身の程にもない夢を追いかけている。
この身を燃やし尽くさなければ、月の影にも届かないと知っている。
そして蝋燭になって果てようとした私の手を、細い両手が掴まえた。それは私にとって、飛んで火に入る蛍の光で。
無数のスポットライトよりも確かに、私の輪郭を照らす光だった。
「メジャーデビュー、決まったよ」
私は歩く足を止めて、携帯電話を耳に当てたまま夜空を見上げた。街灯に、絞り出した息が白く濁る。電話越しに息を呑む声がして、それからかすかな嗚咽が聞こえた。
誰かの拵えたラブソングは、他人にとってはブリキの月だ。銅の薄板のメッキは禿げて、空を回ればネジの擦れる音がする。それでも私の葡萄の月が誰かの同じような夜を照らす日を、あなたの手に支えられながら弱気にも祈っている。
葡萄の実がとろけるように月が落ちた。
あの日の悪夢は私の隣で、甘い顔をして横たわっている。軽やかに弦を捌く指は無造作にシーツの上に投げ出されて、その寝息はカモシカの足音のようにひそやかだ。伏せられた長いまつ毛、柔らかさを知る唇、その下の白い首に私はそっと手を添える。すっかりたこの痕が消えた指の腹には、とく、とく、と穏やかな脈が伝わってくる。
私はベッド脇に立てかけられたギグバッグに視線を移し、頸動脈にかけていた手を外した。メロウな影がその足元から部屋の角に至るまで長く伸びている。私の捨てたベース弾きの称号。
不意に、シーツが足に絡む。振り向けば、いつの間に目が覚めたのか求が私を見ていた。
「絵湖」
彼女が私の名前を呼ぶ。後ろからゆっくりと上体が目の前に迫り、彼女の唇が私のそれに押し付けられる。先程まで散々したばかりなのに、他の誰でもないその感触にどうしようもなく下が疼いて、私は膝をすり合わせる。その様子を目ざとく視界の端で捉えていたらしい求がさらに舌を割り込ませるのを、私は黙って受け容れる。は、と浅い息が漏れて、気がつけば私はシーツの海に押し倒されていた。
「求……」
私を見下ろす女の名を呼ぶ。夜通し鳴かされて掠れた声に、私らしくもない甘やかさが混じってしまう。今すぐ奥を暴き立てられて、泣き叫ぶほどぐずぐずにされたい。そんな浅ましい欲が透けて見える声に、私は耳まで赤くなる。
「絵湖」
求はもう一度そう言うと、私の首筋に口付けた。そして細い月の光に照らされて、その顔がかすかに微笑んだのがわかる。彼女はこめかみに落ちる髪をよけると、その端正な顔を私の胸元にかがめた。鎖骨、胸、脇腹と降りていくその感触に期待して、私の足は徐々に開いていく。駄目押しのように隠部を彼女の指がなぞった瞬間、私は吐息のような声を出した。
絵湖。彼女の呼ぶそれが私の識別子だった。私には名前がある。でも私は何者でもない。
大学を出た私の携帯には、求からの通知が入っていた。内容は予想通り昼食の催促だ。二限を終えてすぐの時間なので、急いで十一時半の電車に乗れば正午過ぎには求の家に着くだろう。私は三日前に訪れたばかりの彼女の家の冷蔵庫を想像し、その中身がどれほど残っているか計算した。大学生の一人暮らしと言われて誰もが想像する不摂生を、彼女はお手本通りに実行している。どうせ栄養ゼリーとカルピスしか消費していないだろうから、最寄駅に着いたらまずスーパーに寄るべきだろう。
望月求は絵に描いたようなヒモベーシストだ。高校で軽音部に所属し、大学に進学した今でもベースを続けている。入学して数ヶ月のうちは本人曰く「がんばっていた」らしいが、結局のところ一年の時点で必修の単位を数個落とし、進級危ぶまれる事態に陥っていた。なんとか再試を受けさせてもらい二年生に進級したはいいものの、改心する気はまるでないらしい。高校の同級生で友人であった絵湖がその怠惰な生活ぶりを見かねて、こうして週に何度か彼女の家を訪れるようになってからも、その態度が変わる様子はない。恋人でもできれば変わるだろうかと何度か知人を紹介する素振りを見せたのだが、毎度求の返事は曖昧なものだった。
その理由は、彼女曰く「絵湖以外を家に入れるとか耐えられない」ということだそう。このむず痒い返答に絵湖は毎回、二の句を告げずに押し黙っている。本気で絵湖を好きだと言うならまだしも、天然でそんなことを口にするからタチが悪い。今まで何人の女の子が誑かされてきたのだろうかと、僅かに憤りすら覚える始末だ。少なくとも、彼女の見目はすこぶる人の目を引く。勿忘草色にインナーを染めたバンドマンらしいウルフカットに、薄い耳たぶを飾る幾つものごついシルバーピアス。目尻の少し垂れた瞳はどこか色っぽく、左目の下の黒子がその雰囲気を増長している。とはいえ顔立ち全体の印象は軽やかで、すっと伸びた鼻梁や薄い唇がそれに寄与しているのは間違いなかった。そして彼女の身長は、同年代の女性の平均を上回る百七十五センチ。役満だ。同級生の立場から申告すると、高校時代の彼女の慕われぶりは少々常軌を逸するほどだった。高校ニ年生のバレンタインに、絵湖は人のロッカーから紙袋が溢れ返る様子を人生で初めて目撃したものだった。
玄関の扉を引くと、案の定鍵が空いている。毎度のことながらその不用心さに私は眉をひそめ、わざとらしくトレイに合鍵を置く音を響かせた。
「ただいま」
こうして彼女の家を訪れるときにただいま、と絵湖が言うのは、訪れ出して間もない頃に求から要求されたためだ。身勝手なタイミングで寂しがりなところのある求が拗ねながら訴えてくるたびに、絆される自分もどうかしている。
「おかえり、絵湖」
リビングから熊が這い出るようにやってきた求はグレーのスウェット姿だ。目を擦りながら私を出迎えた彼女に向けて、私は大きくため息をついた。
「鍵。締めておけって毎回言ってるよね?強盗でも入ってきたらどうするの」
「えー……この辺治安いいし、大丈夫」
「大丈夫じゃない。心配するんだから、ちょっとは気をつけてよ」
「……絵湖を心配させたのは謝るけど、それって私が気をつけるべきことなの?侵入してくる方が悪いんじゃないの」
「そ、それはそうだけど……犯罪者にそんなこと言っても仕方ないじゃない。確かにこっちが気をつけなきゃいけないのは癪だけど、女一人が平和に暮らせるほどまともじゃないんだもの」
「ん〜……納得いかないけど、とりあえずわかった。おいで、絵湖。ぎゅってする」
「ちょ、ちょっと……あたし汗かいてるんだけど……」
炎天下の中を歩いてきた私は弱々しく抵抗するも、両手を広げる求には無力なことこの上ない。仕方なく腕の中に抱き寄せられれば、冷房でしっとりとしたスウェットの生地からはほのかに求の匂いがした。
「も、もういいでしょ。お昼ご飯はカレーの予定だから、取り掛かりたいの」
「え、またカレー?」
「うっさい。文句言える立場じゃないでしょ。今回は野菜カレーだから楽しみにしてなさい」
「茄子入ってんの?」
「入ってるよ」
「ふーん。やった」
言うが早いか、求はぱっと私から手を離し、ソファへと身を投げ出した。そこから携帯でパズルゲームをプレイし出すまで二分とかからなかったため、なんとなく面白くない。
それゆえ駆け引きというほどのものでもないが、カレーを作り終えてダイニングテーブルに並べる際に、私は何気なくこう切り出した。
「もうすぐ期末テストも近いし、そう頻繁には来られなくなるから。買い足しておいた食材で何か作って、あたしの来ない間もちゃんと食べてね」
「えー。単位と私、どっちが大事なの」
「単位に決まってるだろ。いいから働け。はい、スプーン並べて」
「薄情者……」
ぼやきつつも、求は大人しく食器を並べ始める。私はその音に紛れて無意識に息を吐き出していたことに気がついて、かすかに頬を引き攣らせた。今、自分は安堵したのだろうか。引く手数多の求がまた自分を必要としていることに───たとえ
替えの効く存在であったとしても、それを取り繕うだけの価値があると彼女に判断されていることに。
実際、高校生の時点で人並みに夢を諦めた私と異なり、彼女は才能のあるベーシストだった。人を家政婦のように使っても罪悪感を覚えないその性根がということではない。純粋にベースの腕が良く、レーベルからスカウトを受けたこともあるくらいだ。
何より、高校時代に私の夢を絶ったのは、文化祭で私が立ったのと全く同じ体育館のステージで彼女が披露したベースの音だった。市立高校のちゃちなスポットライトを浴びて、今と変わらない細い指が弦を押さえる。そっと添えているだけのように見えるのに、鳴り響く重厚な音圧。余裕のある姿勢での精密な演奏。学園祭でのライブなんて良し悪しのわかる人間はそういない、そこそこ歌えるボーカルとマシなリードギターがあればいい方。そのレベルで生温くやり合っていた他のバンドを突き放す、明らかに粒立った演奏だった。
あの頃の私に、彼女の手つきは光を余すほどに、神にも天才にも見えた。
「絵湖?」
「え?」
カシャン、と幼稚な金属音が鳴る。やや目を見開いている求の黒い瞳に、同じようにはっとした表情の私が映っている。しばらくして食器を取り落としたことに気づいた私は、慌ててそれを拾おうとした。その手首を、細い手に掴まれる。
「……求?」
「絵湖、最近疲れてない?」
「疲れてないよ」
「嘘だよ。私の家に来て家事をこなして、課題も自分の家のこともやっているからだ。……ごめん、さっきまでのはなしでいいから」
「……なしって」
「もう来なくていいよ。大学行ってない時間、家事に充ててなんとかするから。絵湖は休みなよ」
「なんとかって、あんた目玉焼きも作れないのに」
「……目玉焼きは、最近作れるようになった」
「焦がすくせに」
「な、なんでわかったの。……とにかく私は大丈夫だから。今まで付き合わせてごめん、絵湖の好意に甘えすぎてた。これからはちゃんと」
スプーンの曲面に、私の呆然とした顔が映っている。求の言葉が右耳から左耳に抜けて、中枢神経で翻訳されない。
今まで付き合わせてごめん。これからはちゃんと。その続きに何が来るのか、きっとずっと前からわかっていた。
「……求は、求はそれでいいの」
気づけば麻のランチョンマットを握りしめていた。大学に入ったら一人暮らしをすると聞かされた私が、無理を言ってニトリについて行ったあの日に二人で選んだもの。「絵湖も来るから買っておこう」と、迷わず二人分をかごに放り込んだあの時の求の横顔。
「うん」
その横顔が、いつも私ではない遠くを見ていることなんてずっとわかっていた。
「……え」
目を閉じた私の眦から転がり落ちた雫を見て、珍しく息を呑む求の声が聞こえる。それだけで少し満たされてしまう自分が恐ろしくて、息を詰める。泣いてはいけない。困らせると知っていて泣くような女にはなりたくない。そう決めて強く噛み締めた唇を何かが触れるので、私は思わず目を開けた。
目の前には、言葉よりも雄弁な瞳がある。机の向かいから乗り出し、眉根を寄せて私の頬に手を添える求はひどく真剣な顔をしていた。困っていることがわかるその瞬きの仕方に、笑いそうになる。確かに可笑しいのに、笑おうとした喉が震えた。
「それでいいなら最初からそう言ってよ」
「……ごめん」
「ごめんじゃなくて」
沈黙が落ちる。
私の頬から手を引っ込めた求が目を泳がせる様子に、理由のわからない焦燥が脳の裏側を焼く。
「……あたしのこと、もう要らないの?」
咄嗟にあり得ないことを口にしていた。地球が真二つに割れても言わないと思っていた、ドラマの中だけの台詞を私は今求に向かって確かに放った。
「いや、絵湖のことが要らないとかそういう話じゃなくて」
困惑した様子でそう答えた求が、しばらくして何かに気づいたように動きを止める。目を逸らしていた求が口を開いた。
「絵湖、もしかして私のことが好きなの」
ハウリングだ。求の言葉がくぐもって、スピーカーにノイズが混じる。私はあの日の体育館の中にいた。
辺りを見回せば暗がりに観客は一人だった。誰もいないステージの中央、バミリの内側をスポットライトが真っ直ぐに照らす。その中には求も、私もいない。私は主役のいない舞台を下から見上げて、手に持ったサイリウムのスイッチを点けることすら忘れている。
絵湖、と口にする求の声を、今まで何回聴いただろうか。
「絵湖は私にとって水の中のお月さま」
「人は月には手が届かない」
「あれはすっぱいぶどうなんだって、思いながら諦める?」
彼女はよく自分をイソップ寓話の愚かなキツネに喩えた。追いかけても届かなかった葡萄を、酸っぱくて美味しくないに決まっていると自己正当化したキツネ。それから彼女は、今昔物語集に出てくる月のウサギにもよく自らをなぞらえた。自分は何も持たないのだから、この身を燃やし尽くさなければ月に住むことはできない。絵湖の前で弾き語るのと同じ優しい声で、諦念の滲む言葉が夜の淵を流れていった。私はそのたびに心底悔しい気持ちになって、何も言えない自分を恥じる。彼女よりも早く諦めた自分が、どの面を下げて励ませるのか。自分を誰よりも恥ずかしく思っているのも、蔑んでいるのも自分自身だ。
求のことがずっと好きだった。認めるのも憎らしいほど自分の一部になった感情だ。白い月面をナイフで剥がした途端、肉塊が露わになったような。吐き気を催す浅ましい目を向けながら、私は素知らぬ顔でそばにいた。
そうだよと言ったらあんたはどんな顔で、私にまた一つ期待を諦めさせる。
「あんたなんか、嫌いに決まってる」
「………嘘じゃん………」
「嘘じゃない、あたしは……あたしが、気持ち悪い。そんな感情を持つあたしは殺したい、もう殺したの」
「………なんで?」
その問いかけは最早暴力だろうと言いかけた言葉を飲み込む。ベースに向けるのと同じ表情が、今私に向けられていた。
「だ、って。セックス以外の全てがここにあるのに、どうしてあたしは我慢できないの」
冷めたカレーの上に差し込んだ日の色味で初めて、今日がもう夕暮れになっていることを知る。乾燥した米の上に落ちた本音を、ルウと混ぜこぜにしていっそ埋めてしまいたいと願った。そうしてカレーライスの地層が後世に発見されればいい。いや、発見はされなくていい。
細く開いた網戸の隙間から夏の風が吹き込んで、リビングの停滞した空気をかき混ぜていく。
「求は全部くれてるのに、あたしはそれでも満足できない。誰のことも抱かないで、誰にも暴き立てられないでよ」
「……絵湖……」
「セックスなんかに意味はないって信じたいのに、そんなものよりもあたしはこうして求と並んでカレーを食べることのほうがずっと大事だと思ってるのに。一度求が朝帰りだった時、あたしは背筋が凍るみたいな……それでも脳は沸騰してるみたいな心地がした。初めてだった。すごく、気持ち悪かった」
「……あれは、ただの飲み会で」
「わかってるそんなこと」
求に出会って挫折を知った。あの夜よりも惨めな夜がこの世にあるだなんて、今の今まで思ってもみなかった。
「浅ましいでしょ。醜いでしょ、だからもう見ないでよ」
肩で息を紡ぐ隙から涙がぼろぼろと溢れた。こんなはずではなかったと強く思うのと同じくらいに、いつかこんな日が来ると思っていた。
私は椅子を引いて席を立ち、フローリングの廊下を足早に玄関へと進む。追いかけてくる求の足音を無視してドアノブに手をかければ、ぐっと腰を引かれて私は転びかけた。「な、」
「絵湖」
何者でもない私の識別子を、彼女だけが名前として呼べる。何者にもなれなかった私を、そうさせた張本人である彼女の目だけが真っ直ぐに捉えられる。
あの綺麗な瞳が近づいた。そう思うだけで、私はあまりに無防備に突っ立っていた。前髪が触れ合うほどの距離になっても違和感のないまま、引き寄せられた腰に熱い手の感触を意識するだけ。
顎をそっと引き寄せられて、柔らかいものが唇に押し当てられる。数秒か、数十秒だったか。
それがゆっくりと離れていくまで、私は目を見開いたまま、玄関の敷居から転がり落ちないだけ立派なほうだったのだと思う。
「……あの。私の方は、こういうことなんだけど」
それから気まずそうに切り出した求の耳が、目玉焼きに失敗してスクランブルエッグにしたときと同じ、赤い色に染まっていた。
求、と私がそう呼ぶと、彼女はどんな体勢であっても私の方を向く。掠れておぼつかない私の声を聡く捉える彼女の耳は腐ってもバンドマンだ。
それに応えて、絵湖、と求が宝物をひた隠すような声で言う。そして細い月の光に照らされて、その顔がかすかに微笑んだのがわかる。彼女はこめかみに落ちる髪をよけると、その端正な顔を私の胸元にかがめた。鎖骨、胸、脇腹と降りていくその感触に期待して、私の足は徐々に開いていく。駄目押しのように隠部を彼女の指がなぞった瞬間、私は吐息のような声を出した。
これまでも酔って二人一緒のベッドで眠りにつくことはあったのに、組み敷かれる圧迫感も二人分の熱気もまるで違う。初めての夜で余裕がないのも、求の経験のなさを感じられて好ましかった。この行為はまるで愛の証明になりやしないけれど、素肌を重ね合わせて抱きしめられるのは、言葉よりも近くそばにいられる気がした。
同じことを考えていたのか、一度求がゆるく息をついた。顔を上げた彼女に両手を添えて、私はリップ音を鳴らすだけのキスをする。目を瞬かせた求の目元が和らぐのを見て、私はまた心から満たされる。『絵湖の肩があたしの肩に触れていると、心臓の圧迫感がほどけていく感じがする』とは、いつかの求の言だ。寄りかかった彼女の髪を梳きながら、私はその肩に背負われた重荷が少しでも背負いやすい重さになるよう祈っていた。その祈りは今でも形を変えず、ただ返される温度にいまだ慣れないだけだ。だからこの時間だけは魔法のように、その胸のつかえを取ることができますように。
「絵湖」
「なに?」
「あ……、あい」
「………?」
「なんでもない。今週の土曜、ライブあるんだけど来るよね?」
「今言うの、それ」
私がくすくすと笑うと求もほっとしたように笑う。飄々としているように見えて意外と私の様子を気にしているらしいということは、こうなって初めて見えた嬉しい誤算だ。
「いいよ、楽しみにしてる」
「ん」
短く応えた求は、片頬を歪めて笑った。
「凡才なりに、あがいてみせるよ。一途は恋人のお墨付きなんでね」
真青の葡萄の月が、今熟れる。
身の程にもない夢を追いかけていた。
この身を燃やし尽くさなければ月の影にも届かないと知って、私は全てを捨てて楽器に懸けた。冷蔵庫は始終空のままで、ごみを出した記憶は半年以上前だ。曲の作成以外で使わなくなったノートパソコンのメールボックスには、出していないレポートの締切通知が溜まっていた。
栄養ゼリーが底をついて、三日間絶食したまま家に籠っていた時は、さすがに目眩と激しい頭痛を催してごみ袋の山に仰向けで倒れた。その時天井が薄れていく感覚に、このままでいいと思っていたわけではないけれど、このままこの部屋で死んでも、別にいいかなって思ったのも事実だ。
その時インターホンが鳴らなければ、本当にそうなっていたかもしれない。随分前に渡した合鍵で躊躇いなく部屋に入り込み、扉を開ける気力もなかった私に駆け寄ったその声をずっと覚えている。早熟なだけの、才能なんてない私のベースに憧れてくれた一人の人間。届かない月を求めてやまない私に、月を水面に映してみせたのはその声ただ一つだった。
「求」
愚かな私の名前を、笑えるほど必死にその声が呼ぶ。私は月の在処を知って、そっと目を閉じる。
この身を燃やし尽くさなければ、月の影にも届かないと知っている。
そして蝋燭になって果てようとした私の手を、細い両手が掴まえた。それは私にとって、飛んで火に入る蛍の光で。
無数のスポットライトよりも確かに、私の輪郭を照らす光だった。
「メジャーデビュー、決まったよ」
私は歩く足を止めて、携帯電話を耳に当てたまま夜空を見上げた。街灯に、絞り出した息が白く濁る。電話越しに息を呑む声がして、それからかすかな嗚咽が聞こえた。
誰かの拵えたラブソングは、他人にとってはブリキの月だ。銅の薄板のメッキは禿げて、空を回ればネジの擦れる音がする。それでも私の葡萄の月が誰かの同じような夜を照らす日を、あなたの手に支えられながら弱気にも祈っている。
葡萄の実がとろけるように月が落ちた。
あの日の悪夢は私の隣で、甘い顔をして横たわっている。軽やかに弦を捌く指は無造作にシーツの上に投げ出されて、その寝息はカモシカの足音のようにひそやかだ。伏せられた長いまつ毛、柔らかさを知る唇、その下の白い首に私はそっと手を添える。すっかりたこの痕が消えた指の腹には、とく、とく、と穏やかな脈が伝わってくる。
私はベッド脇に立てかけられたギグバッグに視線を移し、頸動脈にかけていた手を外した。メロウな影がその足元から部屋の角に至るまで長く伸びている。私の捨てたベース弾きの称号。
不意に、シーツが足に絡む。振り向けば、いつの間に目が覚めたのか求が私を見ていた。
「絵湖」
彼女が私の名前を呼ぶ。後ろからゆっくりと上体が目の前に迫り、彼女の唇が私のそれに押し付けられる。先程まで散々したばかりなのに、他の誰でもないその感触にどうしようもなく下が疼いて、私は膝をすり合わせる。その様子を目ざとく視界の端で捉えていたらしい求がさらに舌を割り込ませるのを、私は黙って受け容れる。は、と浅い息が漏れて、気がつけば私はシーツの海に押し倒されていた。
「求……」
私を見下ろす女の名を呼ぶ。夜通し鳴かされて掠れた声に、私らしくもない甘やかさが混じってしまう。今すぐ奥を暴き立てられて、泣き叫ぶほどぐずぐずにされたい。そんな浅ましい欲が透けて見える声に、私は耳まで赤くなる。
「絵湖」
求はもう一度そう言うと、私の首筋に口付けた。そして細い月の光に照らされて、その顔がかすかに微笑んだのがわかる。彼女はこめかみに落ちる髪をよけると、その端正な顔を私の胸元にかがめた。鎖骨、胸、脇腹と降りていくその感触に期待して、私の足は徐々に開いていく。駄目押しのように隠部を彼女の指がなぞった瞬間、私は吐息のような声を出した。
絵湖。彼女の呼ぶそれが私の識別子だった。私には名前がある。でも私は何者でもない。
大学を出た私の携帯には、求からの通知が入っていた。内容は予想通り昼食の催促だ。二限を終えてすぐの時間なので、急いで十一時半の電車に乗れば正午過ぎには求の家に着くだろう。私は三日前に訪れたばかりの彼女の家の冷蔵庫を想像し、その中身がどれほど残っているか計算した。大学生の一人暮らしと言われて誰もが想像する不摂生を、彼女はお手本通りに実行している。どうせ栄養ゼリーとカルピスしか消費していないだろうから、最寄駅に着いたらまずスーパーに寄るべきだろう。
望月求は絵に描いたようなヒモベーシストだ。高校で軽音部に所属し、大学に進学した今でもベースを続けている。入学して数ヶ月のうちは本人曰く「がんばっていた」らしいが、結局のところ一年の時点で必修の単位を数個落とし、進級危ぶまれる事態に陥っていた。なんとか再試を受けさせてもらい二年生に進級したはいいものの、改心する気はまるでないらしい。高校の同級生で友人であった絵湖がその怠惰な生活ぶりを見かねて、こうして週に何度か彼女の家を訪れるようになってからも、その態度が変わる様子はない。恋人でもできれば変わるだろうかと何度か知人を紹介する素振りを見せたのだが、毎度求の返事は曖昧なものだった。
その理由は、彼女曰く「絵湖以外を家に入れるとか耐えられない」ということだそう。このむず痒い返答に絵湖は毎回、二の句を告げずに押し黙っている。本気で絵湖を好きだと言うならまだしも、天然でそんなことを口にするからタチが悪い。今まで何人の女の子が誑かされてきたのだろうかと、僅かに憤りすら覚える始末だ。少なくとも、彼女の見目はすこぶる人の目を引く。勿忘草色にインナーを染めたバンドマンらしいウルフカットに、薄い耳たぶを飾る幾つものごついシルバーピアス。目尻の少し垂れた瞳はどこか色っぽく、左目の下の黒子がその雰囲気を増長している。とはいえ顔立ち全体の印象は軽やかで、すっと伸びた鼻梁や薄い唇がそれに寄与しているのは間違いなかった。そして彼女の身長は、同年代の女性の平均を上回る百七十五センチ。役満だ。同級生の立場から申告すると、高校時代の彼女の慕われぶりは少々常軌を逸するほどだった。高校ニ年生のバレンタインに、絵湖は人のロッカーから紙袋が溢れ返る様子を人生で初めて目撃したものだった。
玄関の扉を引くと、案の定鍵が空いている。毎度のことながらその不用心さに私は眉をひそめ、わざとらしくトレイに合鍵を置く音を響かせた。
「ただいま」
こうして彼女の家を訪れるときにただいま、と絵湖が言うのは、訪れ出して間もない頃に求から要求されたためだ。身勝手なタイミングで寂しがりなところのある求が拗ねながら訴えてくるたびに、絆される自分もどうかしている。
「おかえり、絵湖」
リビングから熊が這い出るようにやってきた求はグレーのスウェット姿だ。目を擦りながら私を出迎えた彼女に向けて、私は大きくため息をついた。
「鍵。締めておけって毎回言ってるよね?強盗でも入ってきたらどうするの」
「えー……この辺治安いいし、大丈夫」
「大丈夫じゃない。心配するんだから、ちょっとは気をつけてよ」
「……絵湖を心配させたのは謝るけど、それって私が気をつけるべきことなの?侵入してくる方が悪いんじゃないの」
「そ、それはそうだけど……犯罪者にそんなこと言っても仕方ないじゃない。確かにこっちが気をつけなきゃいけないのは癪だけど、女一人が平和に暮らせるほどまともじゃないんだもの」
「ん〜……納得いかないけど、とりあえずわかった。おいで、絵湖。ぎゅってする」
「ちょ、ちょっと……あたし汗かいてるんだけど……」
炎天下の中を歩いてきた私は弱々しく抵抗するも、両手を広げる求には無力なことこの上ない。仕方なく腕の中に抱き寄せられれば、冷房でしっとりとしたスウェットの生地からはほのかに求の匂いがした。
「も、もういいでしょ。お昼ご飯はカレーの予定だから、取り掛かりたいの」
「え、またカレー?」
「うっさい。文句言える立場じゃないでしょ。今回は野菜カレーだから楽しみにしてなさい」
「茄子入ってんの?」
「入ってるよ」
「ふーん。やった」
言うが早いか、求はぱっと私から手を離し、ソファへと身を投げ出した。そこから携帯でパズルゲームをプレイし出すまで二分とかからなかったため、なんとなく面白くない。
それゆえ駆け引きというほどのものでもないが、カレーを作り終えてダイニングテーブルに並べる際に、私は何気なくこう切り出した。
「もうすぐ期末テストも近いし、そう頻繁には来られなくなるから。買い足しておいた食材で何か作って、あたしの来ない間もちゃんと食べてね」
「えー。単位と私、どっちが大事なの」
「単位に決まってるだろ。いいから働け。はい、スプーン並べて」
「薄情者……」
ぼやきつつも、求は大人しく食器を並べ始める。私はその音に紛れて無意識に息を吐き出していたことに気がついて、かすかに頬を引き攣らせた。今、自分は安堵したのだろうか。引く手数多の求がまた自分を必要としていることに───たとえ
替えの効く存在であったとしても、それを取り繕うだけの価値があると彼女に判断されていることに。
実際、高校生の時点で人並みに夢を諦めた私と異なり、彼女は才能のあるベーシストだった。人を家政婦のように使っても罪悪感を覚えないその性根がということではない。純粋にベースの腕が良く、レーベルからスカウトを受けたこともあるくらいだ。
何より、高校時代に私の夢を絶ったのは、文化祭で私が立ったのと全く同じ体育館のステージで彼女が披露したベースの音だった。市立高校のちゃちなスポットライトを浴びて、今と変わらない細い指が弦を押さえる。そっと添えているだけのように見えるのに、鳴り響く重厚な音圧。余裕のある姿勢での精密な演奏。学園祭でのライブなんて良し悪しのわかる人間はそういない、そこそこ歌えるボーカルとマシなリードギターがあればいい方。そのレベルで生温くやり合っていた他のバンドを突き放す、明らかに粒立った演奏だった。
あの頃の私に、彼女の手つきは光を余すほどに、神にも天才にも見えた。
「絵湖?」
「え?」
カシャン、と幼稚な金属音が鳴る。やや目を見開いている求の黒い瞳に、同じようにはっとした表情の私が映っている。しばらくして食器を取り落としたことに気づいた私は、慌ててそれを拾おうとした。その手首を、細い手に掴まれる。
「……求?」
「絵湖、最近疲れてない?」
「疲れてないよ」
「嘘だよ。私の家に来て家事をこなして、課題も自分の家のこともやっているからだ。……ごめん、さっきまでのはなしでいいから」
「……なしって」
「もう来なくていいよ。大学行ってない時間、家事に充ててなんとかするから。絵湖は休みなよ」
「なんとかって、あんた目玉焼きも作れないのに」
「……目玉焼きは、最近作れるようになった」
「焦がすくせに」
「な、なんでわかったの。……とにかく私は大丈夫だから。今まで付き合わせてごめん、絵湖の好意に甘えすぎてた。これからはちゃんと」
スプーンの曲面に、私の呆然とした顔が映っている。求の言葉が右耳から左耳に抜けて、中枢神経で翻訳されない。
今まで付き合わせてごめん。これからはちゃんと。その続きに何が来るのか、きっとずっと前からわかっていた。
「……求は、求はそれでいいの」
気づけば麻のランチョンマットを握りしめていた。大学に入ったら一人暮らしをすると聞かされた私が、無理を言ってニトリについて行ったあの日に二人で選んだもの。「絵湖も来るから買っておこう」と、迷わず二人分をかごに放り込んだあの時の求の横顔。
「うん」
その横顔が、いつも私ではない遠くを見ていることなんてずっとわかっていた。
「……え」
目を閉じた私の眦から転がり落ちた雫を見て、珍しく息を呑む求の声が聞こえる。それだけで少し満たされてしまう自分が恐ろしくて、息を詰める。泣いてはいけない。困らせると知っていて泣くような女にはなりたくない。そう決めて強く噛み締めた唇を何かが触れるので、私は思わず目を開けた。
目の前には、言葉よりも雄弁な瞳がある。机の向かいから乗り出し、眉根を寄せて私の頬に手を添える求はひどく真剣な顔をしていた。困っていることがわかるその瞬きの仕方に、笑いそうになる。確かに可笑しいのに、笑おうとした喉が震えた。
「それでいいなら最初からそう言ってよ」
「……ごめん」
「ごめんじゃなくて」
沈黙が落ちる。
私の頬から手を引っ込めた求が目を泳がせる様子に、理由のわからない焦燥が脳の裏側を焼く。
「……あたしのこと、もう要らないの?」
咄嗟にあり得ないことを口にしていた。地球が真二つに割れても言わないと思っていた、ドラマの中だけの台詞を私は今求に向かって確かに放った。
「いや、絵湖のことが要らないとかそういう話じゃなくて」
困惑した様子でそう答えた求が、しばらくして何かに気づいたように動きを止める。目を逸らしていた求が口を開いた。
「絵湖、もしかして私のことが好きなの」
ハウリングだ。求の言葉がくぐもって、スピーカーにノイズが混じる。私はあの日の体育館の中にいた。
辺りを見回せば暗がりに観客は一人だった。誰もいないステージの中央、バミリの内側をスポットライトが真っ直ぐに照らす。その中には求も、私もいない。私は主役のいない舞台を下から見上げて、手に持ったサイリウムのスイッチを点けることすら忘れている。
絵湖、と口にする求の声を、今まで何回聴いただろうか。
「絵湖は私にとって水の中のお月さま」
「人は月には手が届かない」
「あれはすっぱいぶどうなんだって、思いながら諦める?」
彼女はよく自分をイソップ寓話の愚かなキツネに喩えた。追いかけても届かなかった葡萄を、酸っぱくて美味しくないに決まっていると自己正当化したキツネ。それから彼女は、今昔物語集に出てくる月のウサギにもよく自らをなぞらえた。自分は何も持たないのだから、この身を燃やし尽くさなければ月に住むことはできない。絵湖の前で弾き語るのと同じ優しい声で、諦念の滲む言葉が夜の淵を流れていった。私はそのたびに心底悔しい気持ちになって、何も言えない自分を恥じる。彼女よりも早く諦めた自分が、どの面を下げて励ませるのか。自分を誰よりも恥ずかしく思っているのも、蔑んでいるのも自分自身だ。
求のことがずっと好きだった。認めるのも憎らしいほど自分の一部になった感情だ。白い月面をナイフで剥がした途端、肉塊が露わになったような。吐き気を催す浅ましい目を向けながら、私は素知らぬ顔でそばにいた。
そうだよと言ったらあんたはどんな顔で、私にまた一つ期待を諦めさせる。
「あんたなんか、嫌いに決まってる」
「………嘘じゃん………」
「嘘じゃない、あたしは……あたしが、気持ち悪い。そんな感情を持つあたしは殺したい、もう殺したの」
「………なんで?」
その問いかけは最早暴力だろうと言いかけた言葉を飲み込む。ベースに向けるのと同じ表情が、今私に向けられていた。
「だ、って。セックス以外の全てがここにあるのに、どうしてあたしは我慢できないの」
冷めたカレーの上に差し込んだ日の色味で初めて、今日がもう夕暮れになっていることを知る。乾燥した米の上に落ちた本音を、ルウと混ぜこぜにしていっそ埋めてしまいたいと願った。そうしてカレーライスの地層が後世に発見されればいい。いや、発見はされなくていい。
細く開いた網戸の隙間から夏の風が吹き込んで、リビングの停滞した空気をかき混ぜていく。
「求は全部くれてるのに、あたしはそれでも満足できない。誰のことも抱かないで、誰にも暴き立てられないでよ」
「……絵湖……」
「セックスなんかに意味はないって信じたいのに、そんなものよりもあたしはこうして求と並んでカレーを食べることのほうがずっと大事だと思ってるのに。一度求が朝帰りだった時、あたしは背筋が凍るみたいな……それでも脳は沸騰してるみたいな心地がした。初めてだった。すごく、気持ち悪かった」
「……あれは、ただの飲み会で」
「わかってるそんなこと」
求に出会って挫折を知った。あの夜よりも惨めな夜がこの世にあるだなんて、今の今まで思ってもみなかった。
「浅ましいでしょ。醜いでしょ、だからもう見ないでよ」
肩で息を紡ぐ隙から涙がぼろぼろと溢れた。こんなはずではなかったと強く思うのと同じくらいに、いつかこんな日が来ると思っていた。
私は椅子を引いて席を立ち、フローリングの廊下を足早に玄関へと進む。追いかけてくる求の足音を無視してドアノブに手をかければ、ぐっと腰を引かれて私は転びかけた。「な、」
「絵湖」
何者でもない私の識別子を、彼女だけが名前として呼べる。何者にもなれなかった私を、そうさせた張本人である彼女の目だけが真っ直ぐに捉えられる。
あの綺麗な瞳が近づいた。そう思うだけで、私はあまりに無防備に突っ立っていた。前髪が触れ合うほどの距離になっても違和感のないまま、引き寄せられた腰に熱い手の感触を意識するだけ。
顎をそっと引き寄せられて、柔らかいものが唇に押し当てられる。数秒か、数十秒だったか。
それがゆっくりと離れていくまで、私は目を見開いたまま、玄関の敷居から転がり落ちないだけ立派なほうだったのだと思う。
「……あの。私の方は、こういうことなんだけど」
それから気まずそうに切り出した求の耳が、目玉焼きに失敗してスクランブルエッグにしたときと同じ、赤い色に染まっていた。
求、と私がそう呼ぶと、彼女はどんな体勢であっても私の方を向く。掠れておぼつかない私の声を聡く捉える彼女の耳は腐ってもバンドマンだ。
それに応えて、絵湖、と求が宝物をひた隠すような声で言う。そして細い月の光に照らされて、その顔がかすかに微笑んだのがわかる。彼女はこめかみに落ちる髪をよけると、その端正な顔を私の胸元にかがめた。鎖骨、胸、脇腹と降りていくその感触に期待して、私の足は徐々に開いていく。駄目押しのように隠部を彼女の指がなぞった瞬間、私は吐息のような声を出した。
これまでも酔って二人一緒のベッドで眠りにつくことはあったのに、組み敷かれる圧迫感も二人分の熱気もまるで違う。初めての夜で余裕がないのも、求の経験のなさを感じられて好ましかった。この行為はまるで愛の証明になりやしないけれど、素肌を重ね合わせて抱きしめられるのは、言葉よりも近くそばにいられる気がした。
同じことを考えていたのか、一度求がゆるく息をついた。顔を上げた彼女に両手を添えて、私はリップ音を鳴らすだけのキスをする。目を瞬かせた求の目元が和らぐのを見て、私はまた心から満たされる。『絵湖の肩があたしの肩に触れていると、心臓の圧迫感がほどけていく感じがする』とは、いつかの求の言だ。寄りかかった彼女の髪を梳きながら、私はその肩に背負われた重荷が少しでも背負いやすい重さになるよう祈っていた。その祈りは今でも形を変えず、ただ返される温度にいまだ慣れないだけだ。だからこの時間だけは魔法のように、その胸のつかえを取ることができますように。
「絵湖」
「なに?」
「あ……、あい」
「………?」
「なんでもない。今週の土曜、ライブあるんだけど来るよね?」
「今言うの、それ」
私がくすくすと笑うと求もほっとしたように笑う。飄々としているように見えて意外と私の様子を気にしているらしいということは、こうなって初めて見えた嬉しい誤算だ。
「いいよ、楽しみにしてる」
「ん」
短く応えた求は、片頬を歪めて笑った。
「凡才なりに、あがいてみせるよ。一途は恋人のお墨付きなんでね」
真青の葡萄の月が、今熟れる。
身の程にもない夢を追いかけていた。
この身を燃やし尽くさなければ月の影にも届かないと知って、私は全てを捨てて楽器に懸けた。冷蔵庫は始終空のままで、ごみを出した記憶は半年以上前だ。曲の作成以外で使わなくなったノートパソコンのメールボックスには、出していないレポートの締切通知が溜まっていた。
栄養ゼリーが底をついて、三日間絶食したまま家に籠っていた時は、さすがに目眩と激しい頭痛を催してごみ袋の山に仰向けで倒れた。その時天井が薄れていく感覚に、このままでいいと思っていたわけではないけれど、このままこの部屋で死んでも、別にいいかなって思ったのも事実だ。
その時インターホンが鳴らなければ、本当にそうなっていたかもしれない。随分前に渡した合鍵で躊躇いなく部屋に入り込み、扉を開ける気力もなかった私に駆け寄ったその声をずっと覚えている。早熟なだけの、才能なんてない私のベースに憧れてくれた一人の人間。届かない月を求めてやまない私に、月を水面に映してみせたのはその声ただ一つだった。
「求」
愚かな私の名前を、笑えるほど必死にその声が呼ぶ。私は月の在処を知って、そっと目を閉じる。