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 見上げた林の斜面はところどころ赤土が露出していた。

 連日つづく局地的な雨のせいで道路に面する山肌が削られているのだ。

「ここも危ないなあ」

 ヘルメット姿の春野理紗は災害マップに蛍光マーカーで印をつけた。

「ハル先輩、林リーダーから五回も着信」

 ふりむくと、配属三年目になる後輩の大野秋彦がスマホをちらつかせながら埃まみれの巡回用バンを下りてくる。
 白シャツにカーキの作業パンツ。

 足下はゴム長靴。

 完璧な土木スタッフのスタイルだが、すらりとした身長に端正な顔立ちのせいでやぼったい服を着せられたイケメンモデルのようだ。

「えっ、もうそんな時間?」

 理紗があわてて腕時計を見ると、とうに昼休みをすぎている。

 気合いを入れてポニーテールを結びなおした。

「ごめん、アキ。あと一件いい?」

「また昼ぬきですかあ。いいかげん午後にしたらどうです?」

「お願い、あと一件だけだから」

「今日で三日目。こんなペースで続けてたら身がもちませんよ」

 秋彦は肩をすくめた。

 U市東部地区は、南北に連なるなだらかな丘陵地帯が隣町との境界を形成しているが、近年頻発する大雨のせいで山肌が削られいつ土砂災害が起きてもおかしくない。

 理紗と秋彦は市役所の都市計画課に所属する職員で災害時の避難経路や危険区域を載せた防災マップの確認作業中だった。

最近の異常気象のせいで、気象庁が発令するエリア警報が出てからでは命に関わるケースが多い。

雨ひとつとっても異常が常態となった二十一世紀は他国との戦争ではなく、日常的に命を落とす危険が増えた。

防災マップの更新は行政からの警報にたよらず、必ず住民に自主避難をうながす材料になる、理紗はそう確信していた。

 秋彦は理紗に両手を顔の前で合わせて「お願い」され、「しょうがないなあ」とため息をついた。

 なんだかんだ秋彦は理紗の情熱に押し切られることが多いのは、心の底で理紗を尊敬する部分もあったからだ。

 理紗は「やった」とつぶやくと災害マップを広げ歩きだした。

「次の場所は、と」

 ページをめくったその時、理紗の左足が泥の上をすべり体が傾いた。

 視界が回転し、頭上で森と空が揺れる。

 転ぶ、その瞬間、理紗の右腕が掴まれた。 

 浮遊感が一瞬で終わりを告げ、理紗の手からファイルと地図が音をたてて泥まみれの地面にちらばる。

 理紗が苦笑いをしながらゆっくりとふりかえると、
「バカですか」
 と、秋彦が呆れた声で言った。

「ごめん」

 秋彦はしゃがんで理紗の落とした書類を拾いながらぼやいた。

「三回目ですよ」

「わかってる」

 三回目。

 それはこの三日間の外周り中に理紗の転倒を秋彦が助けた回数だ。

 理紗はよく何もないところで転ぶ。

 前方不注意なのか、せっかちなのか、その両方なのか、いずれにしても事務所で書類をぶちまけることは日常茶飯事だ。

 理紗は秋彦の指摘どおり今週に入ってから土砂災害の恐れのある場所で転びまくり、その都度秋彦に助けられている。

 理紗が二十九歳で、秋彦の五歳上だが、これではどちらがお守りをしているのかわからない。

「たしかにあせってもしょうがないよね」

 理紗はためいきをつき自分に言い聞かせるように言った。

「本当にそう思ってます?」

「思ってる思ってる」

 理紗は書類を拾いおえ、立ち上がった。

「今日は金曜だしね。もう終わり、終わり」

 やや投げやりな声に秋彦は不審げな顔をむけた。

 理紗はそんな後輩に向かってにやっと笑った。

「今夜は後輩をねぎらってあげよう」

「先輩のおごりならいいですけど」


 午後の二時過ぎ、上機嫌の理紗と疲れた顔をした秋彦が事務所に戻ると、二人の上司の四十代の林リーダーが不満げな顔で言った。

「やる気なのはわかったけど、おまえらいい加減なペースで仕事しろよ」

 秋彦は苦笑し、理紗は視線を天井に向けた。

 * 

「好きな人ならいますよ」
「へえ、そうなの?」

 理紗は駅前の居酒屋で三杯目のハイボールに口をつけながら後輩の返しに驚いた。

 お酒に弱い秋彦はすでに顔が赤い。

 夜の十時半。

 「俺も行く」と息巻いていた林リーダーは結局現れなかった。

 口ではあんなことを言っていても、根が真面目で結局残業をこなすタイプだ。

二人の話題は仕事から、恋愛話に移っていた。

「とはいえ俺の完全な片思いなんですけどね。その女性はつきあってる人がいて、幸せそうなんですよ。俺の出る幕なんてないんです」

「なんか意外」

 理紗は言った。

 秋彦に片思いの相手がいることはごく自然なことだが、理紗はほんの少しショックだった。

しかしなぜそう感じるのかはわからなかった。

 理紗には結婚をひかえた彼がいるし、秋彦に対しては、これまで仕事の相棒であるとは思っても恋愛感情を持ったことは一度もないはずだった。

 それなのになんとなく胸のあたりがもやもやする。

「好奇心で聞くんだけど、アキの好きな人ってどんな人?」

 秋彦の箸が止まり、上目遣いに理紗を見返した。

「先輩が俺のプライベートに興味持ってくれるの、はじめてですね」

「そ、そうだっけ?」

 理紗は秋彦から視線をそらした。

「ハル先輩、光太さんとつきあってどれくらいですか?」

 *

 その夜、秋彦はだいぶ飲んでいた。

 店のトイレで吐いて、歩くのもやっとだ。

 理紗は珍しい秋彦の姿を見て、さすがに責任を感じた。

この一週間、働かせすぎたかなと反省し、理紗は遠慮する秋彦をマンションまで送っていくことにした。

 ふらふらの秋彦をささえ、エレベーターで三階まであがる。

 部屋のドアを開けたときはさすがにほっとした。

 玄関からつづく廊下の先にリビングと寝室があった。

「ほらベッドまで行くよ」

 理紗が秋彦の背中を支える。

 秋彦は首を振るとお酒臭い息で言った。

「ベッドお? それはまずいですよ。俺、先輩とはそういう関係にならないって決めてるんですから」

「はあ? 何バカなこと言ってんの」

 理紗は寝室に入り、ひきずるようにして秋彦をベッドに座らせた。

 寝室のカーテンは空いたままで、月明かりが部屋を照らしている。

 電気の場所がわからずキッチンランプをたよりに水をいれたグラスを持ってくる。

「少しでもいいから飲んで」

 秋彦はグラスの水をひとくち飲んだが、すぐに後ろに倒れそうになる。

 理紗は横に座り、秋彦の体を支えた。

「ごめん、飲ませすぎた」

「先輩が責任感じることないです。もう大人なんだから」

「大人はああいう飲み方しないと思うけど」

「そうかなあ」

 理紗は秋彦に残りの水を飲むように言って、スマホを取り出しタクシー会社に電話をかけた。

 秋彦は水をひとくち飲んだきりうつむいている。

 理紗は秋彦の背中をさすりながらタクシーが来るのを待った。

 十分が経過した。

 理紗の隣で秋彦は眠ってしまったかのように動かない。

「アキ、タクシーが来たから帰るね」

 理紗の声に秋彦が顔を少し上げたので、コップを受け取る。
そのときだった。秋彦が理紗の右手をつかんだ。

 コップが理紗の手から落ちて床に転がる。

 次の瞬間ベットに押し倒された。

 秋彦が自分を見下ろしていた。

 月明かりに照らされた秋彦の目と理紗の目が一瞬合った。
 理紗が秋彦の名を呼ぶと、秋彦は返事の代わりにゆっくりと理紗に覆いかぶさってきた。 

 荒い息と熱を持った体温がシャツを通して伝わってくる。

 しかし、秋彦はそれ以上なにもしなかった。

 どれくらいそうしていただろう。

 秋彦は無言のまま、理紗を抱きしめる腕に力がこめた。

「先輩」

「なに」

「やっぱり俺じゃだめですか」

 理紗はとっさに答えられない自分に驚いた。

 驚いている自分を悟らせてはいけないとあわてて酔った頭をフル回転させた。

「アキ、ゲロ臭いよ」

 秋彦はばっと跳ね起きると、理紗から体をはなし、くんくんと自分のシャツのにおいをかぎはじめた。

 理紗は何ごともなかったかのように立ち上がった。

「タクシー来たから帰るね」

「……」

 理紗は玄関にむかった。

 半歩遅れて秋彦の足音がついてくる。

 玄関のドアに手をかける前、理紗が振りかえると、秋彦は理紗の視線を避けるように立っていた。

 理紗は秋彦のシャツの襟元をつかむと彼の首筋にぐっと顔を近づけた。

秋彦が息をのむのが伝わってきた。

 理紗はかまわず秋彦を引き寄せると息がかかるまで顔を近づけ、二、三度においをかいでから、ゆっくりと離した。

「やっぱりゲロ臭い」

 理紗は笑いながら言った。

「……シャワーあびます」

 秋彦がドアの向こうでつぶやくのが聞こえた。


2 
 土曜の昼、カーテンを開けると小雨がマンションの駐車場のあじさいをぬらしていた。

 昨夜のことが頭に浮かんだ。

 俺じゃだめですか。

 普段はめったに酔いつぶれない秋彦が、勢いだけで言ったとは思えない。

 それなのに理紗は酔った勢いと受け流した。

 秋彦と仕事をするのは楽しかったし、頼りにしていた。
 けれどどう答えていいのか正直わからなかった。

 スマホの呼び出しがなった。

 交際相手の佐村光太からだ。
 大学時代の先輩で、つきあって五年になるが、最近は海外出張が多く、近く最後の国内転勤を控えている。

 次の転勤はついてきてほしいと言われた。
 事実上のプロポーズだ。
 理紗は嬉しい反面迷っていた。
 結婚を決めれば、今の仕事を辞めざるを得ない。
 いづれ異動があるにせよ、理紗はいまの職場でやるべきことがあった。

 それでも二日ぶりの光太の声に理紗はほっとした。
互いの近況報告をしたあと、突然光太が意外なことを言った。

「そういえば、理紗の後輩のアキ君ってさ、どことなく智樹に似てるよな」

 理紗は、光太の口から職場の後輩と大学時代の元彼の名前が一度に出てきたことに驚きを隠せなかった。

「そう? 考えたことなかったな」

 光太はただの思いつきだというように、笑った。

「理紗の話の印象だけだけど、いつもフォローしてくれるんだろ、しっかりしてる感じのとことか智樹と似てる気がしてさ」

「コウくん、それってどういう意味?」

「まんまの意味だよ」

 理紗はうまく笑いに持って行けたと思ったが、光太との電話を切ると釈然としない思いが残った。

 秋彦と智樹が似ている。

 言われてみるとたしかにそうかもしれない。

 藤本智樹は理紗の学生時代の交際相手だったが、大学四年の夏に亡くなった。

 帰省先で大雨の日、押しよせる濁流から小学生の子どもを守り命を落としたのだ。

 まじめで優しく正義感が強かった。

 理紗は三年近く、智樹を失った痛手から立ち直れなかった。

 二歳上の光太とは智樹の通夜で再会したが、二人の交際はすぐにはスタートしなかった。

 三年後、光太に押し切られる形でつきあうようになってからも、光太は智樹の話題を避けてくれていた。

 智樹の死から八年がたち、もう忘れてもいいだろう、と光太は思っているのかもしれない。
 とはいえ理紗には未だに受け入れがたいことだった。

 それにしても光太の秋彦と智樹が似ているという指摘は気になった。
 たしかに二人とも普段はなにも言わないが、理紗をそれとなく見守ってくれているところがあった。
 智樹は目の前にいる人を放っておけない性格で、理紗はそういうところが大好きだった。

 秋彦にも似たところがあった。

 半年前も理紗が現場で転びそうになるのを腕をつかんでくれ、背中を痛めたことがあった。

 秋彦は気にするなと言ったが、休憩時間に理紗を小会議室に呼び出すとシャツを脱いで、シップを貼れと言った。

 理紗は秋彦の左の肩甲骨の上にシップを二枚貼ったあと、赤く晴れた秋彦の背中をさすっていた。

 どれくらいそうしていたのか、秋彦が「さすがに恥ずかしいんですけど」と言った。

 理紗がなにをいまさら、と思い、秋彦の背中をバチンと叩くと、いつものように「バカですか」と涙目になって秋彦が言った。




 月曜の朝、日本列島は雨雲に覆われ、気象庁は降りつづく雨に警報を連発した。

 都市計画課の通常業務は全て停止し、避難指示や災害対応に備え、巡回パトロールが始まった。

 課の先輩達の四駆の巡回車が次々に出て行く。

 理紗と秋彦はその光景を緊張の面持ちで見送った。

 二日ぶりに顔を会わせる秋彦はいつもと変わらなかった。

「金曜はごちそうさまでした」

「全部、もどしちゃったんじゃなかった?」

「たしかに、ってそれは言わないで下さいよ」

 秋彦は目をそらすと照れくさそうに言った。

 「でも私も飲ませすぎた。ごめん」

 苦笑いをしてみせると、秋彦はうつむいた。

「俺、先輩に謝らなくちゃと思って」

「謝る? 何を?」

 理紗はいじわるだな、と思いつつそっけない声で言った。

「その、えっと」

 秋彦が逡巡する様子を見るのは珍しいので、面白かった。

 しかし今はじゃれてる場合じゃない。

「私ぜんぜん気にしてないよ。アキがゲロ臭いシャツで抱きついてきたことなんて」

 言い捨てて背を向ける。

 背後で秋彦が肩をがっくり落とす様子が伝わってきた。
 いつものやりとりになって理紗は内心ほっとしていた。
 しかし顔を上げると、林リーダーと目があった。

 あきらかにその顔は「お前らけんかした?」と言っていた。

「リーダー、話があるんですけど」

 理紗は上司にむかって声を張りあげた。



 *
 辺りはすでに暗かった。
 雨脚は強くなる一方だったが、山間を走る道路は高木の枝葉に遮られ、地面に落ちる雨粒が少なく視界は良好だ。

 理紗と秋彦、上司の林は東部地区に警戒用の看板を設置していた。

 午後の時間のほとんどを近隣住民の自主避難の呼びかけに費やしたあとのことだ。

「春野、これで最後だ。行ってくるな」

 林は理紗と秋彦をバンから下ろし、十分気をつけろ、と言って車を発進させた。

 上司はここから三百メートル先に警戒用の看板を設置に行くのだ。

 市役所に道路を封鎖する権限はないが、この地域はいつ土砂崩れが起きてもおかしくない。

 せめて迂回を促す看板は設置するべきという理紗の提案が通ったのが八時間前のことだ。

 午前中、理紗はダメ元でこの件を林に提案した。

 林は理紗の熱心な説得にもかかわらず今からではとても網羅しきれないし、二人だけで行かせるのは危険すぎる反対した。

 危険区域は山間部だけでなく、平野部の河川近隣も含まれている。

 むしろそちらのほうを優先すべきという意見もあったが、理紗には限られた人員をどこに割くのかという毎度の問題を蒸しかえしているように思えた。

 職員の出はらった事務所で押し問答を繰りかえしていると、見かねた建設部長がやってきて、理紗の提案を受け入れ、上司の林までつけてくれた。



 厚手の雨合羽から水滴が落ちて理紗の目に入る。

 すでに汗か雨水かわからないほど、ヘルメットの中はぐっしょり濡れていた。

 カラーコーンを運ぶ腕が棒のようになり、体中が痛い。

 この道路が終わればひとまず災害マップの危険区域は網羅した。

 なんだかんだ林のおかげで作業時間は半分になった。上司に感謝しなくては。

 秋彦は理紗から少し離れた場所でカラーコーンにロープを貼っている。

「アキ、私向こうから張るね」

 雨脚が強まり、理紗が声を張り上げる。

 くぐもる視界の先で、秋彦が振りかえりうなずいた。

 そのとき、理紗は足下に地響きのような振動を感じた。

 地面が揺れていた。

 地震か、そう思った次の瞬間、理紗は凍りついた。

 左手の山の斜面が揺れ、耳をつんざくような轟音があたりに響いた。

 理紗は後ろから腕を引っ張られ、勢いよく背後に倒れた。

 秋彦だった。

 耳元で「バカですか!」と叫んでいる。

 見ると、目の前数メートル先を土砂が恐ろしいほどの勢いで流れていった。

 秋彦に引っ張られなければ、流されていただろう。

 見る間に濁流と化した土砂があっという間にこちら側に向かってくる。

 秋彦に促されて立ち上がると、アスファルトがぐらりと揺れ、二人の足下が液体のように陥没しはじめた。

 ここもあぶない。

 秋彦は理紗を突き飛ばした。

「アキ!」

 振り返って叫ぶと、背後の道路に土砂が押しよせ、下に流されていくのが見えた。

 秋彦の姿はどこにもなかった。

 理紗は後ずさりながら秋彦の名前を叫びつづけた。

 しかし、次の瞬間、理紗は濁流に足をとられ転倒した。

 頭を激しく打ちつけ、目の前が真っ暗になった。 



 4

 理紗は冷たく暗い濁流の中にいた。

 息ができず、体は凍ったように動かない。

 このまま死ぬのだろうか。

 暗い地の底に墜ちてゆくのを感じ、理紗は恐怖した。

 指一本、まぶたひとつ動かすのがつらい。

 そのとき、右腕が誰かにつかまれた。

 なつかしい感覚に、重いまぶたをやっとあける。

 視界の先に見えたのはぼんやりとした影だった。

 その影は理紗の体を支えながら濁流に抵抗しようともがいている。

 岸にむかっているが、自分を抱きかかえるその力が少しずつ弱くなっている。

 岸辺につくと、その腕は最後の力をふりしぼるように理紗の体を押し上げ、流れの中に消えていった。

 理紗はつかみそこねた腕を求めて叫び続けた。

 そこで目が覚めた。

 理紗は病院のベッドに寝かされていた。

 真っ白な天井に無機質な電灯。

 体のあちこちが痛むが、骨は折れてはいない。

 ただし頭痛がひどかった。

 記憶がはっきりせず、頭に手をやると包帯が巻いてある。

 枕元に母親がいた。

 理紗にむかって何かを言っているがよくわからない。

 母親は病室を走って出て行き、理紗はふたたび眠りに落ちた。

 次に目覚めたとき、事故から二日が経過していた。

 仕事中に土砂災害に巻き込まれて奇跡的に助かったのだと言われ、霧に覆われたような記憶がゆっくりと晴れていった。

「アキは? アキは大丈夫?」

 理紗の問いかけに母親は返事をしなかった。

 「秋彦君は、わからないの」

「生きてるの?」

「一つ離れた病室よ。まだ目が覚めなくて」

 理紗は母親が止めるのもかまわずに、部屋を出た。

 足はふらつき、一歩ごとにめまいがした。

 三○二号室の戸を開けると、秋彦がベッドにいた。

 理紗と同じく頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、左腕にギプスをしている。

 けれど、それだけだった。

 生きていた。

 近づくと顔が擦り傷だらけだが、小さく寝息をたてていた。

 理紗の目に涙がにじんだ。

 理紗は思わず秋彦に抱きついた。

 秋彦はうめき声をあげたあと、ゆっくりと目をあけた。

「……先輩?」

 理紗はもういちど抱きついた。

 秋彦のうめき声が大きくなったが、理紗は放さなかった。

 ふいに背後の扉が開く音がした。

「お前らなあ、また俺ぬきでいちゃついてんのかよ」

 理紗が振りむくと林がフルーツの入ったカゴを持ち、病室の入り口に立っていた。


 *
 秋彦より三日ほど早く退院することになった理紗は秋彦の病室を訪れていた。

 秋彦は念のため検査をし、少し遅れて退院することになった。

 二人が巻き込まれた土砂災害は道路を寸断する大規模な被害を出したが、人的被害は奇跡的に理紗と秋彦の負傷のみだった。

「名誉の負傷ってやつですね」

 すでに生きのびた感慨が抜けた秋彦がベッドの上で憂鬱そうに言った。

「もう少し入院してたい?」

 理紗の問いに秋彦は首をどうかな、と首をかしげた。

「先輩が俺の書類仕事を全部やってくれるならいいけど」

「それくらいやるよ」

「書類嫌いなくせに」

「今回は秋彦が命の恩人になっちゃったからさ」

「いや、ほんとにびっくりですよ」

 秋彦はまじめな口調で言った。

 理紗は言葉につまる。あのとき秋彦がいなければ、理紗は土砂に巻き込まれあのまま命を落としていた。

 加えて林リーダーの迅速な救助と応援があった。

 土砂に巻き込まれて軽傷で済んだのは奇蹟中の奇蹟だ。

 結果オーライとするにはあまりにも今回のことは重すぎる。

「異動届け、一緒に出そうか」

 理紗が明るくいうと、秋彦は驚いた。

「先輩はほんとにそれでいいんですか」

「いいも何もこんな目にあってさすがにね」

 理紗はうつむいた。

「俺、先輩がなんでムキになって災害マップ作ろうとしてたのか知ってますよ」

「え?」

 突然の秋彦の言葉に理紗は顔をあげた。

「リーダーから全部聞きました。先輩が大事な人を災害で……」

「そっか、知ってたの」

 理紗は苦笑いした。

「おかしいなって思ったんですよ。東部地区にすごいこだわってたでしょう。先輩ってフレンドリーに見えて肝心なこと話してくれないし、そう思ってたらリーダーに呼び出されたんです」

「リーダーなんだって?」

「ハル先輩が暴走したらお前が止めろって」

 理紗は肩をすくめた。

「止めなかったよね」

「そりゃそうですよ。先輩と暴走するの楽しかったし」

 秋彦はこともなげに言った。

「バカだね、死ぬところだったんだよ」

「それはこっちのセリフです」

 理紗の言葉に秋彦は肩をすくめた。

「……でも俺たちの仕事ってそういう面もあるでしょ」

 理紗は秋彦の真剣な表情に智樹の面影が重なるのを感じ、胸が痛んだ。

「先輩がしようとしてたこと大事でしたよ」

「でも、アキが死んでたらって考えたら」

 ふいに、視界が曇った。

 智樹を失ったこと、秋彦がそうなりかけたこと。

 急に涙がにじんで頬を伝う。

「怖じ気づいたよ」

 理紗は涙をぬぐった。

 秋彦はふう、と息をはくと言った。

「俺なら大丈夫ですよ。ほら、このとおり元気だし」

 秋彦は包帯をしている左腕を持ち上げたが、すぐに「いっ」
 と、言って固まった。

 理紗は笑った。

「ほんとバカだね、私たち」

「でもまあ、お互い生きててほんとによかったです。だからこのことはこれで終わりです」

「でも」

 という理紗を遮って秋彦が言った。

「いいじゃないですか。二人で真面目に仕事して死にそうになったってことで」

「じゃあ、このことは私たちだけの秘密だね」

 理紗の言葉に秋彦がきょとんとする。

「秘密、ですか?」

「まあ、秘密って言っても二回目だけど」

「えっ、一回目ってなんです?」

「アキがゲロ臭いのに抱きついてきたこと」

「だから、その件については忘れて下さい」

 秋彦は顔を真っ赤にして抗議した。




 5
 退院後、二人は出勤前に快気祝いをした。

 病み上がりなのでその日は二人ともアルコールには手を出さなかった。

 かわりに病院食から解放され、遠慮なしにメニューを注文した。 

 店の外に出ると、数日前までの大雨が嘘のように夜空に星が瞬いていた。

「今夜は俺が送りますよ」

 前を歩く秋彦が言った。

 二人の出勤は傷病休暇が明ける来週からだ。

 二人で仕事に復帰する愚痴をぼやきながら夜道を歩く。

 七月の夜にしては湿気が少なく、風が心地よい。

 アキとこんなふうにいつまでも歩きたい。

 ずっとこの時間がつづけばいい。

 理紗はそう思うことにもう後ろめたさを感じなかった。 

 理紗のマンションが見えるとどちらともなく無言になった。

 名残惜しい気がして、何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。

 そうこうしているうちについてしまった。

 マンションの入り口までくるとそれまで黙っていた秋彦が突然足を止めた。

 理紗が振りむくと秋彦がこれまで見たことのない顔をしていた。

 泣き笑いのような顔だった。

 その秋彦がぼそっと言った。

「先輩、結婚しちゃうんですか?」

「え?」

 理紗の心臓がぎゅっと締めつけられた。

 答えが見つからなかった。理紗が黙っていると、秋彦が近づいてきた。

「先輩、三回目の秘密いいですか?」

 自分の目の前に立つ秋彦を見上げると、あの夜の顔をしていた。

 理紗はうなずいた

「いいよ」

 理紗の言葉が終わないうちに、秋彦は理紗の背中に両腕を回すとそっと抱きしめた。

 秋彦の体温が一瞬にして理紗を包む。

 理紗は秋彦に対し、はじめて胸が締めつけられるような感覚になった。

「アキ……」

 秋彦は理紗を抱く腕にさらに力をこめると、肩越しに言った。

「先輩、来週からちゃんと後輩に戻りますから。だからもう少しだけ許してください」

 理紗は無言のままうなずくと、空を見上げた。

 夜空は町の明るさを吸い込み、星はそれほど見えない。それでも、きれいだった。その星空を目に焼きつけたかった。

 どれくらいそうしていただろう。

 ふいに秋彦の力がゆるんだ。

 秋彦は理紗から離れる瞬間、耳元で「幸せになって下さい」と小さな声で言った。

 そしてゆっくりと背を向けると、もと来た道を帰って行った。

 理紗は黙ったまま秋彦の後ろ姿を見つめていた。その姿に八年前の智樹の後ろ姿が重なる。

 理紗はにじんできた涙をぬぐうと、背を向けて自分も歩きだした。

 夏が本格的にはじまろうとしていた。