「る……な……!?」
そう口にした澪の頬が濡れ、絶望と焦燥感が少女を支配する。
やだ……!
「流雫……!」
最愛の少年の名を呼びながら近付く澪。その身体を抱え、唇を重ねる。この身体に残る全ての酸素を送りたい。
「……っ……!」
今人工呼吸しても、何の役にも立たないことぐらい判っている。しかし、何が何でも流雫を救いたい。その唇と絡めた指に残るほのかな熱に、一縷の希望を託して。
大教会の前は騒然としていた。聖女が撃たれたことへの戦慄、その聖女がクローンだったことへの怒りが交錯している。
「退け!!」
と叫びながら、群衆を押し退ける詩応は、銃を取り出しながら教会に入って行く。
礼拝堂の扉はロックが掛かっている。制御装置は見当たらない。内側は流雫が撃ったがダメだった。
「……待ってろ……澪……流雫……」
焦燥感を露わにする詩応は、扉のロックに向け、震える腕を押さえながら引き金を引く。6発の中口径の銃弾は半分だけロックを破壊したが、後は指を入れれば回せる。
「くっ!!」
詩応は指を入れ、左に回す。小さな金属音が鳴った。
「ぐっ……っ!!」
扉を開けた詩応は、静まり返った礼拝堂の真ん中に倒れる2人に目が止まる。流雫を抱えたまま倒れる澪。
「澪……!!流雫……!!」
2人の頬を叩く詩応、しかし反応は無い。その奥には、聖女とセブもいる。しかし、2人の容体を気にすることはできない。それほど、追い詰められている。
背後から救急隊員が駆け付けた。担架に乗せられる高校生2人に目を向ける詩応は、同行者として救急車に乗る。
「澪……流雫……」
と名を呼ぶだけだ。そして先刻連絡先を交換したばかりのアルスと通話を始める。
「ミオとルナが病院に運ばれる」
「は!?何が有った!?」
「アタシも知らない。ただ、礼拝堂に閉じ込められたと」
と言った後で、詩応は隊員から告げられた病院を合流場所に指定し、通話を切る。
……2人は何を見たのか。まさか、聖女アリスが狙われたのか。そして、助けようとしたのか。
「……女神よ……2人を救い給え……」
と詩応は呟く。ルージェエールとソレイエドール、双方の守護を受けているのだから、死ぬワケがない。そうであってほしい。
平静を装う詩応は目を閉じる。しかし、床に落ちて砕ける小さな雫を止めることはできなかった。
「ミオとルナが病院に運ばれる」
その一言にアルスは、驚きと苛立ちを隠さない。通話が切れた後で、アルスは詩応が告げた病院に行くよう指示する。
「お前は?」
とセバスに問われたアルスは、
「教会に行く。後で駆け付ける」
とだけ答え、地面を蹴った。
……何が起きたか、想像に難くない。流雫と澪が気になるが、紅き戦女神の守護によって、必ず生き延びると信じている。
2人のことは詩応に任せる。今は教会で何が起きているのか、探るだけだ。
全力で走ったアルスは、教会の前の騒ぎに苛立ちながら、英語で
「退け!!」
と叫びながら、先刻の詩応よろしく強引に押し退けて中に入る。
……複数の血痕が、礼拝堂の床を汚している。祭壇のすぐ近くにも点在している。
「まさか……」
とアルスが呟く、その後ろから
「何が起きた!?」
と大きな声が響いた。弥陀ヶ原だ。何度も聞いたから、その日本語だけは覚えた。アルスは振り向きながら
「ルナとミオが病院に運ばれた、とは聞いている」
と英語で答え、近寄った。
「洩れた供述より前に、アリスの秘密を知っていた奴がいる。狙ったのは、恐らくそのグルだ」
「目的は?」
「総司祭の失脚。そのためにアリスを亡き者にしようとしたんだろう」
とアルスは答える。
「だが、シノから聞いた。ミオが礼拝堂に閉じ込められたと。犯人の口封じも兼ねて、ルナごと一網打尽にする気だったんだろう……」
と言ったアルスの目には、怒りが漂っている。
「……犯人への報復で殺しても、無罪にならないのか?」
と言った少年の目に、生意気な少年の面影は無い。流雫と澪を殺されかけて、黙っていられるワケが無い。
冗談っぽさが微塵も無い言葉に、弥陀ヶ原は
「言いたいことは判るがな」
とだけ答える。
アルスは
「……俺は病院に行く。ルナとミオが気になる」
とだけ言い残し、何時しか張られた規制線の外へ出た。
教会前にいる連中は、相変わらず騒がしい。しかし、礼拝堂で発砲事件が起きたことに対する怒りより、聖女がクローンだったことに対する怒りが、圧倒的に強い。日本語で捲し立てる罵声の意味は判らないが、時系列で容易に想像がつく。
……日本は、悪者を社会的に再起不能になるまで叩くと云う風潮が有る。罪人だから当然の報い、そのロジックで武装した自称正義の味方が排除するのだ。謂わば集団私刑。ただ、アリスは教団にとって禁断の存在と云うだけで、何か犯罪を起こしたワケではない。
……腐ってやがる。アルスはそう思いながら、地面を蹴ると同時にスマートフォンを耳に当てた。
「はい!?」
と声を上げた少女はアイスティーをテーブルに置くと、PCの画面を見ながら
「フランスでも速報が出てるわ……」
と小さめの声で言う。
怖れていたことが起きた。恐らく先刻見た教会の騒ぎは、これから大きくなるだろう。そして当然、ダンケルクも対応に追われるハズだ。
……ダンケルクと言えば。赤毛の少女は、思い出したかのように言った。
「……一つ、気になる名前が有るの。ルートヴィヒ・ヴァイスヴォルフ」
「……ドイツ人か?」
とアルスは問う。個人的に、ドイツ人は何となく苦手だ。
「そう。現地だとバロン・フォン・ヴァイスヴォルフと呼ばれてる。ドイツ側の教会にいた後、マルティネス家に移ってる。でも、不思議なことが有って」
「何だよ?」
「フランスに移ったのを機に、名前を変えてる。エルンスト・ギョームに」
「対外的に偽名を使ってるのか?」
「ただ、偽名よりも厄介なことが有るの」
とアリシアは言い、アイスティーを啜って続けた。
「マルティネス家失脚の後、メスィドール家に仕えてる。つまり、今でもダンケルクにいるのよ」
「ダンケルクにいる……?」
「そう。マルティネス家を離れたの。今の立場は知らないけど」
アリシアの言葉は、アルスに新たな謎を呼び起こす。
ドイツをルーツとするなら、東部教会サイドにいた方がメリットは大きいハズだ。無論、総本部にいるメリットを選んだからだと云うのも判る。ただ、それだけの理由ではないハズだ。
「……総司祭一家に仕えるメリットは何だ……?」
とアルスは呟く。その声を拾った赤毛の恋人は答えた。
「教団の中枢に近い場所にいられる」
その答えは、アルスも最初から想像していた。そして、それが大凡正しいことを確信した。
「裏で牛耳る気か?」
「ヴァイスヴォルフ家は処世術に長けた一家だから、十分有り得るわね」
とアリシアは言った。その瞬間、アルスは自分の言葉に疑問を感じた。
……裏で牛耳る?メスィドール家を?何のために?自分の利益のためにか?
「待てよ……」
「どうしたの?」
「……後で連絡する」
と言って通話を切ったアルスの脳は、バックグラウンドで一つの可能性を組み始めていた。
救急病院の待合室は、何処か慌ただしい。その端で俯いたままの3人は、処置室にいる4人が気懸かりだった。
「容体はどうだ?」
と問いながら近付くアルスに、最初に顔を上げたのは詩応だった。
「未だ誰も出てきていない……」
と答えると同時に、処置室のドアが開いた。その奥から出てきたブロンドヘアの男は
「……お前ら……」
と声を上げる。
「セブ!!」
プリィはベンチから立ち上がり、愛しい弟に駆け寄る。
「プリィ……俺は無事だ……」
と言ったセブは、セバスに顔を向け
「無事そうだな」
と答える。
その光景にアルスは安堵しながらも、しかし出てこない3人が気懸かりだった。
「……アリスはICUだ。肩を撃たれてる」
セブのフランス語に、プリィとセバスは目を見開く。その後ろでアルスは
「やはりな……」
と呟いた。祭壇前の血痕はやはりアリスのものか。
妙に冷静なアルスに、詩応は些か不気味ささえ感じる。しかし、それは先刻浮かんだ可能性に意識を向けていたからだった。
ヴァイスヴォルフ自身の利益のために、メスィドール家を牛耳る。
セバスが、セブの代わりに渡日すると云うのも、総司祭から伝えられていたとすれば。フリュクティドール家に渡されたネックレスのトラッカーも、ヴァイスヴォルフが準備したとするなら。トラッカー情報を共有して追跡できる、だから何度もピンポイントで狙うことができた。
そして、自身も日本に同行するとして総司祭を説得すれば、アリスを直接監視できる。聖女とそのオリジナルを同時に監視し、最大の秘密を手に入れる。
目的は、その秘密で脅迫した末の巨額の現金か、次期総司祭の座か。現総司祭が指名すれば、聖女は変わらず総司祭だけ交代することが可能だからだ。
しかし、それほど簡単な話だとは思わない。想定外の真実を突きつけるのが現実だからだ。
アルスは溜め息をつき、無意識に呟いた。
「……鍵を握るのは……奴か……」
アルスとの通話を終えたアリシアは、スマートフォンを机に置き、ランチを口にする。
「恋人から?」
と問うたのは雇い主だった。ブロンドヘアを三つ編みにした淑女に
「ええ。日本、何か色々大変なようで」
と言った少女に、淑女は
「でも、心配無いわよ。私のルナが一緒だもの」
と言った。
流雫の実家が、アリシアのバイト先。オッドアイの持ち主が紹介して、アスタナがその場で採用を決めたのだ。
小さなオフィスの一角でPCに向かうアリシアの働きぶりは、夫妻揃って評価している。
「離れていても、我が子を常に想うのが親の愛と云うものよ。それが無いようじゃ、私はルナの母を名乗ってはいけないと思うの」
と言ったアスタナを見ながら、微笑むアリシア。
……あの芯の強さは、この親の遺伝。納得だわ。そう思ったアリシアの脳は、しかし淑女の言葉をリフレインさせ始めた。
……母性的な愛を知らず、ただ教団や一家にとっての道具として扱われてきた存在。それはアリスだけじゃない。
アリシアはサンドイッチを咥えたまま、キーボードを叩く。アドレスバーには、こう文字列が並んでいた。
マルガレーテ・ヴァイスヴォルフ。
そう口にした澪の頬が濡れ、絶望と焦燥感が少女を支配する。
やだ……!
「流雫……!」
最愛の少年の名を呼びながら近付く澪。その身体を抱え、唇を重ねる。この身体に残る全ての酸素を送りたい。
「……っ……!」
今人工呼吸しても、何の役にも立たないことぐらい判っている。しかし、何が何でも流雫を救いたい。その唇と絡めた指に残るほのかな熱に、一縷の希望を託して。
大教会の前は騒然としていた。聖女が撃たれたことへの戦慄、その聖女がクローンだったことへの怒りが交錯している。
「退け!!」
と叫びながら、群衆を押し退ける詩応は、銃を取り出しながら教会に入って行く。
礼拝堂の扉はロックが掛かっている。制御装置は見当たらない。内側は流雫が撃ったがダメだった。
「……待ってろ……澪……流雫……」
焦燥感を露わにする詩応は、扉のロックに向け、震える腕を押さえながら引き金を引く。6発の中口径の銃弾は半分だけロックを破壊したが、後は指を入れれば回せる。
「くっ!!」
詩応は指を入れ、左に回す。小さな金属音が鳴った。
「ぐっ……っ!!」
扉を開けた詩応は、静まり返った礼拝堂の真ん中に倒れる2人に目が止まる。流雫を抱えたまま倒れる澪。
「澪……!!流雫……!!」
2人の頬を叩く詩応、しかし反応は無い。その奥には、聖女とセブもいる。しかし、2人の容体を気にすることはできない。それほど、追い詰められている。
背後から救急隊員が駆け付けた。担架に乗せられる高校生2人に目を向ける詩応は、同行者として救急車に乗る。
「澪……流雫……」
と名を呼ぶだけだ。そして先刻連絡先を交換したばかりのアルスと通話を始める。
「ミオとルナが病院に運ばれる」
「は!?何が有った!?」
「アタシも知らない。ただ、礼拝堂に閉じ込められたと」
と言った後で、詩応は隊員から告げられた病院を合流場所に指定し、通話を切る。
……2人は何を見たのか。まさか、聖女アリスが狙われたのか。そして、助けようとしたのか。
「……女神よ……2人を救い給え……」
と詩応は呟く。ルージェエールとソレイエドール、双方の守護を受けているのだから、死ぬワケがない。そうであってほしい。
平静を装う詩応は目を閉じる。しかし、床に落ちて砕ける小さな雫を止めることはできなかった。
「ミオとルナが病院に運ばれる」
その一言にアルスは、驚きと苛立ちを隠さない。通話が切れた後で、アルスは詩応が告げた病院に行くよう指示する。
「お前は?」
とセバスに問われたアルスは、
「教会に行く。後で駆け付ける」
とだけ答え、地面を蹴った。
……何が起きたか、想像に難くない。流雫と澪が気になるが、紅き戦女神の守護によって、必ず生き延びると信じている。
2人のことは詩応に任せる。今は教会で何が起きているのか、探るだけだ。
全力で走ったアルスは、教会の前の騒ぎに苛立ちながら、英語で
「退け!!」
と叫びながら、先刻の詩応よろしく強引に押し退けて中に入る。
……複数の血痕が、礼拝堂の床を汚している。祭壇のすぐ近くにも点在している。
「まさか……」
とアルスが呟く、その後ろから
「何が起きた!?」
と大きな声が響いた。弥陀ヶ原だ。何度も聞いたから、その日本語だけは覚えた。アルスは振り向きながら
「ルナとミオが病院に運ばれた、とは聞いている」
と英語で答え、近寄った。
「洩れた供述より前に、アリスの秘密を知っていた奴がいる。狙ったのは、恐らくそのグルだ」
「目的は?」
「総司祭の失脚。そのためにアリスを亡き者にしようとしたんだろう」
とアルスは答える。
「だが、シノから聞いた。ミオが礼拝堂に閉じ込められたと。犯人の口封じも兼ねて、ルナごと一網打尽にする気だったんだろう……」
と言ったアルスの目には、怒りが漂っている。
「……犯人への報復で殺しても、無罪にならないのか?」
と言った少年の目に、生意気な少年の面影は無い。流雫と澪を殺されかけて、黙っていられるワケが無い。
冗談っぽさが微塵も無い言葉に、弥陀ヶ原は
「言いたいことは判るがな」
とだけ答える。
アルスは
「……俺は病院に行く。ルナとミオが気になる」
とだけ言い残し、何時しか張られた規制線の外へ出た。
教会前にいる連中は、相変わらず騒がしい。しかし、礼拝堂で発砲事件が起きたことに対する怒りより、聖女がクローンだったことに対する怒りが、圧倒的に強い。日本語で捲し立てる罵声の意味は判らないが、時系列で容易に想像がつく。
……日本は、悪者を社会的に再起不能になるまで叩くと云う風潮が有る。罪人だから当然の報い、そのロジックで武装した自称正義の味方が排除するのだ。謂わば集団私刑。ただ、アリスは教団にとって禁断の存在と云うだけで、何か犯罪を起こしたワケではない。
……腐ってやがる。アルスはそう思いながら、地面を蹴ると同時にスマートフォンを耳に当てた。
「はい!?」
と声を上げた少女はアイスティーをテーブルに置くと、PCの画面を見ながら
「フランスでも速報が出てるわ……」
と小さめの声で言う。
怖れていたことが起きた。恐らく先刻見た教会の騒ぎは、これから大きくなるだろう。そして当然、ダンケルクも対応に追われるハズだ。
……ダンケルクと言えば。赤毛の少女は、思い出したかのように言った。
「……一つ、気になる名前が有るの。ルートヴィヒ・ヴァイスヴォルフ」
「……ドイツ人か?」
とアルスは問う。個人的に、ドイツ人は何となく苦手だ。
「そう。現地だとバロン・フォン・ヴァイスヴォルフと呼ばれてる。ドイツ側の教会にいた後、マルティネス家に移ってる。でも、不思議なことが有って」
「何だよ?」
「フランスに移ったのを機に、名前を変えてる。エルンスト・ギョームに」
「対外的に偽名を使ってるのか?」
「ただ、偽名よりも厄介なことが有るの」
とアリシアは言い、アイスティーを啜って続けた。
「マルティネス家失脚の後、メスィドール家に仕えてる。つまり、今でもダンケルクにいるのよ」
「ダンケルクにいる……?」
「そう。マルティネス家を離れたの。今の立場は知らないけど」
アリシアの言葉は、アルスに新たな謎を呼び起こす。
ドイツをルーツとするなら、東部教会サイドにいた方がメリットは大きいハズだ。無論、総本部にいるメリットを選んだからだと云うのも判る。ただ、それだけの理由ではないハズだ。
「……総司祭一家に仕えるメリットは何だ……?」
とアルスは呟く。その声を拾った赤毛の恋人は答えた。
「教団の中枢に近い場所にいられる」
その答えは、アルスも最初から想像していた。そして、それが大凡正しいことを確信した。
「裏で牛耳る気か?」
「ヴァイスヴォルフ家は処世術に長けた一家だから、十分有り得るわね」
とアリシアは言った。その瞬間、アルスは自分の言葉に疑問を感じた。
……裏で牛耳る?メスィドール家を?何のために?自分の利益のためにか?
「待てよ……」
「どうしたの?」
「……後で連絡する」
と言って通話を切ったアルスの脳は、バックグラウンドで一つの可能性を組み始めていた。
救急病院の待合室は、何処か慌ただしい。その端で俯いたままの3人は、処置室にいる4人が気懸かりだった。
「容体はどうだ?」
と問いながら近付くアルスに、最初に顔を上げたのは詩応だった。
「未だ誰も出てきていない……」
と答えると同時に、処置室のドアが開いた。その奥から出てきたブロンドヘアの男は
「……お前ら……」
と声を上げる。
「セブ!!」
プリィはベンチから立ち上がり、愛しい弟に駆け寄る。
「プリィ……俺は無事だ……」
と言ったセブは、セバスに顔を向け
「無事そうだな」
と答える。
その光景にアルスは安堵しながらも、しかし出てこない3人が気懸かりだった。
「……アリスはICUだ。肩を撃たれてる」
セブのフランス語に、プリィとセバスは目を見開く。その後ろでアルスは
「やはりな……」
と呟いた。祭壇前の血痕はやはりアリスのものか。
妙に冷静なアルスに、詩応は些か不気味ささえ感じる。しかし、それは先刻浮かんだ可能性に意識を向けていたからだった。
ヴァイスヴォルフ自身の利益のために、メスィドール家を牛耳る。
セバスが、セブの代わりに渡日すると云うのも、総司祭から伝えられていたとすれば。フリュクティドール家に渡されたネックレスのトラッカーも、ヴァイスヴォルフが準備したとするなら。トラッカー情報を共有して追跡できる、だから何度もピンポイントで狙うことができた。
そして、自身も日本に同行するとして総司祭を説得すれば、アリスを直接監視できる。聖女とそのオリジナルを同時に監視し、最大の秘密を手に入れる。
目的は、その秘密で脅迫した末の巨額の現金か、次期総司祭の座か。現総司祭が指名すれば、聖女は変わらず総司祭だけ交代することが可能だからだ。
しかし、それほど簡単な話だとは思わない。想定外の真実を突きつけるのが現実だからだ。
アルスは溜め息をつき、無意識に呟いた。
「……鍵を握るのは……奴か……」
アルスとの通話を終えたアリシアは、スマートフォンを机に置き、ランチを口にする。
「恋人から?」
と問うたのは雇い主だった。ブロンドヘアを三つ編みにした淑女に
「ええ。日本、何か色々大変なようで」
と言った少女に、淑女は
「でも、心配無いわよ。私のルナが一緒だもの」
と言った。
流雫の実家が、アリシアのバイト先。オッドアイの持ち主が紹介して、アスタナがその場で採用を決めたのだ。
小さなオフィスの一角でPCに向かうアリシアの働きぶりは、夫妻揃って評価している。
「離れていても、我が子を常に想うのが親の愛と云うものよ。それが無いようじゃ、私はルナの母を名乗ってはいけないと思うの」
と言ったアスタナを見ながら、微笑むアリシア。
……あの芯の強さは、この親の遺伝。納得だわ。そう思ったアリシアの脳は、しかし淑女の言葉をリフレインさせ始めた。
……母性的な愛を知らず、ただ教団や一家にとっての道具として扱われてきた存在。それはアリスだけじゃない。
アリシアはサンドイッチを咥えたまま、キーボードを叩く。アドレスバーには、こう文字列が並んでいた。
マルガレーテ・ヴァイスヴォルフ。