龍神が住まう天界。
()(こん)の王』・波琉(はる)の居住地である『水宮殿(すいぐうでん)』では、いつもと変わりない日々が送られていた。
 つい最近、人間界に降りていた波琉が戻ってきていたため少々(にぎ)やかだったのが(うそ)のような、穏やかな空気。
 賑やかだったのは、波琉の帰還以上に、波琉の伴侶である人間がいたことが大きいだろう。さらにそこへ、波琉が連れてきた眷属(けんぞく)の動物たちと『漆黒(しっこく)の王』・(けい)()まで加わったのだ。
 苛烈な性格と有名な桂香がいて、静かであるはずがない。他にも、『(きん)(あか)の王』・(おう)()の伴侶、千代子(ちよこ)も滞在していた。
 これだけ水宮殿によその王とその関係者がいたのには理由がある。
 本来ならば、波琉の伴侶が天界へやってくるのはずっと先のはずだった。
 まあ、龍神の感覚からすれば瞬きに等しいが。
 人間は寿命を迎え、人間界での肉体を失って初めて天界へのぼる。
 それなのに波琉の伴侶・ミトが天界へ来てしまったのは、罪を犯したゆえに天界を追放され()(がみ)となった元龍神によって殺されてしまったためだ。
 人間としての寿命をまっとうする前に、天界へ魂が来てしまった。
 その過程も、普通の花印の伴侶とはかなり異なった手順となったのだが、それもまた墜ち神によるところが大きい。
 墜ち神からミトを守るために、天帝が介入したのである。
 それは異例のことで、それだけ天帝が今回の一件を重要視していたと分かる。
 墜ち神は漆黒の王に属する龍神だったがために、桂香もともに人間界――『(りゅう)()の町』へ降りていった。
 桂香は属していた者が波琉の伴侶を殺してしまったことに責任を感じているようだった。そのため、堕ち神への対処をするにあたり、漆黒の王に属する幾人もの龍神もともに連れていったのだ。
 つまり、龍花の町には王が三人と、普段では考えられない数の龍神が滞在していることになる。
 しかし、少し前に漆黒の王とともに降りた龍神が帰ってきたとの知らせがあった。
 漆黒の王の補佐からの情報なので間違いはない。
 つまりは墜ち神の問題は解決したと考えていいのだろうか。
 しかし、その補佐は漆黒の王が帰ってこないと嘆いているようだ。
 どうしてか理由を聞かれた(みず)()だが、瑞貴とて波琉からなんの連絡もないので答えようがなかった。
「まったく、頼りのひとつぐらいくれてもいいでしょうに!」
 天帝が介入するほどの問題に発展している墜ち神について、やきもきしているのは瑞貴だけではないのだ。
 他の補佐も波琉からの連絡を待っているのになにひとつ寄越さない。
「あの方のことですから、絶対に忘れていますね」
 長い付き合いで波琉の性格を熟知している瑞貴はそう判断した。
「私も一緒に行くべきでしたっ」
 苛立たしさを隠しもせず、書類をさばいていく。
 その仕事も本来ならば波琉がしなくてはならないものも含まれているので、余計に書類の扱いがやや雑になってしまう。
 するとそこへ、断りなく入ってきた者がいた。
「ずいぶんと荒れているな」
 低く、けれど穏やかな声が部屋に響く。
 はっと顔を上げて声のした方を見れば、龍花の町へ行っていたはずの煌理が立っていた。
 椅子に座っていた瑞貴はすぐさま立ち上がり一礼する。
「千代子は息災か?」
「はい。ご不便なく過ごしていただいております」
「そうか。面倒をかけてすまないな」
「とんでもございません。我が王にご協力くださったのです。できうる最高のもてなしでもって返さねば、顔向けできません」
 堅苦しい瑞貴の対応に、煌理は苦笑している。
()(おん)といい、王の補佐は真面目すぎていかんな」
「それはそうなる理由があればこそだと考えますが?」
 暗に、王が不真面目だから補佐がしっかりしなければならないのだろうという苦言を告げている。
「嫌みの言い方までそっくりだ……。まあ、いい。私は千代子を連れて帰ることにする」
「承知しました。すぐに使いをやります」
 瑞貴はさらさらと紙に文字を書いてふたつに折り、机の上にいたうさぎの口元に持っていく。
 うさぎはそれを(くわ)えると、ぴょんと机から飛び降りて部屋を出ていった。煌理が迎えに来たことをしたためた文を、千代子へ渡しに向かったのだ。
 桂香から贈られたうさぎたちは賢く、きちんと頼まれごとを遂行してくれる。
 それを見届けた瑞貴は、煌理に目を向けた。
「墜ち神はどうなりましたか?」
「問題なく片付いた」
「それはよかったです。紫紺様ときたら、なんの事後報告もしてくださらないもので」
 ほっとする瑞貴。
 その安堵の中には、波琉へのものとは別に、ミトの身のことも含まれている。
「まあ、波琉だからな」
 そのひと言ですべて納得できるのだから、煌理も瑞貴もよく波琉の性格を理解している。
 瑞貴は波琉からの報告を待つのをあきらめた。きっと百年待っても墜ち神について知らせる手紙は届かないと悟ったのだ。
「紫紺様は龍花の町へ残られるとして、漆黒様もお戻りになっているのでしょうか? 漆黒様の補佐から問い合わせが来ているのですが……」
 墜ち神の次に問題となっている件である。
 すると、煌理はなにやら言いづらそうに髪をくしゃりとかき上げた。
「それが、いい機会だからしばらく龍花の町で過ごすそうだ」
「そうなのですか?」
「ああ。思いのほかミトを気に入ったらしくてな。ミトが暮らす間は一緒にいるそうだ」
「えっ!?」
 思わず大きな声が出る瑞貴。
「あの方がお珍しい。なんだかんだ紫紺様と似て気難しくて、あまりお気に入りを作ることはありませんのに」
「そうなんだが、なにかしら気に入るところがあったのだろう。さすが波琉を射止めた人間だ。他にはない魅力というのがあるのかもしれん。私は千代子がいるのでどうでもよいが」
 千代子を中心に世界は回っていると考えるほどにラブラブな煌理と千代子夫婦。
 ごちそうさまとしか言いようがないノロケを聞かされ、瑞貴も苦笑するしかなかった。
 そんな瑞貴も、普段は波琉を始め誰彼かまわず妻への愛を語る愛妻家のくせにその反応だ。この場に他の者がいたら、ツッコミを入れていたに違いない。
「とりあえず、伝えることは伝えたからな。私は千代子を連れて帰るとしよう。またなにかあれば連絡してくれ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
 瑞貴が感謝の言葉とともに頭を下げ、煌理が出ていこうとした時、なんとも陽気な声を発しながら男性が入ってきた。
「やあやあやあ! ()()君が来たよーん!」
 その場の空気をぶち壊すような軽快さと、吹きすさぶ嵐のような賑やかさ。
 煌理からは表情がなくなっている。
「早く帰っておくんだった……」
 後悔の言葉が静かに漏れるが、かろうじてそばにいた瑞貴に聞こえただけである。
 瑞貴もまた、追い出したい気持ちをぐっと耐え、一礼する。
「お久しぶりでございます、白銀(はくぎん)様」
『白銀の王』・志季。それが突然部屋に入ってきた男性の正体である。
 癖のある(にび)(いろ)の髪と銀色の目。筋肉質な煌理と比べれば、どちらかというと波琉のように細身の体格だ。
 しかし、きっちりと衣服を着る波琉とは違い、息苦しくなるからと着物風の服を着崩していて、やや胸元が開いている。チャラい彼の性格を表したかのような様相だ。
 事実、部屋の中までは入ってきていないものの、すぐ外には彼の恋人である女性たちが様子をうかがっている。
 どうやら今日は五人連れてきているようだ。
 これでもまだ彼の恋人すべてではないのだから驚きである。
 愛妻家の瑞貴には考えられないが、その理由を知っているために非難しようとは思えなかった。
「まったくもう、ひどいよひどいよぉぉ! 三人だけ人間界に行って、俺だけ留守番なんてさ! 行くなら俺も呼んでくれればいいじゃんか~!」
 志季はひとりだけ残されたことに憤慨していた。まるで子供が駄々をこねているようだ。
「馬鹿者。それでは天界に王がひとりもいなくなるだろうが!」
 煌理の一喝も、志季にはあまり効果がなさそう。唇を突き出して、子供のようにふてくされている。
「だいたいさぁ、王が三人も下界に行く必要があったわけ?」
「波琉の伴侶が殺されたのだ。それ以上の被害を出さないためにも、墜ち神への対処は必要だった。波琉の伴侶も、不安を抱えて龍花の町で暮らすことになるからな」
「いやさあ、そもそもその波琉の伴侶にそこまでお膳立てしてやる必要ってあるの? 花の契りまで交わしちゃってさ。相手、まだ子供なんだろう? 早計すぎない? もっと考えた方がいいよ」
 志季には波琉の伴侶への疑念が浮かんでいた。
 瑞貴が口を挟めないでいる一方、煌理の声は迷いのないものだった。
「波琉が選んだ相手だ」
 そのひと言に含まれる絶大なる信頼。
 瑞貴は部屋の外で待っている志季の恋人たちを見て、苦虫を()みつぶしたような顔をした。
 瑞貴は煌理のように断言できない。志季の恋人たちがどのような経緯で志季の恋人になったかを知っているからこそ。
 煌理が断言できるのは、千代子という人間の伴侶を今も愛しているからだ。波琉の伴侶を否定することは、己の伴侶を否定することになってしまう。
 けれど、瑞貴もミトを信じたい。これまで補佐である自分にすら見せたことのない表情を浮かべた波琉を目にしたから。
 あの波琉が誰かに対してあのように愛おしげな目を向けるなど、きっとこの先ないと思えるほどに、波琉はミトを大事に扱っていた。
 だが、一度もミトに会っていない上に、ミトとともにいる波琉を知らない志季は信用していない様子。
 これまでの波琉を知っていたら、それも仕方ないかもしれない。まさか波琉が本命に対してはあそこまで人が変わると誰が予想しただろうか。
 いや、ただひとり、天帝だけは知っていたのだろうか。だからこそ、堕ち神からミトを救った。
 天帝に尋ねられない瑞貴には分かりかねる疑問だが。
「波琉がだまされてる可能性だってあるんじゃないの?」
「それはない」
「それはないです」
 くしくも、煌理と瑞貴の答えがハモった。
 あの波琉が誰かにだまされるような素直な性格をしているはずがないのは、波琉を知る者なら理解している。
「むしろミト様がだまされている心配をすべきです」
「まったくだ」
 瑞貴の言葉に煌理が深く同意する。
「なんだよ。ふたりしてその女の味方なの? 分かった! だったら俺が直接行って確かめてこよう!」
「は? ふざけるなよ」
 志季の突然の思いつきに、煌理がドスのきいた声でにらむ。
「いいじゃん、いいじゃん。ずっと俺がひとりで天界回してたんだからさ、今度は煌理に任せた! ということで、皆行くよー」
「はーい」
「まあ、下界に行けるのですか?」
「久しぶりだわ。何百年ぶりでしょうか」
 きゃあきゃあと喜ぶ志季の恋人たち。
「紫紺様の伴侶様はどんな方でしょう?」
「先ほど千代子様にお会いした時にお聞きしたら、かわいらしい方だそうですわ」
「それはなおさら楽しみですね」
「こら、無駄口叩(たた)いてないで行くよー」
 盛り上がる恋人たちに若干不満そうにしながら、志季は彼女たちの肩を抱いて歩きだす。
「ちょ、待て! 志季!」
「待たないよー」
 煌理の言葉も聞かず、志季は恋人たちを連れてさっさと行ってしまった。
 残された瑞貴は額に手を当て、煌理はこめかみを押さえた。
「あの馬鹿がっ」
「やっと金赤様がお戻りになって天界も落ち着くかと思いましたのに、また王がひとりになってしまいましたね……」
 煌理の非難じみたつぶやきと、瑞貴のあきれ混じりの嘆き。
「白銀様の補佐たちと仕事の調整をしなければ……」
 そう言って、瑞貴は頭を痛める。
 実際、龍神は病気などしないので頭痛など感じるはずはないのだが、気持ちの問題である。
 肩を落とす瑞貴の肩を煌理がねぎらうように叩いた。
「できるだけ力になるから遠慮なく相談してこい。久遠を通してもかまわん」
「ありがとうございます。……他の王も、もう一ミリだけでも金赤様の真面目さを持っていらっしゃると助かるんですけどねぇ」
「それは天帝にも不可能だ」
「ですね」
 瑞貴は大きなため息をついた。
「それより、志季がミトに余計な真似をしなければいいが……。私の時にも千代子にちょっかいをかけてきていたからな」
「紫紺様がぶち切れて龍花の町が水没しないことを願うばかりです」
「その前に桂香が暴れるかもしれん。本当にミトを気に入っているようだったからな」
 その様子が容易に想像できた瑞貴は否定の言葉が出てこない。
「……無事を祈りましょう」
「そ、そうだな……」
 波琉はともかく、桂香を止めるのは至難の業である。
 ここは桂香に気に入られているというミトに頑張ってもらうほかないだろうと、瑞貴はひっそりとミトに託した。
「どうかお願いいたしますね、ミト様」
 勝手に託されたことなど知る由もないミトのところに嵐が舞い込むのは、もう間もなくだった。