「翠、久しぶり。遅くなってごめんね、仕事ちょっと長引いちゃって」
男性にしては少しだけ高めの涼やかな声に、心がとくんと弾む。好きなひとを視界に入れると、自然に口角が上がるのはどうしてなんだろう。
「ううん、全然待ってないよ。それより、急な誘いだったのに来てくれてありがとね」
「連絡くれてうれしかったよ。おれも、久しぶりに翠と会いたかったし」
碧のストレートな言葉は、相変わらず心臓に良くない。
それも、完全に無自覚で、本当に他意がないから性質が悪いんだ。わかってはいても心は簡単に平静を失うし、そわそわと彷徨いはじめる。
あえて照明を落としている薄暗い店内でも、彼の隙のない美しさは人目を惹きつけた。水を運んできた店員も、隣テーブルの女子二人組もちらちらと。不躾に見るのは良くないとわかっていて、それでも気になって仕方がないというように。そんな好奇心剥き出しのねっとりとした視線を、碧は気にしていない。
大学時代から、ずっとそうだった。
つい碧のことを見つめてしまう彼女たちの気持ちもよくわかる。
大学を卒業して社会人三年目になった今でも、彼の透明感は変わらない。印象的な切れ長の瞳、艶のある黒い髪、潤いのある白い肌。背が高く、姿勢も良いのでネイビーのスーツ姿が様になっている。いかにも品行方正なサラリーマンって感じ。
社内でも、めちゃくちゃモテてそう。
そう口にしたら、眉間にしわを寄せることがわかりきっているから言わないけど。
「パスタ、ピザ……、なに食べようか? 今日は翠の資格試験合格祝いなんだし、好きなもの食べなよ」
「なにそれ。もしかして碧、奢ってくれる気なの?」
「うん。今日はそのつもりで来たけど」
「いやー、流石にそれは悪いって! 祝ってほしさに呼び出しておいて奢らせるなんて、私がひどい女になっちゃうじゃん」
私は、碧の彼女でもなんでもないんだし。
危うく出かかった言葉を、水と共に飲みこむ。
「合格祝いってことでいいんじゃない。翠はおれにとって、祝いたいって思える貴重なひとなんだし。あと、おれの職場の方まで来てもらったしさ」
とどめのような彼の言葉に、頑なに否定するのもおかしい気がして押し黙るしかなかった。
私の動揺に気がつくことなく、碧は料理の注文をパパッと済ませていく。シーザーサラダ、マルゲリータ、ジェノベーゼのパスタ。辛い料理はダメだったよねって、昔に話した私の好き嫌いまでちゃんと覚えているんだ。
「飲み物は、サングリアで良い? 翠、たしか好きだったよね」
「うん、そーする。碧、ほんとよく覚えてるね」
「覚えるまで遊ぶひとの数が少ないから」
「大学の友達は? スマイルミュージック」
「今でも会うのは翠くらいかな。明日は仕事休みなの?」
「うん、休みー。予定もないよ、碧は?」
「おれも明日は休み。昼まで寝てる予定」
ニッと笑うと、八重歯がのぞく。そんなところもかわいく見えて仕方ない、自分でも笑いたくなるほどの重症。
でもさ、警戒心の強い猫みたいだった碧がこんな風に笑ってくれるようになったのは、私に心を開いてくれた証なんだよね。
そう思うと、うれしいのに、泣きたくなる。
運ばれてきたサングリアをあおったら、喉の奥と共に、心の真ん中の部分もカッと熱くなった。
ごめんね、碧。
私、やっぱり碧のことが好きだ。
資格試験に合格したから祝ってほしいなんて、ただの建前。本当は、シンプルに会いたかっただけだ。欲を言えば、理由なんてなくても会いにいきたいし、碧にも同じように思ってもらいたい。
本当は、その手でもう一度、私の頭を撫でてほしい。
でも、言えるわけがない。
この想いは、碧を裏切っているから。
私が彼に寄せる想いと、彼が私に寄せる想いはきっと全く違う。
同じ特別だとしても、この恋が実ることは絶対にない。
碧が私の前で安心して笑えるのは、彼にとっての私があくまでも『友人』だからなのだ。
✴︎
黒田碧との出会いは、大学時代の軽音サークル『スマイルミュージック』だった。
総勢五十名程度で、オリジナルの作曲活動はせず、プロの曲のコピーを中心に演奏する場所。ライブハウスを借りてサークル員の演奏を鑑賞しあうのが主な活動で、ライブ後の打ち上げには飲み会をしていた。月一で開催されるライブは毎回参加必須というわけではなく希望制。音楽ガチ勢かエンジョイ勢かで区分けするなら後者、そういう毛色のバンドサークルだった。
それだけの数の若い男女が頻繁に集まれば、そこかしこに恋の花が咲くものだ。
サークル活動の四年間で、多くのカップルが生まれては破綻した。
飲み会に顔を出せば、誰それが付き合った別れた浮気をしていた、そんな話ばかり。
その中で私は自分が話の中心になることを頑なに避け、自分の胸の内だけに、実るはずのない片想いを秘めていた。
音楽と酒を肴に、恋も全力で楽しむ。
サークルの中に元恋人が複数人いるのが当たり前。
そんな、ふわふわと桃色に浮ついた世界で、碧は異端だった。
色とりどりの恋の花が咲き乱れる中、碧だけが凪いでいた。
『ごめん。おれ、誰とも付き合う気ないから』
ステージの上で、難易度の高いベースラインを華々しく弾きこなした碧は、あの四年間で何度その言葉を口にしただろう。
色白で、すらりと長細い指から、安定感のある心地良いベース音を自由自在に奏でる碧には色気があった。見目も良く、惚れるなという方が難しいほどのカリスマ性。普段は寡黙な性格で、自らのことはほとんど話さず聞き役に回っていることが多かった。
クールで美形のベーシスト。
当然、碧はモテまくった。サークルに入ったばかりの新入生のうち何人かが彼に突撃告白をしてあっさり振られるところまでが、春の風物詩になるくらい。
『黒田先輩って、なんで誰とも付き合おうとしないんだろう? 実は彼女がいたりするのかなぁ』
『うーーーん……。だとしたら、わざわざウソつかなくても良くない? 彼女がいるって素直に言うんじゃないかなぁ』
『彼女じゃなくて、実は彼氏だったりとか……?』
『あーーー。うわ、納得できちゃうんだけど。絶妙にリアルなとこ突くねぇ』
『あはっ。まー、本当のところはわかんないけど、良い目の保養だよねぇ。ベース鬼上手いし、とにかく顔が良い。最高の観賞用だよ』
黒田碧には、実は、彼氏がいるのではないか。
大学三年生の春。打ち上げの飲み会中に聞こえてきた後輩たちの勝手な噂話に、耳がぴくりと反応した。
視線を別の卓にやれば、同期の男子に相槌を打っている黒田の姿。同じサークル員でも女子に対しては見せない、気をゆるしているような微笑み。
そっか。どうして黒田が誰とも付き合おうとしないのか考えたこともなかったけど、そういうことなら腑に落ちるかも。
ドラムパートを担当していた私は、彼と好みのバンドが同じだったので、一年生の時から何度か一緒にライブに出ていた。私と黒田碧は、単に好きなアーティストが一緒の同期というだけの関係性。スタジオ後にご飯にも行くけど、当たり障りのない話だけをして解散していた。顔を合わせればそれなりに会話をするけど、特別な絆というほどのものはなかった。
後輩たちの勝手な噂話を耳にするまで、私は黒田の恋愛事情に疑問を抱いたことはなかった。
黒田はきれいな顔をしたイケメンだと思う。でも、特別な興味はない。
当時の私は、それほどまで自分の恋心に蓋をすることだけに、精一杯だった。
けど、噂を聞いた日から、黒田のことが妙に気にかかるようになった。
恋愛的な意味じゃない。
もしかすると同じ感性を持つ仲間を見つけたかもしれない、という期待の意味でだ。
黒田と、心の深い部分に触れるような、踏みこんだ話をしてみたい。でも、私の思い過ごしで勘違いだったら、私だけが秘密を暴露することになってしまう。
臆病で、なかなか踏み入った話ができなかった私に、転機が訪れた。
それは、三年時のサークル夏合宿の時のこと。
ライブが終わって眠りについた夜、喉の渇きで目が覚めた。ペットボトルを買いに自販機がある一階のフロントまで降りていった帰りがけ、偶然、目にしてしまったんだ。
夜。人目を忍ぶように階段の物陰でそっと寄り添いあう、男女の影。
茜――私が恋をしていた同期のギターボーカル女子と、OBでありながら合宿に参加していた塩野さんが抱き合ってキスをしていた瞬間を。
心がしんと凍った。頭から、冷や水を浴びせられたようだった。
あまりにも衝撃的で、幽霊に出くわしたかのように真っ青な顔をしながら、二人に気がつかれないようにその場を引き返した。
どうしようどうしよう。いや、どうしようもなにも、ないんだけど。
素手で心臓を鷲掴みにされたように、胸が痛い。
とにかくあの二人から遠い場所へ消え去りたい。
周囲を気にする余裕もないまま、宿の外まで逃げ出した。
そこで、たまたま外へ散歩に出ていたらしい黒田とばったり顔を合わせた。
『白石? どうかした?』
『っ! ……くろ、だ』
泣いたところで黒田を困らせることしかできないのに、動揺で涙が止まらない。視界が涙でぼやけて、目の前の彼がどんな顔をしているのかもわからなかった。
黒田はギョッとして戸惑いながらも、泣きじゃくる私を放置はしなかった。
『散歩でもいこうか』
生温かい夜風。澄みきった夜空にくっきりと浮かぶ、夏の大三角形。
なにが起きたのか気になっているはずなのに、詮索しようとはしてこない。もう自分は一度行ってきたはずの散歩に、無言でそっと付き添ってくれる。
その静かなやさしさが、あまりにも心地良くて。
それまでサークルの誰にも打ち明けられなかった秘密を、私にぽろりと吐き出させた。
『失恋、しちゃったんだ。……実は私さ、茜のことが好きだったの。茜は塩野さんのことが好きで、叶うはずない恋だって頭ではわかってたんだけどさ……、実際に目の当たりにすると、めちゃくちゃしんどいものだね』
私は、一年の冬頃から、茜のことが好きだった。
親友としてだけじゃなく、恋愛的な意味でもドキドキするようになった。そんな自分に戸惑いもあった。
同性愛。知識としてはだいぶ浸透している世の中になったんだとは思う。
それでも、女子である茜を実際に好きになってしまったことに、後ろめたいような気持ちをずっと抱えてきた。
私の恋は、どう言葉で取り繕ったところで、現実問題として異端だ。
誰にも言えなかった。いや、言いたくなかった。
理解はされても、共感は得られないとわかりきっていたから。当事者だからこそ、感性の差異には理解だけでは越えられない壁があると痛感していた。
共感してほしくて話をするのに、一番ほしいものを得られないどころか、否定されるかもしれないリスクまで負うなんて絶対に嫌だった。
ましてや、茜は異性愛者だ。
塩野さんのことが気になっていることも、本人から聞いて知っていた。だからこれは、始まった瞬間から陽の目を浴びることはないとわかっていた恋。
それでも、破れたら胸を突き破りそうなほど痛くて悲しいところは一緒。
『我慢しないで、悲しい時は泣いたほうがいい』
黒田の男性らしく骨張った手が、私の頭にぎこちなく触れた。
その手はかすかに震えながら、ガラス細工に触れるかのような繊細な動きで私の頭を撫でる。
『打ち明けてくれて、ありがとう。怖かったかもしれないけど、話してくれてうれしいよ。……白石も、ずっと誰にも言えなかったんだな』
『黒田も、私と同じなの?』
『うーん……、同じではないかな。でも、みんなと同じ感覚じゃない辛さはわかるよ。たまに、すげえしんどくなるの。全然話についていけなくて、宇宙空間に放り出されたような感じ』
彼は、深呼吸をすると、罪を告白するかのように気弱な顔で、秘密をこぼした。
『……おれは、人生で、ひとを恋愛的な意味で好きになったことがない。恋という感情も、他人に触れたいという欲求も理解できない。最初から備わっていないんだと思う。この先も、きっと永遠にわからない』
あぁ、そっか。そういうことだったんだ。
それまで欠けていたパズルのピースがすとんと嵌まって、一枚の絵が完成したような感覚。
テレビ番組で見聞きしたことがある。
そもそも恋愛感情自体が存在しない。
性的欲求が他者に向くことのないひとも世の中には存在していると。
『つまり……、黒田は、アセクシャルってこと?』
たしかめるように尋ねた時、彼は、ほっとしたように息をついた。
『そう、正しく伝わったみたいで良かった。結構な勇気を振り絞ってカミングアウトしても、微妙な反応をされることが多いんだ。運命のひとに出会っていないだけだとか、これからわかるようになるとか、そーゆー感じの謎の説得。段々説明するのも面倒になってきて、理解を得ることを諦める癖がついてくる』
彼の深いため息は、それまでの苦労を物語っているようだった。
『みんなにとって恋をするのが当たり前なのと同じで、おれにとっては、恋をしないのが当たり前なんだ。ただそれだけのことが、なんでこんなに正しく伝わらないんだろうって何度もモヤモヤした』
寡黙で、なにを考えているのかいまいちわからなかった黒田の、心の奥深くに触れているような感じがした。
『ねえ、白石。おれの前では、自分を偽らないで。辛くなったらいつでもおいで。おれは話を聞くことくらいしかできないけど……、それでも良ければ』
あの夏の夜、私たちは、仲間意識という糸で繋がった。
その糸が、数年後に、自分の首をきつく締めつける鎖になるとは思いもしていなかった。
*
「翠。ちょっと飲みすぎたんじゃない?」
「……んー。そう、かも。だって……久し振りに碧に会えたから」
「言ってくれれば、いつでも遊ぶのに」
違う。違うんだよ、碧。
私の欲する特別と、碧の思う特別は全くの別物なの。
「ふあぁ……。流石に眠いわ。おれがソファで寝るから、翠は布団で寝て」
「え! いや、私がソファ使うよ。勝手に押しかけたのは私なんだし」
「昨日コインランドリーで洗ってきたし、気にせず使って良いから。んー……寝る」
碧は、ジャケットだけ脱いだ状態で早々にソファへ寝転んだ。
寝るの早。
っていうか……、あまりにも私のことを信用しすぎ。
『酔った〜〜〜! 一人じゃ帰れないっ! 碧、おうちに泊めて~~。明日なにもないなら良いでしょ?』と酔いに任せて無茶を言う私を、碧は『はいはい。仕方ないなぁ』とすんなり受け入れてしまった。
いくら気の置けない友達とはいえ、普通こんな夜遅く、一人暮らしの家に女をあっさりと上がらせる? 私が悪い女だったらどーすんの。
自分から押しかけておいて、モヤモヤとした複雑な感情が湧いてくる。
碧はちゃらいわけでも、女にだらしないわけでもない。むしろその対極にいる存在。
わかってるんだよ。碧は、私を信頼してくれてるから、こんな無茶なお願いもゆるしてくれるんだって。他の女のひとには、こんなことしないって。
それがうれしいのに悲しくて、胸が張り裂けそうなんだ。
五年前のあの夏の夜以降、私と碧は、それまで以上に会話を重ねるようになった。
最初は、茜への失恋の傷を忘れるため。
同じサークルにいる以上、茜を物理的に視界にいれないようにするのは不可能だった。失恋以前に、私は茜の親友でもあったのだ。急に態度を変えることもできなかった。
幸い、茜は自分の恋を積極的に周囲へ言いふらして惚気るタイプではなかったので、その意味では救われていた。それでも、ふとした瞬間ごとに、きっと塩野先輩に会いにいくんだろうなと考えては落ちこんだ。
碧は、そんな私の話を、たくさん聞いてくれた。
それまでうかつに誰にも打ち明けられなかった想いの丈の全てを、碧が聴いてくれた。
茜との思い出、茜への想い、うれしかったことも悲しかったこともぜんぶ。無駄だとか意味がないとか言わずに、穏やかな表情で受け止めてくれたんだ。
『翠が、うらやましいよ』
『え。今の話のどこにうらやましい要素があったの?』
『んー……おれは、片想いもしたことないからさ。誰かの一挙一動に、飛び上がるほど喜んだり、胸が潰れそうなほど落ち込んだり……、そういうのを経験してみたいなって純粋に思った』
カミングアウトしあってからの碧は、ずいぶんと饒舌になった。
きっと、あの夏の夜に、私への仲間意識を強く抱いたから。
『……碧はさ、スマイルミュージックにいて、しんどくならないの?』
『ん? みんな恋に浮かれてるなぁって?』
『そう』
『まあ、基本は、バンドが好きだから平気かな。飲み会も、人間観察の一環だと思えば楽しいし。そもそも、スマミューに限らず、ひとが集まったらどこも似たようなもんだろ。ゼミの集まりも、高校の部活でも同じだったし』
そう話す碧は、さびしそうな、でも悟って受け入れているような顔をしていた。
恋は人生の全てではない。それでも、多くのひとにとって大きな関心事だ。
碧の言う通り、ひとが集まれば、高確率で恋の話になる。大多数にとっての共通の話題だという顔をして、なんの悪気もなく、静かに誰かを傷つけているかもしれない。
すぐ隣に自分とは違う感性の人間がいるかもしれないという知識としての前提は、場を盛り上げる昂揚感、数の暴力、あるいは理性を洗い流す酒によって消えていく。
『滅多に自分の話はしないんだけど、翠にはなんでも話せる。翠に出会えたことが、スマミューにいて一番良かったことかも』
ひとは、思い込みに縛られている。
思い込みから完全に逃れて生きられる人間は存在しない。
セクシャルマイノリティである碧と私も、例外じゃない。
一向に眠気が訪れず、のっそりと起き上がる。
ソファまで近づいて、碧の寝顔を見下ろした。
寝顔まできれいだ。ドキドキして眠るどころではない私とは対照的に、安心しきった顔で寝入っている碧は天使のようで、悪魔のようでもある。自分が襲われる可能性など欠片も考えていなさそうな能天気さが、愛おしくて、憎らしい。
碧はさ、安心していたんだよね。
同性を好きになる私が、異性である自分をそういう意味で好きになることはないって。それも本当のことだったし、私だって、自分はそういう人間だと思いこんで生きてきた。
でもさ、違ったんだ。
いつの間にか、碧のことを、そういう意味でも好きだと思っちゃったんだよ。
碧にとっては、この感情を自分に向けられるのが一番困ることだって、充分すぎるほどわかってたことなのに。
「ごめんね、碧」
私は、碧とは違う。
好きになったひとには触れたいし、触れてほしい。同じ部屋に寝泊まりしても本当になにも起こらないこの夜に、理不尽に悲しくなるし、泣きたくもなる。
「……私、碧が思ってくれてるような良い子じゃない。悪い女だよ」
誰とも口付けをしたことがないというその唇に、そっとキスを落とした。
ほんの触れるだけの、味もしないキス。
茨姫ではない碧は、私のキスでは、目を覚まさない。
悲しいけれどもホッとして、熱い涙がぽろぽろとこぼれてきた。
碧は恋が知りたいって言ってたけどさ、私はこんなに苦しい思いをするくらいなら、恋なんてわからない方が良かったよ。
碧と同じになりたいのに、どうしても同じになれない。
夜が明ける前に、この家を出ていこう。碧が目を覚ます前には、絶対に。
自分から無暗に連絡を取るのもやめる。もう、無茶に家に押しかけたりもしない。
なんとかして、どこにもいけないこの恋心の息の根を止める。次に会う時までにはこの夜のことを過去にして、本当の意味で友達に戻るようにするから。
だからお願い、碧。
恋をしたことを、どうかゆるして。【完】
男性にしては少しだけ高めの涼やかな声に、心がとくんと弾む。好きなひとを視界に入れると、自然に口角が上がるのはどうしてなんだろう。
「ううん、全然待ってないよ。それより、急な誘いだったのに来てくれてありがとね」
「連絡くれてうれしかったよ。おれも、久しぶりに翠と会いたかったし」
碧のストレートな言葉は、相変わらず心臓に良くない。
それも、完全に無自覚で、本当に他意がないから性質が悪いんだ。わかってはいても心は簡単に平静を失うし、そわそわと彷徨いはじめる。
あえて照明を落としている薄暗い店内でも、彼の隙のない美しさは人目を惹きつけた。水を運んできた店員も、隣テーブルの女子二人組もちらちらと。不躾に見るのは良くないとわかっていて、それでも気になって仕方がないというように。そんな好奇心剥き出しのねっとりとした視線を、碧は気にしていない。
大学時代から、ずっとそうだった。
つい碧のことを見つめてしまう彼女たちの気持ちもよくわかる。
大学を卒業して社会人三年目になった今でも、彼の透明感は変わらない。印象的な切れ長の瞳、艶のある黒い髪、潤いのある白い肌。背が高く、姿勢も良いのでネイビーのスーツ姿が様になっている。いかにも品行方正なサラリーマンって感じ。
社内でも、めちゃくちゃモテてそう。
そう口にしたら、眉間にしわを寄せることがわかりきっているから言わないけど。
「パスタ、ピザ……、なに食べようか? 今日は翠の資格試験合格祝いなんだし、好きなもの食べなよ」
「なにそれ。もしかして碧、奢ってくれる気なの?」
「うん。今日はそのつもりで来たけど」
「いやー、流石にそれは悪いって! 祝ってほしさに呼び出しておいて奢らせるなんて、私がひどい女になっちゃうじゃん」
私は、碧の彼女でもなんでもないんだし。
危うく出かかった言葉を、水と共に飲みこむ。
「合格祝いってことでいいんじゃない。翠はおれにとって、祝いたいって思える貴重なひとなんだし。あと、おれの職場の方まで来てもらったしさ」
とどめのような彼の言葉に、頑なに否定するのもおかしい気がして押し黙るしかなかった。
私の動揺に気がつくことなく、碧は料理の注文をパパッと済ませていく。シーザーサラダ、マルゲリータ、ジェノベーゼのパスタ。辛い料理はダメだったよねって、昔に話した私の好き嫌いまでちゃんと覚えているんだ。
「飲み物は、サングリアで良い? 翠、たしか好きだったよね」
「うん、そーする。碧、ほんとよく覚えてるね」
「覚えるまで遊ぶひとの数が少ないから」
「大学の友達は? スマイルミュージック」
「今でも会うのは翠くらいかな。明日は仕事休みなの?」
「うん、休みー。予定もないよ、碧は?」
「おれも明日は休み。昼まで寝てる予定」
ニッと笑うと、八重歯がのぞく。そんなところもかわいく見えて仕方ない、自分でも笑いたくなるほどの重症。
でもさ、警戒心の強い猫みたいだった碧がこんな風に笑ってくれるようになったのは、私に心を開いてくれた証なんだよね。
そう思うと、うれしいのに、泣きたくなる。
運ばれてきたサングリアをあおったら、喉の奥と共に、心の真ん中の部分もカッと熱くなった。
ごめんね、碧。
私、やっぱり碧のことが好きだ。
資格試験に合格したから祝ってほしいなんて、ただの建前。本当は、シンプルに会いたかっただけだ。欲を言えば、理由なんてなくても会いにいきたいし、碧にも同じように思ってもらいたい。
本当は、その手でもう一度、私の頭を撫でてほしい。
でも、言えるわけがない。
この想いは、碧を裏切っているから。
私が彼に寄せる想いと、彼が私に寄せる想いはきっと全く違う。
同じ特別だとしても、この恋が実ることは絶対にない。
碧が私の前で安心して笑えるのは、彼にとっての私があくまでも『友人』だからなのだ。
✴︎
黒田碧との出会いは、大学時代の軽音サークル『スマイルミュージック』だった。
総勢五十名程度で、オリジナルの作曲活動はせず、プロの曲のコピーを中心に演奏する場所。ライブハウスを借りてサークル員の演奏を鑑賞しあうのが主な活動で、ライブ後の打ち上げには飲み会をしていた。月一で開催されるライブは毎回参加必須というわけではなく希望制。音楽ガチ勢かエンジョイ勢かで区分けするなら後者、そういう毛色のバンドサークルだった。
それだけの数の若い男女が頻繁に集まれば、そこかしこに恋の花が咲くものだ。
サークル活動の四年間で、多くのカップルが生まれては破綻した。
飲み会に顔を出せば、誰それが付き合った別れた浮気をしていた、そんな話ばかり。
その中で私は自分が話の中心になることを頑なに避け、自分の胸の内だけに、実るはずのない片想いを秘めていた。
音楽と酒を肴に、恋も全力で楽しむ。
サークルの中に元恋人が複数人いるのが当たり前。
そんな、ふわふわと桃色に浮ついた世界で、碧は異端だった。
色とりどりの恋の花が咲き乱れる中、碧だけが凪いでいた。
『ごめん。おれ、誰とも付き合う気ないから』
ステージの上で、難易度の高いベースラインを華々しく弾きこなした碧は、あの四年間で何度その言葉を口にしただろう。
色白で、すらりと長細い指から、安定感のある心地良いベース音を自由自在に奏でる碧には色気があった。見目も良く、惚れるなという方が難しいほどのカリスマ性。普段は寡黙な性格で、自らのことはほとんど話さず聞き役に回っていることが多かった。
クールで美形のベーシスト。
当然、碧はモテまくった。サークルに入ったばかりの新入生のうち何人かが彼に突撃告白をしてあっさり振られるところまでが、春の風物詩になるくらい。
『黒田先輩って、なんで誰とも付き合おうとしないんだろう? 実は彼女がいたりするのかなぁ』
『うーーーん……。だとしたら、わざわざウソつかなくても良くない? 彼女がいるって素直に言うんじゃないかなぁ』
『彼女じゃなくて、実は彼氏だったりとか……?』
『あーーー。うわ、納得できちゃうんだけど。絶妙にリアルなとこ突くねぇ』
『あはっ。まー、本当のところはわかんないけど、良い目の保養だよねぇ。ベース鬼上手いし、とにかく顔が良い。最高の観賞用だよ』
黒田碧には、実は、彼氏がいるのではないか。
大学三年生の春。打ち上げの飲み会中に聞こえてきた後輩たちの勝手な噂話に、耳がぴくりと反応した。
視線を別の卓にやれば、同期の男子に相槌を打っている黒田の姿。同じサークル員でも女子に対しては見せない、気をゆるしているような微笑み。
そっか。どうして黒田が誰とも付き合おうとしないのか考えたこともなかったけど、そういうことなら腑に落ちるかも。
ドラムパートを担当していた私は、彼と好みのバンドが同じだったので、一年生の時から何度か一緒にライブに出ていた。私と黒田碧は、単に好きなアーティストが一緒の同期というだけの関係性。スタジオ後にご飯にも行くけど、当たり障りのない話だけをして解散していた。顔を合わせればそれなりに会話をするけど、特別な絆というほどのものはなかった。
後輩たちの勝手な噂話を耳にするまで、私は黒田の恋愛事情に疑問を抱いたことはなかった。
黒田はきれいな顔をしたイケメンだと思う。でも、特別な興味はない。
当時の私は、それほどまで自分の恋心に蓋をすることだけに、精一杯だった。
けど、噂を聞いた日から、黒田のことが妙に気にかかるようになった。
恋愛的な意味じゃない。
もしかすると同じ感性を持つ仲間を見つけたかもしれない、という期待の意味でだ。
黒田と、心の深い部分に触れるような、踏みこんだ話をしてみたい。でも、私の思い過ごしで勘違いだったら、私だけが秘密を暴露することになってしまう。
臆病で、なかなか踏み入った話ができなかった私に、転機が訪れた。
それは、三年時のサークル夏合宿の時のこと。
ライブが終わって眠りについた夜、喉の渇きで目が覚めた。ペットボトルを買いに自販機がある一階のフロントまで降りていった帰りがけ、偶然、目にしてしまったんだ。
夜。人目を忍ぶように階段の物陰でそっと寄り添いあう、男女の影。
茜――私が恋をしていた同期のギターボーカル女子と、OBでありながら合宿に参加していた塩野さんが抱き合ってキスをしていた瞬間を。
心がしんと凍った。頭から、冷や水を浴びせられたようだった。
あまりにも衝撃的で、幽霊に出くわしたかのように真っ青な顔をしながら、二人に気がつかれないようにその場を引き返した。
どうしようどうしよう。いや、どうしようもなにも、ないんだけど。
素手で心臓を鷲掴みにされたように、胸が痛い。
とにかくあの二人から遠い場所へ消え去りたい。
周囲を気にする余裕もないまま、宿の外まで逃げ出した。
そこで、たまたま外へ散歩に出ていたらしい黒田とばったり顔を合わせた。
『白石? どうかした?』
『っ! ……くろ、だ』
泣いたところで黒田を困らせることしかできないのに、動揺で涙が止まらない。視界が涙でぼやけて、目の前の彼がどんな顔をしているのかもわからなかった。
黒田はギョッとして戸惑いながらも、泣きじゃくる私を放置はしなかった。
『散歩でもいこうか』
生温かい夜風。澄みきった夜空にくっきりと浮かぶ、夏の大三角形。
なにが起きたのか気になっているはずなのに、詮索しようとはしてこない。もう自分は一度行ってきたはずの散歩に、無言でそっと付き添ってくれる。
その静かなやさしさが、あまりにも心地良くて。
それまでサークルの誰にも打ち明けられなかった秘密を、私にぽろりと吐き出させた。
『失恋、しちゃったんだ。……実は私さ、茜のことが好きだったの。茜は塩野さんのことが好きで、叶うはずない恋だって頭ではわかってたんだけどさ……、実際に目の当たりにすると、めちゃくちゃしんどいものだね』
私は、一年の冬頃から、茜のことが好きだった。
親友としてだけじゃなく、恋愛的な意味でもドキドキするようになった。そんな自分に戸惑いもあった。
同性愛。知識としてはだいぶ浸透している世の中になったんだとは思う。
それでも、女子である茜を実際に好きになってしまったことに、後ろめたいような気持ちをずっと抱えてきた。
私の恋は、どう言葉で取り繕ったところで、現実問題として異端だ。
誰にも言えなかった。いや、言いたくなかった。
理解はされても、共感は得られないとわかりきっていたから。当事者だからこそ、感性の差異には理解だけでは越えられない壁があると痛感していた。
共感してほしくて話をするのに、一番ほしいものを得られないどころか、否定されるかもしれないリスクまで負うなんて絶対に嫌だった。
ましてや、茜は異性愛者だ。
塩野さんのことが気になっていることも、本人から聞いて知っていた。だからこれは、始まった瞬間から陽の目を浴びることはないとわかっていた恋。
それでも、破れたら胸を突き破りそうなほど痛くて悲しいところは一緒。
『我慢しないで、悲しい時は泣いたほうがいい』
黒田の男性らしく骨張った手が、私の頭にぎこちなく触れた。
その手はかすかに震えながら、ガラス細工に触れるかのような繊細な動きで私の頭を撫でる。
『打ち明けてくれて、ありがとう。怖かったかもしれないけど、話してくれてうれしいよ。……白石も、ずっと誰にも言えなかったんだな』
『黒田も、私と同じなの?』
『うーん……、同じではないかな。でも、みんなと同じ感覚じゃない辛さはわかるよ。たまに、すげえしんどくなるの。全然話についていけなくて、宇宙空間に放り出されたような感じ』
彼は、深呼吸をすると、罪を告白するかのように気弱な顔で、秘密をこぼした。
『……おれは、人生で、ひとを恋愛的な意味で好きになったことがない。恋という感情も、他人に触れたいという欲求も理解できない。最初から備わっていないんだと思う。この先も、きっと永遠にわからない』
あぁ、そっか。そういうことだったんだ。
それまで欠けていたパズルのピースがすとんと嵌まって、一枚の絵が完成したような感覚。
テレビ番組で見聞きしたことがある。
そもそも恋愛感情自体が存在しない。
性的欲求が他者に向くことのないひとも世の中には存在していると。
『つまり……、黒田は、アセクシャルってこと?』
たしかめるように尋ねた時、彼は、ほっとしたように息をついた。
『そう、正しく伝わったみたいで良かった。結構な勇気を振り絞ってカミングアウトしても、微妙な反応をされることが多いんだ。運命のひとに出会っていないだけだとか、これからわかるようになるとか、そーゆー感じの謎の説得。段々説明するのも面倒になってきて、理解を得ることを諦める癖がついてくる』
彼の深いため息は、それまでの苦労を物語っているようだった。
『みんなにとって恋をするのが当たり前なのと同じで、おれにとっては、恋をしないのが当たり前なんだ。ただそれだけのことが、なんでこんなに正しく伝わらないんだろうって何度もモヤモヤした』
寡黙で、なにを考えているのかいまいちわからなかった黒田の、心の奥深くに触れているような感じがした。
『ねえ、白石。おれの前では、自分を偽らないで。辛くなったらいつでもおいで。おれは話を聞くことくらいしかできないけど……、それでも良ければ』
あの夏の夜、私たちは、仲間意識という糸で繋がった。
その糸が、数年後に、自分の首をきつく締めつける鎖になるとは思いもしていなかった。
*
「翠。ちょっと飲みすぎたんじゃない?」
「……んー。そう、かも。だって……久し振りに碧に会えたから」
「言ってくれれば、いつでも遊ぶのに」
違う。違うんだよ、碧。
私の欲する特別と、碧の思う特別は全くの別物なの。
「ふあぁ……。流石に眠いわ。おれがソファで寝るから、翠は布団で寝て」
「え! いや、私がソファ使うよ。勝手に押しかけたのは私なんだし」
「昨日コインランドリーで洗ってきたし、気にせず使って良いから。んー……寝る」
碧は、ジャケットだけ脱いだ状態で早々にソファへ寝転んだ。
寝るの早。
っていうか……、あまりにも私のことを信用しすぎ。
『酔った〜〜〜! 一人じゃ帰れないっ! 碧、おうちに泊めて~~。明日なにもないなら良いでしょ?』と酔いに任せて無茶を言う私を、碧は『はいはい。仕方ないなぁ』とすんなり受け入れてしまった。
いくら気の置けない友達とはいえ、普通こんな夜遅く、一人暮らしの家に女をあっさりと上がらせる? 私が悪い女だったらどーすんの。
自分から押しかけておいて、モヤモヤとした複雑な感情が湧いてくる。
碧はちゃらいわけでも、女にだらしないわけでもない。むしろその対極にいる存在。
わかってるんだよ。碧は、私を信頼してくれてるから、こんな無茶なお願いもゆるしてくれるんだって。他の女のひとには、こんなことしないって。
それがうれしいのに悲しくて、胸が張り裂けそうなんだ。
五年前のあの夏の夜以降、私と碧は、それまで以上に会話を重ねるようになった。
最初は、茜への失恋の傷を忘れるため。
同じサークルにいる以上、茜を物理的に視界にいれないようにするのは不可能だった。失恋以前に、私は茜の親友でもあったのだ。急に態度を変えることもできなかった。
幸い、茜は自分の恋を積極的に周囲へ言いふらして惚気るタイプではなかったので、その意味では救われていた。それでも、ふとした瞬間ごとに、きっと塩野先輩に会いにいくんだろうなと考えては落ちこんだ。
碧は、そんな私の話を、たくさん聞いてくれた。
それまでうかつに誰にも打ち明けられなかった想いの丈の全てを、碧が聴いてくれた。
茜との思い出、茜への想い、うれしかったことも悲しかったこともぜんぶ。無駄だとか意味がないとか言わずに、穏やかな表情で受け止めてくれたんだ。
『翠が、うらやましいよ』
『え。今の話のどこにうらやましい要素があったの?』
『んー……おれは、片想いもしたことないからさ。誰かの一挙一動に、飛び上がるほど喜んだり、胸が潰れそうなほど落ち込んだり……、そういうのを経験してみたいなって純粋に思った』
カミングアウトしあってからの碧は、ずいぶんと饒舌になった。
きっと、あの夏の夜に、私への仲間意識を強く抱いたから。
『……碧はさ、スマイルミュージックにいて、しんどくならないの?』
『ん? みんな恋に浮かれてるなぁって?』
『そう』
『まあ、基本は、バンドが好きだから平気かな。飲み会も、人間観察の一環だと思えば楽しいし。そもそも、スマミューに限らず、ひとが集まったらどこも似たようなもんだろ。ゼミの集まりも、高校の部活でも同じだったし』
そう話す碧は、さびしそうな、でも悟って受け入れているような顔をしていた。
恋は人生の全てではない。それでも、多くのひとにとって大きな関心事だ。
碧の言う通り、ひとが集まれば、高確率で恋の話になる。大多数にとっての共通の話題だという顔をして、なんの悪気もなく、静かに誰かを傷つけているかもしれない。
すぐ隣に自分とは違う感性の人間がいるかもしれないという知識としての前提は、場を盛り上げる昂揚感、数の暴力、あるいは理性を洗い流す酒によって消えていく。
『滅多に自分の話はしないんだけど、翠にはなんでも話せる。翠に出会えたことが、スマミューにいて一番良かったことかも』
ひとは、思い込みに縛られている。
思い込みから完全に逃れて生きられる人間は存在しない。
セクシャルマイノリティである碧と私も、例外じゃない。
一向に眠気が訪れず、のっそりと起き上がる。
ソファまで近づいて、碧の寝顔を見下ろした。
寝顔まできれいだ。ドキドキして眠るどころではない私とは対照的に、安心しきった顔で寝入っている碧は天使のようで、悪魔のようでもある。自分が襲われる可能性など欠片も考えていなさそうな能天気さが、愛おしくて、憎らしい。
碧はさ、安心していたんだよね。
同性を好きになる私が、異性である自分をそういう意味で好きになることはないって。それも本当のことだったし、私だって、自分はそういう人間だと思いこんで生きてきた。
でもさ、違ったんだ。
いつの間にか、碧のことを、そういう意味でも好きだと思っちゃったんだよ。
碧にとっては、この感情を自分に向けられるのが一番困ることだって、充分すぎるほどわかってたことなのに。
「ごめんね、碧」
私は、碧とは違う。
好きになったひとには触れたいし、触れてほしい。同じ部屋に寝泊まりしても本当になにも起こらないこの夜に、理不尽に悲しくなるし、泣きたくもなる。
「……私、碧が思ってくれてるような良い子じゃない。悪い女だよ」
誰とも口付けをしたことがないというその唇に、そっとキスを落とした。
ほんの触れるだけの、味もしないキス。
茨姫ではない碧は、私のキスでは、目を覚まさない。
悲しいけれどもホッとして、熱い涙がぽろぽろとこぼれてきた。
碧は恋が知りたいって言ってたけどさ、私はこんなに苦しい思いをするくらいなら、恋なんてわからない方が良かったよ。
碧と同じになりたいのに、どうしても同じになれない。
夜が明ける前に、この家を出ていこう。碧が目を覚ます前には、絶対に。
自分から無暗に連絡を取るのもやめる。もう、無茶に家に押しかけたりもしない。
なんとかして、どこにもいけないこの恋心の息の根を止める。次に会う時までにはこの夜のことを過去にして、本当の意味で友達に戻るようにするから。
だからお願い、碧。
恋をしたことを、どうかゆるして。【完】