寂しがり屋たちは、今日も手を繋いだまま秒針を回した

「寂しい」

 中学二年生の時、その感情は突然襲ってきた。
 美術部の部活から帰って疲れていて、明日だって学校がある。それでもある日、急に「寂しくて」眠れなくなった。
 その日から、私の生活は段々と壊れていった。

「お母さん、今日何時に帰ってくる?」
「うーん、今日は八時くらいだと思うけれど……」
「八時!?」
「ええ。どうしたの?何かあった?」
「ううん、何にもない……」

 どれだけ強がっても中学から家に帰って一人でいると、涙が溢れた。


「寂しい」

「寂しい」

「寂しい」


 今まで普通に流してきたはずの「寂しい」という感情があまりに強くて、私はついにネットで症状を検索した。


【異常なくらい寂しい】


 表示された病名はあまりにそのままで、それでいて何処かしっくりきた。


【頻発性哀愁症候群】


 信じられなくても症状は治らず、ついには家族に気づかれた。ある日、お母さんが夕飯の後に私を呼び止めた。

菜々花(ななか)、最近何かあった?」
「え……?」
「最近、いつもと違う気がして……」

 震えた手で、病名の検索された画面を親に見せた。

「最近、おかしいの。寂しくて堪らないの。本当に私、おかしくなっちゃった……」

 溢れる涙が症状のせいなのかすらもう分からなかった。両親は神妙な顔でスマホに表示された病気の説明を読んでいた。
 そして、最後にこう言うのだ。

「奈々花、今週の土曜日に病院に行ってみよう」

 あまりに受け入れるのが早いのは、きっと両親も私を見ていて心当たりがあるから。それが悲しいのに、私の心は諦めがついているようだった。
 病院の先生は私の症状を聞くなり、いくつか質問をした。そして中学二年の六月十日、私は「頻発生哀愁症候群」と診断された。
 それからは模索続きの日々だった。出来るだけ一人で症状を和らげたいのに出来なくて、私は泣き続けた。自分が学校を休んでは、親にまで仕事を休んでほしいと我儘を言った。

「ごめん……今日も仕事休んでほしい……寂しい。寂しい」

 感情をコントロール出来なくなり、我儘になっていく。

「奈々花、気持ちは分かるけどお母さんたちも仕事をしないと……」

 そんなある日、お父さんが大きなくまのぬいぐるみを買ってきた。

「奈々花、お父さんやお母さんも働かなくてはいけない。奈々花もそれは分かっているだろう?」

 自分の目が虚ろになっているのが分かった。もうこの病気のせいで私はいつか死ぬのだと感じていた。

「気休めにしかならないかもしれないが、このぬいぐるみを私たちだと思って耐えてほしい」

 三歳の子供に送るようなプレゼントを私は呆然と見ていた。そして、またポロポロと涙を溢すのだ。

「ごめんなさい……ごめんなさい……本当にごめん……」

 繰り返し謝る私の頭をお母さんが優しく撫でてくれる。

「なんで謝るの。病気は奈々花のせいじゃないわ。大丈夫。お母さんもお父さんも奈々花が大好きよ」

 幸せな家庭を壊したのは私なのに。迷惑をかけているのは私なのに。優しい言葉をかけてくれる両親がいる。私が病気に負けて諦めようとしているのに、ぬいぐるみを買ってきて治療法を模索してくれる。
 その両親を見た時にもっと自分に出来ることをしようと思った。このまま病気に負けて、ただ「寂しさ」に負けて、泣き喚いてるだけは嫌だった。
 それからはずっとぬいぐるみを抱きしめて耐えた。夜眠れない時もぬいぐるみを抱きしめ続けた。両親に我儘を言って仕事を休んでもらうことも辞めたのに、「寂しさ」は全く改善しないままだった。耐えられているようで耐えられていなくて、お母さんと一緒に眠る日もあれば、両親の仕事の休憩時間に電話をかける時もあった。

 そして、この「ただ寂しくて堪らない」病への向き合い方が分からぬまま、私は高校生になった。

 病気を発症して二年。私はなんとか中学校を卒業し、高校に入学できることになった。今も大きなぬいぐるみを大事に持って、ぬいぐるみの手を握って眠っている。日中もぬいぐるみを握りしめていることがほとんどだった。
 人によっては、友達や家族に執着をしてストーカー化する人もいるらしい。そして、明確な治療方法がない今、その病を抱えた人たちはただただ「寂しさ」を自分なりに埋めるために何か方法を考え続けている。

 「自分」と「周りの人」を壊さないために。

 そして、「寂しさ」との向き合い方を知るために。

 私の高校生活の目標は三つ。

・「頻発性哀愁症候群」を治すこと
・周りの人にこれ以上迷惑をかけないこと
・高校を無事卒業すること

 明日から、私の高校生活が始まる。きっと私が想像も出来ないような日々が始まる予感がした。
 それから高校に入学して、一週間が経った。あの日から菅谷くんとはまだ話せていない。今日も私は家の玄関で重い足に靴をはめ込んでいた。

「行ってきます」
「奈々花、大丈夫?友達は出来た?」
「うーん、多分作らないかな?迷惑かけちゃうし」

 お母さんにそう言いながら、自分の言葉に泣きそうになった。

「そんなことないわ。奈々花は優しいし、それに……」
「ううん、絶対にこれ以上他の人を巻き込みたくないの」
「そう……」
「お母さん、ごめんね。行ってきます」

 両親に謝らない日はなかった。高校の門をくぐって教室の入っても、明るい教室と自分は真逆で。

「おはよー!」
「おはよ!今日、英語小テストあるらしいよ」
「まじ!?早くない!?」

 教室に元気の声が行き交う朝。私は今日も一人で息を殺している。

「川崎さんもおはよう!」
「お、おはよう」

 私の俯いたままでの小さな声の挨拶に、クラスメイトは「話しかけない方が良かったかな」と少しだけ申し訳なさそうに去っていく。
 その申し訳なさそうなクラスメイトに、私は心の中で謝った。

 折角、声をかけてくれたのにごめんなさい。

 それでも、私は人よりもずっと話しかけてもらえたことが嬉しくて堪らないのだ。だからこそ近づけない。「友達」など作れば、その子に異常に執着してしまう可能性がある。それだけは絶対に避けたかった。
 そして、友達一人作れない私は、さらに寂しさに苛《さいな》まれる。私は、急いでスクールバッグの中に手を突っ込んだ。スクールバックの中には、スクールバッグの三分の一を占めるほどの大きさの可愛らしい女の子のキャラクターのぬいぐるみ。私は急いで、ぬいぐるみと手を繋ぐ。

 大丈夫、寂しくない。寂しくないから。

 そう心の中で言い聞かせて、この感情が少しでも過ぎ去るのを願うのだ。今日も子供のようにぬいぐるみと手を繋ぎながら。

 この病を発症して二年で、私が模索して見つけた方法は二つ。
 まず小さなぬいぐるみをバッグに入れておいて、お母さんと手を繋いでいるイメージをしながら手を繋ぐ。
 もう一つは「寂しくない。大丈夫」と心の中で唱えることだった。なんとか誤魔化しながら毎日を過ごしても、自分が成長している感覚はなかった。

 その時、教室が急に騒がしくなる。

「あ!菅谷、おはよう!相変わらず来るのおせーよ!」
「悪ぃ。寝坊した!」

 教室に登校した菅谷くんに数人の男子生徒が集まって話しかけに行っている。
 入学して一週間。菅谷くんが人気者であることは、クラスメイトの誰もが分かっていた。

「菅谷、数学の宿題終わってる?」
「あ、やべ。終わってない!誰か見してくれね?お礼にこのお菓子やるから!」
「食べかけじゃねーか!」

 明るくて、ノリが良くて、まさに人気者。彼の周りには、いつも人が絶えない。それでも、入学式の菅谷くんの苦しそうな顔が私は忘れられなかった。
 その時、担任の川北先生が教室に入ってくる。

「ホームルーム始めるぞー」

 クラスメイトが次々に自分の席に座り始める。また今日の朝も私は菅谷くんに声をかけることが出来なかった。

「まず、二週間後の校外オリエンテーションのプリントを今日配るから必ず確認することー」

 川北先生が列ごとにプリントを配っていく。配られたプリントには「新入生オリエンテーション」と大きな文字で書かれている。
 新入生オリエンテーションは一泊二日。担任の川北先生には事前に私の病気のことは伝えてある。休むことも可能だろうし、元々そのつもりだった。
 でも……その時、何故か菅谷くんの席に目を向けてしまった。菅谷くんは楽しそうに友達とプリントを見ながら話している。
 大丈夫だろうか。私なんかが心配してもどうにもならないことは分かっている。それでも、菅谷くんをこのまま放っておくことはしたくなかった。

 うん、次の休み時間は絶対に菅谷くんに声をかけよう。

 そう決意した後の一時間目はどこか集中出来なくて、いつもより終わるのが長く感じた。

 キーンコーンカーンコーン。

「あの……!菅谷くん!」
「川崎さん、どうしたの?」

 一時間目が終わってすぐに私は菅谷くんの机に駆け寄った。

「ちょっと話があって……教室じゃなくて、別の場所で……」

 震えた声でなんとかそう絞り出した私の声に反応したのは、菅谷くんではなくてクラスの男子だった。

「え、なになに!?川崎さんと菅谷ってそういう関係!?」
「いや、告白だろ!」

 よくある高校生のノリだけど、言われる側は決して気分の良いノリではなくて。私は「ちがうっ……」と否定しようとしたのに、声が上手く出ない。そんな俯くだけの私とは違って、菅谷くんは簡単にそんな男子のノリを壊した。

「そんなんじゃねーから!はい、解散」

 そう言って、私に教室の外に出るように目配せをしてくれる。私は教室の外へ逃げるように出ていく。
 少しだけ遅れて、菅谷くんが教室の外に出てきた。

「ごめんね、川崎さん。それで何かあった?」
「あの、入学式の時のことなんだけど……」
「ああ、もう体調は治ったから大丈夫だよ」

 菅谷くんはあの時と同じ笑顔を私に見せた。いや、あの時と同じ笑顔で「誤魔化した」
 それは触れないで欲しいということだ。菅谷くんはきっとどれだけ辛くても放っておいて欲しいと遠回しに言っている。

「川崎さんは体調はもう大丈夫?」
「うん」
「良かった。新入生オリエンテーションもあるから心配してたんだよね」
「あ……私はオリエンテーションは……」
「ん?」

 菅谷くんの言葉でオリエンテーションを休むことがどれだけ不自然かが分かった。理由を明かさないならなおさら。

「そうだね、オリエンテーション楽しまないと」
「おう!」

 同じ「寂しい」という感情に悩まされている菅谷くんはオリエンテーションに頑張って参加するというのに、私は参加もせずに、そしてクラスメイトに理由すら誤魔化そうとしている。
 それでも、病気のことは明かしたくない。

「菅谷くん、何かあったらいつでも言ってね」
「……ありがと。川崎さんも」

 入学式という輝かしい門出に小さくうずくまっていた生徒二人。私達はどんな高校生活を送っていくのだろう。

 その日の夜、私は両親に呼び止められた。

「奈々花、新入生オリエンテーションのことだけど、休むならそろそろ先生に連絡しないと……」
「……明日まで考えてもいい?」
「え?」

 両親はきっと私が休むと言うと思っていたのだろう。

「いいけれど……大丈夫なの?」
「うん、ちょっとだけ考えたくて……」

 菅谷くんを一人にして置けないとかそんな優しい気持ちじゃなくて、きっとこれは少しの「不安」だ。同じ苦しみを持っているかもしれない菅谷くんが頑張っているのに、私だけ逃げることへの不安。

「本当、私ってどこまでも自分本位だな……」
「奈々花?」
「ごめんね、お母さん」

 私はお母さんに謝ってから、自分の部屋に戻る。ベッドには大きなくまのぬいぐるみが置かれている。私はそっとぬいぐるみと手を繋いだ。
 当たり前だけれど、ぬいぐるみは手を握り返してはくれなくて。
 私はポツポツと呟くようにぬいぐるみに話しかけた。

「知ってる?人間って寂しくても死なないんだよ。こんなに辛いのに」

 当たり前だけれど返事もなくて。

「このまま死ねたらいいのに」

 最低な言葉を吐いても、誰にも聞かれなければ怒られない。最低な自分の言葉が耳にこだまして聞こえた気がした。
 翌日の五限目はオリエンテーションの班決めだった。その前の昼休みに私は廊下で川北先生に呼び止められた。

「川崎、オリエンテーションは参加出来そうか?」
「一応、参加したいと思っています」
「そうか、大事なクラスメイトとの交流の場だからな。参加できるならそれに越したことはない。なにかあったら、すぐに言いなさい。保健の先生にも話は通しておくから」
「ありがとうございます」

 ずっと人を気遣える人になりたかった。でも、結局私は「人に気遣われる」側の人間になってしまった。その現実をたまに無性に感じては泣きそうになる自分が嫌だった。
 この病気になってから、どんどんと自分が弱くなっている気がしてしまう。それが嫌で、もがくように、オリエンテーションにも参加したくなってしまうのだろうか。
 教室に戻ると、まだ昼休みの教室は騒がしくて。それでいて、眩しかった。
 病気を発症する前は一人でお弁当を食べることは怖かったはずなのに、今は病気だとバレることの方が怖かった。それに「自分は病気だから友達がいなくても仕方ない」と心のどこかで思っているのかもしれない。
 友達を作れない事実を病気という言い訳で、自分を安心させていた。そんな自分がひどく滑稽(こっけい)で、お弁当を食べる箸がいつもより重く感じた。

 五限目が始めると先生がすぐに小さな箱を持って教室に入ってくる。五限目の班決めはくじ引きだった。女子と男子に別れてくじを引いて、女子二人男子二人で四人グループを作っていく。
 女子で私と同じグループになったのは、美坂(みさか)さんという可愛らしいロングヘアが似合う女の子だった。美坂さんは私の隣に座ると笑顔で挨拶をしてくれる。

「川崎さん、よろしくね」
「うん……よろしく」

 ごめんなさい、美坂さん。オリエンテーションが終わったら、ちゃんと近づかないから。迷惑をかけないから。
 どうかこのオリエンテーションでも、美坂さんに迷惑をかけませんように。初めて話した私に本当に仲良くしたいと思っているのが伝わる笑顔を美坂さんは向けてくれた。きっと優しい人だ。
 その後、男子のペアが私たちと合流する。

「あ、川崎さん同じグループだ!」
「菅谷くん……」

 菅谷くんと同じグループであることを知って、緊張か何なのか分からなかったが喉がギュゥっとしたのが分かった。
 そして同じグループになったもう一人の男子は、草野くんという男子だった。

「よろしくね、川崎さんに美坂さん。草野 幸助(くさの こうすけ)です!」
「川崎 奈々花です」
「美坂 さくらです」

 順番に自己紹介していく中でも、菅谷くんはやっぱり明るくて。

「菅谷 柊真です。草野とは中学が一緒で、あ、こいつ数学が苦手なんだけど……」
「おい!誰もそこまで聞いてない!」
「あはは、わりぃ」
「絶対思ってないだろ!」
「だって、草野の苦手科目バレただけじゃん」
「俺が恥ずかしいから!」

 草野くんが菅谷くんをポカッと殴っている。

「じゃあ、これから班で当日の日程確認とリーダー決めをして、終わった班から自習をすることー」

 先生の言葉を聞いて、教室が一気に騒がしくなる。

「誰かリーダーしたい人いる?いないならじゃんけんで決める?」

 美坂さんがそう聞くと、草野くんが菅谷くんを指差した。

「菅谷は?リーダーにピッタリじゃん。もちろん菅谷が嫌なら全然無理しなくていいけど」

 班のメンバーの視線が菅谷くんに集まる。菅谷くんは嫌な顔一つせずに茶化すように笑った。

「俺でいいの?まぁリーダーって言っても名前だけだろうし、全然いいよ」
「じゃあ、菅谷で決定だな」

 その菅谷くんの笑い方が入学式の時の笑い方とは違うはずなのに、どこか無理しているように感じて私はつい声を出してしまった。

「あ……」
「川崎さん、どうかした?」
「いや、えっと……」

 言葉に詰まったまま菅谷くんに視線を向けると、菅谷くんは不思議そうに私の顔を見ている。

「ごめん、なんでもない。当日の日程確認しよっか」

 きっと今の私の笑い方は、菅谷くんが誤魔化す時と同じ笑い方だったと思う。
 それからすぐに日程確認が終わって、それぞれの机に戻って自習を始める。私は数学の教科書とノートを開いているのに、教科書の文字を追うフリをして先ほどの自分の行動を振り返った。

 一体、私は何がしたいんだろう。

 菅谷くんを助けることが出来るとおこがましくも思っているのだろうか。弱くて、寂しがり屋で、何も出来ないくせをして。
 そうやって弱った心には、すぐに症状が顔を出した。私は別の教科書を探すふりをして、スクールバッグの中のぬいぐるみと手を繋ぐ。
 ああ、本当に私って哀れで馬鹿みたいだ。
 ギュゥっと強くぬいぐるみの手を握ると、ぬいぐるみの手は小さく丸まる。

「大丈夫。寂しくないよ」

 何が大丈夫なのかも分からないまま、私は今日もそう小さく呟いて症状がおさまるのを静かに待った。
 家に帰った後、私は夕食の準備をしているお母さんに話しかけた。

「お母さん、オリエンテーションに参加しようと思う」

 私の言葉に夕飯の具材を切っていたお母さんは手を止めて顔を上げた。お母さんの顔に不安が(にじ)んだのが分かった。お母さんはそれを誤魔化すかのようにもう一度具材を切り始めた。

「そう。大丈夫なの?」
「分からない……けど、参加してみたい。先生たちにも迷惑をかけたくないから、ちゃんと一人でどうにかする」
「そんなこと……!」

 気づいたらお母さんは手を止めて、顔を上げていた。

「今まで酷い時は一人で耐えられなかったじゃない」
「うん」

 お母さんはそう言ってしまった後に、少しだけ「しまった」という表情をした。

「……奈々花が頑張るって言うならお母さんも応援する。でも、もし何かあったらすぐに先生に言って。そしたらお母さんが迎えにいくから」
「うん、ありがとう」

 お母さんは昔から心配性だったわけじゃない。私が病気で何度も泣いているのを見ているうちに少しだけ変わってしまった。
 お母さんを心配性にしたのも、お母さんを心配させているのも、自分のせいだと思うとただただ申し訳なくて。
 少しだけ見栄を張った言葉を吐いてしまう。

「お母さん、ちゃんと『楽しかった』って言えるように頑張ってくる」

 それでも、その言葉にお母さんは心底嬉しそうに笑ってくれるのだ。
 その日はまだオリエンテーションの前日ではなかったのに、まるで遠足の前の日みたいにどこかソワソワしてあまり眠れなかった。

 オリエンテーションまでの二週間は早く感じるようでどこか遅くて、心がソワソワとしたまま毎日が過ぎていく。
 オリエンテーションの前日には、クラスはオリエンテーションの話題ばかりが飛び交っていた。

「明日のオリエンテーション、何のお菓子持ってく!?」
「お前、子供すぎだろ!」

 男子生徒は大きな声で嬉しそうに話している生徒と特に興味なさそうな生徒で分かれていた。そして、女子生徒は友達の机に数人ずつ集まって、それぞれ話している。

「オリエンテーションってゴミ拾いあるんでしょ?めっちゃ嫌ー」
「でも、ゴミ拾い海辺らしいよ」
「マジ!?海入れるってこと!?」
「流石にそれはないでしょ。まだ四月の半ばだよ?冷たくて死ぬって」

 私は会話に参加していないのにクラスに飛び交う声を聞くだけで、もう目の前までオリエンテーションが迫っていることを実感する。そんなクラスの光景を眺めていると後ろから声をかけられていることに気づかなかった。

「……きさん……川崎さん?」

 トントンと肩を叩かれながら名前を呼ばれて、私は慌てて振り返った。斜め後ろに美坂さんが立っている。

「ごめん、驚かせちゃったかな?川崎さんにオリエンテーションのことで聞きたいことがあって……海だからちょっと濡れても良い服って持っていく?」
「海に入る様っていうか……着替えは汚れることもあるだろうから、多めに持っていくつもり……」

 クラスメイトと話し慣れていない私は、ハキハキと話せなくて小さな声で返事をした。美坂さんはそんな私の小さな声を気にもせずに頷いてくれる。

「やっぱり持ち物には書いてないけど、要りそうだよね。教えてくれてありがと!」

 美坂さんは自分の席に戻ろうとして何かを思い出したようにこちらを振り返った。

「あ!川崎さん!甘いもの食べれる?特にクッキー!」
「……食べれる……」
「良かった!とってもおすすめのクッキーがあって、明日持ってくね!」

 美坂さんはそう言って、今度はもう振り返らずに席に戻っていく。きっと本当に美坂さんは優しい人で。私はそんな優しい人にも上手く言葉を返せない。
 それなのに、先ほどまでクラスがオリエンテーションの話題で盛り上がっているのを聞いているだけだった自分が、オリエンテーションの会話に参加できていることを喜んでしまう。そして、慌てて自分の病気は周りの人を不幸にすることを思い出し、喜びに蓋をするのだ。
 ドクドクと速なる心臓が緊張しているのか不安なのかは分からないまま、もう明日はすぐ目の前まで迫っていた。
 オリエンテーション当日。時計はいつもより30分早く目覚ましを鳴らした。高校の前に7時半集合なので、いつもより早く起きなければ間に合わない。
 朝ご飯を食べた後、いつもの制服ではなく今日は体操服に着替える。スクールバッグより大きな荷物を持つと、一気に今日がオリエンテーション当日だという実感が湧いた。
 大きな旅行用のバッグには、いつもの教科書とは違って着替えやタオルなどが大半を占めている。それと、いつも持っているぬいぐるみ。スクールバッグの三分の一ほどの大きさだったぬいぐるみは、旅行用のバッグに入れると小さく感じる。
 最後に部屋のタンスの上に並んでいる小さな沢山のぬいぐるみの中から、小さな薄茶色のくまのぬいぐるみを体操服のポケットに入れた。教室と違ってスクールバッグを自分の机にかけて置くことは出来ない。手のひらサイズのぬいぐるみをポケットに入れておくことも必要だろう。
 そして、部屋を出る前に私は大きく深呼吸をした。

「よし!」

 部屋を出て玄関に降りると、お母さんがリビングから出てくる。

「もう行くの?気をつけてね。もし何かあったらすぐに連絡して。それと……」

 心配でいつもより沢山話すお母さんの言葉を最後まで聞いていると、病気になってから外泊したことがないことに気づいた。病気に慣れていなかった中学は、修学旅行すら参加出来なかった。

「それと、奈々花」
「ん?」
「折角だから、出来るだけ楽しんできなさい」

 その言葉に私は頷いて、玄関の扉を開けた。

「行ってきます」

 「行ってらっしゃい」と返したお母さんの声が少しだけ震えている気がして、もう一度「大丈夫だよ」と言うために戻ろうかと思ったがすぐに思い直す。
 きっと今戻って「大丈夫」と言っても、お母さんは安心出来ないだろう。だって本当に私を心配してくれている。
 だから、ちゃんと無事に帰ってきて笑顔で「ただいま」と言おう。きっとそれが一番な気がした。
 空を見上げると太陽が眩しいような快晴で、それがどこか嬉しかった。

 高校に着くと、もう20人ほど来ていた。担任の先生にまず出席を伝えないと。川北先生に近づくと、先生がすぐに私に気づく。

「川崎、おはよう」
「おはようございます」

 出席確認の紙に名前を書いた後、簡単な質問にチェックをつけていく。「水分を持ってきたか」とかそんな簡単な質問。
 それでも、最後の質問は私にとって難しくて。

「体調に異常がなく、健康である」

 分かっている。この質問は風邪などをひいていないか、いつもと違う不調はないかを聞くもの。それでもその質問にチェックをつけている時、どこか心が痛くなって泣きそうになった。
 その時、誰かが後ろから私の肩をトントンと叩いた。

「おはよう、川崎さん」
「菅谷くん……おはよう」

 菅谷くんは私に挨拶を済ますと、すぐに川北先生から出席確認の紙を受け取って書いている。菅谷くんはサラサラと紙を書き終えると、先生に渡して友達のところへ走っていく。
 その後、すぐに集合がかかって皆んなバスに乗り込んだ。席に余裕のあるバスにわざと最後の方に乗り込んで、私は隣がいない席に座る。走り出したバスで窓の外を見ながら、先ほどの光景を思い出した。
 
 当たり前のように今日も笑顔で人気者の菅谷くんは、体調確認の紙をスラスラと書いて提出した。
 菅谷くんが本当に体調が良かったのか、無理をしていたのかは分からない。もし体調が良かったのなら、それ以上に良いことはないだろう。ただもし菅谷くんが無理をしながらチェックをしたのなら、それは辛い中で平静を装うのに慣れすぎているのかもしれない。
 菅谷くんが私から離れた後、先生は私に「川崎、何かあったらすぐに言うんだぞ。無理はするな」と言ってくれた。
 病気を伝えている人からは気を遣われる。教えていない人からは配慮されない代わりに、普通の対応をしてもらえる。それは当然のことだと分かっているつもりだ。
 分かっているのに……誰にも辛さを共有していない菅谷くんは誰の前で弱さを見せれるというのだろう。
 隣に誰もいないバスの中は考え事をしてしまう。騒がしいバスの中で私は大きなバッグを隣の席に置いて、バッグの取っ手を掴んでいた。何かを掴んでいる時は、症状が出にくい。
 二時間ほどのバスでの移動中、私は眠ることも出来ないまま窓の外の風景を見つめていた。

「着いたー!」
「めっちゃ長かったんだけどー」
「俺、腰いてぇ!」
「あはは、お爺ちゃんじゃん!」

 人気(ひとけ)の少ない海の近くでバスから降りると、生徒たちが次々と海の方向へ走っていく。

「えー!綺麗すぎる!」
「やば!青春じゃん!」
「俺、もう入りたいんだけど!」

 そんな興奮している生徒達に先生が大きな声で集合をかける。

「はーい、全員集合ー!まずはクラスごとに出席番号順に整列ー!」

 ゾロゾロと生徒達が整列を終えると、先生がオリエンテーションの説明を始めていく。

「まず事前に決めた班ごとにゴミを集めていって、二時間後に昼休憩も兼ねて近くのキャンプ場でカレー作りを行う。午後からはまたこの場所に戻って30分ほど作業した後、しばらく自由行動にしようと思っている」

 先生の自由行動という言葉に生徒達から嬉しそうな声が上がる。隣のクラスの男子が手を挙げて、大きな声で質問をした。

「自由行動の時は、海に入ってもいいんですかー!」
「お前、まだ四月だぞ……まぁ、個人の判断で足をつけるくらいは良いか」

 先生の言葉に「やったー!」とか「え、めっちゃ最高じゃん!着替え持ってきて良かった!」とか男女両方から歓声が上がる。盛り上がっている生徒達を先生が「静かに!」と大きな声で制止する。

「とりあえずは海辺を綺麗にしてからだ。自由時間はそのご褒美。ちゃんと作業しないと午後からもゴミ拾いになるぞ」

 先生が注意をしても生徒達の気持ちはもう盛り上がったままだった。きっとそれは先生も分かっている。

「これは新入生オリエンテーションだから、お互いコミュニケーションも大事にするように!じゃあ、まずは班ごとにゴミ袋とトングと軍手を教頭先生の所に貰いにいくことー」

 先生の言葉で班ごとに生徒達が集まり、教頭先生のところに列を作っていく。私たちの班もすぐに集まり始める。

「川崎さん、美坂さん!」

 美坂さんと合流すると同時に、菅谷くんと草野くんが二人で近くに来てくれる。そして教頭先生の所に並ぶと、前には十組ほどいてまだ時間がかかりそうである。

「川崎さん、美坂さん、ごめん!」

 列に並んでいると草野くんが急に私たちに謝った。そして、申し訳なさそうに私たちの顔を見る。

「実は俺、めっちゃ料理下手なんだよね……カレー作り絶対戦力になれねぇ。あ!でも、代わりにゴミ拾いは任せて!どんな重いもんでも持つから!これでも中学からサッカー部だし、運動は得意!」

 草野くんの可愛い宣言に私と美坂さんは笑ってしまう。すぐに慌てて笑顔を抑える私とは違って、美坂さんはそのまま草野くんと話している。

「美坂さんって、もう部活入ってる?」
「うん、入部は一応終わったよ。美術部。まだ活動は始まってないけど。だから私は逆でゴミ拾いで役に立たないかも」
「そこは俺に任せて!代わりにカレー作りお願いします!」

 美術部……その言葉に胸がドクッと速なり始めたのが分かった。理由は分かるようで、でもどこか認めたくなくて。

「おい、草野。俺には謝らねーの?」
「いや、どう考えても菅谷は俺と一緒で料理出来ねーだろ」
「おい!偏見やめろ!」
「じゃあ、料理出来んの?」
「あんま出来ねーけど……」
「あはは、やっぱ菅谷は菅谷だな」
「草野と違ってたまにはするから!ていうか草野だけには言われたくねー」
「ていうか、菅谷って高校ではサッカー部入らねーの?」

 草野くんの質問を聞く限り菅谷くんが中学校の時にサッカー部だったのだろうか?
 しかし草野くんがその質問をした瞬間、菅谷くんの顔に少しだけ焦りが見えた気がした。しかし、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「俺は高校は帰宅部がいいんですー。それに俺は才能が溢れてるからどの競技もそれなりに出来るし!」
「うわ、うぜー!」
「あはは、草野とは才能が違うしな」
「おい!菅谷!」

 草野くんが菅谷くんの肩を組みながら、菅谷くんにわざと体重をかけて遊んでいる。
 菅谷くんももしかして、「寂しさ」のせいで部活が出来ないのだろうか……ううん、私には関係ない話だ。私だって言いたくない過去はあるし、明かせない「頻発性哀愁症候群」という病を抱えている。
 そんなことを考えていると、順番が私たちの班に回ってきて教頭先生が私たちに声をかける。

「おーい、ゴミ袋とトングと手袋配るぞー」
「はーい」

 ゴミ拾いの道具を貰った後、私たちはすぐに海辺の端へ向かった。
 班で行動と言っても、いつの間にか男女で分かれてしまう。分かれると言っても、数メートル離れた場所にはいるのだけれど。

「なぁ菅谷、これってゴミ?」
「いや、それ絶対貝殻だから」

 中学から同じと言っていた菅谷くんと草野くんは、気心知れた仲なのか適度に話しながら、たまに無言でゴミ拾いをしている。それでも、全然気まずい空気が流れていない。
 私はというと……美坂さんと話すことが出来ず、同じ無言でも気まずい空気が私たちの間に流れている気がした。

「川崎さん、見て!この貝殻とっても綺麗!」

 しかし、美坂さんは気まずいと気にしている様子はなく、透き通って見える水色の貝殻を私に見せに来てくれる。
 美坂さんの持ってきた貝殻は本当に綺麗で、海なんて来た記憶が幼少以来なかった私はついつい見入ってしまう。

「川崎さん、この貝殻いる?」
「え……?でも、美坂さんが見つけたのに……」
「大丈夫!もう一個探すから!」

 そう言って、美坂さんが下を向きながら辺りを探し始める。私も慌ててゴミ拾いをしながら貝殻を探し始めた。

「あ!ねぇねぇ川崎さん、一つ要望言ってもいい?」
「要望?」
「うん!私の欲しい貝殻の要望!」
「うん、もちろん……」

 すると、もう一度美坂さんが近寄ってきて、私に先ほどの貝殻を見せる。

「これと似たようが感じの貝殻がいい!そしたら、川崎さんとお揃いで今日の思い出になるし!」

 美坂さんの言葉に私は喉がキュゥっとして、目が少しだけ潤んだのが分かった。美坂さんはどれだけ優しい人なんだろう。

「私ねー、実は今日結構楽しみだったんだよね。川崎さんとちゃんと話せる機会だから」
「……?」
「私ね、入学式の日、ちょうど川崎さんの斜め後ろの席だったの。そしたら入学式の途中から川崎さんが苦しそうにみえて、大丈夫かなって見てたの。ずっとずっと苦しそうに下を向いてて、声をかけるか悩むほどだったんだけど……」

 美坂さんはしゃがんで貝殻を探していた手を止めて、私の方に視線を向ける。

「それでも、誰かが壇上に上がって礼をする時だけなんとか顔をあげて、一緒に礼をしてた。ちゃんと背筋を伸ばして。入学式が終わってすぐに体調を聞こうと思って声をかけようとしたら、教室にもういなくて……でも、なんか印象に残ったんだよね」

 その時、美坂さんが「あった!」と砂浜から小さな貝殻を手に取って、私に持って来てくれる。そして、私の手の上にその貝殻を乗せた。

「はい!どうぞ」

 私の手のひらには先ほどの貝殻と合わせて二つの貝殻が並んでいる。

「なんかね、あの入学式の時にちょっと川崎さんと話したくなったんだ。だって体調が悪いのに顔を上げるなんて、この人絶対に律儀な人だって思って」

 美坂さんが私の手に乗っている二つの貝殻から一つをそっと手に取る。

「これでお揃いだね!」

 誰とも関わらないと決めた高校生活で……誰とも関わらないと決意した入学式で、私を見てくれていた人がいる。それが言葉にならないほど嬉しいのに、素直に喜ぶことに慣れていなくて上手く言葉に出来ない。
 そんな私を見て美坂さんは私が機嫌を損ねたと思ったようで、慌てて私の手からもう一つの貝殻も掴んだ。

「勝手にお揃いとか嫌だった……?」
「ちがっ……!」
「違うの?」

 明かせない「頻発性症候群」という病気。そのせいで私はそれ以外にも沢山の気持ちを隠して、諦めようとしている。
 でも、きっと全てに嘘をつく必要はないのかもしれない。この嬉しくて泣きそうな気持ちをなかったことにするのが正しいとはどうしても思えなかった。

「……お揃いの貝殻が嬉しくて……美坂さん、ありがとう」

 いつも通りの小さくて震えたような声での返事。それでも、初めて内容は明るくて、自分の気持ちを素直に言えた気がした。

「本当!?じゃあ、お揃いにしよ!川崎さんはどっちの貝殻がいい?」

 美坂さんが両手に一つずつ貝殻を持って、私に見せてくれる。同じような色の二つの美しい貝殻、両方とも綺麗でどちらでもいいはずなのに……気付いたら、美坂さんが始めに私に渡してくれた一個目の貝殻を手に取っていた。

「そっちの貝殻の方が小さいけどいいの?」
「うん、こっちがいい」

 私はつい美坂さんが初めて私に渡してくれた貝殻の方を選んでしまう。

「本当にありがとう、美坂さん。とっても良い思い出になった」
「あはは、まだオリエンテーションは始まったばかりだよー」

 一つも楽しいことが起きない高校生活を送ると思っていた。いや、送るつもりだった。
 無事に高校を卒業して、周りの人に迷惑をかけないことだけが目標で、高校生活を楽しむつもりなど微塵もなかった。
 それでも、今一つ、楽しい思い出が出来たのだ。思い出はなくならない。この思い出はずっと残る。それが嬉しくて堪らなくて。私は、ぎゅっと貝殻を握りしめた。
 その時、菅谷くんと草野くんが大きなゴミ袋を抱えて、私たちの方に近づいてくる。

「おーい、美坂さんと川崎さん!ゴミどれくらい集まったー!?」

 私たちは、菅谷くんと草野くんより大分小さいゴミ袋を掲げて見せると、草野くんが驚いている。

「え!少なくね!?」

 その言葉に私と美坂さんは目を合わせた後、美坂さんが草野くんに返事をした。

「ごめんね、貝殻探ししてて、ゴミ拾いちょっとサボっちゃった」
「おいー!俺ら真面目にゴミ拾いしてたのに!」

 草野くんはそう言いながらも、全然怒っている様子はなくて嬉しそうに美坂さんと話している。

「ていうか、そろそろ昼飯じゃね!?俺、めっちゃ腹減ったんだけど!」
「お前の食欲やべーな」
「いや、菅谷だってさっき『腹へったー』って愚痴ってたじゃん」
「おい!バラすな!」

 菅谷くんと草野くん、それに美坂さんの三人が話しているのを隣で聞いているだけで楽しかった。その時、ピィーと先生が笛を鳴らした。

「全員集合ー!そろそろ昼飯を作るキャンプ場に移動するぞー」

 先生の呼びかけに「やった!」とか「腹減ったー」という声を共に生徒が一気に集まり始める。

「俺たちも行こ」

 草野くんの呼びかけで私たちも先生のところに向かい始める。私はそんな皆んなの二メートルほど後ろを歩いていた。

「川崎さん?」

 遅れている私を菅谷くんが振り返り、私と歩幅を合わせてくれる。私は慌てて「ごめん!」と謝り、美坂さんと草野くんの隣まで菅谷くんと一緒に早歩きで追いつく。
 どこか隣を歩けないほど眩しく感じた三人の隣は、歩いてしまえば普通に歩けてしまった。
 そんな私に菅谷くんがコソッと小声で声をかけた。

「川崎さん、体調大丈夫?」
「あ……うん、大丈夫。菅谷くんは?」
「俺も全然大丈夫」

 菅谷くんは、「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と返すのが癖になっているような言葉の返し方だった。それでも、自分が辛くても無理をする菅谷くんは、当たり前のように私を気遣ってくれる。
 私の病気を知らなくても、入学式の日のことで私に何か病気があることは勘づいているのだろう。
 先生の元に私たち四人が集合する頃には、ほとんどの生徒が集まっていた。

「じゃあ、人数確認を始めます」

 先頭の生徒が列の人数を数えて先生に報告に向かう。

「よし!全員揃っているな」

 先生が人数確認を終えて、端の列から順番にバスに乗せていく。私がバスに乗ると、美坂さんが私に声をかけた。

「隣、座ってもいい?」

 私が頷くと、美坂さんが私の隣の席に座る。動き始めたバスに揺られながら、美坂さんは鞄から可愛いパッケージのお菓子を取り出した。

「じゃーん、これ前に話してたクッキー。でも今食べたらカレー食べれなくなっちゃうかもだし、これは食後のお菓子にしよ!」

 美坂さんはお気に入りのクッキーを二袋持って来たようで、他のお菓子と合わせて個数を数えている。

「123……詩乃(しの)と部屋で食べる分も残しておこうかな……」

 美坂さんは友達が沢山いて、私はそれに安心してしまう。
 私がいなくても美坂さんは友達に困らないことに安心するのだ。オリエンテーションの後に私が美坂さんと話さなくても、美坂さんには友達が沢山いる。
 最低な考えだと分かっているのに、病気の私が人と距離を置きたいから相手に私が必要のない人であって欲しいと願ってしまう。
 そんな最低なことを私が考えていると、美坂さんの呟きが耳に入ってくる。

「このクッキーは後で川崎さんと食べるから……」

 美坂さんがお菓子を数える時に私の分を数えただけ。友達と言われたわけじゃないのに、それが泣きそうなほど嬉しくて。
 こんな最低な私に優しく接してくれる人たちがいる。それにどう返せば良いのか分からなくて……人と距離を取りたいくせに本当は寂しくて、相手をちゃんと拒むことすら出来ない。
 バッグから持って来たメモ帳を取り出せば、一ページ目に高校入学の時に決めた目標が書かれている。

・「頻発性哀愁症候群」を治すこと
・周りの人にこれ以上迷惑をかけないこと
・高校を無事卒業すること

 「周りの人に迷惑をかけない」、それは私が決めたこと。私と関われば周りに迷惑をかけるから、出来るだけ誰とも関わらないと決めた。
 分かっているつもりなのに、どこか分かっていなくて、何が正しいのか分からない。

「一体、私は何がしたいの……」

 隣の席の美坂さんにすら聞こえないほど小さくそう呟いた。
 キャンプ場に着くと、すぐに班ごとに調理を始めていく。

「なぁ菅谷、玉ねぎって縦に切る?横に切る?」
「玉ねぎの向きによって違うかな」
「そんなことは分かってんだよ!今の俺の持ってる向きで聞いてんの!」

 菅谷くんと草野くんが玉ねぎを切ってくれている間に、私たちは人参とじゃがいもを切っていく。隣で玉ねぎを切っている草野くんが目を押さえている。

「痛った。マジで玉ねぎって目が痛くなるんだな」
「玉ねぎ切ったことねぇのかよ」
「記憶にはないかな」
「じゃあ、ないだろ」

 いつもクラスで見ている菅谷くんより少しだけ草野くんを適当にあしらっている感じが二人の仲の良さを表しているようだった。それに菅谷くんも体調が悪いようには見えなかった。

「杞憂《きゆう》だったかな……」

 私の声に美坂さんがこちらに視線を向ける。

「川崎さん、何か言った?」
「ううん、なんでもない。お米の準備してくるね」
「じゃあ、もう一人誰か……」
「ううん、一人で大丈夫」

 私はそう言って、お米を洗うために手洗い場へ向かった。
 しかしお米を洗おうと水を出した瞬間、スッと症状が顔を出したのが分かった。


 寂しい。


 あ、これダメなやつだ。


 私はすぐにポケットに入っている手のひらサイズのぬいぐるみを取り出した。小さいぬいぐるみでは手を繋ぐことは出来ないので、ぬいぐるみ全体を包み込むように手で握る。

「大丈夫。寂しくないよ。全然寂しくない」

 そう問いかけても、症状はなかなか(おさ)まっていかない。
 先ほどまでが楽しすぎたのかもしれない。周りに人がいて、私と接してくれて楽しかった。急に一人になり、症状が出やすくなっている可能性がある。
 すると、お米の入っている容器から水が溢れ出しそうになっていることに気づいてすぐに水を止めた。
 どうしよう。もっと人がいない場所に行って、入学式の時みたいにうずくまって自分で自分をギュッと出来る場所に行く?
 でも班に戻るのが遅ければ、優しいあの三人なら私を探しにくるかもしれない。

 急がないと。急いで「寂しい」を抑えないと。

 しかし、焦れば焦るほど気持ちが落ち着かなくて、症状も(おさ)まってくれない。私は水の止まった蛇口を見つめながら、ぬいぐるみを握る手に力を込めた。
 小さくて手を繋げる大きさではないぬいぐるみでは、お母さんと手を繋いでいるイメージを持つことが出来ない。それでも、ぬいぐるみを握らない方が症状が悪化する気がして、私は両手でぬいぐるみを握りしめた。


「川崎さん?」


 名前を呼ばれて、振り返ると菅谷くんが立っている。私は慌ててぬいぐるみをポケットに押し込んだ。

「大丈夫?俺が切る分の玉ねぎを切り終わったから手伝いに来たんだけど……」
「そうなんだ……ありがと!」

 無理やり明るい声を出して、自分を鼓舞(こぶ)する。菅谷くんは私の不調には気づかず、そのまま私の隣までやってくる。

「おお、水めっちゃ入ってる!少し流しても大丈夫?」
「うん、ごめん。ぼーっとしてたら入れすぎちゃって」
「川崎さんでも抜けてるところあるんだな。安心した。草野なんかまだ玉ねぎ切り終わってなくてさー」

 菅谷くんの話を貼り付けたような笑顔で頷きながら聞く。ダメ。もっと上手く笑わないと。菅谷くんに気付かれてしまう。
 じんわりと額に(にじ)み始めた汗を拭うことすらしないまま、私は笑顔で菅谷くんに聞き返す。

「菅谷くんは料理はよくするの?」
「あんまりしないけど、たまに休みの日は……」

 その時、菅谷くんの言葉が急に止まった。

「川崎さん、体調悪いでしょ?」

 突然の問いに私は返事をすることが出来ない。

「先生呼んでくる?それとも保健室の先生のところに行った方がいい?」
「なんで……?」

 「なんで分かったの?」と聞きたいのに最後まで言葉が出てこない。それでも、菅谷くんは私の問いの意味が分かったようだった。


「川崎さんは楽しい時に笑う人だから。愛想笑いをする人じゃなくて、本当に楽しい時だけ笑ってくれる人」


 菅谷くんの言葉の意味がすぐに理解出来ないまま、菅谷くんが辺りを見回し始める。

「とりあえず、座ろ。あそこにベンチがあるから座ってて。俺、保健室の先生呼んでくる」

 私は言われるままにベンチに座って、額の汗をハンカチで拭った。菅谷くんの先ほどの言葉がもう一度頭をよぎる。
 私は周りの人と関わらないために出来るだけ笑わないようにしていた。それでも、どうしても堪えられず笑ってしまう時はあって。
 それを菅谷くんは「愛想笑いをする人じゃなくて、本当に楽しい時だけ笑ってくれる人」と表現した。症状が出て弱っているからだろうか。涙腺が緩くなっていて、目に涙が滲んだのが分かった。

「川崎さん、保健の先生呼んできたよ……って、大丈夫!?」

 私の潤んだ目を見て、菅谷くんが慌てている。そんな菅谷くんに保健室の先生は優しく呼びかけた。

「あとは先生に任せて菅谷くんは班のところに戻りなさい。先生を呼びにきてくれてありがとう」

 先生の言葉に菅谷くんが班のところに戻ろうとする。私は慌てて菅谷くんを呼び止めて、お礼を言った。

「あの、菅谷くん……!本当にありがとう……!」
「全然。カレーのことは気にしなくていいから、ゆっくり休んで」

 そう言って、菅谷くんは走って行ってしまう。菅谷くんが離れるとすぐに保健室の先生が近寄ってくれる。

「川崎さん、大丈夫?川北先生から話は聞いているわ。すぐに別室に移動しましょう」

 先生に連れられるまま、私は屋内の別室に移動する。簡易ベッドに横になった私を、先生はカーテンを閉めながら心配そうに見ている。

「ここならご両親に電話してもいいけれど、どうする?もしその方が症状が(おさ)まるなら……」
「大丈夫です。少しここで休ませてもらえるだけで……」
「そう。じゃあ、私もすぐ近くにいるからゆっくり休んでね」

 そう言って、先生はカーテンを閉めてくれる。お母さんに電話をすれば症状は治まりやすいかもしれないが、心配をかけて「迎えにくる」と言いかねない。それに大分症状も治まり始めていた。
 私は、ポケットからもう一度ぬいぐるみを取り出した。ぬいぐるみをギュッと握っていると、自然に少しだけ眠たくなってくる。
 気づけばそのまま私は一眠りしてしまっていた。
「ん……」

 パッと目を覚ました私は、慌ててカーテンを開けて先生に問いかける。

「すみません……!今、何時ですか?」
「今?まだ1時半よ?」

 深く眠っていたように感じたが、実際は30分ほどしか眠っていなかったようだった。

「あの、体調はもう大丈夫なので戻ります」
「あら、もう大丈夫なの?」
「はい、少し寝たら治ったので……」
「そう、また何かあったらいつでも言って」

 私は保健の先生にお礼を言った後に、班のところに戻る。丁度、カレーを作り終わってみんなでテーブルで食べている所だった。

「あ、川崎さん!」

 私がテーブルに近づくと、三人が立ち上がって近寄ってきてくれる。

「大丈夫?菅谷から体調をちょっと崩したみたいって聞いたけど……」
「うん、ごめんね。カレー作り全部任せちゃって」
「それは全然大丈夫!美味しく出来たけど、食べれそう?」
「うん、少し貰ってもいい?」
「もちろん」

 草野くんと美坂さんがカレーをお皿に盛り付けるために、鍋のところに早足で駆けていく。私は同じく立ち上がろうとした菅谷くんを呼び止めた。

「菅谷くん、さっきは本当にありがとう」
「ん?全然」

 菅谷くんはそれ以上何も聞かず、言えないことを聞かれることがどれだけ苦しいかを知っているようだった。菅谷くんは代わりにカレーの話を始めた。

「このカレーさ、草野がルーの量を間違えそうになって美坂さんが慌てて止めててさ。それに……」

 私を気遣って話を変えてくれる菅谷くんはあまりにスラスラと言葉が出てきていて、上手く話を変えることに慣れているようで、それがどこか苦しかった。

「おーい、川崎さん!カレー持ってきたよ。俺の自信作!」
「お前はほぼ足引っ張っただけだろ」
「菅谷、ひどいこと言うな!」

 私はテーブルの近くの椅子に座ると、そっと一口カレーを口に運ぶ。

「美味しい……」

 ついそう呟いてしまった私に草野くんが顔を輝かせる。

「だろ!マジで上手く出来たんだよ!」

 喜んでいる草野くんの後ろから、ヒョコッと美坂さんが顔を出して私の隣に座る。

「川崎さん、体調悪くて食欲なかったら無理して食べなくても大丈夫だからね」
「ううん、本当にもう大丈夫。それにこのカレー美味しいし」

 立っていた草野くんも菅谷くんも座り、四人がけのテーブルは満席なった。他の班も四人ずつ座って、楽しそうに話している。
 私たちの班も他の班から見れば同じように「楽しそう」なのだろうか。
 その時、先生が大声で生徒たちに呼びかけ始める。

「おーい、あと5分で片付け始めて、海に戻るぞー」

 先生の言葉で、生徒たちが一斉に慌て始めた。

「ヤッベ。俺、話してて全然カレー食べ終わってない!ていうか、川崎さん5分で食べ切れる!?」
「少しだけしか盛られてないから大丈夫だよ」

 急いでかきこんだカレーは美味しくて、家のカレーとは違う味がした。

 午後から海に戻ると、生徒たちが急いで残りの作業を終わらせようとしている。その姿に先生が呆れながら他の女子生徒に話しかけた。

「お前ら、そんなに早く行動出来るなら始めからしてくれよ」
「自由時間があるから頑張れるんですー」
「そうそう!」

 30分の作業はすぐに終わり、気づけば自由時間が始まろうとしていた。

「菅谷、海入らねーの!?」
「予備の着替え持ってきてないし」
「お前、それでも男か!?」
「はいはい。草野、お前はもう一人で海に入ってこいよ」
「言われなくても入るわ!」

 海に入らないと言いながら、菅谷くんは海に足をつけている草野くんに水をかけられている。

「おい!水かけるな!俺、着替えないんだぞ!」
「大丈夫、すぐ乾くって!」
「草野お前……他人事だからって……!」

 結局楽しそうに水を掛け合っている二人を見ながら、美坂さんは裸足になって海に足をつけている。

「川崎さんは海入らないの?足をつけるだけだったら、服も濡れないよ?」
「私は……」

 言葉に詰まった私に美坂さんは手で水を(すく)ってから、その水を「えい!」と少しだけ弾いた。

「わ!」
「川﨑さんも入ろ!ほら、ちょっとだけでいいから!」

 美坂さんに引っ張られるまま私は靴を脱いで、海にそっと足をつけた。

「ね!今日暑いから気持ちいいでしょ?」

 嬉しそうにそう聞く美坂さんに私は小さく頷いた。
 隣に美坂さんがいて、笑っていてくれて、近くには楽しそうな菅谷くんと草野くんがいる。そんな光景が眩しくて、眩しいのにその中に自分もいると思うと不思議な感じがした。
 それでも、きっとそれを心のどこかで喜んでしまっていたんだと思う。うん、きっと私は舞い上がってしまっていた。
 だから、気づかなかったんだ。

 菅谷くんが無理をして笑っていることに。

 この日の夜、私は初めて菅谷くんの本当の苦しみを知ることになる。
 自由行動が終わって宿舎に着いた私たちは、まず夕食を取った後に入浴時間がある予定だった。そしてその後、各自の部屋で消灯時間まで自由時間という流れ。私の部屋は大部屋で十人ほどの女子生徒が泊まっている。
 二人部屋や三人部屋より会話に悩むことはないが、症状が出たら大部屋はとても困る。その時丁度、お母さんから「オリエンテーションはどう?大丈夫?」と連絡が来ていることに気づいた。就寝前に一度お母さんに電話をかけようか。そうすれば、きっとお母さんも私も安心出来るだろう。
 入浴を終えた私は大部屋には戻らず、人気(ひとけ)の少ない……いや、誰もいない場所を探していた。
 宿舎の外に出れば先生に怒られるだろうが、宿舎の庭園であれば良いだろうか。街灯もあるし、宿舎が隣にあるので私自身もあまり怖くない。
 私は庭園に出た後、人目につきにくい場所を探して移動する。その時、庭園の隅でうずくまっている人影が見えた。

「わ!」

 驚いて声を上げた私にうずくまっていた人陰が動いた。

「菅谷くん!?」
「川崎さん……?」

 菅谷くんはもう顔を上げることすらやっとで、私を(おぼろ)げな視線で見ている。正直、入学式の時より調子が悪そうだった。
 私は慌てて菅谷くんに駆け寄った。

「大丈夫!?」

 その言葉を問いかけても、菅谷くんは絶対に「大丈夫」としか返さないのに。それでも、体調が悪そうな人にかける言葉なんて急に言われても「大丈夫?」しかなくて。
 菅谷くんはいつも通り無理やり笑顔を作って答えるのだ。

「全然大丈夫だよ。ちょっと疲れちゃって……川崎さんはもうお風呂終わったの?こんなところまで来て何かあった?」

 菅谷くんの質問に答えようとして、菅谷くんの質問が話題を変えるためだと気づいて胸が苦しくなった。どうしてこの人はこんなにも大丈夫なフリが上手なの?
 それでも実際、菅谷くんに頼られてもきっと私では力になれない。その事実が一番悲しかった。
 私はそっと菅谷くんの隣にしゃがんで座る。

「川崎さん……?」

 自分は隠したいことを隠して、菅谷くんには弱みを見せて貰おうなんてあまりにも都合が良すぎる。きっと私が出来ることは素直に弱みを見せることだけだ。でも、その勇気すら持てなくて。
 それでも、隣を見れば今にも倒れそうな真っ青な顔で無理やり笑顔を作っている菅谷くんがいる。


 「助けたい」と思わない方が無理だった。


「菅谷くん、私ね。『頻発性哀愁症候群』っていう病気なの。『寂しい』っていう感情に振り回される変わった病気」


 菅谷くんは私の言葉にしばらく何も言わなかった。それでも、しばらくしてポツポツと言葉を吐き出してくれる。

「川崎さんさ、入学式の日に俺に会ったこと覚えてる?」
「うん……」
「あの日、川崎さんは『最近寂しくて、おかしい』って言った俺にその病名を呟いたんだ。俺はその病気を知らなかったけど、家に帰って調べて『あ、絶対これだ。俺はこの病気なんだ』って思った」

 菅谷くんは私に向けていた視線を逸らし、下を向いてしまう。

「俺、認めたくなくて……」

 消え入りそうなその声は初めて聞いた菅谷くんの弱音だった。

「病院に行った方がいいのは分かってるのに足は動かないし、誰にも言えない。川崎さんにも相談しようって思ったけど、いざ川崎さんの顔を見るとつい無理してしまって……俺、もう癖になってるんだと思う。嘘笑いも、無理することも」

 菅谷くんは顔を上げないまま、絞り出すように声を出した。



「寂しい。死にたいくらい寂しい。俺、絶対におかしい」



 その悲痛な叫びは私の心の叫びと全く同じで。私は喉の奥がギュゥっと締まるような感覚がして、気づいたら涙が溢れていた。
 下を向いたままの菅谷くんに気づかれる前になんとか涙を拭う。



「ねぇ、川崎さん。きっと俺は寂しくて壊れるんだと思う」



 拭ったはずの涙は、もう誤魔化せないほど溢れていた。拭っても拭っても涙が溢れて止まらない。きっと私が隣で泣いていることに菅谷くんは気づいている。
 それでも、菅谷くんは下を向いたままだった。



「川崎さん、ごめん。こんな話をして。本当にごめん」



 謝る菅谷くんの言葉は震えていた。


 ねぇ私、頑張ってよ。

 何年、この病気をやっているの。

 隣で同じ症状に苦しむ人に良いアドバイスの一つもかけてあげられないの?

 なんで泣いているの。

 泣きたいのは菅谷くんの方なんだよ。

 私が泣く場合なんかじゃないんだよ。

 早く、泣き止んで。

 早く、菅谷くんを助けてあげて。

 
 かけたい言葉は沢山あっても、溢れるのは涙だけで。やっと顔を上げてくれた菅谷くんに見せることが出来たのは、涙でぐちゃぐちゃになっている私の顔だけだった。
 私のぐちゃぐちゃの顔を見て、菅谷くんが優しく微笑む。

「なんで川崎さんが泣いてるの。俺は大丈夫だから」

 先ほどまで弱音を吐いていた菅谷くんがまた「大丈夫」と言うのだ。
 それがあまりに苦しくて、私は気づいたら菅谷くんの手を掴んでいた。

「川崎さん……?」

 驚いている菅谷くんを無視して、私は菅谷くんの右手を両手で包み込むように握る。
 涙でぐちゃぐちゃでも、この言葉だけはかけてあげたい。この言葉だけが今の私たちを救ってくれる。



「菅谷くん、大丈夫。大丈夫だよ。寂しくないから。全然寂しくない」



 私が絞り出した声に返事はなくて。
 
 菅谷くんの方に視線を向けると、菅谷くんの頬に涙が伝っていた。

 そうか。菅谷くんは今まで誰にも「寂しくない」と言葉をかけられたことがないんだ。だって菅谷くんが病気を周りに明かしていない以上、菅谷くんに「大丈夫だよ」と言ってくれる人はいないだろう。
 菅谷くんは周りに心配をかけないためだけに、無理をするためだけに「大丈夫」を使ってきたのだ。
 私は菅谷くんの手を握る両手に力を込める。


「菅谷くん、大丈夫だよ」


 どうか、この「大丈夫」が菅谷くんの「安心」になりますように。それだけを願いながら、私は菅谷くんの手を握り続けた。
 
 どれくらい経っただろう。しばらくして、菅谷くんが立ち上がった。

「ありがと、川崎さん。もう大丈夫。本当に!」

 菅谷くんのその「大丈夫」は何故か信じられた。

「ねぇ、川崎さん。また俺の話聞いてくれる?」

 菅谷くんのその言葉が……菅谷くんが頼ってくれたことが嬉しくて、私はすぐに頷いてしまった。

「さ、そろそろ部屋に戻ろ」

 そう言って、私の前を歩き始める菅谷くんの後ろ姿はまだ弱々しいのに、私はそれ以上菅谷くんに何も声をかけることは出来なかった。
 翌日、オリエンテーション二日目。最終日。
 二日目は宿舎の近くの公園でスポーツ活動という名のほぼ自由行動だった。自由時間は二時間ほどで、あとはバスで帰るだけの日程。

「菅谷、何する?先生がサッカーボールとかバドミントンの道具を持ってきてくれてるらしいぞ!」
「草野は何してーの?」
「うーん、サッカーは部活でしてるからバドミントンかな。あ、でも菅谷はサッカーしたい?」

 その時、菅谷くんがほんの少しだけ苦しそうな顔をした気がした。

「俺、中学の部活引退してから全くボールに触れてないから、めっちゃブランクあるかも」
「あはは、菅谷がめっちゃ下手になってたら笑ってやるわ!」
「うるせー!お前は大人しくバドミントンしてろ!」
「いや、菅谷の下手なサッカー見たいからサッカーにするわ!」
「うわ、うぜ」

 草野くんがサッカーボールを先生のところに取りに行こうとして、私と美坂さんの方を振り返る。

「っていうか、美坂さんと川崎さんもサッカーしない?」

 草野くんの問いに美坂さんが慌てている。

「私、運動全然出来ないよ……!」
「大丈夫!別にこれ試合じゃないし!折角だし班の皆んなでやろーぜ。川崎さんもそれで大丈夫?」
「大丈夫だけど……私も運動得意じゃないし足引っ張るかも……」
「あれ?川崎さんも文化部だっけ?」

 草野くんの質問に私は出来るだけ、空気が重くならないように軽い感じで過去を話す。

「私は高校は部活入ってないの。中学では美術部だったけど、途中で辞めちゃって……運動は全く得意じゃないから……」
「じゃあ、俺チームと菅谷チームで別れようぜ!人数足りないから、他の奴らも誘ってくる!」

 すると、草野くんが公園にいる生徒に聞こえるように大きな声で「サッカー出来るやつ集合ー!」と叫んでいる。
 男子生徒がぞろぞろと集まり始め、簡単に一試合分の人数が集まった。ほとんど男子生徒が集まったので、結局男子生徒が試合をしているのを女子生徒が隣で見ていることになった。
 女子生徒の中には自分が運動するより、観戦している方が好きな生徒も多かったのか、すぐにギャラリーが増えていく。
 公園の中心で始まった試合を見ながら、女子生徒が好きなチームを応援している。
 私はほとんど知ってる男子生徒が少ないので、菅谷くんと草野くんを目で追っていた。

 昨日、辛そうな顔をしていた菅谷くんが楽しそうに公園を走っている。その事実が無性に嬉しくて。

 菅谷くんがいつから「寂しい」という症状に悩まされているのかは分からなかったが、きっと高校で部活を諦めたのは症状が主な理由だろう。
 私も頻発性哀愁症候群になってから、我慢することや諦めることが増えた。実際にこのオリエンテーションだって参加を諦めていた可能性も高かった。そんな生活を送るからこそ、同じ症状に悩む菅谷くんが楽しそうに笑ってくれていることが嬉しかった。
 
 試合は盛り上がって、すぐに二時間は過ぎて行く。

「全員集合ー!そろそろ帰るぞー!」

 先生の言葉に生徒たちが帰る準備を始める。一日目より二日目の方が時間は何故か早く感じるもので、帰り支度を終えると私たちは帰りのバスに乗って帰路につく。
 バスに乗ってすぐに眠っている生徒がポツポツといた。その時、美坂さんが小声で私に話しかけた。

「川崎さん、これ前に言ってたクッキー。昨日は時間はなくて食べられなかったから」

 美坂さんがクッキーの袋を開けてこちらに向けてくれる。私は袋から一枚クッキーを取った。

「美味しい」
「でしょ!これお気に入りなの。スーパーとかにも売ってるからオススメ!」

 美坂さんが嬉しそうにクッキーの袋をリュックにしまっている。

 それからしばらくすると、眠っている生徒が段々増えていく。隣の席を視線を向けると、美坂さんも眠ってしまっていた。周りは寝ている生徒ばかりなのに、私は何故か眠ることが出来なかった。
 きっと無事に新入生オリエンテーションが終わったことが嬉しかったのだと思う。私の体調が悪くなったり、菅谷くんの苦しみも知ったオリエンテーションだった。それでも、振り返れば「楽しかった」と言えるオリエンテーションだった。それが無性に嬉しくて。
 オリエンテーションに行くとお母さんに伝えた時、私はこう言った。

「お母さん、ちゃんと『楽しかった』って言えるように頑張ってくる」

 その言葉を叶えられるなんて本当は思っていなくて、ただお母さんを安心させたくて出てきた言葉だった。隣で眠っている美坂さんに視線を向ける。私はきっと恵まれ過ぎているくらいに優しい人に囲まれている。それでも、まだ自分が関わることで周りの人に迷惑をかけることが怖かった。


「ねぇ、川崎さん。きっと俺は寂しくて壊れるんだと思う」


 昨日の夜の菅谷くんのその言葉に私は返事が出来なかった。その気持ちが分かりすぎるからこそなんて言えばいいのか分からなかった……ううん、違う。本当は私なんて寂しくて壊れてしまえばいいと思っている。死んでしまえばいいと思っている。

「でも、周りの人を私のせいで壊したくはないの……」

 そう小さく呟いた自分の声が耳に響いた気がした。

 オリエンテーションから帰って、家の扉をあけるとすぐにお母さんがリビングから飛び出してくる。

「おかえり。大丈夫だった……!?」

 オリエンテーションの一日目の夜、菅谷くんと話していて結局お母さんに電話は出来なかった。寝る前にメッセージは送ったが心配してくれていたのだろう。
 心配そうなお母さんに私はニコッと笑顔を作った。

「ただいま!『楽しかったよ』!」

 その時のお母さんの泣きそうなほど嬉しそう顔を私は一生忘れない気がした。