「ねぇ、光(ひかる)くんって私のこと好きじゃないでしょ」
ある学習塾の一室。1対1のマンツーマンの数学の授業。
1年前のこの日は夏休みの夏期講習の日だった。肌が灼けそうな強い日差し。耳に纏わりつくような煩い蝉の声。
渡辺光(わたなべひかる)くんは高校2年生の17歳。
勉強に関心があるわけでも、大学進学を希望しているわけでもなさそうだけど、親のすすめでなんとなく塾に勉強に来ているといった感じだった。
着崩した制服はどこか不良っぽい雰囲気で、ーーー思春期特有の危うさーーーを感じさせられた。
授業中はペンを回しながらいつも気怠そうに問題を解いていた。
「ここ間違ってるよ」なんて指摘しても、
「テスト勉強進んでる?」なんて雑談をしても、決して目が合うことはなかった。というよりも、頑なに目を合わせまいとしているようにも感じられた。
そんな光くんと唯一目が合ったのは、光くんが初めて塾に来た日だった。
***
『今日から光くんの担当になる永山未恋(ながやまみこ)先生。』
今からおよそ1年4ヶ月前の4月。塾長に連れられた光くんと初めて対面した時。光くんの瞳は、真っ直ぐ私に向かっていた。吸い寄せられる様な強い目力が、私の瞳を捕らえて離さなかった。
「永山です。これからよろしくね。」
『科目は数学。主に永山先生が担当だけど、日によっては別の先生が担当することもあるから。テキストが届いてからだから…来週からのスタートになるかな。』
塾長が話をしている間も、目を逸らすこともなく私だけをじっと見つめていたのはーーーどうして?
彼の鋭く見透かしたような視線をどこか「怖い」と感じたことを憶えている。
だけどその日以来、一度も目が合うことはなかった。
***
「他の先生が担当の時はそんなんじゃないくせに、私の時だけいつも不機嫌だよね。」
大学卒業後すぐに塾講師として正社員で働き始めた私は23歳だった。“私は教える立場だから”って思っていたこともあって、どの生徒に対しても少し強気だった。
生徒との関わり方をあまり分かっていなかったし、新卒だから社会経験もなかったし、未熟だったんだと思う。
だから光くんの態度が嫌なふうに映ってしまっていたし、そのままの意味で受け取ってしまっていた。
「そんなことないですよ?むしろーー…」
………一瞬の出来事。
何が起こったのかすぐに理解できなかった。彼が自分の手を私の手の上に重ねたことをーーー。
「な、何してるの…っ!? やめてよ……」
私は少し強引に手を払いのけた。絡められた指は少し熱を帯びていた。心拍数が上がっていくのが分かった。ドクンドクンと騒がしい心臓の音に気づかれたくなくて、必死でしずめようとした。
心の中で渦巻いた確かな感情に気がつかないふりをして、蓋をした。現実から目を背けた。
塾講師としてそうするべきだ。それが正しい。そう思っていたから。
「じゃあ、44ページの続きから解いていこう」
数十秒前の出来事を何事もなかったようにして、授業を再開した。
光くんがどんな顔をしているのか、怖くて見ることができなかった。
そのあと、この日の授業では光くんは一言も言葉を発しなかった。
きっと、彼にとっては一時の気の迷いだったんだろう。魔が差した、というやつだろう。そう思い込むことにした。
そして私自身も、この日の出来事は忘れることにしようと胸に誓った。
***
それから一週間後のこと。授業中、光くんが突然口を開いた。
「俺、彼女が出来ました」
先生たちの声、生徒たちの声。ザワザワしているはずなのに、突然静まり返ったように私の耳から音が聞こえなくなった。
光くんが発した言葉に、ショックを受けている自分がいた。
「おめでとう。良かったね。」
私の笑顔は引きつっていたかもしれない。だけど精一杯の笑顔で、本音とは異なる言葉を返した。先生ならきっと生徒に対してこう言ってあげるのが正解だろうと思っていたからだ。
光くんが塾を辞めたのは、次週のことだった。
私の世界から、完全に色が消えたような気がした。
それと同時に、ザワザワしている教室の中で、私の本来の日常が戻ってきた。
社会人としての普通の日常がーーー………。
𓂃꙳⋆
それから月日は流れ、1年後。社会人になってから2度目の夏がやってきた。
肌が灼けそうな強い日差し。耳に纏わりつくような煩い蝉の声。
また今年も、この季節がやって来た。
夏生まれの私は誕生日を迎えて、24歳になった。
「うそ……もうこんな時間?」
夏期講習のための問題作成が終わらず、2時間ほど残業していたところ、時計の針は0時を回っていた。時間が気にならないくらい、仕事に夢中になっていた。
普段は電車で通勤している私。だけどもう終電を逃してしまったので、電車に乗って帰ることができない。
タクシーで帰ることもできるけれど、なんとなく歩いて帰りたい気分だった。
よし……今日は歩いて帰ろう。
心の向くままに、歩いて帰ることにした。
いつも電車で通勤しているこの道を歩くのは初めてだった。
見慣れている街のはずなのに、いつもと違うような気がする。
日中はあんなに暑かったのに、夜になると涼しい。汗ばんだ身体に、夜風が当たるのが心地良かった。
古い商店街近くの路地裏。
静まり返った田舎の夜には似つかわしくない、激しく言い争うような声と鈍い音が聞こえてきた。
嫌な予感がした。恐る恐る見てみると、そこにいたのは4人の男の子の姿。
高校生くらい……?1人の男の子を目がけて、3人の男の子達が暴力を振るっている。
「ちょっと…!!そこで何やってるの…⁉」
気がついた時には、私は咄嗟に声を上げていた。
「はぁ?何だテメェ」
1人が私に歯向かってきた。
「それ以上続けるなら警察呼ぶわよ?」
「チッ…」
「まずいって…逃げようぜ…」
スマホを取り出して警察に電話を掛けようとする素振りを見せた。3人は焦った表情を見せ、舌打ちをしながら一斉にその場を去った。1人残された男の子と私。
自分でもこんなに大きな声が出ることに驚いた。気がついたら身体が震えていて、手足に力が入らなくなって、思わず通勤用バッグを落とした。
何やってるの私。しっかりしなきゃ……。
するとその時、目の前に差し出された手。腕は怪我をしていて傷だらけになっていた。
私はその手を取って、顔を上げた。
男の子の顔を見て、一瞬、頭の中が真っ白になった。
だってそこに居たのは………、
「光くん………」
1年前黒髪だった髪は金髪になっていたけれど、すぐに彼だと分かった。
何でこんな夜中に?
何でこんな所にいるの?
いつもここで喧嘩をしているの?
あの男の子達とはどういう関係?
気になることも、知りたいことも沢山あったけれど、私は何も聞かなかった。
何も言わずに、静寂の中、そっと光くんのことを抱きしめたーーー。
2人の時間が、止まった瞬間だった。
2人の温度も、鼓動も、夜が包み込んでくれたーーー。
普通に勉強して、大学に入って、卒業して、塾講師として就職して。そんな私には想像もつかない世界を生きているのが光くんで。
私は、光くんのことを何も知らないし何も分かっていない。
それでも、確かに惹かれていた。きっと初めて出逢ったあの日から私はーーー。
𓂃꙳⋆
「最後に一つだけ聞いてもいいですか」
「何?」
「どうして俺を抱きしめてくれたんですか?先生は、少しでも俺を好きだって思っていてくれたんですか…?」
帰り道。光くんは、真っ直ぐに私を見つめる。出会った時と同じ瞳で問いかける。あの日と同じ、見透かすような鋭い瞳で。
きっと、初めから惹かれていたんだ。初めて出逢ったあの日から、彼の瞳の奥に恋をした。
「……秘密」
そう言って、私は微笑んだ。
夜道を照らす月だけが、私達を見ていた。
終.
ある学習塾の一室。1対1のマンツーマンの数学の授業。
1年前のこの日は夏休みの夏期講習の日だった。肌が灼けそうな強い日差し。耳に纏わりつくような煩い蝉の声。
渡辺光(わたなべひかる)くんは高校2年生の17歳。
勉強に関心があるわけでも、大学進学を希望しているわけでもなさそうだけど、親のすすめでなんとなく塾に勉強に来ているといった感じだった。
着崩した制服はどこか不良っぽい雰囲気で、ーーー思春期特有の危うさーーーを感じさせられた。
授業中はペンを回しながらいつも気怠そうに問題を解いていた。
「ここ間違ってるよ」なんて指摘しても、
「テスト勉強進んでる?」なんて雑談をしても、決して目が合うことはなかった。というよりも、頑なに目を合わせまいとしているようにも感じられた。
そんな光くんと唯一目が合ったのは、光くんが初めて塾に来た日だった。
***
『今日から光くんの担当になる永山未恋(ながやまみこ)先生。』
今からおよそ1年4ヶ月前の4月。塾長に連れられた光くんと初めて対面した時。光くんの瞳は、真っ直ぐ私に向かっていた。吸い寄せられる様な強い目力が、私の瞳を捕らえて離さなかった。
「永山です。これからよろしくね。」
『科目は数学。主に永山先生が担当だけど、日によっては別の先生が担当することもあるから。テキストが届いてからだから…来週からのスタートになるかな。』
塾長が話をしている間も、目を逸らすこともなく私だけをじっと見つめていたのはーーーどうして?
彼の鋭く見透かしたような視線をどこか「怖い」と感じたことを憶えている。
だけどその日以来、一度も目が合うことはなかった。
***
「他の先生が担当の時はそんなんじゃないくせに、私の時だけいつも不機嫌だよね。」
大学卒業後すぐに塾講師として正社員で働き始めた私は23歳だった。“私は教える立場だから”って思っていたこともあって、どの生徒に対しても少し強気だった。
生徒との関わり方をあまり分かっていなかったし、新卒だから社会経験もなかったし、未熟だったんだと思う。
だから光くんの態度が嫌なふうに映ってしまっていたし、そのままの意味で受け取ってしまっていた。
「そんなことないですよ?むしろーー…」
………一瞬の出来事。
何が起こったのかすぐに理解できなかった。彼が自分の手を私の手の上に重ねたことをーーー。
「な、何してるの…っ!? やめてよ……」
私は少し強引に手を払いのけた。絡められた指は少し熱を帯びていた。心拍数が上がっていくのが分かった。ドクンドクンと騒がしい心臓の音に気づかれたくなくて、必死でしずめようとした。
心の中で渦巻いた確かな感情に気がつかないふりをして、蓋をした。現実から目を背けた。
塾講師としてそうするべきだ。それが正しい。そう思っていたから。
「じゃあ、44ページの続きから解いていこう」
数十秒前の出来事を何事もなかったようにして、授業を再開した。
光くんがどんな顔をしているのか、怖くて見ることができなかった。
そのあと、この日の授業では光くんは一言も言葉を発しなかった。
きっと、彼にとっては一時の気の迷いだったんだろう。魔が差した、というやつだろう。そう思い込むことにした。
そして私自身も、この日の出来事は忘れることにしようと胸に誓った。
***
それから一週間後のこと。授業中、光くんが突然口を開いた。
「俺、彼女が出来ました」
先生たちの声、生徒たちの声。ザワザワしているはずなのに、突然静まり返ったように私の耳から音が聞こえなくなった。
光くんが発した言葉に、ショックを受けている自分がいた。
「おめでとう。良かったね。」
私の笑顔は引きつっていたかもしれない。だけど精一杯の笑顔で、本音とは異なる言葉を返した。先生ならきっと生徒に対してこう言ってあげるのが正解だろうと思っていたからだ。
光くんが塾を辞めたのは、次週のことだった。
私の世界から、完全に色が消えたような気がした。
それと同時に、ザワザワしている教室の中で、私の本来の日常が戻ってきた。
社会人としての普通の日常がーーー………。
𓂃꙳⋆
それから月日は流れ、1年後。社会人になってから2度目の夏がやってきた。
肌が灼けそうな強い日差し。耳に纏わりつくような煩い蝉の声。
また今年も、この季節がやって来た。
夏生まれの私は誕生日を迎えて、24歳になった。
「うそ……もうこんな時間?」
夏期講習のための問題作成が終わらず、2時間ほど残業していたところ、時計の針は0時を回っていた。時間が気にならないくらい、仕事に夢中になっていた。
普段は電車で通勤している私。だけどもう終電を逃してしまったので、電車に乗って帰ることができない。
タクシーで帰ることもできるけれど、なんとなく歩いて帰りたい気分だった。
よし……今日は歩いて帰ろう。
心の向くままに、歩いて帰ることにした。
いつも電車で通勤しているこの道を歩くのは初めてだった。
見慣れている街のはずなのに、いつもと違うような気がする。
日中はあんなに暑かったのに、夜になると涼しい。汗ばんだ身体に、夜風が当たるのが心地良かった。
古い商店街近くの路地裏。
静まり返った田舎の夜には似つかわしくない、激しく言い争うような声と鈍い音が聞こえてきた。
嫌な予感がした。恐る恐る見てみると、そこにいたのは4人の男の子の姿。
高校生くらい……?1人の男の子を目がけて、3人の男の子達が暴力を振るっている。
「ちょっと…!!そこで何やってるの…⁉」
気がついた時には、私は咄嗟に声を上げていた。
「はぁ?何だテメェ」
1人が私に歯向かってきた。
「それ以上続けるなら警察呼ぶわよ?」
「チッ…」
「まずいって…逃げようぜ…」
スマホを取り出して警察に電話を掛けようとする素振りを見せた。3人は焦った表情を見せ、舌打ちをしながら一斉にその場を去った。1人残された男の子と私。
自分でもこんなに大きな声が出ることに驚いた。気がついたら身体が震えていて、手足に力が入らなくなって、思わず通勤用バッグを落とした。
何やってるの私。しっかりしなきゃ……。
するとその時、目の前に差し出された手。腕は怪我をしていて傷だらけになっていた。
私はその手を取って、顔を上げた。
男の子の顔を見て、一瞬、頭の中が真っ白になった。
だってそこに居たのは………、
「光くん………」
1年前黒髪だった髪は金髪になっていたけれど、すぐに彼だと分かった。
何でこんな夜中に?
何でこんな所にいるの?
いつもここで喧嘩をしているの?
あの男の子達とはどういう関係?
気になることも、知りたいことも沢山あったけれど、私は何も聞かなかった。
何も言わずに、静寂の中、そっと光くんのことを抱きしめたーーー。
2人の時間が、止まった瞬間だった。
2人の温度も、鼓動も、夜が包み込んでくれたーーー。
普通に勉強して、大学に入って、卒業して、塾講師として就職して。そんな私には想像もつかない世界を生きているのが光くんで。
私は、光くんのことを何も知らないし何も分かっていない。
それでも、確かに惹かれていた。きっと初めて出逢ったあの日から私はーーー。
𓂃꙳⋆
「最後に一つだけ聞いてもいいですか」
「何?」
「どうして俺を抱きしめてくれたんですか?先生は、少しでも俺を好きだって思っていてくれたんですか…?」
帰り道。光くんは、真っ直ぐに私を見つめる。出会った時と同じ瞳で問いかける。あの日と同じ、見透かすような鋭い瞳で。
きっと、初めから惹かれていたんだ。初めて出逢ったあの日から、彼の瞳の奥に恋をした。
「……秘密」
そう言って、私は微笑んだ。
夜道を照らす月だけが、私達を見ていた。
終.