自分がまるでラプンツェルにでもなった気になっていたのか。
 自身を閉じ込めていた檻から出してもらっているような。ただひたすらまっすぐ歩いてきた道を、曲がることを教えてもらったような。会話をするたびに、自分が全く触れてこなかった世界線を知る。
「分煙大事だから」
 日付が変わる前、もうすっかり静かな住宅街。都会だと人は普通に歩いていて、明かりも多く、恐怖心はほとんどない。今隣で車道側を必ず歩き、車や通行人から私を守ってくれるこの人___大学時代に知り合った友人の村山くんは、私と少し離れて煙草に火をつけた。大学時代、高屋くんの乗る電車が遅延したり、バイクでの通学中に渋滞に巻き込まれたり。そんな風に遅刻してきた村山君に板書を送るなど助けの手を差し伸べていたら、いつの間にか縁が出来ていた。頻繁ではないものの、卒業後もたまに会ってご飯に行くほどには仲も深まったらしい。そしてそのご飯の後、一緒に散歩をして深夜徘徊をする。二人の関係は、少しずつ変化していた。
「もうこれからは隠さないで良いからね」
「いや、でも藤井さんの前では吸わないようにするよ」
「良い。寧ろ吸ってほしい。……わかってたし」
 真面目という言葉には収まり切れないほど真面目に生きてきた私にとって、村山君が話してくれる過去は新鮮そのものだった。それは、出会った時からずっと。私が真面目過ぎるが故に村山君は自身のことをはっきりと喋るわけではない。だからわからない部分も多いが、私なりに解釈すると少しだけやんちゃしていた、とでも言うのだろうか。煙草もお酒も早くから嗜んでいたであろう村山くんは、その事実を私にひた隠しにしていた。他にもまだ、私に隠していることが山積みになっているはずだ。暴きたいわけでもないし、全てを知りたいわけでもないけれど、いつかそのうちの一つを教えてくれたら幸せだなあと思う。
「藤井さんするどいもんね」
「経験浅いくせに、何故かわかっちゃうんだよね」
 私は煙草を吸ったことが無いし、お酒も付き合いでしか飲まない。好き嫌いの次元にはなく、興味が無いに近いのだと思う。周囲に煙草を吸う人は村山君以外いない。だけど、その人自身を見ればその人がお酒や煙草とどの程度の距離感にあるのか、わかってしまうのだ。なんとなくの勘、になるのだと思う。必修のクラスの男子たちが、どの程度煙草やお酒を飲んでいるのか……大学時代、勘で言って全員当ててしまい、村山くんを驚かせた。私の、言えるほどでもない小さな特技。
「俺も序盤で見抜かれてたしな。依存はしてないけど嗜んでる程度には吸ってるでしょ、って」
「ね。……あ、銘柄は教えてくれないんだ」 
「わからないだろうからさ」
 煙草を吸う村山君を見つめる。秋の夜は冷たい。でも冷徹な冷たさじゃなくて、温もりを感じさせるための冷たさなのだと思う。スイカにかける塩のような……季節外れな例えすぎるか。だから、別に芯からは冷えていないしなによりどこか心は温かい気がする。 「あんなに嫌いだったのにな」
 村山君の吐き出した煙が私にかかる。小さい頃は、喫煙者とすれ違うだけでも匂いで頭痛や吐き気がした。得意になったわけじゃないけれど、こんなに近くに喫煙者がいてもなんともない自分の体に驚く。いつのまにこうなっていたのだろう。自覚も記憶も無ければ慣らした訳でもない。歳を重ねるとは、こういうことなんだろうか。
 村山君の吸う煙草に、線香花火のような情緒を覚えた。胸がぎゅっと痛くなる。けれど線香花火という表現は、ハマりすぎている割に納得がいかない。食べ物の味を他の食べ物に例えて伝える食レポのような引っかかりを覚える。煙草に、世間一般の人が想像する線香花火の儚さとイメージが重なった。線香花火以外の最適解を探すけれど、私の語彙力ではこれが精一杯らしい。
「撮ってもいい?」
「俺……僕でよければ別にいいよ」
 私に怖がられたくないからと、出会った時から封印していた関西弁と、一人称の俺。村山君が気を抜いた時に、たまに零れるそれに笑みを零してしまう。村山君の心の動きが見えたようで。バッグから愛用している小さなフィルムカメラを取り出して、村山くんを数枚撮った。煙草、撮ってみたかった。カメラを向ければ、村山君は目を伏せて顔を少し背ける。煙草を吸う横顔を、一枚写真に収めた。
 アルコール、自堕落な生活、煙草、喫茶店、フィルムカメラ……世間の人々がそういったものを「エモい」と表現することが好かなかった。寧ろ毛嫌いしていた。エモいってなんだよ。勝手にエモくして、流行り廃りにして……人の趣味や大事な場所にずかずかと入り込んで我が物顔で踏み荒らしていく世間の、節操のなさを嫌う。けれど今、エモいと言いたくなる人の気持ちが、わかってしまった。煙草を片手にホットの缶コーヒーを買った村山君を見つめる。この胸の痛さ。永遠を願う一瞬。我が物にすることも出来ず消えそうな存在。未知への憧れ。近くて、遠くて、甘い距離。恋とも友とも分類したくない感情。悔しいけれど、エモかった。
「藤井さんはコーヒー嫌いなんだっけ」
「小さい時に母親のを飲んで苦かったから、それ以来得意じゃないね」
「飲んでみん?」
 村山くんはそう言って自販機を指さした。あの強烈な苦さが思い起こされる。いまだに忘れられないほど、幼い私にとってブラックコーヒーの苦さは鮮烈だった。それ以来避け続けるうちに、今ではコーヒーを飲める人に憧れを抱くほど周囲がかっこよく見える。でも、不思議と今なら飲める気がした。思い出が興味に負けてお財布から百円玉を取り出し、自販機に入れた。
「初心者にはどれがおすすめかな」 
「金色のやつ。微糖って書いてあるの」
 言われた通りの缶コーヒーのボタンを押した。音をたてて落ちてきた缶が熱かった。体は温かいけれど冷えていた手がだんだんと温もっていく。このアンバランスさも、秋だ。
「もう飲める?」
「……うん。いけると思う」
 猫舌の私にとってきっと缶コーヒーは大敵。缶を手で握って少し温度が下がったところで、村山君にも確認してもらう。村山君も私と同じく猫舌らしい。缶を開けおそるおそるコーヒーを口にすれば、思っていたよりもはるかに控えめな苦さが口に広がった。
 「飲めそう?」
「うん。思ってたよりも苦くなかった」
「そっか。大人になったんだよ」
 何口連続で飲んでも、口いっぱいにコーヒーを含んでも、待ち構えていた苦さはこない。代わりに、控えめな苦さが口に残ることもなくただただ流れていくだけだった。この缶コーヒーが微糖だからだろうか。それとももしかしたらあの時飲んだコーヒーも、これくらい大したことなかったのだろうか。
「……自分が飲んでる時はあんまり感じないけど、人が飲んでる時に香るコーヒーの匂いが好きなんだよね」
「じゃあ、村山君の前限定でこれからコーヒー飲むね」
「まじ?よっしゃ」
 約束がまた交わされてしまった。私がコーヒーを飲めないという事は友人たちの間では周知の事実。けれどそれを更新する気は起きなかった。大人になりきりたくない。設定だけでも、そのままで。それに、コーヒーは村山君の前だけの特別なものにしておきたい。ぐるぐると感情が回って、その隙に缶コーヒーは少しずつ冷えていく。
「藤井さんが選んでよ」
 二本目の缶コーヒーを買おうとした村山君は、私に選ばせようとした。あいにく初心者がすぎて、三種類あるコーヒーの内どれがいいのかもわからない。どちらにしようかなで決めようとしたけれど、安パイは面白くないと言われてしまった。何でも飲めるからと言われ、迷った末にまだ私も村山くんも飲んでいない青色の物を選ぶ。ボタンを押せば、ガコンと音が辺りに響いた。熱い缶を拾って村山君に渡す。
「ありがとう」
 二本目のコーヒーも、村山君は苦さを感じさせない表情で流し込んでいく。今この空間が、村山君のすべてが、得も言われぬ感情で包まれていた。スノードームにして大切に取っておきたいと思ったけれど勿論辺りに雪なんか降ってないし、だいぶん狂気的な発想だし、雪が無いなら代わりに煙が降ってくるのでも良いですねーなんて、呑気な私の脳みそ。
「これで今日は寝れないわ」
 そう言って村山君は煙草と缶コーヒーを少しだけ持ち上げて揺らした。縁遠すぎて全く気付かなかったけれど、確かにそうだ。通っている心療内科の先生に、コーヒーとか緑茶飲んでない?と何度か聞かれたことを思い出す。
「あ、そっか。やっちゃったな……私不眠症なのに」
「うわ、そうだった。大丈夫?」
「薬は効くと思うし大丈夫。私よりも村山君の方が心配」
「なんとかする。最悪徹夜で」
 村山君は笑って、煙草の吸殻を缶に押し込んだ。ゴミ箱に缶が落ちていく。
「じゃあもう藤井さんコーヒーは飲まん方が良いな」
 そんな寂しいこと言わないでよ。
「ううん。飲むよ、村山君といるときだけ」
「ほんとに?やった」
 夜に溶けていく、紛れていくなんてありきたりな表現はしたくない。でも、京都の夜の片隅、私たちなりの埋め合いは確かにここに存在していた。