「膝のお皿にズレもない。恐らくは軟い骨の摩耗、すり減りが原因だ」
「軟い骨? なんですそりゃ?」
「膝の骨と骨の間にあるんだよ」
良庵せんせが両手をグーにして縦に並べ、こことここの間、と説明します。
こういった触診は得意な方ですから、ここまではやぶ医者っぽさはないんですよね。
「そこでこの……、あれ?」
袂を弄った良庵せんせでしたが、どうやらお目当てのものがないらしいです。
「まだ文机の上なのではございません?」
「ああそうだ。墨を乾かしていたのでした」
取りに立とうとする良庵せんせを私が参りますと押し留め、これ幸いと書斎へと足早に向かいます。
そして誰もいない書斎で、良庵せんせが丁寧に仕上げた三枚の呪符を恭しく取り上げて、私も丁寧に一枚ずつ巫戟の力を籠めていきます。
巫戟の巫は『かんなぎ』、神を招くを語源とする言葉。
巫戟の戟は、そのまま『げき』、三叉の矛のこと。
巫戟の力で怪我も病魔も、さらには妖魔も退治が可能なんですよ。
って、妖魔の私が手前で言ってちゃ可笑しいですね。
そして何食わぬ顔で戻って良庵せんせに手渡しました。
「ありがとうお葉さん」
優しい良庵せんせはそう言って、女将さんの膝へ一枚の呪符を薄布で巻き付けます。丸一日ほどで次の呪符へ、さらに翌日に最後の呪符へと交換する様にと申し付けました。
「大体丸一日で呪符の墨が急激に薄くなる。それが替え時だから」
さらに付け加えます。
「墨の薄くなった呪符、持ってきて欲しいんだ」
「まだなにかに使えるんで?」
「いや、ちゃんと薄くなるのか知りたいんだ。なにせ初めて試す呪符だからさ」
熊五郎夫妻が微妙に不安そうな顔をした事に、良庵せんせだけが気付かなかったようでした。
きっと大丈夫だと思いますよ。
私の巫戟の力もありますけど、せんせの呪符もばっちり仕上がっていましたから。
今日の良庵せんせはもう一つの方のお仕事です。
良庵せんせは毎日ずっと野巫三才図絵を読んで過ごしたいそうですけれど、それだとおまんまの食い上げです。
野巫医者では口に糊するほども稼げていませんからね。
こう見えてこのせんせ、剣術の先生なんぞもやっておるのです。
巫戟の才はからきしですけど、やっとうの才は大したもの。稼ぎの九割方はそちらですから、もっとしっかり働いて頂きませんとね。
えいやっ! とう!
なぞと威勢の良い掛け声が私の耳にまで届きますが、その中には良庵せんせのお声はありません。
この田舎町にいくつかある剣術道場の中でも一等良い腕なんですが、良庵せんせには覇気が全くありませんから聞こえてくるのは全て門下生の声。
らしいっちゃらしいですけどね。
それでこそ良庵せんせ、なんて感想すら抱くあたしが居ますもの。
稽古も終わって門下生を帰し、良庵せんせがお庭で汗を拭っていたところにご近所の定吉がひょっこり顔を覗かせました。
門の所から顔だけ出してお庭を覗く定吉少年。
三度の飯どころか六度の飯よりやっとう好き、そう公言して止まないちょっと可笑しな子供なんです。
「おう定吉、遅かったじゃないか」
汗を拭う良庵せんせを目にした定吉少年は、あからさまにがくーんと肩を落としてこう言いました。
「おいら配達が長引いちまって……、良庵先生のとこだけだよ! こんなに短い時間でお開きなのは!」
それは確かに定吉の言う通り。
こんな田舎町にも――田舎町だからですかね――あと三つ四つの道場がありますけど、週に二日だけ、しかもせいぜい一刻ほど稽古するのみなのはここだけ。
高くはありませんが勿論お月謝も頂いていますから、定吉少年は見学だけでもさせてもらおうと頻繁に駆けて来るんです。今日は間に合わなかったようですけどね。
「そりゃしょうがないよ。僕の本業は医者なんだから」
……医者の方が本業だったんですね。
夫婦でちょっと認識にずれがあったみたいで戸惑いを隠せませんが、まぁ副業だろうとなんだろうと稼いで頂ければ特に問題ありませんか。
「医者ったってこれだろ?」
門の所にぶら下げた縦長二尺ほどの札の文字――
『痛みや病いに効く呪い、有り〼』
――を指差す定吉少年。
「呪いってなんか怖いじゃん」
「それは呪いでなく呪いと読むんだ」
やはり居ましたね。
『まじない』でなく『のろい』と読んでる人が。
つい先日もね、良庵せんせとその話をしたところだったんですよ。
やはり振り仮名を振るべきか……、そう呟いた良庵せんせがバッとお顔を上げてあたしを見るなり言いました。
「お葉さん、すみませんが僕の筆入れを」
「ええ、ただいまお持ちしますね」
庭から縁側の床に腰を下ろし、ヒョイと手を伸ばして文机の上の筆入れを取り上げて、よいしょと小さく声を上げてお庭に戻ります。
すると良庵せんせも定吉少年も、ぽぉっと頬を染めてあたしを見詰めていました。
「なんです二人して? ちょいと端なかったとは思いますけど」
「だって……なぁ定吉」
「うん……ねぇ良庵先生」
二人揃って頬を染めてそんな曖昧なお返事。
あ、もしや筆入れを取るときに裾が割れて中身でも見えちまってたかしら。
「すらりと伸びた腕が色っぽくて……」
「真っ白いふくらはぎが色っぽくて……」
「――あ、こら定吉! 僕のお葉さんのそんなとこ見ちゃいかん!」
あらあら。あたしが思った以上に初心なお二人さんでしたね。
「ごめんなさい、気をつけますね。はい良庵せんせ」
おほんと空咳ひとつを挟んだ良庵せんせが受け取った筆入れを帯に手挟んで、それの頭のところをずらして筆を取り出しました。
「定吉、ちょっと札を支えておくれ」
「こうかい?」
良庵せんせは定吉少年が支えた札に手を添えて、さらに筆入れの先端をパチンと開いて筆先に墨を染ませます。
「あ、矢立になってんだ」
「なかなか良いだろう? これ僕のお手製」
良庵せんせお手製の筆入れは一見するとただの木箱なんですけど、先端にそれと分からないような墨壺もついてて洒落てるんですよね。
思えばこの筆入れと看板が縁であたし達は出逢ったんですよ。
サラサラスラリン、と『呪』の横に『まじな』とルビを振りました。
これでお客さんがもっと来てくれます――
――と良いんですけれどねぇ。
今日は特にやる事もないらしく、良庵せんせは書斎で野巫三才図絵を眺めていらっしゃいます。
あたしは庭先に七輪を出して土鍋を乗せ、油揚げをちょっと濃い目の味で炊いていたんですけど、眼鏡を頭に上げた良庵せんせがやって来たのでそちらへ視線を遣りました。
「良い匂いですね、お昼ごはんにですか?」
「えぇ、お稲荷さんでもと思いまして」
「お葉さんのいなり寿しは美味しいから嬉しいな」
これであたしもいい歳ですからね、大抵なんでも作れますけどお稲荷さんは特に得意なんですよ。
もちろんあたしの好物だってえのもありますけどね。
ところで良庵せんせ、野巫三才図絵を手に持ったままですけど何かあたしに用事でしょうかね?
あたしが手を止めるまでそこでお待ちになりそうなんで、一旦お話を聞いてあげましょうか。
七輪から土鍋を上げて湿した布巾の上へ置き、ふぅ、と一つ吐息をこぼしつつ手を拭って立ち上がります。
「一区切りつきました。良庵せんせ、どうかなさったんですか?」
「油揚げはよろしいので?」
「ええ。冷ましながら味を染み込ませるんですよ」
なら良かったと良庵せんせ。
「野巫三才図絵の奥付なんだけどね」
いつかはそこに触れるだろうなとは思っていました。思ったよりも遅かったくらいです。
奥付というのは巻末にある、いついつだれだれが書き記した、どこそこの版元が出版した、などの情報が記される部分です。
野巫三才図絵は全て手書きの唯一冊の本。もちろん版元なんて存在しませんが、作者がふざけて奥付なんて書き足したんですよね。
「この筆者の『睦美 蓉子』って人、お葉さんと同じようこなんだよ」
良庵せんせや患者さんはあたしの事を『お葉さん』と愛称で呼んでくれますが、ホントの名前は『葉子』なんです。
「あら、そうだったんですか?」
しれっとそう返事しましたけど、良庵せんせは一つお間違えです。一文字だけ読みが違うんですよね。
『睦美 蓉子』と書いて、『むつび ようこ』と読むんです。
奥付にある通り書かれたのはほんの百年近く前、そして筆名の通り、歳経た六尾の妖狐が書き表したのがこの野巫三才図絵。
奥付だけじゃなくって筆名だってふざけているでしょう?
何を隠そう、それを書いた妖狐、あたしなんですよね。
昔っからあたし、人間ってえのがなんでか好きでさ。人に化けちゃ人里で暮らしたりしてたんですよ。
で百何十年か前かしら、ひょんな事から人間の子供の怪我を巫戟で癒したりしちまってね、そしたら噂を聞いた町の者がちょこちょこ訪ねて来る訳さ。
なし崩し的にしばらくその土地で野巫医者やってたんですよね。
しょっちゅう来る怪我人、病人を癒したり、乞われるままに野巫の技を教えたり。
その時ですね、野巫三才図絵を書き残したの。
でも何年何十年経ってもちぃとも老けない、いつまでも若く美しい不思議な女野巫医者がいるって噂んなっちまってねぇ。
けど人間ってのはもっと不思議でね。
そんなおかしなあたしをさ、排すどころか、崇め始めちまってね。
生き神さま、生き神さま、ってうるっさいのなんのって。
おっと、昔話は今度またにしましょうか。
良庵せんせを放ったらかしにはしたくありませんからね。
「そんな偶然もあるんですねぇ」
「ホントですね。常からお葉さんは野巫の才能があるというか、野巫の勘が良いというか、そういうところありますから。睦美先生の生まれ変わりだったりするかも」
当たらずとも遠からずですね。まぁ本人なんですけど。
野巫三才図絵を書いた百年前にはすでに今とおんなじ六本の尾でしたけど、あたしの尾っぽももうすぐ七本になりそうです。
二尾で産まれるあたしたち妖狐は、大体百年ごとに尾っぽがひとつ増えてその力を一気に増大させるんですよ。
六尾の妖狐と七尾の妖狐じゃ妖魔の格が全然違いますからねぇ。
「さぁ良庵せんせ、お稲荷さんの寿司飯を仕込みますから、お手すきでしたらお手伝いしてくださいな」
そう言って良庵せんせにしゃもじを手渡しあたしは団扇を手に取りました。
「よしきた!」
良庵せんせはひとつも嫌な顔せず腕まくり。
あたしの良い人、ほんと可愛くってしょうがありませんねぇ。
「お葉ちゃん、良庵先生いらっしゃるかい?」
「あら女将さん。もう戻ると思いますけど、ちょいと紙問屋さんへ買い出しに出てるんですよ」
呪符に使う紙の在庫が少し頼りなくなったそうなんです。
楮の紙でも良いんですけど、三椏の紙が一等良いと野巫三才図絵にありますから、良庵せんせはいつも三椏の紙を切らさないようにしてるんですよね。
ここらじゃ三椏の紙はお高いんですけどねぇ。
「お葉ちゃんに預けても良いんだけど、せっかくだから待たせてもらっても良いかい?」
「そりゃ構いませんけど、預けるって何をです?」
これだよ、と口にした女将さんが手にしていた巾着から畳まれた紙を取り出しました。
「ちゃんと墨が薄くなったもんだからさ」
膝の治療の際にお渡しした呪符でしたか。ちゃんと薄くなったと聞けば喜ぶでしょうね良庵せんせ。
「まぁ。ご面倒おかけしまして相すいやせん。ちょうどお茶でも飲もうと湯を沸かしたところなんで上がって下さいな」
「そうかい? じゃ頂こうかしら」
けれど縁側で充分だと言う女将さんを庭に面した縁側に招き入れて腰掛けて貰って、ちょうど取り込んだところの洗濯ものを座敷に放り込み、そうしてからお茶の準備を整えて戻ります。
「あら美味しい。良いお茶っ葉だねぇ」
「良庵せんせがお茶っぱだけはうるさくって。稼ぎに見合った好みだと助かるんですけどねぇ」
「所帯のことはどこもおんなじだね」
「男どもはどいつもこいつもねぇ」
ウチと違って女将さんとこの棟梁は高給取りなんですけどね、きっぷが良すぎて困るんですって。
「けどまぁだからこそ『熊五郎』ってなとこかね」
女将さんところころ笑って愚痴ったり惚気たりしていると、いろんな話題になりました。
遂にはちょっと照れちゃう話題まで。
「お葉ちゃんは良庵先生のとこに嫁いで半年ほどだっけ?」
「ちょうどそんなところです」
「じゃ、そろそろかねぇ?」
「そろそろ?」
女将さんがご自分の丸いお腹を手のひらで、くるんとまぁるく上から下へ撫でるような仕草。
まぁ、そういう意味でしたのね。
「なによお葉ちゃん、ほっぺ赤くしちゃって。まさかまだって事ないん――」
女将さんの言葉に、迂闊にもどんどん頬が赤くなるのが感じられます。
「――あ、まだなんだね……、悪いこと言っちまったね、ごめんよ」
……おかしいですね。
あたしは初心なんてのとは程遠い、齢五百近い歳経た妖魔の筈なんですけれど。
夫婦になって半年で未だにもつれこまないなんてどこかに異常があるんじゃなかろうか、そう思われるかも知れませんけどそうでもないとあたしは思うんですよ。
「だって女将さん! 夫婦になって半年ですけど、出逢ってからも半年なんですから!」
「そういやそんな可笑しな夫婦だったね――っても初心には違いないけどねぇ」
そう言った女将さんがケラケラ笑って赤い顔したあたしのほっぺを指でグニグニ押さえてきますが、不思議とちっとも嫌な気がしませんね。
「ごめんごめん、慌てるこっちゃないもんね」
それでもようやく最近は、一つの布団に入って良庵せんせの腕枕でお昼寝したりもする様にはなったんですけどねぇ。
新しくお茶を淹れようと縁側を離れた際に、良庵せんせがお戻りになりました。
「戻りました――おや女将さん、いらっしゃってましたか」
「悪いね、ちょいとお葉ちゃんを借りてましたよ」
「ちゃんと返して頂ければ構いませんよ」
ま、良庵せんせったら真顔でそんなこと。
「その後、膝の具合はいかがです?」
この間の熊五郎棟梁とおんなじように、ぱしんとご自分の膝を叩いて女将さんが返します。
「もうばっちりさ! ちぃとも痛くないどころかぴんしゃんしてるよ」
「そいつは良かった。で……、あの呪符は……?」
膝の痛みがひいたと聞けば、良庵せんせの興味はそちらへ移りますよねぇ。
女将さんが徐に、巾着から折り畳まれた使い古しの呪符を取り出し良庵せんせに手渡しました。
「持ってきてますよ。開いてご覧なすって下さいな」
カサリカサリと呪符を開き、食い入るように見詰める良庵せんせが大きめの声を上げました。
「うぉぉっ! ちゃんと薄くなってる!」
治癒力を増幅させる呪符と違ってこの女将さんの膝の痛みを癒すには、巫戟の力と呪符自体の力の両方が必要です。
巫戟の力は無くなろうが最初から見えませんけど、呪符の効果は無くなると図柄が薄くなるんです。
ちなみに熊五郎棟梁に使った呪符にしたって図柄が必要ない訳ではありません。
巫戟の力を正しく及ぼす為には正しい図柄が必要なのです。
「お葉さん見てよこれ! ちゃんと薄くなった!」
「ええ、ほんとに。良かったですねぇ良庵せんせ」
あたしは自信ありましたよ。
巫戟の力はともかく、良庵せんせの描く呪符はどこに出しても恥ずかしくないところまで来ていますからね。
良庵せんせはああ見えて剣術の達者ですけれど、筋骨隆々、巌のような体つき、という事はありません。
細身ではありますが、それでも筋肉質の……そうですね、あたし風に言うと『いけてる』体型でいてらっしゃいますね。
どうして急にそんなことを言い出すのか、ですよね。
だってあたし、いま良庵せんせに抱え上げられ、どこかのお姫さまになったみたいに抱っこされてるいるんですもの。
「お葉さん、痛みますか?」
「え、ええっと、まだ少し――」
良庵せんせと市へ行き、お大根や油揚げや、色々と買い込んだ直後にどこぞの見知らぬ大男にぶち当たられちまってすっ転んだんですよ、あたし。
その拍子に足を挫いちまったもんだから、見る間に足首が腫れてってね、慌てた良庵せんせが懐からいつものやぶ呪符を取り出して足首に括り付けるや、がばりとあたしをお姫さま抱っこ。
そして今に至るわけなんですよ。
「家に着く頃には痛みも引くと思います。もう少しの辛抱ですからね」
「ありがとうございます、良庵せんせ」
あたしにとっては最初からそれ程の痛みではありませんし、この足首に括り付けられた呪符へあたしの巫戟の力を籠めればたちどころに完治なんですが、せっかくなので良庵せんせの逞しさを堪能させて頂いておりますの。
それにしたってあのおつむの足らなそうな大男、何者でしょう。
なかなかの人混みでしたし、うっかりぶち当たる事ももちろんあるでしょうけれど、あたしはちゃんと耳にしたんですよね。
ぶち当たられる寸前の、
『――今だ!』
っていう大男のちいさな声を。
それってまず間違いなくあたしを狙ってのことですよねぇ。
少し探りを入れておきましょうか。
お姫さま抱っこのままプツンと自分の髪を一本抜いて、良庵せんせに見つからないよう指で摘んで背中の後ろへ回します。
それに巫戟の念を籠め、ぐにゃりぐにゃりと蠢かせること数秒。巫戟が満ちるとともに元の髪の毛に戻ってはらりと風に吹かれてどこかへ飛んで行きました。
これで良し、です。
あとはまぁ、しばらく特にやる事もありませんので良庵せんせの逞しい腕と胸をあたしの体全部で感じる事に努めましょうか。
……あ、コレほんと良いですねぇ……
触れる逞しい腕も、胸も、心配げな瞳も、時折り頭に掛かる良庵せんせの息遣いまでも本当に良い塩梅なんですが、極力あたしを揺すらない様に気をつけながらも家路を急ぐ良庵せんせの想いが一等良いですねぇ。
癖になっちまいそうですよ、お姫さま抱っこ――
その時、パンっ、という音が脳内に響きました。
先ほど放ったあたしのネズミが踏み潰されるかしたようですね。
あたしが自分の髪で作った真っ白なネズミはその容姿の愛らしさもさることながら、なかなかに使える使い魔。それを苦もなく踏み潰すとは……。
ちぇっ。
こんな事なら視界の共有もさせておけば良かったですが、んなこと言ってもあとの祭り、後悔するのは嫌いなんでしてやりませんよ。
「さ、お葉さん、家に着きました。歩けそうですか?」
あら、もう着きました? もっと良庵せんせの腕の中を堪能したかったですけれど、なかなか思い通りにいきませんねぇ。
あたしは一つ頷いて、恐る恐るの体で地に降り立って――
あら? ひとっつも痛くありませんね。
――と、小さく首を捻りました。
相変わらず巫戟の力は感じませんが、呪符自体の力が増しているんでしょうか。
「痛みますか?」
「いえ、ちぃとも」
「ほんとですか!?」
「ほんとにほんとの、ええ、ちぃとも」
「良かった」
心の底から安堵したような、そんな『良かった』でした。
ご自分の呪符の効果があった事よりも先ず、あたしの身を案じてくれる良庵せんせにまたしてもキュンとしちまいますねぇ。
良庵せんせと共に門を潜ったその際に、あの『痛みや病いに効く呪い、有り〼』の看板にさりげなく触れ、『〼』の部分に巫戟の念を籠めました。
一応ね。なんだか嫌な予感がしますから。
その日、訪いも告げずにがらりと扉を開いて顔を覗かせたのは、良庵せんせの幼馴染の賢哲さん。
「よぉ! お葉ちゃんは今日もすこぶるべっぴんさんだねぇ!」
「まぁ賢哲さんたら。お上手なんですから」
うふふ、と微笑んで軽くいなすに留めておきます。真に受けたってしょうがありませんし、あたしが別嬪なのはあたしも十分承知の事実ですから。
なんてね。
「ところで良人の奴ぁいるかい?」
よしひと、って良庵せんせの本名ですよ。御存じなかったですか?
庵良人が本名なんですよ。後出しでごめんなさいね。
良庵せんせのご両親はご健在だそうですが、今はお二人で旅に出られているんです。
そして旅に出る際、
『道場は良人、お前に任せる。好きにして良いが、出来る事なら細々とでも畳まずに続けてくれ』
そう言って全てをすぽんと良庵せんせに放り投げて、二人仲良く旅立ったのが一年ほど前だそう。
良庵せんせは『好きにして良い』をこれ幸いと喜んで、道場の倉庫を診察室に作り替え、門には例のあの札『痛みや病いに効く呪い、有り〼』をぶら下げて、勝手に野巫医者を名乗ったんです。
同時に名前の方も――
「賢哲、僕はもう良人ではないと言っているじゃないか。良庵と呼んでくれ」
こちらも勝手に医者っぽい名前を名乗る事に変えたそうなんです。まぁ、ぶっちゃけ可笑しな人ですよね。
「それで? 今日はどうしたんだ? どう見たって元気そうなお前が診察って訳でもないんだろう?」
「違ぇよ。今日はよ、おめぇに会わせたい人がいるんで連れてきてんのよ」
あら、お連れ様がありましたか。という事は門の外でお待ちなんですね。
この間から我が家の敷地には結界が張ってありますからね、何者かが門を潜ればあたしはいつでも気付けるんですよ。
そう言えばあの、あたしにぶち当たった大男はどうなりましたかね?
あれから数日経ちましたが特にやって来る気配もありませんし、例のあの木札の〼に施した結界もこれまでなんの役にも立っていませんよ。
強いて言えばお客さまがお見えになられた時、先に気付ける事だけですね。
「菜々緒ちゃん、入っておくれ!」
賢哲さんのその声に反応したどなたかが、あたしの結界をぐにょんと通り抜け、それに合わせてあたしの背すじがびくんと跳ねます。
………………。
ごめんなさい、黙ってしまいました。だって……この方――
「どうだ良人! お葉ちゃんに負けず劣らずべっぴんさんだろう!」
「こんにちは。菜々緒と申します。久しぶりねぇ、お葉ちゃん」
にこりと微笑むとっても綺麗なこの女性。
だってあたしの姉なんですもの。
「え? 菜々緒ちゃん、久しぶりってぇ事は知り合いかよ?」
「ええ、妹なんです。ね、お葉ちゃん?」
猫かぶってやがりますねぇ、この女。
何しに来たのか知りませんが、どうやら先手を打たれちまった様です。話を合わせるしかありませんね、これは。
「ほんとお久しぶりですね、菜々緒姉さん」
そう言ってにこりと微笑んだつもりでしたが、心の奥が少し表情に出ていたようです。
「お葉ちゃんったら怖い顔。安心してちょうだい、私は常木の家に貴女の事を告げ口する気はないから」
ツネキ……という事は姉は今、常木菜々緒と名乗っているんですね。
姉は私より数十年ほど年上です。つまり尾っぽは七つ。七つの尾だから菜々緒。
なんて安易な名前でしょうね。
って、かつて睦美蓉子を名乗っていたあたしも偉そうな事を言えませんか。
「お葉さんのお姉さんでしたか。道場の稽古までまだ暇がある。お茶くらいしかありませんが、賢哲はともかくどうぞ上がって下さい」
「いや俺だって上げろっての」
あたしに姉がいる事も、旧姓が常木である事さえも、良庵せんせは今初めて耳にした筈ですのに堂々と一つの動揺もない自然体です。
ほんと凄いお人だなって、また少しキュンとしちまいますねぇ。
ま、あたしの旧姓が常木というのはあたしもいま初めて知りましたけどね。
「賢哲さん」
姉がくいくいっと賢哲さんの袖を引いて呼び掛けました。
「上がりたいのはやまやまですけど、あまりお時間が……」
「え? あ、あぁ、そうだったそうだった。すまん良人、お茶はまた今度だ」
「なんだ。忙しいのか?」
「おぅよ。これから町長のとこ行ってよ、アレ頼まなきゃなんねんだよ」
「アレ?」
なんだか頬から頭の先っちょまでを薄赤く染めた賢哲さんが言い淀みます。
あ、言い忘れてました。
賢哲さんもお医者さまっぽいお名前ですけど、その実、お医者さまでなくってお坊さまです。
ですから頭つるつる、それでもお顔立ちはなかなかの、良庵せんせの垂れ目とは対照的なキリッと切長の二枚目でいらっしゃいます。
良庵せんせの方がカッコいいですけどね。
「その、アレだ。な……仲人をな」
うぇっ!? ――っと、あたしらしくない心の声が出ちまいました。危うくうっかり口からも出るところです。
「うぇっ!? って事は賢哲が僕の義兄さんになるって事!?」
良庵せんせもらしくない口調で変な声が出ちゃいましたね。
「あ、そう言われりゃそうなるな。ま、よろしく頼むぜ義弟よ!」
ふははははは! と笑いながら出て行く賢哲さんの後ろをついて行く姉が、一度振り向きこちらへぺこり。
釣られて良庵せんせもぺこり。
あたしは頭も下げずに見詰めていましたが、上げた姉の顔には艶やかな妖しい笑みが張り付いていました。
ややこしいのがやって来ましたねぇ。
一体なにをしに来たんでしょうねあの女狐。
嫌な予感しかしませんよ。