今日は久しぶりに残業をしている。仕事が押しているわけではない。家に帰りたくないのだ。
「珍しいですね。五島さんが残業されるなんて」
「まあ、そうね。花田君もお疲れさま。仕事終わらないの?」
「……ええ。まあ」
私は今年三十になった。結婚の予定はないし、今は考えられない。
花田君は確か二十六歳だったか。まだ仕事に熱意を持っている真面目なタイプの後輩だ。
残業してでも仕事する意気込みは素晴らしい。けれど。
二人になりたいのは、花田君とではないんだけれどな。
「武田課長と何かあったんですか?」
「!」
花田君の突然の言葉に私はドキリとした。
***
私が結婚を考えられないのは、好きな人に家族がいるからだ。
昔から年上の男性に憧れた。就職してからは、所帯をもつ男性の落ち着いた雰囲気に魅力を感じるようになった。自分でもいけないことだとわかっているし、一線は越えないできた。
武田課長は三十九歳。私とは十近くも年が離れていて、娘さんが二人いる。
最初はいいな、と思っただけだった。どちらかというと静かなタイプで、でも笑顔が素敵な、部下から優しい上司と慕われている武田課長。
一度昼食を二人で食べたときがあった。そのときに武田課長は煙草を吸う人なんだと初めて知った。
「ごめんね。吸っていいかな?」
食後に困ったような笑顔で言われて、
「どうぞ」
と答えた。普段と違う笑顔にどきどきした。
少し横を向いて火をつけ、目を細めて煙草を吸う武田課長の、指や吐き出される煙に魅入ってしまった。
「ほんとは禁煙中なんだけどね。ごめんね」
私の前でだけ煙草を吸ったということが、なんだか心を許されているような気がして嬉しかった。
その日、私は武田課長の行動を知らず知らずに目で追っていた。仕事の話をしているのに、静かな瞳で見つめられると、心臓が高鳴った。もっと課長のことを知りたい。そんな気持ちが膨らんでいった。
それでも憧れを超えないだろうと思っていた。
けれど、毎夜武田課長の夢を見るようになって、私はすでに武田課長に恋していることに気が付いた。その頃には、事務所にいるときは常に武田課長の存在を全身で感じとろうとしていた。
私はそれだけよく見つめていたのだろう。
武田課長は私の視線に気付いたようだった。
「お昼、一緒に食べる?」
私たちは、二人で昼食をときどき食べるようになった。武田課長はそのときも煙草を吸っていた。
そんな日が二月ほど続いたとき。
「今日、夕食、一緒に食べようか」
廊下ですれ違うときに笑顔でさらりと言われ、私は一人で勝手にときめいた。夕飯。それはなんだか特別なことのように思えた。
「五島さんはいつも美味しそうに食べるね。一緒に食べると僕もなんだか楽しい」
「あの、ご家族と食べなくていいんですか?」
「ああ。普段食べているからね。たまにはいいんだ」
それ以来、二人で夕食を食べる日が増えた。
夕食だけ。夕食だけ、と自分に言い聞かせた。それが、夕食後ときどき二人でバーにいくようになった。
寝てはいない。けれど、こんなことしてはいけないことだ。
高揚感と罪悪感の狭間でたゆたう。夢を見ているような奇妙な感覚。でもそれが心地よく、そして苦しかった。
課長と私は言葉を多く交わすような仲ではなかった。ただ、一緒にいるだけでしっくりいくような、それでいてドキドキするような……。
この人には家族がいる。
そう毎日心で自分に言い聞かせた。
だからお酒を飲むだけ。もうこれ以上は望んではいけない。
「そんな悲しい顔はしないで」
ある日、武田課長に言われて私は驚いた。
「君は僕といるとき、不意に悲しそうな顔をする」
それは……。
「……君から見たら、僕はおじさんじゃないの?」
課長は私の想いに気付いてしまったようだった。
「違います」
即答した私に課長は困った顔で笑った。
初めて煙草を吸う前に見せた笑顔と同じだった。
「僕は家族を大切に思っている」
「そうだと思います」
「でもね、五島さんのそういう目を愛おしいと思うときがあるんだ。だから言い出せないでいた」
不意に課長に抱きしめられて私の心臓は跳ねた。
「いつになったら諦めてくれる? 僕は君に想われるような魅力はない」
諦めるなんて。そんなこと。
胸が苦しくなった。涙が零れた。
「諦めるなんて、できません」
「そう言われると僕も辛い。五島さんには幸せになってほしい。でも僕では幸せにはできない」
そう言っているのに、課長の腕には力がこもった。
「私は課長が好きなんです。お願いです、想うことだけは許してください」
「それじゃあ、君が哀れだ」
悲し気な課長の笑みに、私の心の中で何かが外れた。
「哀れと思うなら、今晩一緒に居てください!」
武田課長は私を腕から離して、私の目を見つめた。その瞳には葛藤があった。
「一度だけでいい。私と一緒にいてください」
課長が頭を振る。
「それは、できない」
「お願い! お願いします!」
泣きながら言う自分をみっともないと思った。それでもこの人が欲しいと思ってしまった。
課長は天を仰いで目を瞑った。
「この感情をなんというんだろう。確かに僕は妻を愛しているし、娘を愛しているのに……」
苦悩に満ちた声だった。
「近づけば離れていくと思った。君の一時の想いだと」
「だから一緒にご飯に行ったんですか!? バーに誘ったんですか!? そんなのあんまりです!」
「すまない……。すまない……。五島さんにこんな想いをさせることになるなんて」
課長の目からも涙が一筋こぼれた。私は課長に抱きついた。
「謝らないで下さい! 私が、悪いんです。課長に家族がいると知っていて好きになってしまったのですから!」
課長は私を抱きしめ返した。そして私の唇をふさいだ。
***
カーテン越しに射す光に、私は目を覚ました。
隣では課長が眠っている。
優しい優しい愛撫を全身が覚えている。幸せだった。
自分から望んだこと。それでも。これでおしまいと思うと悲しい。
課長の寝顔が愛しくて、頬に口づけた。
「ん……。ああ……。おはよう」
「おはようございます」
「……」
課長はゆっくりと起きた。そして、私をじっと見た。その瞳は複雑な色をしていた。
「これで……本当によかったの?」
「……はい」
「僕は五島さんを哀れんで寝たわけではない」
「……は、はい」
課長の顔が滲む。
「この気持ちをどういうかはわからない。でも、愛の一つだと思っているよ」
課長の指が私の髪を優しく梳いた。
「ありがとうございます。十分です」
「でも、これ以上は……」
「わかっています」
「君といると君を好きになっていく。でも、僕は家族に幸せなままでいて欲しい。五島さんへの気持ちがあるからこそ、これ以上一緒にいられない」
「はい 」
「君もちゃんと幸せになってほしい。心から思うよ。でも、やっぱり僕とではない。分かるね?」
「……っ」
返事をしようとして、言葉がつまった。
「っ、それでもっ。それでも、しばらくは課長を想っていてもいいですか? もう少しだけ時間を下さい。もう何も望まないから! ちゃんと諦めますから」
課長は私を抱きしめた。
「すまない。本当にすまない。でも、もう今後は、ただの課長と部下だ」
「っ……うっ」
私は嗚咽を堪えきれずに、課長の胸で泣いた。
***
それが先週のことだ。
課長は、あくまでも優しく私に接してくれている。一部下として。
夕飯も一度だけ食べた。
けれどその後飲みにいくことはなかったし、以前あった空気はもうそこにはなかった。
部下を気遣う心しか感じ取れなかった。
「なんでそんなこと聞くの?」
突然聞いてきた花田君に、私は動揺を隠しながらそう答えた。
「なんでだと思います?」
「さあ?」
私はあくまでしらをきり通した。花田君が私と課長にあったことを知っているはずがない。
「ばればれですよ?」
花田君の言葉に、心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。
「は?」
花田君が席を立った。そして私の席にやってくる。
「……何を知っているの?」
「五島さんと課長のことです」
「私と課長? 何を言ってるの?」
息が苦しい。私と課長の事は事務所中に知れ渡っていたのだろうか。そんなことになっていたら……!
「五島さん、今週、元気ないですよね。今日だって目が腫れてますよ」
「……別に。体調が悪いだけ」
花田君が私の机を叩いた。
「僕は! 上手く行っているならそれでいいと思っていました。そういう幸せがあるなら、それも一つの道なんだと」
「何、言ってるの?」
自分の動悸で声が震える。
「五島さんが課長の事を好きだって知ってます!」
「な?! なんで!?」
瞬時に声が出てしまった。
「そんな……。みんなに知られてるの? 私の気持ち……」
不安になって花田君に聞いてしまう。
「いや、たぶん皆は気付いてないです」
「そう……。よかった……」
少し安堵して私は息をついた。そして我に返る。
「じゃあ、なんで花田君は知ってるわけ!? どこまで知ってるの!?」
私の言葉に花田君は目を吊り上げた。
「なんでわからないんですか!?」
「? わからないよ!」
花田君の言葉は全く理解ができなかった。この状況で何をどう分かれというのだろう。
「僕が五島さんを好きだからです!」
花田君が怒鳴るように言った。その言葉は私の頭の中を通り抜けるように吹いて行った。
なんだろう。このエネルギー。この若さ。
あれ、なんだかすごいことを言われた気がするけれど……。
「意味分かってます?」
「……」
花田君は一度ため息をついた。
「僕は五島さんが好きなんです」
「花田君が私を?」
私は半分理解したようなしないような、微妙な感じだった。
「そうです。だから、五島さんが課長を好きなのが分かったんです」
「そうなの……」
私は他人事のように呟く。
「ああ、もう!」
花田君が強引に私を抱きしめた。
若い力には容赦がなく、またほのかに残るタバコの香りもない。課長のような包容力を感じられない。
そう一瞬で思って、課長の身体を思い出した私の目には、涙が浮かんだ。
「五島さん?」
花田君が抱きしめていた力を解いて、私の顔を見た。その花田君の顔が歪む。
「課長を思って泣いてるんですか? どうして課長じゃないとだめなんですか? 年上だからですか?!」
それもあるだろう。でも、私は課長を好きになったのだ。そよぐ風のようにさりげなく優しい武田課長。
「好きになるのに理由なんてない。だって好きになってから気づいたのだもの」
私の言葉に花田君が一瞬口をつぐむ。
「っ。でも、僕だって五島さんを好きになってしまったんだ!」
「おばさんだよ? 私」
そう言って、私ははっとした。課長と同じことを私は言っている。
でも花田君への想いは、私には微塵もない。
重なる。課長と自分が重なる。
課長は? 課長はどうだったのだろう。愛の一つだと言ってくれたけれど……。
「……さん。聞いてますか? 五島さん」
「え?」
花田君は泣きそうな顔をしていた。
「途中でまた課長のことを考えていたんですね。僕の想いなんてこれっぽっちも届いていない」
「ご、ごめん……」
「いいです。そういう残酷なまでにまっすぐなところ、好きなんです。僕には五島さんがおばさんには見えません」
「……ありがとう。ごめんね」
どうしてこう、うまくいかないんだろう。課長が奥さんに出会うまでに出会えたら、私と課長は結ばれていただろうか。課長は私を好きになっていただろうか。
わからない。
もっと遅く生まれていたら、花田君のことを好きになることもあっただろうか。
わからない。
年の差じゃないのだ。年上に憧れるのと好きになるのは違う。私は今の課長を好きになったのだ。
「本当にごめん……」
私は課長のように何もなかったようにはできない。まだまだこの課長への想いを引きずるだろう。
花田君の想いに応えることはできない。
「気持ちはどうしようもない。僕も頭ではわかっているんです。でも……。そうだ、五島さん、今日は仕事やめて、飲みましょう!」
花田君は急に声を明るくして言った。
きっと無理してる。
「花田君、仕事があるんじゃないの?」
「えっと、実は五島さんと二人になれそうだったから残ったんです」
花田君の気持ちがいじらしくて、切なくなる。
「……そうなの?」
「です。ね? 二人でぱーっと飲んで嫌なことを忘れましょう!」
私は複雑な気持ちになった。
「それで花田君は気が晴れるの?」
「っ。痛いところ付いてきますね。いいじゃないですか。晴れるかもしれない!」
そうね。飲むのもいいかもしれない。お互い失恋同士。
「一人で飲むよりかはいいかもね。酔いつぶれたら置いて帰るから」
「五島さん冷たいですね」
「今わかったの?」
私たちは事務所を後にして、近くの焼き鳥屋に行った。
「僕はですね~、五島さんの一番になりたかったんですよ~」
「はいはい」
「でも、しばらくは無理そうなので、一番の友達になります~」
「先輩捕まえて、友達ってどうなの?」
「いいじゃないですか~。なんでも相談にのりますよ~」
「こんな調子じゃ相談したくないわね」
「またまた~」
つぶれるまでは飲んでいないものの、酔っ払った花田君をタクシーに乗せて、私は近くの地下鉄の駅まで歩いた。
なるほど。誰かと酒を飲むと少し心が軽くなった。
しばらくはこのままでいいと思えた。私が勝手に課長に横恋慕していてもいいじゃないか。迷惑さえかけなければ。
「でも不倫はもうこりごりね」
小さくつぶやく。
「次は生産的な恋をしよう」
花田と私が恋人として付き合い始めるのはこの日から二年も先のことだ。
了