墜ち神の問題も片付き、一度死んでしまったこと以外は元通りの生活が戻ってきて、毎日喜びに浸るミト。
 これまでのように朝食は、波琉の屋敷の広大な庭にある両親の家で取っている。
 母親である志乃(しの)の隣で味噌(みそ)(しる)の味見をしているミトは、機嫌がよさそうだと誰でも分かるほど表情が明るい。
「ミト、味はどう?」
「うん、ちょうどいいよ」
「じゃあ、人数分運んでちょうだい」
「はーい」
 ミトは五つのお(わん)に味噌汁を入れ、お盆に乗せてテーブルに運んだ。
 こぼさないように、それぞれの座る席の前に置いていく。
 ひとつ増えた席にも(うれ)しそうに配膳すると、それを見ていた波琉はミトとは反対におもしろくなさそうな顔をしている。その原因が隣に座っているからだ。
「ふむふむ。今日はあおさの味噌汁か。嫌いではないのじゃ。褒めてつかわすぞ、ミト」
「ありがとうございます」
 そんな上から目線の物言いにも、ミトはニコニコしている。
 ミトと話をしているのは、まるでお人形のように整った幼い顔立ちをした、ミトより少し年下に見える少女。気が強そうな漆黒の瞳が印象的だ。
 艶やかで癖ひとつない真っ直ぐな黒く長い髪は、癖っ毛のミトには羨ましいかぎりである。
 しかし、そんなことを口にしたら、波琉はすぐに否定して『ミトの髪の方が僕は好きだよ』と恥ずかしげもなく言うのだから、ミトの方が羞恥心に()(もだ)えることになった。
 そしてそんな波琉を見た桂香は、『お前が本当にあの波琉なのか、わらわはいまだに疑うのじゃ。どこかで入れ替わっておらぬだろうな』と不審そうに、波琉にじとりとした目線を向けていた。
 天界でも感じていたが、どうやら天界での波琉はミトが知る波琉とは少し違うらしい。
 それがいいのか悪いのかミトでは判断できない。けれど、波琉はいつも通り優しいので問題はない。波琉は波琉なのだから。
 しかし、桂香が一緒にいるといつものミトが知る波琉とは少々様子が異なる。
「ねえ、どうして桂香がここにいるの?」
 朝から仲よくしているミトとその相手の様子に、見かねた波琉が不機嫌そうに問うのは、漆黒の王・桂香である。
 墜ち神の一件が終わったら煌理とともに天界へ帰ると、恐らく誰もが思っていた。
 しかし、せっかく久しぶりに人間界に来たのだからといって、桂香は堕ち神に対抗するために連れてきた他の龍神たちだけを帰し、自分はしばらく町に滞在することにしたようだ。
 そこまでは波琉も文句はなかったのだが、なぜかちゃっかり(ほし)()家の(いっ)()団欒(だんらん)に加わっているのである。
 最初からそうであったかのように違和感なく座る桂香の姿に、ミトは嬉しそうに、波琉は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「どうしてもなにも、朝食を食べようとしておるのが見えぬのか? 墜ち神との戦いで、人間のように老いが始まったのではないじゃろうな? (そう)()に言って眼鏡を作ってもらうといい」
 そんなことが起こりえるのかと、ぎょっとするミト。
「龍神様でも老いるんですか!?」
 だとしたら今後どうなるのか。波琉とともに生きる未来を決めたミトにとっては大問題である。
 しかし、即座に波琉が否定する。
「そんなわけないからね。心配しなくていいよ、ミト。桂香の冗談だから」
 途端にほっとするミトは、龍神の生態に詳しくはないのでそれが嘘か真か分からない。
 なのでそういう冗談は心臓に悪いからやめてほしいと思う。
 自分が死を経験したがゆえに、最近のミトは寿命や老いに対してかなり気にしていた。
 けれど、我が道を行く桂香はミトごときが言っても聞きやしないと、このわずかな期間で学習したため、特別なにか文句を投げつけたりはしなかった。
「食事にちゃっかり参加してるのもそうだけど、どうしていつまでも僕の屋敷に住んでるのかって聞いてるんだよ。君には別に君専用の屋敷がちゃんと用意されているでしょう?」
「わらわはここがいいからいるのじゃ」
 ぷいっと顔を背ける桂香は不機嫌な顔をしているも、整った顔立ちのせいでかわいらしさしかない。性格は苛烈と言われるほどまったくかわいらしくはないのだが、今のところそれほど強烈な一面がミトに向けられたことはなかった。
 できれば今後も向けられたくないと願うミトである。
「あら、桂香ちゃん専用の屋敷があるの?」
 他は皆、普通の茶碗(ちゃわん)だというのに、ひとつだけどんぶりに山盛りにしたごはんを桂香の前に置いた志乃が問う。
 小柄な桂香がそれほどの量のご飯を食べられるのか心配したものの、桂かはぺろりと平らげてしまうのだ。
 ミトもミトの両親もびっくりであるが、数日食事を一緒にしていたらさすがに慣れるというもの。
 それに、食事の量よりも志乃の桂香の呼び方の方が驚きである。
 志乃が恐れ多くも龍神を『ちゃん』付けで呼べるのは、龍神の恐ろしさをさほど分かっていない町外から来た無知さゆえの暴挙であろう。
 蒼真と尚之(なおゆき)の慌てようは見物だったが、ミトとて怒った桂香が母親になにかしないかとひやひやだった。
 もしも桂香がミトの家族に害を及ぼすなら波琉が止めてくれるだろうが、だからといって心配しないわけではない。
 しかし、周囲の心配をよそに、桂香は予想外にすんなりと『ちゃん』付けを受け入れていた。
むしろ、『わらわをそのように子供扱いした人間は初めてじゃ!』と大笑いしてかなりご機嫌だったぐらいだ。
 それからは、志乃も遠慮なく『桂香ちゃん』と呼んでいる。
 志乃が怒られなかったのは、波琉のことも志乃だけは『波琉君』と呼んでいるせいもあるかもしれない。
 志乃の恐れ知らずの行動に、神薙(かんなぎ)界隈(かいわい)ではかなりざわついたとか。
「うむ、基本的に龍神が町に降りてきた時は空いている屋敷を使うが、王だけはそれぞれに決まった屋敷が用意されているのじゃ。漆黒の王であるわらわにも当然、波琉と同格の屋敷が用意されておる」
「あらぁ、桂香ちゃんはすごいのねぇ」
 得意満面の桂香を賞賛する志乃に、桂香はご満悦の様子だ。
「ふふん、なにせわらわは漆黒の王であるからな。人間が特別扱いしたくなるのは当然なのじゃ」
 胸を張る桂香を苛烈と称したのはまったく誰なのか。今のところ苛烈の〝か〟の字にも遭遇していない。
 むしろかわいいところしか目にしておらず、できればこのまま遭遇せず一生を終えたい、というようなことを言っていたのは蒼真である。
 波琉の神薙をしている蒼真だが、桂香がこの屋敷で過ごしているために、必然的に桂香の世話もする必要があった。
 桂香は、他の神薙はお気に召さなかったらしい。
 どうも蒼真を気に入ったようで、なにかと呼びつけては執事のようにこき使っている。
 なお、もともとの桂香の神薙を務めるはずだった者たちは、蒼真の補佐という形でサポートしている。
 波琉だけでも気を遣うというのに、同じく王の桂香までとなると『ストレスで禿()げそう……』などと蒼真は嘆いていた。
 日に日にげっそりやつれていくように見えるのは気のせいであってほしい。
 最近は尚之と一緒になって、毎朝波琉にハリセンで叩いてもらうのが日課になっている。こういうものは早めに対処しておくのが必要不可欠なのだとか。
 だが、ハリセンで叩かれると毛根や肌のハリに効く理由はいまだに分かっていないらしく、桂香ですらさっぱり理由を解明できていない。
 同じ王である桂香がハリセンを使っても波琉のような効果は出なかったので、なおさら不思議そうにしていた。
 そんなストレスにさらされる日々の中で、早く自分の屋敷に行ってもらいたいと願っているのは波琉以上に蒼真のようで、それとなく自分の屋敷に行くように勧めるも、桂香は断固として(うなず)かない。
 蒼真に話を聞くと、どうやら桂香が龍花の町に降りたのは数百年ぶりだという。
 ミトにとっては途方もない時間だ。
 それなのに桂香の屋敷は()(れい)に保たれており、急に気が変わって移動してもすぐに使えるようになっているらしい。
 いつなんどきも最高の状態で受け入れられる体制を整えておくことも、神薙の仕事なのだとか。
 だからこそ早く出ていってくれという波琉と蒼真の願いは一致しているが、桂香が自分専用の屋敷に行く気配はなく、この波琉の屋敷を住まいとして食事もミトの両親の家で一緒に食べている。
 出ていくどころか居座る気満々のようで、自分にあてがわれた部屋を勝手にリフォームして、自分好みの家具などを搬入していた。
 堕ち神はもともと桂香の補佐だったため、決して桂香も無関係ではない。だとしても、その一件を手伝ってくれたという感謝を波琉は持っているので、出ていってほしいと思いつつも無理に追い出すつもりはないようだ。
 追い出されないと分かっているからこそ、桂香も好きなようにやっているのだろう。
 ミトとしては、桂香のその飾らないはっきりとした性格がとても好印象で、いてくれるのがとても嬉しかった。
 それに、生きてきた年齢は違えど、見た目年齢は近く、まるで同性の友人ができたような気になってさらに喜びは増している。
 そんなことも波琉が桂香を好きにさせている理由かもしれない。