【本当の世界】
「花火が咲かなかったから。」
縦書きに綴られた一行の裏に、
どんな想いが、意味合いが隠されているんだろう。
どんな願いが込められているんだろう。
そんなことを思いながら、
誰にも聞こえないほどの小さな声で私はポツリとそれを口にした。
今日だけ。
今日で終わり。
今日が最初で、今日が最後。
そう自分で決めたから。
その一行に込められた想いの正体は分からないけれど、込めたい想いは私にだってある。
抱えきれないほど十二分に。
だから後悔しないように。
未練が残らないように。
怯みそうになる自分を奮い立たせて、
眩しすぎる嘘の世界へと私は一歩踏み出した。
────────────────────
【嘘の世界】
いつものようにキッチンで夕飯の支度をしながら、
BGM代わりにニュース番組をつける。
『この事故に巻き込まれ、俳優の"広瀬 碧(あおい)さんが亡くなりました。』
ガシャン
キッチンのタイルに落として割れたのは、
3日前に買ったばかりの藍色のお皿だった。
すごく気に入っていた。
値段が高くて、少なくとも一週間は悩んだ。
普段の私ならきっと、重くて深いため息がこぼれていたと思う。
だけど今日は、今の自分には、お皿なんてどうだってよかった。
それらの代わりになるものはいくらでもある。
キッチンからテレビの前へと向かうと、画面の端に小さく置かれた写真。
それは間違いなく"彼"だった。
この世界にたった一人しかいない、決して代わりのきかない存在。
「…うそでしょ…」
その活躍を振り返るように、
今まで出演したドラマの映像が画面に流れていく。
初めて主演を演じた学園もの。
その演技力が評価されて抜擢された月9ドラマ。
挑戦したいと挑んだ余命半年の作家の役。
それが彼の遺作になるなんて皮肉以外のなんでもないと思った。
スタジオゲストは彼と共演した時のエピソードをポツリポツリと悲しげに語っている。
綺麗に、順序正しく並べられた言葉たち。
悲壮感をほんのり漂わせる落ち着いた表情。
この人たち、本当に悲しんでるの…?
そんな怒りに似た感情が胸の奥底から湧き上がってきた時、
「………、」
私は、初めて自分が泣いていることに気がついた。
驚いて思わず袖口で濡れた頬を拭うけれどそれでも一向に収まらない涙。
止めようと思うほどまたさらに溢れてきて、
そのせいで上手く呼吸ができなくて。
両手で顔を覆ったまま私は思わずその場にペタリとしゃがみ込んだ。
こんなに泣いたのはいつぶりだろう。
そもそも人生でこんなに泣いたことがあっただろうか。
もしかしたらなかったんじゃないか。
いや、確実にない。
だって彼と最後に会ったあの日だってここまで苦しくはなかった。
家に帰ってからもこんなには泣かなかった。
目を瞑れば悔しいくらいにはっきりと、
声も、笑顔も、言葉も、
あの日の全てを私は思い出すことができた。
────────────────────
【嘘の青春】
高校3年の夏。
毎年開かれている花火大会が今年は雨で中止になった。
皮肉にも今年は30回目のメモリアルyear。
ここは東京じゃないし、イベント自体もそれほど大きなものでもない。
だけどメモリアルyearだったからなのか、
ネット上では中止を嘆くつぶやきを思っていたよりたくさん見つけた。
花火の代わりに降り注ぐ雨の音。
誰もいない真っ暗な海岸。
湿っている砂浜には降りず上にある歩道から海を眺めながら、
私は傘を片手に一つ小さなため息をついた。
「花火見たかったな…」
思わずこぼれた本音。
その声は誰に届くわけでもなく暗闇に溶けて……
「ふ、ほんとかよ笑」
跡形もなく消えるはずだった。
聞き慣れた声に咄嗟に振り向くと、
そこに立っていたのは傘をさして呆れたように笑う彼。
音楽を聴きながらここまで来たのか、
首にはイヤホンがぶらんと垂れ下がっている。
「…あおい…」
「まさかお前がいると思わなかったわ笑」
前髪の奥に見え隠れする整った笑顔。
その柔らかい表情に思わずドキッとしてしまう。
「あんなに花火興味ないって言ってたくせに笑」
「そうだよ?」
花火大会なんて人が多いだけ。
どれも対して変わらない。
綺麗ではあるけれど一定の期待値は絶対に越えない。
それが私の思う”花火”だ。
「じゃあなんで来たんだよ笑」
「それは……」
それはあなたが、あんなこと言うから。
「ん?」
「あおいが私に言ったから。」
「…俺なんか言ったっけ?」
「言ったよ。」
花火なんてどれも同じでしょ?
そう言った私に、あおいは言った。
"じゃあ一回海岸で見た方がいい"って。
"そしたら花火の概念が180度変わるから"って。
まっすぐな瞳で私にそう言った彼。
そう。雨が降っているにも関わらず私がここまで来てしまったのは、
自分の目で見ないと中止の諦めがつかなかったのは、
紛れもなく隣にいる好きな人のせいだ。
「あぁ…なんか言った気がするわ笑」
「でしょ?だから来たんだよ。」
「いや雨降ってますけど笑?」
「………」
いたずらっぽくそう言う彼。
もしこれが友だちなら、皮肉や文句の一つもたぶん返していた。
だけど相手が彼となると私はめっぽう弱い。
「そっちこそ…なんで来たのよ?」
「ん?」
疑問形に何故か疑問形で返すのは、あおいのいつもの癖。
だけど聞こえていないわけじゃなくて、
「雨降ったから。」
こんな風にあおいはいつも平然と答える。
「…降ったから来たの?」
「うん。」
「だって…花火上がらないよ?」
「わかってるよ笑」
真剣な顔で尋ねる私に呆れたみたいに笑って。
だけどこぼれた笑顔には少しだけ、
ほんの少しだけ切なさが滲んでいる…そんな気がした。
「花火やってたらこんなとこ来れないもん。」
「え?」
「人が多すぎて。」
その一言ですぐに分かった。
「帽子被っても声でバレるし、そしたら花火どころじゃなくなるでしょ笑」
「………」
”そんなの花火がかわいそうじゃん?”って。
冗談っぽくそう呟く彼は、
学生という身であるのと同時にテレビに出る芸能人だ。
だから学校に来るのも毎日じゃない。
詳しいことは分からないけれど、
自宅学習や出された課題をこなすことで出席日数を補っているらしい。
そしてその苦労をあおいは絶対に人に見せない。
「こんな天気だったらさすがに誰もいないだろうと思ってさ」
「そっか」
「まぁ誰かさんはいたけど笑」
わざとらしく強調させて呟く彼に思わずそっちを振り向くと、
その綺麗な瞳はただじっと闇に溶けて見えないはずの水平線を見つめていた。
もし、彼がただの学生だったら─────
何度も何度も、考えたこと。
彼がただの男の子だったらきっとこんなには悩まなかったのにって。
躊躇わずこの気持ちを伝えられていたはず。
伝えたいけど伝えるべきじゃない、
そんなもどかしさに振り回されることもなかったはず。
きっともう少し、恋に大胆な幼い子どもでいられたはずだって。
「でも花火なくてよかったわ」
「え?」
「だって花火だったらおまえと会えてないでしょ?」
その一言が嬉しかった。
秘めた想いが思わず溢れてしまいそうなほど嬉しかった。
「だから最後に会えてよかったよ。」
「…さいご?」
だけど夢から醒めるのは一瞬で、
次の瞬間耳に届いたその単語に胸がぎゅっと苦しくなった。
そう。嬉しかった分だけ、その痛みはより強くはっきりと感じた。
「ねぇそれどういう…」
「俺、秋から東京行くんだ。」
「…とうきょう?…えっ学校はどうするの?」
「この夏休みでやめる。」
「…うそでしょ…」
「ほんと。」
「えっなんでよ、」
「んー…」
困ったようにふにゃっと笑って、
それからしばらく答えを探すように唸る彼。
その間に先に耐えられなくなったのは、彼より私の方だった。
「あおいはそれでいいの?後悔しない?」
「………」
彼が急に大人になってしまったような気がした。
「ここまで頑張ってきたんでしょ?本当にいいの?」
「………」
一人取り残されるのが堪らなく怖かった。
「あともう少し頑張ろうよ、私協力するよ?」
「…ひかり」
「授業のノートも全然見せるし、なんなら課題だって私が代わりに、」
私があなたの代わりにやるから…って。
すぐに周りが見えなくなるのは私のダメなところ。
そしてそれを引き戻すみたいに、
「ひかり」
暗闇に響いた力強い声は、どこまでもあおいらしくなかった。
だけどそっと肩に触れた手は心が痛むほど優しくて、
「ひかり。」
「………」
もう一度名前を呼んだその声は何度も何度も聴いた大好きなあおいの声色だ。
そんな彼から伝わってくる温もりに私は顔を上げられなかった。
手のひらをぎゅっと握りしめて、溢れそうになる想いをどうにかこらえる。
「ひかり…顔上げて?」
「………」
目なんて見られない。
ただ首を横にブンブン降ると、
「…じゃあそのままでいいから聞いて?」
「………」
風に乗った雨の匂いにすら、私は無性に悲しくなった。
「俺、学校行くの本当に好きだった。周りに誰かいて授業受けるのも新鮮だったし、
あいつ絶対話聞いてないなーとか、眠そうにしてんなーとか思ったりしてさ。
休み時間に馬鹿みたいな話してると、”責任”とか”悩み”とかくだらねえって思えるの笑」
急に大人になったんじゃない。
あおいはずっと前から大人だったんだ。
「無理にがんばらなくてもいっか…って。そんなの自分勝手だし無責任だからダメなんだろうけど、
それでもそう思えるってことが俺にとっては奇跡みたいなことなんだよね。」
「………」
「だから学校も、授業も、あいつらも、そういうの全部大好きだった。」
いくつも並べられる好き。
だけど私の好きと彼の好きの間には果てしないほど遠い遠い距離がある。
「だから決して蔑ろにしたいわけじゃないよ?」
「……だったら、」
「でもやっぱり夢を叶えたい。」
─────有名になってたくさんの人を笑顔にする。
それが子どもの頃からの彼の夢だった。
”こんなベタな夢笑われるよな”って。
口ではそう言いながらもその瞳は真剣で、
夢を語る彼は周りにいる誰よりもかっこよかった。
「両方欲しいなんて虫がよすぎるじゃん?」
「………」
「だから覚悟決めて東京に行く。」
その声色に少しも迷いはない。
「俺、弱いからさ。ここにいたら甘えたくなるだろうし、
壁にぶつかった時、楽しかった記憶を逃げる理由には絶対にしたくない。」
もうずっと前からそうすると決めていたみたいに。
私なんかが引き留めたって意味ないんだ、って
清々しいくらいに彼の中から躊躇いは感じなかった。
そう…これでよかったんだ。
これで心が決まった。
伝えないって決めたのに、いざって時にどっちにも転べるように大切に取っておいた恋心。
この恋の終わらせ方が分かったよ。
今日夜空に花火が咲かなかったのは、この為だったんだね。
雨でよかった。
辺りが暗くてよかった。
それなのに、
「でも引き留めてくれてありがとう。」
「………」
そんなのずるいよ。
雨なのに。
夜の海は真っ暗で見えないはずなのに。
彼は傘を器用に肩に引っ掛けると、
俯く私の頬から涙が落ちる前に親指でそっと拭った。
「そう言ってくれてめちゃくちゃ嬉しいし…さ、」
「………」
「んー…なんて言うか…」
「……?」
「俺ひかりのそういうまっすぐなところ、すげー好き。」
ずるい。ずるい。ずるい。
最後の最後にそんなこと言わないでよ。
これ以上悩ませないでよ…。
それでも私をおいて東京へ行くんでしょ?
だったら必死に堪えている思いを揺さぶらないでよ。
今日で最後なんでしょ?
だったら今日くらい最後くらい…
「……うん…」
「……うん。」
"好き"って二文字を私に譲ってよ。
好きって伝えたけど実らなかった、その結末で最後の終止符を私に打たせてよ。
ずっと先の未来に期待なんてさせないでほしかった。
こんな別れ方をしたら、雨が降る度、私はあなたを思い出すじゃない。
そして夜空に花火が咲く度に心の中で思うんだ。
”いつかきみと花火を”なんて。
────────────────────
【本当の世界】
雨に似せた温かいシャワーがピタリと止む。
「はい、カット!」
夜空に響いたカチンコの音で、
ワンナイトラブストーリーは終わりを告げた。
「以上をもちまして、三島ひかり役の遠藤りこさん、
広瀬あおい役の荻野そうたさんオールアップになります!」
注がれる拍手に私たちは四方八方に頭を下げた。
これは連続ドラマじゃない。
あくまで一話も完結のショートドラマ。
だけどその日に全て撮りきるというハードスケジュールのせいで、
カットがかかると同時に私はドッと疲れを感じた。
オールアップの挨拶をお互い終えて機材の撤収が始まる中、
監督が彼に声をかけに行くのが視界の隅っこに映る。
「おつかれー」
「お疲れ様です!」
深夜2時とは思えない爽やかな笑顔の荻野そうた。
彼はこの業界に入るよりもずっと前から、
私にとって”憧れのひと”だった。
いつか彼に会いたい。
彼と一緒に仕事がしたい。
そんな日を秘かに夢見ていた高校生の頃の私。
あの時の彼女がもしも今日の私を見たら一体どんな顔をするだろう。
これをきっかけに彼と仲良くなる展開を期待して、
そこから本物の恋が生まれるという新たな夢を抱くのだろうか。
そしてそれが叶わないと知った時、
大きくなりすぎた夢に潰されてしまわないだろうか。
そんなことを考えながら、嫌でも聞き耳を立ててしまう好きな人の声。
「さっきの芝居めちゃくちゃよかったよ、荻野君」
「嬉しいです、ありがとうございます。」
「あ、そういえばこの前久しぶりに臨(りん)ちゃんと仕事してさ、」
「はい聞きました。」
「俺のことなんか言ってた?…おじさんになってたって笑?」
”臨ちゃん”
躊躇いなくその名前を呼べるのも、
軽い冗談を言えるのも監督が彼女のことを子役の頃から知っているから。
「いえ、妻も会えて喜んでいましたよ。」
「ほんとに?」
荻野そうたは紛れもない既婚者だ。
だから彼の影にはいつも最愛の人がいて、そして、
「えんちゃんもよかったよ。」
彼と監督のやり取りを見つめていた私に
ふっと声をかけてきた顔なじみのプロデューサー。
「あ、お疲れ様です。」
「あんなの見たら旦那さん嫉妬するんじゃない笑?」
「やめてくださいよ笑」
既婚者なのは私も同じだ。
だから私たちにドラマのような別れ方はタブー。
そんなことをしたら待っているのはきっと、目の前の海のように果てしない真っ暗闇だけ。
だから後悔しないように。
未練が残らないように。
軽く挨拶をするだけでそれ以上深く彼とは言葉を交わさなかった。
そう、私には帰る場所がある。
そこには失いたくない人がいるから。
だから彼との恋はフィクションでいい。
心からの気持ちがそこにあろうがなかろうが、その言葉をもらえただけでもう十分だ。
その気持ちに嘘はない。
だけど一つだけ否定できないことがあるとすれば、
それは今夜が、私にとって忘れられない夜になったこと。
その事実だけはいくら足掻いても否定できない。
彼が私に好きをくれたこと。
その優しい声も、肩に触れた体温も。
暗い海の色も、雨に似せたシャワーの匂いも。
おそらく私はこの先一生忘れられないから。
たとえ他のことが全て記憶から抜け落ちたとしても、この夜だけはきっと五感が覚えている。
そんなつもりじゃなかった、なんて後の祭り。
夜空に花火が咲かなかったこの物語も、
今は入れ墨のように深く色濃く私の身体の中に刻まれている。
そしてこの台本を開く度、思うんだ。
きっとこれがリアルな、
夢のないワンナイトラブストーリーなんだ…と。
[完]
「花火が咲かなかったから。」
縦書きに綴られた一行の裏に、
どんな想いが、意味合いが隠されているんだろう。
どんな願いが込められているんだろう。
そんなことを思いながら、
誰にも聞こえないほどの小さな声で私はポツリとそれを口にした。
今日だけ。
今日で終わり。
今日が最初で、今日が最後。
そう自分で決めたから。
その一行に込められた想いの正体は分からないけれど、込めたい想いは私にだってある。
抱えきれないほど十二分に。
だから後悔しないように。
未練が残らないように。
怯みそうになる自分を奮い立たせて、
眩しすぎる嘘の世界へと私は一歩踏み出した。
────────────────────
【嘘の世界】
いつものようにキッチンで夕飯の支度をしながら、
BGM代わりにニュース番組をつける。
『この事故に巻き込まれ、俳優の"広瀬 碧(あおい)さんが亡くなりました。』
ガシャン
キッチンのタイルに落として割れたのは、
3日前に買ったばかりの藍色のお皿だった。
すごく気に入っていた。
値段が高くて、少なくとも一週間は悩んだ。
普段の私ならきっと、重くて深いため息がこぼれていたと思う。
だけど今日は、今の自分には、お皿なんてどうだってよかった。
それらの代わりになるものはいくらでもある。
キッチンからテレビの前へと向かうと、画面の端に小さく置かれた写真。
それは間違いなく"彼"だった。
この世界にたった一人しかいない、決して代わりのきかない存在。
「…うそでしょ…」
その活躍を振り返るように、
今まで出演したドラマの映像が画面に流れていく。
初めて主演を演じた学園もの。
その演技力が評価されて抜擢された月9ドラマ。
挑戦したいと挑んだ余命半年の作家の役。
それが彼の遺作になるなんて皮肉以外のなんでもないと思った。
スタジオゲストは彼と共演した時のエピソードをポツリポツリと悲しげに語っている。
綺麗に、順序正しく並べられた言葉たち。
悲壮感をほんのり漂わせる落ち着いた表情。
この人たち、本当に悲しんでるの…?
そんな怒りに似た感情が胸の奥底から湧き上がってきた時、
「………、」
私は、初めて自分が泣いていることに気がついた。
驚いて思わず袖口で濡れた頬を拭うけれどそれでも一向に収まらない涙。
止めようと思うほどまたさらに溢れてきて、
そのせいで上手く呼吸ができなくて。
両手で顔を覆ったまま私は思わずその場にペタリとしゃがみ込んだ。
こんなに泣いたのはいつぶりだろう。
そもそも人生でこんなに泣いたことがあっただろうか。
もしかしたらなかったんじゃないか。
いや、確実にない。
だって彼と最後に会ったあの日だってここまで苦しくはなかった。
家に帰ってからもこんなには泣かなかった。
目を瞑れば悔しいくらいにはっきりと、
声も、笑顔も、言葉も、
あの日の全てを私は思い出すことができた。
────────────────────
【嘘の青春】
高校3年の夏。
毎年開かれている花火大会が今年は雨で中止になった。
皮肉にも今年は30回目のメモリアルyear。
ここは東京じゃないし、イベント自体もそれほど大きなものでもない。
だけどメモリアルyearだったからなのか、
ネット上では中止を嘆くつぶやきを思っていたよりたくさん見つけた。
花火の代わりに降り注ぐ雨の音。
誰もいない真っ暗な海岸。
湿っている砂浜には降りず上にある歩道から海を眺めながら、
私は傘を片手に一つ小さなため息をついた。
「花火見たかったな…」
思わずこぼれた本音。
その声は誰に届くわけでもなく暗闇に溶けて……
「ふ、ほんとかよ笑」
跡形もなく消えるはずだった。
聞き慣れた声に咄嗟に振り向くと、
そこに立っていたのは傘をさして呆れたように笑う彼。
音楽を聴きながらここまで来たのか、
首にはイヤホンがぶらんと垂れ下がっている。
「…あおい…」
「まさかお前がいると思わなかったわ笑」
前髪の奥に見え隠れする整った笑顔。
その柔らかい表情に思わずドキッとしてしまう。
「あんなに花火興味ないって言ってたくせに笑」
「そうだよ?」
花火大会なんて人が多いだけ。
どれも対して変わらない。
綺麗ではあるけれど一定の期待値は絶対に越えない。
それが私の思う”花火”だ。
「じゃあなんで来たんだよ笑」
「それは……」
それはあなたが、あんなこと言うから。
「ん?」
「あおいが私に言ったから。」
「…俺なんか言ったっけ?」
「言ったよ。」
花火なんてどれも同じでしょ?
そう言った私に、あおいは言った。
"じゃあ一回海岸で見た方がいい"って。
"そしたら花火の概念が180度変わるから"って。
まっすぐな瞳で私にそう言った彼。
そう。雨が降っているにも関わらず私がここまで来てしまったのは、
自分の目で見ないと中止の諦めがつかなかったのは、
紛れもなく隣にいる好きな人のせいだ。
「あぁ…なんか言った気がするわ笑」
「でしょ?だから来たんだよ。」
「いや雨降ってますけど笑?」
「………」
いたずらっぽくそう言う彼。
もしこれが友だちなら、皮肉や文句の一つもたぶん返していた。
だけど相手が彼となると私はめっぽう弱い。
「そっちこそ…なんで来たのよ?」
「ん?」
疑問形に何故か疑問形で返すのは、あおいのいつもの癖。
だけど聞こえていないわけじゃなくて、
「雨降ったから。」
こんな風にあおいはいつも平然と答える。
「…降ったから来たの?」
「うん。」
「だって…花火上がらないよ?」
「わかってるよ笑」
真剣な顔で尋ねる私に呆れたみたいに笑って。
だけどこぼれた笑顔には少しだけ、
ほんの少しだけ切なさが滲んでいる…そんな気がした。
「花火やってたらこんなとこ来れないもん。」
「え?」
「人が多すぎて。」
その一言ですぐに分かった。
「帽子被っても声でバレるし、そしたら花火どころじゃなくなるでしょ笑」
「………」
”そんなの花火がかわいそうじゃん?”って。
冗談っぽくそう呟く彼は、
学生という身であるのと同時にテレビに出る芸能人だ。
だから学校に来るのも毎日じゃない。
詳しいことは分からないけれど、
自宅学習や出された課題をこなすことで出席日数を補っているらしい。
そしてその苦労をあおいは絶対に人に見せない。
「こんな天気だったらさすがに誰もいないだろうと思ってさ」
「そっか」
「まぁ誰かさんはいたけど笑」
わざとらしく強調させて呟く彼に思わずそっちを振り向くと、
その綺麗な瞳はただじっと闇に溶けて見えないはずの水平線を見つめていた。
もし、彼がただの学生だったら─────
何度も何度も、考えたこと。
彼がただの男の子だったらきっとこんなには悩まなかったのにって。
躊躇わずこの気持ちを伝えられていたはず。
伝えたいけど伝えるべきじゃない、
そんなもどかしさに振り回されることもなかったはず。
きっともう少し、恋に大胆な幼い子どもでいられたはずだって。
「でも花火なくてよかったわ」
「え?」
「だって花火だったらおまえと会えてないでしょ?」
その一言が嬉しかった。
秘めた想いが思わず溢れてしまいそうなほど嬉しかった。
「だから最後に会えてよかったよ。」
「…さいご?」
だけど夢から醒めるのは一瞬で、
次の瞬間耳に届いたその単語に胸がぎゅっと苦しくなった。
そう。嬉しかった分だけ、その痛みはより強くはっきりと感じた。
「ねぇそれどういう…」
「俺、秋から東京行くんだ。」
「…とうきょう?…えっ学校はどうするの?」
「この夏休みでやめる。」
「…うそでしょ…」
「ほんと。」
「えっなんでよ、」
「んー…」
困ったようにふにゃっと笑って、
それからしばらく答えを探すように唸る彼。
その間に先に耐えられなくなったのは、彼より私の方だった。
「あおいはそれでいいの?後悔しない?」
「………」
彼が急に大人になってしまったような気がした。
「ここまで頑張ってきたんでしょ?本当にいいの?」
「………」
一人取り残されるのが堪らなく怖かった。
「あともう少し頑張ろうよ、私協力するよ?」
「…ひかり」
「授業のノートも全然見せるし、なんなら課題だって私が代わりに、」
私があなたの代わりにやるから…って。
すぐに周りが見えなくなるのは私のダメなところ。
そしてそれを引き戻すみたいに、
「ひかり」
暗闇に響いた力強い声は、どこまでもあおいらしくなかった。
だけどそっと肩に触れた手は心が痛むほど優しくて、
「ひかり。」
「………」
もう一度名前を呼んだその声は何度も何度も聴いた大好きなあおいの声色だ。
そんな彼から伝わってくる温もりに私は顔を上げられなかった。
手のひらをぎゅっと握りしめて、溢れそうになる想いをどうにかこらえる。
「ひかり…顔上げて?」
「………」
目なんて見られない。
ただ首を横にブンブン降ると、
「…じゃあそのままでいいから聞いて?」
「………」
風に乗った雨の匂いにすら、私は無性に悲しくなった。
「俺、学校行くの本当に好きだった。周りに誰かいて授業受けるのも新鮮だったし、
あいつ絶対話聞いてないなーとか、眠そうにしてんなーとか思ったりしてさ。
休み時間に馬鹿みたいな話してると、”責任”とか”悩み”とかくだらねえって思えるの笑」
急に大人になったんじゃない。
あおいはずっと前から大人だったんだ。
「無理にがんばらなくてもいっか…って。そんなの自分勝手だし無責任だからダメなんだろうけど、
それでもそう思えるってことが俺にとっては奇跡みたいなことなんだよね。」
「………」
「だから学校も、授業も、あいつらも、そういうの全部大好きだった。」
いくつも並べられる好き。
だけど私の好きと彼の好きの間には果てしないほど遠い遠い距離がある。
「だから決して蔑ろにしたいわけじゃないよ?」
「……だったら、」
「でもやっぱり夢を叶えたい。」
─────有名になってたくさんの人を笑顔にする。
それが子どもの頃からの彼の夢だった。
”こんなベタな夢笑われるよな”って。
口ではそう言いながらもその瞳は真剣で、
夢を語る彼は周りにいる誰よりもかっこよかった。
「両方欲しいなんて虫がよすぎるじゃん?」
「………」
「だから覚悟決めて東京に行く。」
その声色に少しも迷いはない。
「俺、弱いからさ。ここにいたら甘えたくなるだろうし、
壁にぶつかった時、楽しかった記憶を逃げる理由には絶対にしたくない。」
もうずっと前からそうすると決めていたみたいに。
私なんかが引き留めたって意味ないんだ、って
清々しいくらいに彼の中から躊躇いは感じなかった。
そう…これでよかったんだ。
これで心が決まった。
伝えないって決めたのに、いざって時にどっちにも転べるように大切に取っておいた恋心。
この恋の終わらせ方が分かったよ。
今日夜空に花火が咲かなかったのは、この為だったんだね。
雨でよかった。
辺りが暗くてよかった。
それなのに、
「でも引き留めてくれてありがとう。」
「………」
そんなのずるいよ。
雨なのに。
夜の海は真っ暗で見えないはずなのに。
彼は傘を器用に肩に引っ掛けると、
俯く私の頬から涙が落ちる前に親指でそっと拭った。
「そう言ってくれてめちゃくちゃ嬉しいし…さ、」
「………」
「んー…なんて言うか…」
「……?」
「俺ひかりのそういうまっすぐなところ、すげー好き。」
ずるい。ずるい。ずるい。
最後の最後にそんなこと言わないでよ。
これ以上悩ませないでよ…。
それでも私をおいて東京へ行くんでしょ?
だったら必死に堪えている思いを揺さぶらないでよ。
今日で最後なんでしょ?
だったら今日くらい最後くらい…
「……うん…」
「……うん。」
"好き"って二文字を私に譲ってよ。
好きって伝えたけど実らなかった、その結末で最後の終止符を私に打たせてよ。
ずっと先の未来に期待なんてさせないでほしかった。
こんな別れ方をしたら、雨が降る度、私はあなたを思い出すじゃない。
そして夜空に花火が咲く度に心の中で思うんだ。
”いつかきみと花火を”なんて。
────────────────────
【本当の世界】
雨に似せた温かいシャワーがピタリと止む。
「はい、カット!」
夜空に響いたカチンコの音で、
ワンナイトラブストーリーは終わりを告げた。
「以上をもちまして、三島ひかり役の遠藤りこさん、
広瀬あおい役の荻野そうたさんオールアップになります!」
注がれる拍手に私たちは四方八方に頭を下げた。
これは連続ドラマじゃない。
あくまで一話も完結のショートドラマ。
だけどその日に全て撮りきるというハードスケジュールのせいで、
カットがかかると同時に私はドッと疲れを感じた。
オールアップの挨拶をお互い終えて機材の撤収が始まる中、
監督が彼に声をかけに行くのが視界の隅っこに映る。
「おつかれー」
「お疲れ様です!」
深夜2時とは思えない爽やかな笑顔の荻野そうた。
彼はこの業界に入るよりもずっと前から、
私にとって”憧れのひと”だった。
いつか彼に会いたい。
彼と一緒に仕事がしたい。
そんな日を秘かに夢見ていた高校生の頃の私。
あの時の彼女がもしも今日の私を見たら一体どんな顔をするだろう。
これをきっかけに彼と仲良くなる展開を期待して、
そこから本物の恋が生まれるという新たな夢を抱くのだろうか。
そしてそれが叶わないと知った時、
大きくなりすぎた夢に潰されてしまわないだろうか。
そんなことを考えながら、嫌でも聞き耳を立ててしまう好きな人の声。
「さっきの芝居めちゃくちゃよかったよ、荻野君」
「嬉しいです、ありがとうございます。」
「あ、そういえばこの前久しぶりに臨(りん)ちゃんと仕事してさ、」
「はい聞きました。」
「俺のことなんか言ってた?…おじさんになってたって笑?」
”臨ちゃん”
躊躇いなくその名前を呼べるのも、
軽い冗談を言えるのも監督が彼女のことを子役の頃から知っているから。
「いえ、妻も会えて喜んでいましたよ。」
「ほんとに?」
荻野そうたは紛れもない既婚者だ。
だから彼の影にはいつも最愛の人がいて、そして、
「えんちゃんもよかったよ。」
彼と監督のやり取りを見つめていた私に
ふっと声をかけてきた顔なじみのプロデューサー。
「あ、お疲れ様です。」
「あんなの見たら旦那さん嫉妬するんじゃない笑?」
「やめてくださいよ笑」
既婚者なのは私も同じだ。
だから私たちにドラマのような別れ方はタブー。
そんなことをしたら待っているのはきっと、目の前の海のように果てしない真っ暗闇だけ。
だから後悔しないように。
未練が残らないように。
軽く挨拶をするだけでそれ以上深く彼とは言葉を交わさなかった。
そう、私には帰る場所がある。
そこには失いたくない人がいるから。
だから彼との恋はフィクションでいい。
心からの気持ちがそこにあろうがなかろうが、その言葉をもらえただけでもう十分だ。
その気持ちに嘘はない。
だけど一つだけ否定できないことがあるとすれば、
それは今夜が、私にとって忘れられない夜になったこと。
その事実だけはいくら足掻いても否定できない。
彼が私に好きをくれたこと。
その優しい声も、肩に触れた体温も。
暗い海の色も、雨に似せたシャワーの匂いも。
おそらく私はこの先一生忘れられないから。
たとえ他のことが全て記憶から抜け落ちたとしても、この夜だけはきっと五感が覚えている。
そんなつもりじゃなかった、なんて後の祭り。
夜空に花火が咲かなかったこの物語も、
今は入れ墨のように深く色濃く私の身体の中に刻まれている。
そしてこの台本を開く度、思うんだ。
きっとこれがリアルな、
夢のないワンナイトラブストーリーなんだ…と。
[完]