自然にとっての恵みの甘雨は二人にとってはただの冷雨だった。春雷が部屋の明かりを点けると、殺風景な暗い部屋の中が生活感のある明るい部屋に変わったのだった。

「この部屋って……」
「俺の部屋だ」
「春雷の?」

 最低限の物しか置かれていないので物置きだと思っていたが、よくよく見ると部屋の隅には乱雑に布団が積まれ、わずかに開いた押し入れからは布地がはみ出していた。
 なんとなく、春雷らしいと思ってしまう。
 
「じゃあこの鏡も春雷の物なんだね」
「ああ。これは親父が……俺の父親がくれたものなんだ。人間界の様子を映す鏡だと言って……。俺が母親の話をねだってばかりいたらくれたんだ」
「春雷のお父さんは犬神なんだよね。でもお母さんは人間なの?」
「俺の母親も君と同じ『犬神使い』の家系でな。親父が子供を産ませるために、人間界から攫ってきたんだ」
「攫って……!?」
「前も言ったが、犬神は不幸を招くことからあやかしの中でも嫌われている。雪起のように条件が合う犬神がいればいいが、いない時は君と同じ。子供を産んだら記憶を消して、全て元の状態に戻すことを条件に、人間界から『犬神使い』の血を引く女性を攫ってきていた。俺の母親もそうだった」

 外に目を移すと、春雷は遠くを見つめながら話し続ける。

「母親には恋人がいたんだ。それなのに親父と関係を持って、俺を身ごもったことで半狂乱状態になった。俺の成長に比例するように母親の心身もおかしくなり、一時は俺の命さえ危なかったらしい」
「そんな……」

 言葉を失ってしまうが、春雷は華蓮に視線を戻すと笑みを浮かべる。
 
「でも君はそんなこと無いな。俺に怒りを向けてくるどころか、腹の子を慈しんでくれさえいる。悲観に暮れてばかりいないのは心が強い証だ」
「そんなことないよ。だって最初は部屋から出て来なかったし……。私だって恋人がいたら春雷を恨んでいたかもしれない……」

 もし華蓮が恋人に振られる前に春雷に攫われて、同じように妊娠したとしたら、それこそ春雷の母親と同じ状態になっていただろう。たまたま出会ったタイミングが良かったとしか思えない。
 華蓮を買い被る春雷を否定するが、春雷は首を振る。

「部屋から出て来なかったのは体調が悪くて身動きが取れなかったからだろう。俺が君の立場でも同じことをした。それに……俺のことは嫌いじゃないんだろう?」
「それは……」

 まだつわりが酷く、部屋に引きこもっていた時に部屋に来た黒犬に話した内容を、どうして春雷が知っているのだろう。犬神だけあって犬と会話でも出来るのだろうか。

「俺の母親は最後まで親父とまともな会話が出来ないまま、俺を産み落とした。親父はすぐにここでの記憶を消すと、母親の身体を元の状態に戻して人間界に帰した。親父もすぐに夫に先立たれた犬神の女性と結婚した。その人がお袋だ。お袋は俺のことを実の子供のように思ってくれたし、俺もお袋のことを実の母親だと思って慕っていた。だが……」

 そこまで話すと春雷は大きく息を吐く。雨が降り出したことで気温が下がったのか、室内はどこか薄寒いように感じられたのだった。
 
「雪起を始めとする弟や妹たちが産まれたことで気づいてしまったんだ。俺と雪起たちが似ていないことに。どうして似てないのかしつこく親父に聞いた時に初めて知った。俺の母親が人間ってことも……」

 やがて春雷の熱意に負けたのか、父親は母親のことや、子孫を残すために犬神たちが「犬神使い」の女性に子供を産ませる話をしてくれた。
 そうして、春雷に人間界の様子を映す鏡をくれたのだった。

「真実を知って、人間界を映す鏡を貰った時に、俺は初めて実の母親の姿を見た。知らない人間の男と俺とよく似た小さな男児の三人で動物たちがたくさんいる場所にいた。人間界では動物園って呼ばれているところらしいな。とても幸せそうだった」

 人間界と春雷たちあやかしが住むかくりよの時間の流れは違うそうで、人間界に戻った母親は付き合っていた恋人と結婚して、春雷の異父弟となる息子を産んだらしい。
 春雷の存在や犬神のことを完全に忘れて、母親は笑っていた。

「俺と一緒に鏡を見ていた親父が漏らした言葉を今でも忘れられない。『あいつはあんな笑顔をしているんだな……』と。それくらいここでの母親は酷い状態だったらしい」
「それからどうしたの?」
「鏡を貰ってからは毎日飽きずに見ていた。その頃になると、お袋も俺より実の子供である雪起たちの方が良いみたいでな。俺のことはずっと放置していた。それを良いことに、一日中部屋にこもって鏡を見ていた。そんな毎日を過ごすようになって、しばらく経ったある日、俺は母親と父親違いの弟に直接会ったんだ」
「人間界に会いに行ったの?」
「いや、二人からこっちに来たんだ。交通事故に遭って、生死の境を彷徨ったことで」

 二人が事故に遭った時、母親の息子は成長して大学生になっていた。自動車の運転免許証を取得して、母親を隣に乗せて山道をドライブをしていると、カーブを曲がり損ねて正面から来た大型トラックに接触した。
 二人が乗った車はガードレールを突き破って、崖下へと転落したのであった。

「二人は見るからに大怪我を負っていた。いつ死者の魂が向かう場所――常世に行ってもおかしくなかった。鏡でその様子を見ていた俺はすぐに二人を助けに行こうとした。それを親父に阻まれた」
「お父さんが? どうして……」
「これ以上、母親に関わるべきではないと。犬神の俺と関わったことで母親は不幸になるかもしれない。そして俺自身も傷付くことになるからと……」

 慌てる春雷の様子から異常を察した父親は春雷を止めるが、父親の言ってる意味が分からなかった春雷は父親の制止を振り切って二人の元に駆けつけた。
 犬神の妖力を使って、自分の身体に流れる母親の血を縁として辿ることで、自分と同じ血が流れる二人を見つけた。

「俺が二人の魂を見つけた時、二人はもう少しで常世に足を踏み入れるところだった。俺は二人に声を掛けると人間界に続く道まで案内した。かくりよと人間界の境目まで。最初こそ二人は驚いていたが、俺にも好意的に接してくれた。感謝もしてくれたし、他愛のない話もしてくれた。この時だけは本当の家族に――母さんの息子になれたみたいで嬉しかった。けれども……」

 今まで滔々と話していた春雷だったが、急に言葉を詰まらせたかと思うと、何かを堪えるように握った手に力を込める。
 
「俺が余計な一言を言ってしまったために、全て台無しにしてしまった」
「何を言ったの……?」
「別れる時につい口走ってしまったんだ。『母さん』と。そうしたら親父がかけた忘却の術が解けてしまった。母親は親父に攫われて俺を産んだことやここでの日々を思い出した。思い出した母親は俺に向かって叫んだんだ。『化け物!』……と」

 つい数刻前まで優しかった母親は顔を真っ青にすると、春雷に向かって「化け物!」と吐き捨てた。

『今までよくも騙していたわね……。この化け物!! あっちに行きなさい!! 私の()()()()()に何をするつもり!?』

 豹変した母親に春雷と息子が呆然としていると、母親は息子の手を引いて、脇目も振らずに人間界へと走り去った。
 一度も振り返ることもなく、ただ春雷から逃げるように消えたのだった。