「お待たせいたしました。マンハッタンでございます」
「ありがとうございます」
受け取った赤いカクテルを一口。
その甘さと奥にあるほろ苦さが、今の自分自身の心境を表しているような気がして切なくなった。
「そういえばヤマって、酒強かったんだっけ」
「そんなことないよ。これが好きなだけ。それを言うならモンちゃんの方が強いでしょ。さっきからウイスキーばっかり飲んでるし。それ度数高いやつじゃん」
「俺はいつもはそこそこだよ。ただ、今は酔いたい気分だから」
「……そうだね」
雰囲気の良いバーで、隣に座るのは友達の門前 菖蒲。
私、山崎 美里とは高校の同級生で、知り合ってもう十年近くなる。
お互いを苗字から取って"モンちゃん"、"ヤマ"と呼び合う私たちは、あっという間に今年二十五歳を迎えようとしていた。
あの頃は学校帰りにみんなでファミレスに行くのがお決まりだった。そこでドリンクバーを頼んで入り浸っていたのに、今ではこんなバーに出入りできるくらいの大人になってしまった。
だけど、心の中はあの頃から大して成長していない気がする。
二人でバーで飲んでいるなんて、周りから見たら付き合っているように見えるのだろうか。
そう思うとやるせなくて、少しだけ笑えた。
隣を見ると、鳴りもしないスマホの画面を見つめながらウイスキーを飲むモンちゃんの姿がある。
もうどれくらいそうしているだろうか。
モンちゃんは自分から私に話を聞いてほしいと飲みに誘ってきたくせに、私の方は一切見ようとしない。
ずっと、スマホの向こうにいる愛しい人のことしか考えていないのだ。
「モンちゃん、ウイスキー追加する?」
「……うん」
「すみません、これと同じものを」
「かしこまりました」
バーテンダーの男性は柔らかな笑みを浮かべて追加のお酒を作ってくれて、私はそれを受け取ってモンちゃんの前に置いた。
「……モンちゃん」
「……うん」
「連絡、待ってるの?」
「……そう。もしかしたら、って」
つい数日前に別れたと言う彼女。付き合う人に対して一途で誠実に向き合うモンちゃんは、何故かフラれてしまうことが多い。
"優しいけどつまらない"
"全肯定されると不安になる"
"もっと刺激が欲しくなった"
そんな生々しいセリフと共にフラれてしまうモンちゃんは、多分結婚相手としては最高の相手だ。
ただ、刺激のある恋愛を楽しみたいタイプには物足りないところがあるのだと思う。
今回フラれてしまったという元カノは、確か年下の女の子だった。
きっと、まだまだ遊びたい盛りで優しすぎるくらいのモンちゃんだと物足りなくなってしまったのだろう。
「……もったいないよね」
「……え?」
「ううん、こっちの話」
モンちゃんをフるなんて、正直見る目もないと思うしもったいないと思う。
だからそんな女からの連絡を待っているモンちゃんを見ると、どうしようもなく苦しくなるんだ。
モンちゃんほど誠実な人をフるような女なんて、碌でもない女に決まってるのに。
そんなのはただの私の偏見に過ぎないのはわかっているけれど。
でも、そう思ってしまうくらい、モンちゃんをフるなんてどうかしているんだ。
「モンちゃん」
「ん?」
「ナッツ食べる?」
「ん、食べる」
「おっけ」
だけど、モンちゃんはそんな彼女を愛していたんだから、私が何か言うことなんてない。
悪く言うなんてもってのほか。
私ができるのは、ただモンちゃんの話を聞くことだけだ。
実はモンちゃんとこうして二人で飲むのは今日が初めてだったりする。
モンちゃんは恋人にすごく誠実に向き合うタイプだから、彼女がいる時に他の女と二人で飲みに行くなんてありえないという考えを持っているから。
だから今日誘われた時は本当に驚いたし、それと同時に彼女と別れたのだなとすぐにわかった。
案の定このバーに入るとすでにモンちゃんは何杯も飲んでいて、それでも酔うことができずにこうして元カノからの連絡を待ち続けている。
そんな女、諦めればいいのに。
モンちゃんなら、もっといい人と出会えるはずなのに。
実際に会ったこともないから、元カノの何がそんなにいいのかは私にはわからない。ただ知っていることは、モンちゃんはその彼女のことが本当に好きだったということだけ。
「……俺、プロポーズするつもりだったんだ」
「え?」
「今度の記念日に。そのために指輪も準備してた」
「モンちゃん……」
「なのに、その直前にフラれるなんてバカだよな。……あいつの気持ちが俺から離れてることに全く気が付かなかった」
「それって……」
「……浮気、されてたんだ」
「そんな……」
まさか、フラれた原因が元カノの浮気だったなんて。遊びたいのだろうとは思っていたけれど、すでに二股をかけていただなんて思わなかった。
思い出しているのか、どんどんその表情が曇っていくモンちゃんを見ていられない。
「俺、何がいけないんだろうな」
「……モンちゃん」
「俺、そんなにつまんない男なのかな」
「違う。それは違うよモンちゃん」
「だって、毎回そう言われるんだ。"つまんない男"って。"平和すぎてつまんない"って。なんだよそれ。平和が一番じゃねぇのかよ。大切にしたらダメなのかよ。好きだからなんでもしてやりたいし、好きだから常に一緒にいたいんだよ。別に束縛したりなんてしてないしお互いに先約優先なのに。それなのになんだよ、"つまんない"って。つまんない男ってなんなんだよ。じゃあどうしたらそう言われずに済むんだよ……」
鳴らないスマホを握りしめて、モンちゃんは声を震わせる。
その背中に手を伸ばしかけて、グッと握ってから気付かれないようにゆっくりと元に戻した。
……勘違いしちゃダメだ。モンちゃんは、私の手なんて求めてないんだから。
「モンちゃん。私は、そんなこと思わないよ」
「……」
「こんなこと私が言っても慰めにもならないと思うけど……。でも、モンちゃんは私から見たら誰よりも良い男だよ」
「……ヤマ」
「モンちゃんがどれだけその子を大切に想ってたのか知ってる。その子のこと、どれだけ大切にしてきたのかも知ってる。だってモンちゃんだよ?誰よりも優しくて、誰よりも一途で頼れる男だよ。私は、モンちゃんの良さをちゃんと知ってるよ。ただ、その子にはモンちゃんの良さがうまく伝わらなかっただけ」
どう言えば、どんな言葉にすればこの想いが伝わるだろうか。
どうすれば沈んでいきそうなモンちゃんの心を引っ張り上げられるのだろうか。
「"平和でつまんない男"ってさ。私は最高だと思うけどな」
ゆっくりと顔を上げたモンちゃんに、ニッと笑って見せる。
すると、モンちゃんはその目にじわじわと涙を溜めてからふわりと笑った。
「ありがとな、ヤマ」
「うん。ほら、もうスマホは一旦置いて。飲も!」
「……あぁ」
再びグラスを持ち上げて顔を見合わせると、正面を向いてそれぞれのお酒を一口飲む。
モンちゃんはスマホに視線こそ向けないものの、気になっているのは手に取るようにわかった。
だけど、私もモンちゃんもそれには触れない。
それどころか、なんでもない普通の学生時代の思い出話に花を咲かせていた。
しかし、マンハッタンを飲み干そうとグラスを傾けた時だった。
「……俺、ヤマのこと好きになればよかった」
「……え?」
唐突な言葉に、私は驚いて手を止める。
モンちゃんの方を見ると、グラスに入っている円形の氷を見つめていた。
「ヤマの前でなら、"平和でつまんない男"のままでいられそうだから」
その視線が、ゆっくりと私の方に移動してきて。私のそれと絡み合う。
「っ……」
それが冗談だということはわかっている。
わかっているのに、私の胸は苦しいくらいに締め付けられた。
そうだよ。私の前でなら、そのままでいいのに。
私なら、そのままのモンちゃんを愛せるのに。
どうして。どうしてモンちゃんは。
そんな言葉が喉まで出かかったのを、ぐっと堪えて。
「……でもモンちゃん、友達から恋愛に発展するとか絶対無理だって昔から言ってたじゃん……」
またまたぁ、と私は冗談めかして笑う。
モンちゃんは高校時代からずっとそう言っていた。その言葉は、卒業して大学生になっても、就職してからもいつも変わらなかった。
……だから、私はずっと諦めてたのに。
いつもなら、"そうなんだよ、俺友達を恋愛的に好きになるとか絶対無いんだよ"と続きそうなものなのだが。
今日に限って、モンちゃんは黙ったまま私の視線を捉えて離さない。
「……モンちゃん?」
「なぁ、ヤマはどう思う?」
「え?」
「ヤマは、友達から恋人に発展するの、アリなタイプ?」
「え……なんで、そんなこと聞くの……?」
それじゃあ、まるでさっきのが冗談じゃないって言ってるみたいに聞こえる。
「……そういえば、今までヤマのそういう話ってあんまり聞いてこなかったなと思って」
まさか、そんなはずないのに。
「それは……モンちゃんが私に興味なかっただけでしょ」
「そうか……」
頷いて、それで終わるかと思ってたのに。
「じゃあ、今興味が湧いた」
「……は?」
「教えて。ヤマはどう思う?」
今日に限って、引いてくれない。
モンちゃんのグラスの氷が揺れる音が、やけに脳に響く。
その真剣な目が、その息遣いが、私の鼓動をどんどん早めていく。
「私……私、は」
「うん」
「友達から恋愛も……アリ、だとは思う」
「……例えば、それは俺とでも?」
「な……」
ずっと、隠し通してきた。
この気持ちがバレたら、もうモンちゃんと友達ではいられないと思っていたから。
恋人になれないのなら、せめて一番の女友達というポジションでいたかった。
それだけは守りたかった。
だけど、そんな目で見つめられたら。
そんな言葉を言われてしまったら。
隠し通していた気持ちが、喉を通って顔を出してしまいそうになる。
「そ、れは……」
「……ヤマ。もし俺が……」
その続きを聞きたくなくて、聞いてはいけないと本能がそう叫んで。
モンちゃんの目の前に、手のひらを出して制止する。
ここで頷けば、私はモンちゃんの彼女になれるのだろうか。
高校の頃から憧れ続けていた、モンちゃんの隣に堂々と立てるのだろうか。
……だけど、それでいいの?
じわじわと胸に広がり続ける恐怖に、心が支配されていく。
気が付けば、その恐怖は私の手を下ろし、そして首を横に動かしていた。
「……モンちゃん、それ以上は言っちゃダメだよ」
そう呟いた私に、モンちゃんは驚いたように目を見開いた。
「確かにモンちゃんはいい男だよ。それに気付かない女は何してんだって思う。モンちゃんが傷付いてるの見てられない。……だけど、それとこれとは別」
「……ヤマ」
自分の感情を抑えるためにグッと握った手のひらは、馬鹿みたいに震えていた。
ふぅ、と息を吐いて。すぅ、と息を吸って。
震えが止まったのを確認して、モンちゃんをまっすぐに見つめる。
「──モンちゃん。つらくても、苦しくても、自分と相手の価値を下げるようなことしちゃダメだよ。ずるい人になっちゃダメだよ」
「っ!」
「私は、いつもの一途で誠実なモンちゃんが好きだよ。それはもちろん、友達としてだけどね」
精一杯の強がりは、ぎこちない笑顔に変わった。
そんな私に対して、モンちゃんはハッとしてからみるみるうちに表情を歪めていく。
「ごめんっ……ごめん!俺酷いこと……本当、ごめんっ!」
さっきモンちゃんに頷いていれば、もしかしたら本当に付き合えたかもしれない。
夢にまで見た、恋人になれたかもしれない。
恋人にまでなれなくても、一夜の関係くらいにはなれたかもしれない。
だけど。
私は、そんな安い女にはなりたくない。
どんなに好きな相手でも、どんなに恋焦がれてきた相手でも。
その寂しさを忘れるためだけに、利用されるなんてまっぴらだ。
私にだって、女としてのプライドというものがあるんだ。
……なんて、嘘。本当は、怖かっただけだ。
関係を持った途端にあの子から連絡が来たとして。
捨てられるのが、怖かった。
これ以上、傷つきたくなかった。
関係を持ってしまったら、余計に自分が惨めになるだけだから。
それが、怖かっただけなんだ。
ごめんねモンちゃん。ずるいのはモンちゃんじゃない。私なんだよ。
怖気付いて、モンちゃんを悪者にしてしまった私が悪いの。
「謝らないで。モンちゃんが悪いわけじゃない」
「違う、俺、ヤマのこと利用しようとしたんだ。最低だった。……本当に、ごめん」
「大丈夫だよ。本心じゃないって、わかってるから」
寂しさに負けて、口が滑っただけ。ちょっと酔っていて、タチの悪い冗談を真面目っぽく言ってしまっただけ。
ただ、それだけだから。わかってるから。
「モンちゃんが気にすることないよ」
その言葉と同時くらいだったと思う。
ずっと静かに眠っていたモンちゃんのスマホが、音を立てたのは。
お互いその音に気付き、一緒にスマホに視線を向ける。
「え……」
「ほら、モンちゃん。やっときたんじゃない?」
ここからじゃ画面はよく見えないけれど、驚いたようなモンちゃんを見れば一目瞭然だ。
待ち焦がれていた人だろう。
良かった。そう思えるのは、モンちゃんが喜ぶとわかっているからだろうか。それとも、頷かなかった自分の選択が正しかったと思えたからだろうか。
「でも、俺……」
「モンちゃん。大丈夫。こんなことで、私たちの友情は壊れたりしないから」
「ヤマ……俺、俺っ」
焦ったようにスマホを見つつも、モンちゃんは手を伸ばすことをしない。
きっと、私がそばにいたら電話もしづらいだろう。
僅かに残っていたマンハッタンを飲み干すと、私はゆっくりと立ち上がる。
舌に残るほろ苦さが、また私の心を切なくさせた。
「モンちゃんなら大丈夫だからね。きっとうまくいくよ。また苦しくなったら飲みに誘ってね。じゃあ私、終電で帰るから」
ひらひらと手を振り、会計を済ませて店を出る。
モンちゃんは最後まで私の名前を呼んでいたけれど、もう振り返らなかった。
「っ……」
ドアが閉まり、地下から地上へ向けて階段を登る。
一段一段足を進めるたびに、そこに涙が落ちていく。
この選択が正しかったのかはわからない。
だけど、もういいの。
馬鹿だって言われようが、チャンスを逃したと言われようが、もったいないことしたと言われようが、構わない。
私も、モンちゃんも。これで良かったの。
きっと、これで良かったんだ。
ビルの入り口から外に出るとそこにはやけに静かな夜が広がっていた。
……大丈夫。私は大丈夫。
何度も、強くそう自分に言い聞かせると、涙を力任せに拭いて空を見上げる。
そこには、私を嘲笑うかのように澄んだ星空が広がっていた。
End.