「大丈夫ですか?」

 アパートの部屋の前で立ち止まっていると、声をかけられた。ハッとして声のしたほうを向くと、隣の部屋に住んでいる男が不審げにこちらを見ている。

 廊下で会えば挨拶する程度で、名前も知らない。年はまだ二十歳かそこら。清潔感のあるおしゃれな服装にリュックを背負って朝出掛けていくところから察するに、一人暮らしの大学生だと思う。いつも俯き気味に会釈してすれ違うだけだが、あらためて見ると整った顔立ちをしている。

 誰かの顔を真正面から見たのは、かなりひさしぶりだった。ここ最近は、働いているスーパーに来るレジのお客さんの顔もまともに見ていない。それに、一緒に暮らしているコウタの顔も。

 隣の部屋の男の顔を見上げてぼんやりしていると、彼が光の強い眼差しで私を見てくる。

「ほんとうに大丈夫ですか? ずっと玄関のドアを見つめて突っ立ってるけど」

 無自覚だった。ほとんど関わりのない隣人に声をかけられるほど、私は異様な雰囲気を出していたらしい。

 鍵がなくて困っているかと思われたのかもしれない。

「大丈夫です……。失礼します」

 笑顔に見えるように口角を引き上げると、軽く会釈して玄関のドアノブに手をかける。

 鍵は空いている。玄関の前で立ち止まってしまったのは、部屋に入れないからじゃない。

 部屋の中に、入るのを躊躇う理由があるからだ。

***

 部屋に入ると、コウタがソファーに寝転んでいた。私が朝家を出たときと部屋着のままでいるから、今日は仕事が休みだったらしい。

「ただいま」

 私が声をかけても、スマホで動画を見ているコウタは何の反応も示さない。おそらく聞こえているはずなのに、つまらなそうな顔でスマホを注視している。

 ソファーの前のローテーブルには、空っぽの平皿。私が作り置いていった朝食を食べて、そのままらしい。

 昼にビールを飲んだらしく、空き缶がみっつ、倒れて床に転がっている。灰皿にはタバコの吸い殻も溜まっていた。

 今日のコウタは機嫌が悪そうだ。いや……。今日も……、か。

 バッグからスマホを取り出して、キッチンのカウンターに置く。

 夕飯の準備をする前に、部屋を少し片付けなければいけない。

 ローテーブルの脇にそっと座ると、なるべくコウタに刺激を与えないように食器や空き缶を片付ける。最後に灰皿のゴミを捨てようと手を伸ばすと、ふいに、コウタのスマホから流れてきていた動画の音が止まった。

 視線をあげると、コウタがソファーに寝転んだまま横目に私を見ていた。

 私のことなんてどうでもよさそうな冷たい眼差し。コウタが私を見る目に感情がなくなったのはいつからだろう。

 最後に私に笑いかけてくれたのは……? 

 それすらも、もうよく覚えていない。それくらい、もう長いこと、コウタは私に興味がない。

「あ、お、お腹すいてるよね。すぐに作るから……」
「なあ、冷蔵庫にビール一本もないんだけど」

 立ちあがろうとした私に、コウタが面倒くさそうに話しかけてきた。

「あ、ああ……。ごめん。まだ残ってると思って今日は買ってこなかったんだ」

 ついさっき、キッチンのシンクに運んだビールの空き缶。ストックしてあったビールは昼間にコウタが飲んでしまった分で終わりだ。

「全部飲んで、もう残ってない」
「……そうだよね」
「そういうのも見越して買い置きしとけよ。使えねー」

 コータがヘラリと笑う私から視線を外して舌打ちする。

「今すぐ買ってこいよ。あと、タバコも」
「でも……、今からごはんの用意が……。それに、どっちも今日はたくさん……」
「うるせえな……」

 起き上がったコウタがガンッと思いきりローテーブルを蹴る。ビクリと肩を揺らすと、コウタが潰したタバコの空き箱を私に向かって投げつけてきた。

「買ってこいって言ってんだから、黙って行ってこい。誰のおかげでこの部屋に住めてると思ってんだよ」

 私を睨むコウタはかなり苛立っている。こういうときは、逆らわずにおとなしく従うしかない。

「ごめんなさい……。すぐ行ってくる……」

 私は立ち上がると、スマホだけ持って玄関へと急いだ。

『誰のおかげで――』

 わかっている。 

 一緒に暮らし始めて三年。私をここに連れてきてくれたときのコウタは、たしかに私のヒーローだった。

 居心地の悪い実家から、私を救ってくれた。私を守ると約束してくれた。私も、ずっとコウタのそばにいたいと思っていた。

 でも、今は……?

 部屋の外に出ると、玄関のドアに背中を預けて深呼吸する。思いきり外の空気を吸い込んでいるはずなのに、どれだけ吸っても酸欠なのかと思うほど息苦しい。

 早くビールとタバコを買って帰らないと怒られるのに……。足が前に進まない。

 行っても、またここに帰ってこなくてはいけないから。

「大丈夫ですか?」

 玄関の前で立ち止まっていると、声をかけられた。ゆっくりと声のしたほうを向くと、隣の部屋の男が玄関のドアを開けて顔を覗かせている。さっきも私に声をかけてきた若い男だ。

 同じ場所で二度も声をかけられるなんて恥ずかしい。

 一日に何度も玄関の前に立ち止まってぼんやりとして、変な隣人だと思われているんだろう。

「……大丈夫です」

 顔を隠すようにうつむくと、「ほんとうに?」と隣の家の男が念を押すように聞いてきた。

「ごめんね、別に盗み聞きしたわけじゃないんだけど……。隣からときどき、物を壊すみたいな大きな音が聞こえるなって思ってて……。今も大きな音がしたから気になって」

 彼の言葉に、ドキッとした。はっきりとは言わないけれど、彼は隣の部屋で何が起きているのか薄々勘付いているのかもしれない。

 最近のコウタは、機嫌が悪いとモノにあたる。さっきみたいにローテーブルを蹴ったり、手近にあるものを投げてきたりすることもある。

 壁の薄いアパートだとは知っていたけれど、そんな音が隣の住人に聞こえていたとは思わなかった。

「私がそそっかしくて、よく手を滑らせてモノを落としちゃうんです。うるさくしちゃってすみません……」

 そう言って口角を引き上げたつもりが、うまく笑えなかった。
 それどころか、不本意にも涙がぽろっと落ちてしまって、慌てて手のひらで頬を拭う。

「ごめんなさい……。目にゴミが入っちゃって……。そうだ、私、コンビニ行くんです」

 隣の部屋の男に軽く会釈して行こうとすると、バタンとドアが閉まって足音が追いかけてくる。

「あの、俺も一緒に行ってもいいですか?」
「え……?」
「そろそろ暗くなってくるし、ひとりじゃ危ないでしょ。俺もちょうどコンビニで買い物があるんで」

 私に正常な判断をする心の余裕があれば、こんな誘いは無視したと思う。親しくもない隣人とふたりで、コンビニまで一緒に行くなんて考えられない。

 でも、コウタが怖くて家を出てきた私には心の余裕なんてなくて、隣の部屋の男の言動をそのまま受け入れてしまった。

「俺、タツミって言います。お姉さんは?」
七菜香(ななか)

 彼が教えてくれた名前の漢字が、頭にうまく思い浮かばない。たぶん、名字だろうなと思いながら、私は自分の下の名前だけを彼に伝えた。

 お互いに名前だけを教え合ったあと、私たちはアパートから徒歩五分のコンビニまで会話もなく歩いた。

 コンビニでの買い物はビールを二本とコウタがいつも吸っているタバコ。私が買い物をしているあいだ、タツミくんはおにぎりコーナーやお菓子のコーナーを見ていた。けれど、結局何も買わず、私の買い物が終わると一緒にコンビニを出た。

「買い物は……?」
「ああ。やっぱり、欲しいのなくて」

 コンビニの出口でそんな言葉を交わしたあとは、またお互いに特に話すこともなくアパートまで戻ってくる。

「付き合ってくれてありがとう。じゃあ……」
「はい。おやすみなさい」

 隣同士の部屋。ドアの前でタツミくんと挨拶をして、ドアノブに手をかける。

 けれど、私はまた部屋のドアを開けるのを躊躇ってしまった。

 このドアの向こうにコウタがいる。コウタの機嫌は、少しはよくなっているだろうか。それとも、また機嫌の悪いまま……?

 冷たい目で私を見て、ローテーブルを蹴飛ばすコウタ。その姿を想像したら、ドアノブを握る手が汗ばむ。

「入らないんですか?」

 ドアの前で固まっていると、タツミくんが声をかけてきた。

「……入るよ。そっちこそ、入らないの?」
「七菜香さんが入ったら入ります」
「私も……、タツミくんが入ったら入る」

 ドアノブを握る手を見つめながら言うと、タツミくんがビールの入ったコンビニの袋を私から取り上げた。

「これ、どこかでふたりで飲んじゃいます?」
「……え?」

 ぽかんと口を開く私に、タツミくんがふっと笑いかけてくる。

「ほんとうは帰りたくないんですよね?」
「でも、帰らないと怒られる……」
「怒られるから帰るの? 帰りたくないのに?」
「そ、んなこと……」

 帰りたくないわけじゃない。コウタの機嫌が悪くないときは何の問題もないんだから。でも、機嫌が良いからって、いつ何がきっかけでコウタが起こり出すかはわからない。最近のコウタは、出会った頃の彼とは違う。

 答えに詰まってうつむくと、タツミくんが私の手をとった。

「じゃあ、こうしましょう。七菜香さんは、コンビニ帰りに隣の部屋の男に誘われて無理やりどこかに連れて行かれるんです。悪いのは隣の部屋の男と夜にひとりで彼女をコンビニに行かせた彼氏で、七菜香さんには何の責任もない。だから七菜香さんが帰らなくても、誰も怒りません」

 いたずらっぽく目を細めたタツミくんが、「ね?」と笑って、私の手を引っ張る。その力に、抗おうとは思わなかった。

 たぶん、私はずっとキッカケを探していたんだ。それがないと、私はコウタから逃げ出せないから。

***

 タツミくんに手を引かれて来たのは、アパートから近い公園だった。

「はい、これ」

 ベンチに座ると、タツミくんが袋からビールを出して渡してくれる。

「カンパーイ」

 タツミくんと軽く缶をぶつけ合って、ビールに口をつける。こんなことがコウタにバレたら怖い。でも、初めてコウタに逆らったという変な高揚感もある。

 ベンチに座ってタツミくんとビールを飲んでいたら、コウタからスマホに電話がかかってきた。

 どうしよう……。

「やっぱり、帰りたい?」

 画面に表示されたコウタの名前を見つめていると、タツミくんが下から私の顔を覗き込んできた。

 帰りたくは、ない……。ビールだって開けてしまって、もう帰れない。

 ゆるりと首を横に振ると、タツミくんの手が横から伸びてきて通話拒否にする。

「帰らないなら出なくていいよ。でも、彼氏が七菜香さんのこと心配して探しにきちゃうかな。そしたら、俺、全力で謝りますね」
「それは、ないと思う……。コウタはわざわざ私を探さない。たぶん、私のほかにも付き合ってる人がいるから」

 ビールの缶を手の中で回して苦笑いする。そんな私を見て、タツミくんは真顔になった。

「え、でも……。七菜香さんと一緒に住んでるんですよね?」
「一緒に住み出したときは、コウタももっと優しかったんだよ。でも、いろいろあって……。今は私のことを重荷に思ってるんじゃないかな」

 コウタと出会ったのは高校生のとき。当時大学生だった彼は、私が働いていたバイト先のカフェの先輩だった。

 私の両親は再婚同士で、父の連れ子だった私と義母の関係はあまりよくなかった。とくに、中学生のときに歳の離れた妹ができてからは、自分が義母から邪魔に思われているんだというのをヒシヒシと感じた。

 高校を卒業したら、就職して家を出る。そう決めてバイトに励んでいた私の相談にのってくれたり、応援してくれていたのがコウタだった。

 優しくて頼れる先輩だったコウタのことを先に好きになったのは私で、コウタも私の気持ちに応えてくれた。

 コウタが大学を卒業して就職するとき、彼が私に「一緒に住もう」と誘ってくれた。私のことをずっと守ると約束してくれた。その言葉が嬉しくて、私はすぐに実家を出てコウタと暮らし始めた。

 コウタとの二人暮らしは、初めは順調だった。コウタは新卒で入った会社で働き始め、私も契約の仕事を見つけて働いた。

 家事はふたりで分担して、休みの日はときどき外でデートした。

 コウタの様子がおかしくなったのは、正式な配属部署が決まってしばらく経った頃。

 コウタが配属されたのは、嫌な上司がいることで有名な部署だったらしく。新人には難しい仕事を指導もされないままに任されたり、就業時間内にこなせない量の仕事を押し付けられたり……。そういうことが続くうちに精神的に追い詰められたコウタは、入社して一年たたないうちに会社を辞めた。

 そのあと少し休んでから就職活動をしていたけれど、なかなか思うようにいかず……。

 コウタはそのイライラを、次第に私にぶつけてくるようになった。分担していた家事もやらなくなった。

 私のことを冷たい目で見るようになって、優しい言葉をかけてくれなくなった。

 最近のコウタは、知り合いのツテで始めた飲食店でのバイトをメインに生活している。あえて問い詰めたことはないけど、そこで出会った女の子と仲良くなって、ときどき会っているのも私は知っている。

 今のコウタは、私に愛情なんて持っていない。

 あの部屋に私を住まわせているのはただの惰性。イライラをぶつけたり、命令すれば従う人間をそばに置いておきたいだけだ。

 コウタと私の関係はとっくに壊れてしまっているのに。私は彼から離れられない。

「毎朝家を出る度に、もう帰りたくない、コウタが怖いって思う。でも、仕事が終わって私が帰る場所はやっぱりあの部屋しかない……」

 そう言って震える私に、タツミくんが「そうかな……」とつぶやく。

「今は、七菜香さんの意志で彼から離れられてるじゃないですか」
「それは……。タツミくんがこうして私を連れ出してくれたからだよ。今日、『大丈夫ですか?』って声をかけてくれてありがとう……」

 ひとりだったら、ダメだった。

 声にできなかったSOSにタツミくんが気付いてくれたから……。

 口角をあげて笑顔を作ると、タツミくんが眉根を寄せてなんだか複雑そうな顔をする。

「だったら、もっと早くに声をかけたら良かったのかな」
「え……?」
「俺、ほんとうは結構前から、七菜香さんたちの住んでる部屋から聞こえてくる音に気付いてたんです。七菜香さんが、今日みたいに夜に買い物に行かされたりしてることにも……。廊下で七菜香さんを見かける度に声をかけようとして、でも、他人が余計なことしてもなって見過ごそうとしてた。ごめんなさい」

 タツミくんはそう言うと、膝に手をのせて頭を下げた。

「な、なんでタツミくんが謝るの……? それが普通だし、私がタツミくんでもきっと見ないフリするよ。だって、よく知らない他人だもん」

 困っておろおろしていると、タツミくんがゆっくりと顔をあげる。

「でも、もう他人じゃないから」

 夜の闇の中、タツミくんの瞳が意志を持って輝きを放つ。

「お互いに名前だって知ってるし、ふたりで夜の公園で晩酌した仲だし。もう他人じゃない。だから、七菜香さんが困ったときはいつでも頼ってきてください」

 タツミくんの言葉に、胸が熱くなる。

「ありがとう……」

 誰かに優しくしてもらうのはひさしぶりのことで。そのあたたかさに、思わず涙があふれた。

「え、七菜香さん……?」
「タツミくんの言葉が嬉しくて……」

 少し焦っているタツミくんに、泣きながらふっと笑いかける。ほんの一瞬、眉根の寄せたタツミくんの表情が険しくなって、その直後、私は彼に抱き寄せられた。タツミくんの肩のあたりに頬がぎゅっと押し付けられて、ふわっといい匂いがする。

 タツミくんは「他人じゃない」と言うけれど、私たちは今夜初めて名前を知ったばかりで、友だちでもなければ恋人でもない。こんなふうに話すのだって、今夜限りかもしれない。

 それでも、抱きしめてくれたタツミくんの腕の中はあたたかくて。私の心臓は、ドキドキ鳴った。

***

 コウタの待つ部屋に戻ったのは、次の日の早朝。

 一緒に住み始めてから、コウタに連絡せずに家を空けたことは一度もない。部屋の玄関の前で切っていたスマホの電源を入れると、大量の通知が流れ込んできた。何十件も届いていたのは、コウタからの着信とメッセージ。

 どこにいるのかとか、早く帰って来いというメッセージの中には私を罵るような言葉も混ざっていたけれど、家に戻ってこない私を心配したり、気遣うようなメッセージはない。悲しかったけれど、おかげでちゃんと覚悟が決まった。

「ほんとうに大丈夫?」

 タツミくんが、スマホをぼんやり見ていた私の手をぎゅっと握る。振り向くと、タツミくんが心配そうに私を見つめてきた。

「大丈夫だよ。コウタとちゃんと話してくる」
「話ができる雰囲気じゃなかったら、すぐに出てきて。なにかあったらすぐ飛び込めるように、ここで待機してるから」
「ありがとう」

 タツミくんに微笑みかけると、私は彼の手を離してドアノブを握った。

 鍵は空いている。

 ほんとうは少し怖いけど、部屋に入ることに躊躇いはない。

 壊れた関係に囚われたままでいるのはもうやめる。

 君が連れ出してくれた夜が、私の心を救ってくれたから。

Fin.